2章-2
「ナイスショット!」
鬼田の放った豪快な打球は、綺麗な放物線を描いてグリーンに真っ直ぐと落ちた。
軽く三百ヤードを越えるドライバーショットは大きな金切り音を上げて広大な芝生に鳴り響く。
一緒にラウンドをしていた仲間も目を丸くして球の行方を追った。
「ワシも歳をとったのう。若い頃は軽く四百ヤードは飛んだぞ」
上機嫌に言うと、鬼田はクラブを持ち替えてカートに乗った。
ニ○一三年春に多摩急線の代々木上原から梅ケ丘にわたる区間が地下化され、線路跡地の再開発が具体的に動き始めたのは同年秋のことであった。
同様の開発は継続的にニ○一七年まで行われ、最終的には東北沢から和泉多摩川までの区間を複々線化する。
これらの工事が完成すると、終点新宿駅までの所要時間が短縮され、ラッシュ時の混雑を緩和することが出来る。
一方で、地上の都市計画事業においては、下北沢駅周辺の再開発計画で大きな反対運動が起きているのも事実だ。
「相談役、五十四号線計画について、地元住民から根強く反感が湧いておりますが、頭取として経営判断を委ねたいのですが」
平日にも関わらずゴルフコンペの開催を強要させられた中津川は、鬼田に耳打ちするように言った。
グループきっての情報通で、こうして鬼田の側近として重要な伝達事項を報告している。まるで伝書鳩のような男だ。
「放っておけ」
鬼田は中津川を一蹴した。
「貴様、オフの時くらい仕事のことを忘れろ。雑念はスコアに悪影響を及ぼす。ゴルフは紳士のスポーツだ。いいか、重要なのは精神統一だ」
鬼田は残りの百ヤードをピッチングウェッジで攻めることに決めた。傾斜のあるグリーンである。ボールにバックスピンをかけグリーン上で止める狙いだ。
「このまま住民と対立を続けていれば、いつまで経っても着工に向かいませんぞ」
「戯け」
鬼田の放ったセカンドショットは大きく右に逸れて深いラフの上に落ちた。少しの動揺がショットを狂わす。ゴルフ繊細なスポーツである。
「クソ、言わんこっちゃない」
鬼田はウェッジを放り投げると、荒々しくカートへ戻る。
キャディは塵芥のように芝生に沈んだゴルフを拾った。
「いいか、住民の意見などに耳を貸すな。我々はただ、ひたすらに着工に向かって猛進するしかない」
住民の反対運動など取るに足らない。
そう言い放つと、鬼田は気を取り直して次の番手に向かったのであった。
戸塚にある名門ゴルフ倶楽部には大物政治家も度々顔を見せる。
鬼田自身も現役時代から足繁く通った馴染みのコースだ。
芝は読み切っているが、どうしても思い通りに駒を進められないのは、僅かな心の迷いが頭を過るからだろうか。
青々とした草原は都会の錯綜を忘れさせる。
茂みの奥にマンション群が見える以外は、ここが港ヨコハマの中心地であることを感じさせない。
中津川は鬼田の待つカートに乗り込んだ。
鳴り止まぬ携帯の着信元は、取らずとも相手先が分かってしまうほど、中津川の元には問い合わせが引っ切り無しに寄せられていた。
「明朝、区長も声明を出しましてね、区民の反対を受けてコメントを出しております」
「林田がか」
「ええ、乱開発が進めば、街は全く違う姿になってしまう。ついては、事業自体の見直しも検討すべき、と」
中津川から発せられた一言に鬼田の剣幕は曇った。
林田と言えば、施工グループから密かに資金を受け取り、施主側について、住民に説得を続けていたはずだ。
反対住民の要求は自治体の長である林田区長に一旦集約され、区長がクレームの代弁をする。
言い換えれば、区長さえ言い包めれば世論の抑制が可能になる。鬼田はそう目論見、林田に多額の口止め金を支払っていた。
「本当に林田がそう言っていたのか」
「ええ、間違いなく」
午前のハーフを終えた一行は、ゲストハウスに併設されたレストランへ向かった。
平日ということもあり、鬼田らの他に客の姿は疎らである。
結局鬼田は大きくスコアを落とし、四十後半を叩いて、どれもこれも中津川のせいだと言わんばかり、終始不満気な様相でいた。中津川は申し訳なさそうな体面を作りながらも、やはり鳴り止まない電話に何度も気を取られながら、逐一鬼田に状況を報告した。
「これ、今朝の新聞です」
昼食を済ませた二人はソファで休憩しながらフロントにあった朝刊を眺めた。
目を細めながら文字を追う鬼田。
老眼ばかりは年齢に嘘をつかない。
記事によると、林田区長は度重なる住民の意見を受け、施工グループに対する非難声明を公にしたという。
字を追うごとに鬼田の剣幕は徐々に暗転し、眉間の間に刻々と深い溝が刻まれていった。
「敵か味方か分からんやっちゃな」
「選挙が近いですから、万一落選なんてことになったら、元も子もないですからね」
現職の林田は三期連続の当選、代々政治家家系ということもあり、落選ともあれば体裁がつかない。
「区民に媚び売って、そんなに票が欲しいかの。ムダ金包ませやがって」
クラブハウスにはひっそりと鬼田権造の名を彫った会員証が飾ってある。
「ワシは断固として住民の意見を汲み入れるつもりはない。これは謀反行為じゃ」
鬼田は新聞を丸め思い切り机を叩き、怒りを露わにした。
――林田光男区長は、住民意見交換会で取り上げられた件の再開発事業に対して「住民の要望を最大限取り入れ、古い町並みと自然を共生した町づくりを推進する」とコメントした。「ニューヨークのハイラインのような、景観を保持した土地開発。施工側が提案した高層ビルを盛り込んだ近代化計画に、自治体を代表して反対意見を表明する」
林田の声明は住民の不満を煽り、その矛先を企業側に向けた。
これは、これまで鬼田らが再三主張した都市構想とは相反する内容であり、林田自ら施工グループに楯突いた形となる。
「優柔不断というか、八方美人というか。自分の立場をよく理解しておらんようだな」
ハイラインといえば、全長一マイルの高架貨物線跡地を緑地公園として転用した再開発事例である。
十九世紀中頃に敷設されたウエストサイド線は、当時製肉場や生鮮市場があり貨物の集配エリアにあった。
道路と平行して運行していた鉄道では歩行者や馬車との接触事故が絶えず、特に十番街はデスアベニューと呼ばれるなど、周辺住民の不安を煽る事故多発エリアとなっていた。
このような事故を減らすため、ニューヨーク市は路線の高架化を進め、一九三四年に高架鉄道として再開発工事が完了、これが後にハイラインという名の所以となる。
高架化は現在の貨幣価値で十億ドル以上の大規模開発であったが、一九六○年移行のモーダルシフトにより鉄道輸送の需要が減ると、一九八○年、終には貨物運行が廃止となった。
その後、ハイラインが通過していた周辺エリアは風俗業が栄えるなど景観の悪化を招き、景観清浄化のもと、路線ごと撤去の危機に瀕する。
しかし「鉄道の存在こそハイライン地区の景観を象徴する」という世論のもとに、非営利団体「フレンズ・オブ・ハイライン」が設立されると、緑地公園への転用というアイデアをもとに寄付金を募り、清浄化計画は撤回され、更には開発予算が確保された。
旧線を転用しながら景観を残す考えは住民と施工側の利害関係が一致していた。林田はあくまで中立的立場におり、住民と開発グループの中をとる意向で、下北沢ヒルズ計画に対して正式に異を唱えた。
「林田は敵を作らないタイプだ。だからあんなチビでハゲでも三期連続で当選できた」
中津川は薄くなった前髪を指でなぞり、表情を濁した。
「しかし、八方美人で市民に媚び売っても、いずれ化けの皮は剥がれる」
乾いた空気が頬を撫でる感覚がした。
空は雲一つない快晴、清々しい芝の上を爽やかな初夏の風が通り抜ける。
鬼田は意を決したように「顔の割れてない若い舎弟を集めろ」と中津川に要請した。
「どうなさるんです」
不穏な空気を感じ取った中津川は恐る恐る鬼田に問うた。
「林田を沈めろ」
中津川は小さく頭を上下に振ると、なにやら携帯を取り出し話し始めた。