卒業前に
この昇り降りも今日で終わりかと思うと、なんだか変な気分になる。
僕は自然と彼女の横顔を追っていた。
黒縁眼鏡にお下げの子。
ついこの間、ちょっとしたおしゃべりをした子。
僕は人前で話をしない。
その子も人前では話さない。
でも、その日は違った。
それはある日の夕方。
「ねぇ結城君、先生から頼まれたの?」
目の前にはクラスの女の子。名前を知ってはいるが、言葉を交わしたことは無い。
彼女の視線は僕の持つプリントの山に注がれていた。
階段の昇り降り。
教室から職員室まで。
まぁ、それなりに距離がある。だけどそんな距離、もう慣れたものだ。ハイハイ、とすぐに物事を受け取る僕にとっては日常だから。
「それって、卒業文集の?」
そんな子が、何を思ったのか僕に声をかけてくる。
僕は一瞬何が起きたのか分からなかった。
「……うん。やっぱりみんな作文は嫌いなのかな?」
「まぁね。だって何を書いて良いか判らないじゃない?」
「そうかな」
「結城君は違うんだ?」
「いやいや、僕も何を書こうか迷ったよ? だから適当に書いた」
お互いに目が合う。改めて彼女を見つめている。
よく見たことは無かった。くりっとした目。やや朱に染まった頬。黒髪の、お下げの先につけた赤いサクランボのような二つの髪留めがワンポイント。そしてその細身の体をセーラー服が包んでいる。
こうしてみると彼女、結構かわいい。
──僕より背が高いけど。
いや、僕は今成長期。まだまだ背は伸びるさ、と自分を慰める。
「そうなの? 結城君って真面目君だから、作文でもしっかり真面目に書いちゃう人だと思ってた」
「そんな事無いから」
「何を書いたの?」
「それは卒業式の日、文集になって配られたら読んでね。それまでのお楽しみ」
「へぇ。結城君って冗談も言うんだ」
「僕のことどう思ってたのさ?」
「真面目君。さっきも言ったけど」
「僕って真面目かな?」
「……さぁ。知らないかな」
僕は目を剥いた。
会話って楽しい。弾む会話、笑みが広がる。
女の子との会話。こんなに面白いものだったんだ。
壁も階段も、夕日の照り返しで輝いて見えた。
何もかもが新鮮だ。
彼女は笑っている。笑っているだけじゃなくて、と半分プリントを持ってもらうことにした。
「良いじゃないか」
「良いけどね!」
うん。やはり面白い。
もっと別の過ごし方があったのかもしれない。
女の子、か。
鼻歌でも歌いだしそうな彼女の横顔を見てそう思う。
この子、こんなにかわいい子だったんだ?
三年間、僕はいったい何をしていたのだろう。
職員室まであと少し。
卒業までもあと少し。
せめて今だけは、女の子との会話を楽しもう。
そして今日からでも、クラスの子としっかり向き合おう。
僕はそのとき、そう思ったのを覚えている。