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下北沢ヒルズ  作者: 市川比佐氏
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2章-1 シモキタのワカモノ達

「再開発プロジェクトですか――。」


まだ頭も冴え切らない週末の早朝八時。

無理もない、連日の徹夜続きと不摂生に、三十代も半ばに差し掛かった神田の体は、既に限界を迎えていた。


担当課長の大森から呼び出しを喰った神田は、突然の打ち明けられた内示に驚嘆を隠せないでいた。銀行は人事が全てである。

しかし、通勤電車を乗り継いで疲弊が積もった神田に、突如舞い込んできた巨大プロジェクトを許容するだけの余力は残されていなかった。


「ああ、今までの融資係としての担当業務は、今月付で経堂支店から移った成尾に負ってもらう。すぐに引継準備にかかってほしい」


成尾と言えば、神田よりも三つ入行年次の若い融資担当である。

同じ小田原線沿線の経堂支店で融資経験があり、そのままスライドして異動となった。

とは言え、何も知らない神田にとっては寝耳に水である。


「よりによって不動産ですか―」


神田は青息吐息を吐くと、その場に項垂れて座り込んだ。


神田信輝は三十四歳の中堅行員である。

都内の私立大学で経済学を専攻、卒業後、晴れて安徳都市銀行に入行した。

神田が入行した時代と言えば二千年問題の混乱に喘ぎ、日本経済は失われた九十年代を乗り越えたものの、縮小気味の消費傾向が著しく回復することもなく、何となく晴れ間の見えない鈍雲に頭を抱えていた――、そんな時代に金融業界に飛び込んだ神田である。同期の入行組と言えば、現実的な思考を抱いた者が多く、悪く言えば保守的で、危ない道を渡ろうとしない。

斯く言う神田も例外ではなく、一見、真面目にみえるが社会に対し斜に構えた帰来がある、今どきの若者といったスタイルだ。


「しかし、なぜ私がそのような案件を」


入行以来、支店で融資畑を歩んだ神田である。

急な辞令の理由が解せない。


メガバンクの採用は、就職氷河期を潜り抜けた当時で、凡そ二百人。

現在より若干の小規模であるが、他企業に比して決して小さな数字ではない。

神田には多くの同期入行者がいるが、当然その全員の顔を知り尽くしている訳ではない。

三十代も半ばに差し掛かる中堅故、一部優秀な行員は役付きの階段を着実に登る一方、生真面目さだけが取り柄の神田の成績は、可もなく不可もなく。

ひとまず支店業務を人並みに熟し、主任として出世はしたものの、その先行きは明らかではない。


そんな神田に突如舞い降りた吉報である。

それまで中小企業向けの融資を直向きに続けてきた神田にとって、再開発プロジェクトに携わるなど、またとない機会であるように思えた。

同時に、今後自分に降りかかる諸問題に対し、若干ばかりの不安と抑圧にうち負けそうに思えた。


「不動産開発といいますが、具体的に、私は何を」

という神田の問いに対し、融資課長の大森は細い背中を斜めに捻じ曲げながらこう言った。


「神田には下北沢駅周辺店舗の実地調査を行ってほしい」


「実地調査?」


神田は素っ頓狂な声を上げた。


「ああ、そうだ。目的は、今度の再開発に際し、取り壊し対象となる店舗の時価を見積もって欲しいとのことだ」


施工者は地権者に対し、立ち退きによって生じる土地財産権、及びその他の付随する損失に対して補償を為す義務がある。

特に多くの店舗が軒を連ねる駅前地域は、不動産価値だけでなく、地の利を有した商売に対する補償割合の見積も必要だ。

下北沢に拠点を置く人気店となれば尚更、単なる立ち退き要求では済まないケースが往々にしてある。


「時価、ですか。そういった内容であれば、損保会社など、うちの管轄でない気もしますが――」


神田の問いに対し、大森はひとつ咳払いをして応えた。


「君もうちに来て長いだろう。地元企業や小売店の顔馴染みもできてきた頃合いだ。そんな君であれば、今の下北沢にどんな街づくりが求められているか、想像に易いだろう」


下北沢には小売店をはじめ、飲食店、地場の不動産業、工房、建設業など種々の産業があるが、どれも従業員三十名程の零細企業ばかりである。

銀行からの融資額も小さく、個々にみれば金回りが良いとは言えない。むしろトータルでみれば、一般預金額の方が多いくらいだ。


神田は釈然としない様相を浮かべながらも、一方で、このまま瑣末な「金貸し」業を続けることに疑問を抱いていたのも事実だ。

特段変化を好むタイプではないが、このまま一所に安息していては金融人としての成長はないと思った。


神田は僅かな気迷いを感じながらも、向き直って大森に対峙した。


「頂いた仕事は真面目に取り組むのが私の信条です。こちらに移ってきても、ずっとそうしてきたつもりです」


神田自身も井之頭沿線に住む身として、下北沢駅前再開発の噂を知らないわけがない。それゆえに開発案件に身を投じることの責任の重さがどれほどのものなのか、茫としながらも察しはついていた。


「もちろん、君ひとりでとは言わない。今回の案件には会社側が強力な補佐役を用意しているから、心配しないでほしい」


「補佐役ですか」


「ああ、あくまで主担当は若い君にと考えているのだが、ひとりでは心許ないと思い――」


大森は薄くなった額を掻き分けると、思い詰めたように、もう一つ咳払いをした。


「ゴホッ―、あの方のことだから、果たして君のような若手に、まともに口を利いてくれるか分からんが」


「どういう意味でしょう」


大森は踵を返し、そそくさと身支度を整え始めた。

大森の顔が急に深刻さを増す。その表情が妙に、神田の不安を刺激した。


「まあ、辛くなったらいつでも戻ってこい。これ以上のことは私からは話せないが。今後、人事を介して正式に辞令が伝えられると思う」


大森からはそれ以上の答えはなかった。大森は背を向けて右手を上げると、スーツのジャケットを脇に抱えて外回りへと向かった。



十月一日付で新たな担当が割り振られた神田である。

辞令には不動産開発本部特命業務担当と、入行以来最も仰々しい字面であった。法人部門のセクションであるが、なぜか神田のデスクは本社ではなく下北沢支店のままだ。支店もフロアも変わらない配置転換。

前日は大森の一言が気にかかり妙に覚醒して一睡もできずにいた。

眠気眼で出社した神田は十時に支店二階奥の支店長室に入ると、五分ほどソファで待たされた。


支店長室からは融資課や審査室のあるフロアがガラス越しに見える。

つい昨日まで在籍していたその部署が、今では疾うに昔のように感ぜられた。


フロア内部は、一般の客からはその様子が見えない構造になっているが、時折、法人や大口客が出入りすることがある。

また十月初日とあるため、フロア内にはちらほらと見慣れない顔があった。


支店長室の扉が開くと、そこに大森と支店長の唐木田が現れた。

神田は咄嗟に立ち上がると、深々と二人に一礼した。


縦社会の銀行業界であるが、下北沢支店は比較的こぢんまりとしていて、他店にあるような厳しい上下関係はない。

所帯が小さいため互いに顔と名前が一致する間柄であり、役付きが課員に直接声をかけることもあり、風通しの良い店舗である。

神田自身、仕事に気兼ねなく打ち込める環境と感じでいたが、この日は一変、言い表せない緊張感があった。


神田は大森と唐木田がソファに座ることを確認してから腰を下ろした。

二人の視線がゆっくりと神田に向けられる。

親しみのある顔並みのはずだが、表情はいつになく険しい。


「神田君、早速だが今後の業務について詳説したい」


唐木田の口が開くと、その前に神田は、先ほどから気に懸っていたある疑問を切り出した。


「あちらに見えるのは債権回収業者の方でしょうか」


「債権回収?」


「もしくは、ゼネコンか何かの営業の方」


神田が振り向いた方向には、長身で、細かくカールさせたパンチパーマ、口元に硬々しい髭を生やした仏頂面が、長い足を組んで煙草を吹かしていた。

その風貌たるや大層で、男は実に機嫌悪そうに眉間に皺を寄せ、辺りをじろじろと見回している。客人にしては態度が横柄だ。

とても銀行関係者と言い難い、言い様もない雰囲気があった。


「随分と雰囲気のある方ですね」


男性の様子を見て、神田の中で古い記憶が蘇った。


「――融資先の経営状態にくれぐれも留意せよ、転貸資金など疑われた日には、銀行の評判は地に落ちる」


新入行員時代のことである。現場実習の一環で半年ほど勤務した横浜関内支店で、神田はある港湾業への融資案件を請け負った経験があった。


「小湊組は北九州に本店を置く優良企業だ。本牧埠頭にも幾つかの貸倉庫を構えている。規模は小さいが、財務状況も問題なく、融資先としては確実だろう」


入行したての神田は、馴れない環境ながら見様見真似で稟議書類をまとめ、融資課長の承認へ得、ひとまず案件を落着させた。

それから一月ほど経ったときであろうか、神田の元に訪れたのは思いも寄らない一報であった。


「小湊組の融資案件は白紙となった」


神田は自分の耳を疑った。融資稟議は先輩行員など有識者に十分な推敲を受け、確かな裏付けを持って行われたはずである。

腑に落ちない神田は、後々で背景を伺った。


「湊組に、暴力団との癒着の疑いがある。資金の一部が転貸される懸念があったため、支店長判断で融資を止める運びとなった――」。


それ以来、神田は企業視察に際して、事業の透明性を特に注視するようになった。


「この辺に妙な会社はありましたか」


下北沢に移って三年。取引の有無に関わらず、周辺企業は一通り目を通したはずであるが、果て、関係筋と癒着のある企業などあったであろうか、記憶にない。


土地柄、周辺にゼネコンや金融業は存在せず、建設関係業は数社あるが、どこも町工場レベルの零細企業である。


「新興企業でしょうか」


男の風貌は昔ながらの土建屋といったところである。

今度の土地開発の関係で、新規に事業所を構えた建築業社であろうか。


「いや」


大森と唐木田は目を合わせ、一度咳払いをすると、場が悪そうに顔を俯いた。


「実はあの方が、君の新たなビジネスパートナーだ」


唐木田の一声が神田を急に暗い現実に引き摺り込んだ。

額から大粒の汗が流れる。


「まさか」


神田は括目させながら真相を煽った。


「支店長、どう見てもカタギの方に見えないのですが」


「神田、申し訳ない。これには深い訳があるんだ」


咄嗟に大森は頭を下げた。その仰々しい態度が余計に神田の不安を掻き立てた。


「聞いて驚くな。あの方は我が安徳銀行の元頭取だ」


「頭取?」


大きな声を出すと神田は再度、後を振り返った。

ガラス越しの鬼田がこちらを見て手を上げた。

俄かに目を背ける神田。馬鹿な、あんなヤクザと一緒に仕事などできるわけがない。


神田は必死な形相で唐木田に訴えかけた。


「無理でしょう」声にならない声が、唐木田の瞑目を誘う。


「鬼田権造。君も聞いたことがある名だろう」


「鬼田? 鬼田って、まさか、あの鬼田ですか」神田の脳裏の片隅に、消えかけていた記憶が蘇る。


「ええ、たしか新入社員研修のときに、『安徳銀行設立の歴史』という講義を受けましたが…、まさか」


神田は背後から猛烈な殺気を感じた。背中に刃物を突き付けられたような、強い悪寒が走る。


「そもそも生きてらっしゃったんですか」


「九十八歳だ」


「九十八!?」


溜まらず大森は神田の口を塞いだ。


「馬鹿もん、大きな声を出すな」


神田は何度もその姿を確認する。


たしかにそこには、昔教科書の中で見た「近代銀行の立役者」の姿がある。


「随分、お若く見えるというか。いってもせいぜい六十代くらいに見えますが」


「戦後の財閥解体から安徳銀行の再建、高度経済成長まで、金融業界の栄枯盛衰すべてを見てこられた方だ。くれぐれも態度には気を付けろよ」


神田が呆気に取られている隙に、唐木田は恐る恐る支店長室に鬼田を招き入れた。塗り壁のような巨体が、一歩一歩と近付いてくる。

足音が心拍数とともに大きく鼓動し、終には神田の前に立ち塞がった。


「貴様が神田とやらか」


神田の顔は死人のように蒼褪めた。


「顔色が悪いぞ、これから一緒に戦っていくというのに。ちゃんと朝飯食ったか」


鬼田はフライパンほどの大きさの手を神田に差し延ばした。

「よろしく頼むな」今後、一緒に仕事をしていく同胞として、決心の握手である。


「御存知、ワシが安徳銀行第七代頭取、鬼田権造だ。一切の素性は明かせねえが、一度仲間になった戦友は、我が命を滅ぼしてでも守り抜く。それがワシの信条だ」


釣り上がった目尻に、口元の細い髭と、眉間の深い皺。

瞼には大きな古傷が見て取れる。金融界のすべてを知り尽くした男の視線が、神田へと深々と突き刺さる。


「貴様には、銀行の仕事ってもんをビシビシと教え込んでいくから、覚悟しろよな」


そういうと鬼田は、細い上体をへし折らん勢いで神田の肩をバシバシと叩いた。


鬼田は強烈な印象と存在感だけを残し、支店長室を後にした。

一部始終を確認すると、唐木田と大森は、いつの間にか逃げるように退室していた。


当の神田は、魂が抜き取られたかのように全身の力が抜け、その場に座り込んだ。


鬼田と神田、似ても似つかぬ二人の行員が、下北沢の歴史に大きな傷痕を与えようとしていた。


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