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下北沢ヒルズ  作者: 市川比佐氏
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1章-6

いつもの通り新聞を片手に出社した鬼田は窓から見える丸の内の街並みを眺めると、悦に浸りながら言った。


「デモが本格化しとるぞ、中津川。面白くなってきたの」


中津川はコーヒーを挽く手を止めると、鬼田の方を見た。


「ええ、いよいよ銀行側にもクレームが殺到しております」


住民の声を無視し続ける傍若無人な施工グループのやり方は、徐々に世論の間で波紋を呼ぶ結果を招き、終には再開発に出資した銀行にも、区民による苦情の矛先が及んだ。


そんな外界の喧騒にも関わらず、鬼田はコーヒーを口にすると、ゆったりとした素振りで市場の動きをチェックした。


丁寧に四つ折にした記事を具に眺める。

既に一線を退いて久しいが、こうして世の中の動向に目を向けるのも、変わらず鬼田の朝の日課となっている。

定年後、三十年のブランクがあったが、行員時代の習慣は完全に抜け切れずにいた。




「と、安易に仕事を引き受けたものの、一度は街の様子を見ないとな」


現場主義。

それは鬼田が行員時代に抱いていた信条のひとつだ。


鬼田が入行した一九四○年はまさに第二次世界大戦下の真っ只中にあり、また三国同盟により枢軸国の原型が作られた年でもある。

この時代の銀行は一県一行設置が基本であったが、その中でも安徳銀行は戦時統合により東京地区の店舗を拡充、安徳財閥を背景に名実ともに国内ナンバーワンの大銀行となっていった。


当時の安徳銀行といえば創業家がグループ株式の半数を持つ同族経営だったが、敗戦後の財閥解体により安徳家は正式に解散。

一九五二年のサンフランシスコ講和条約の発効まで空白の十年間を鬼田は過ごすことになる。


鬼田の二十代は大日本帝国と安徳財閥、そして銀行の栄枯盛衰に翻弄された。

鬼田自身、先行きの見えない情勢に不安を隠せないでいたが、だからこそ机上の空論は役に立たない、実地調査こそが万事の真実であるという信念が生まれた。

この時代の意思は現代にも生き続ける。


「銀行は無担保で金を貸してはならない。財務状況を確認し、さらに直接その目で会社の経営内容を確認する。何よりも大切なのは実際に融資先の企業に出向き、社員の働きぶりを見ることだ。社員は会社の性質を表す鏡である」


長年金融畑に身を置いた鬼田にとって、現場を見れば店舗の価値など一目で把握できるのだ。


鬼田は、本店のある丸の内から新宿に向かうと、小田原線を厚木方面へと下った。

思えば下北沢など何十年ぶりの訪問だろう。

不安と期待が入り混じる中、鬼田は新宿駅改札を通過した。



普段はお抱えの運転手を使う鬼田だが、この日は敢えて慣れない電車移動を選択した。


街の雰囲気を把握するには、一般人と同じ目線に並ぶことが重要である。

本店の役員室から眺める高層ビル群も悪くないが、たまには下界に降りないと人間らしさを忘れてしまう。


新宿を出発した小田原線は高層ビル街を後にすると、マンションや複合施設を横目に見ながらゆっくりと参宮橋を通過、忽ち景色は閑静な住宅街となった。


ここに暮らす人々がどのような生活をしているか――、

ゆっくりと走る電車の中で鬼田は一人逡巡するのであった。


不動産開発は鬼田にとって初めての経験ではない。

寧ろ海外も含めれば、戦後復興時は不動産投資が盛んになり、時代は違えども、ひとつの町が造り上げられていくプロセスはその身で何度となく経験している。

その度に一種の達成感を味わいながら、銀行家としての誇りを享受していった。自ら投資した案件が形を持って目に見えるのが土地開発の醍醐味である。鬼田は久々の大仕事に胸を高鳴らせた。


ガタン、ガタンと、レール締結部に生じた遊間を車輪が叩く音が耳を撫でる。

久方ぶりの感覚だった。

思えば頭取の椅子に座った四十代から、電車移動など長らく体験していなかった。


車中、鬼田は、ソ連に抑留した兄、権兵に、遠くシベリアの極寒の大地を鉄道で移送隔離された体験談を頻く聞かされたことを思い出した。

寒所では鉄鋼が縮み、鉄道の車輪が落ちるという。

鈍行するシベリア鉄道の車内で、捕虜達は明日の死を覚悟しながら、ぶるぶると身を震わせていたという。



『次は、代々木上原、代々木上原です。千代田線はお乗り換えです』


そうこう逡巡しているうちに、急行電車は代々木上原へと到着した。

多くの乗換客が押し寄せる。車内の乗車率は忽ち百パーセントを越え、吊り革を握る拳に力が入った。


「あの、すみません」


多摩急線が井之頭通り上を通過したときだろうか、車窓の景色を眺める鬼田を、背後から呼ぶ声が聞こえた。

何事かと振り向くと、一人の青年が笑みを浮かべて鬼田を向いている。

青年の顔に見覚えはない。鬼田は不審に思い目を細めた。


「なんじゃ、貴様は」


青年は車輌連結部側の座席を指差した。

清爽とした笑みを浮かべながら、鬼田の顔を覗き込んでいる。


「もしよろしければ、席どうぞ」


鬼田は最初、青年の言う意味が分からないでいた。

男は二十代前半くらいか。

平日というのに、カジュアルな服装とバックパックという出で立ちから、学生であろうと推測できる。

髪は一部茶色く染めてあり、白い肌は些か弱弱しく、男らしさが微塵も感じられない。

屈強な見てくれの鬼田とは真逆の性質であるように思えた。にこやかな表情には屈託がなく、青年の語り掛けるような瞳には邪気が感じ取れない。しかし悪く言えば世間知らずの若僧にも見て取れる。


「ああん?」


鬼田は青年の指差す方向に目をやると、そこには「優先席」の文字が見えた。

杖をついたお年寄りのイラストが席上に記されている。

どうやら青年は老年の鬼田に席を譲ろうとしているのだと気が付いた。


ようやく青年の意図を理解した鬼田は、自身に向けられた屈辱的な仕打ちに、まるで瞬間湯沸かし器のように一気に顔を赤らめると、次のように言い放った。


「誰が老人だ貴様、余計なお世話だ」


忽ち鬼田が青年の胸倉を掴み上げると、途端に、青年の体が宙に浮いた。

あまりの光景に周囲の乗客も固唾を飲んでそれを見つめている。


「ワシをそこらの足腰の弱い老人と一緒にするな。貴様なんかに心配される覚えはない」


鬼田が怒鳴り散らすと青年は興醒めして逃げるように次の東北沢で降りた。

面倒な老害に絡まれたとでも思ったのだろう、そそくさと鬼田の視界から外れると、隣の車両に逃げ込むのが傍目に見えた。


「人を小馬鹿にしやがって」


吐き捨てるように鬼田は言うと、いつの間にか周囲から客の姿がなくなったのを確認し、何事もなかったかのように優先席に座った。


――電車はゆっくりとした勾配で地下へ潜り、目的地の下北沢へと到着した。電車を降りると鬼田は、工事中の標識を横目にコンコースを上がり地上へと出る。


「この街も変ったもんだな」


剥き出しのコンクリート壁が無機質な空間を作り出している。改札を出た鬼田は安徳銀行下北沢支店のある北口へと向かうと、そのまま街を散策しはじめた。


平日の昼間である。休日とは打って変わって、人の出入りは少ない。外を出歩く人の姿は疎らで、時折、ちらほらと学生らしき姿が目に入る程度だった。


「仕事は足でとれ」


融資課時代に鬼田が教わった教戒であった。

銀行家は数字でなく、己の目で会社の経営状態を把握する必要がある。

この街にどのようなビジネスチャンスが眠っているのか。そしてどのような姿に変革させていくべきか。

それを決めるのは形骸的な数字でなく、自身の勘と嗅覚だけなのだ。



鬼田は安徳銀行下北沢支店を横目に通り過ぎ、一番街方面へと真っ直ぐに歩くと、その先には無数の染物屋や生地屋が並んでいるのが見えた。

茶渋色に剥げた看板は店の年季を表している。創業四十年程度は経つのだろうか、ファッション発祥地として名高い街だけに生地屋は安定した需要があるのだろう。

そんなことを思いながら、鬼田は一店一店、具に店舗を調べ上げた。


平日ということで、殆どの大手ファッションブランド店はシャッターを閉ざしていたが、一部の雑貨屋や個人商店は営業していた。

商店街の規模たるや都内でも随一であろう。鬼田はさらに足を進める。


「下北沢」とは、世田谷区北沢と代沢周辺一帯を指し、正式には下北沢という地名は存在しない。

主に茶沢通り、ピュアロード、地蔵通り、鎌倉通り、一番街本通りの四本の道路によって囲まれた地区を指す。


下北沢は徒歩回遊の街、文化発祥地、そして演劇の街など様々な文化的側面を持つ場所である。

細い路地が網目状に交錯する複雑な地形と多くの商店が下北沢の独特の雰囲気を形成しており、多くのファンを有する都内でも傑出した観光スポットである。


そんな下北沢の歴史を紐解くと、現在のような複雑な網目構造の街並みが出来たのは鉄道の開通に依る。

一九二七年、多摩急小田原線、さらに一九三三年には多摩王電鉄が開業した。

これにより新宿、渋谷の二大都市と直接線路で繋がり、もともと田園地帯であった北沢地区の人口が倍増することになる。


時ほぼ同じくして一九二九年には「東京北沢商店街商業組合」が結成され、現在も続く商店街文化の原型ができた。

鉄道開通とそれに伴う駅前開発により下北沢は巨大な商業地区へと変化する。


その後、東京地方は大戦によりその土地の大部分を消失することになるが、殊に下北沢においては、駅北部など主要な部分が戦火を逃れ、敗戦後闇市が盛んに開かれた。


闇市は食糧品などの配給物資を周辺地域から掻き集め高値で転売する。

これにより、多くの物資を入手した者が既得権益を得ることができる。

物資の配給ルートはまさに「闇」であり、商人達は自らの手を汚してまで利益獲得に腐心した。

これが起源となり「北口駅前食品市場」が形成される。これこそが多くの個人商店を抱える下北沢商店街のルーツと呼べる。


一方、宅地開発当初、耕地や区画整理が各地区ごとに個別に行われた関係で、下北沢周辺の道路構造は均一的でない。

一帯には大きな幹線道路が存在せず、曲がりくねった細い路地が目立ち、徒歩回遊の街の原型が完成したのもこの時期だ。


かくして、狭い区域に商店が密集し、徒歩回遊の街、下北沢の原型が完成した。

鬼田はこの古い区画を再開発すべきであると、積年、主張し続けたのである。


鬼田はポケットから手帳を取り出すと、店の名前や事業形態などをリストに書き留めていった。

下北沢にどの位の店舗が存在し、其々の商売がどれほど盛況しているか。

鬼田なりの視点で実地調査は遂行された。


繁栄店は残し、不人気店はいずれ着工を前に立ち退かせることになる。

金回りの良い店をわざわざ潰す必要はない、残すべきものは残す、それが市場の掟である。

鬼田は金融人としての勘から、独特の嗅覚で善し悪しを嗅ぎ分けた。

果たしてこの街に、後世に残すべき店はどれほどあるのか。

鬼田の興味関心はそれに尽きていた。


下北沢は知名度と裏腹に、思いの外小さな街である。

狭い区域に商店が集中しているため、改札を出て五百メートルも歩けば忽ち閑静な住宅街が広がる。

賑やかな商店が犇めくのは極一部の区画のみであり、それより外側に店舗は存在しない。

従って駅周辺は過密となり、通常の認識で言えば不便極まりないのだが、人々を惹き付ける魅力はまさにその密集した景観にあるという。鬼田にはその魅力が解せないでいた。


「狭く苦しくて見窄らしい。もっとまともな区画整備が出来なかったものか」


これほどまで若者を惹き付ける要因が、一体どこにあるのだろうか。

下北沢のもつ不可思議な訴求力の発掘こそが、今回の実地調査の真の目的でもあった。


「小汚い街よのう、行けども行けども浮浪児の集まりじゃまいか」


しかし数分もしない内に、鬼田による実地調査は終わりを迎えた。

最後まで鬼田の目に光るものは存在しなかった。


「来て損したわ。結局、貧乏人共が自己満足で芸術家を気取っておるんじゃろう」


ひと通り周辺を歩き回った鬼田は、特段収穫もなく、本店のある丸の内へ戻ることに決めた。

実地調査は終了した。

結局、文化発信地とは名ばかりで、あくまで若者の自己陶酔に過ぎない。

非常に限られた狭い商圏は経済効率が低く、すぐにでも改善の必要ありというのが鬼田の出した結論だ。


鬼田は来た道とは別のルートで駅へと向かった。

何処も彼処にも変わり映えのない悪趣味な喫茶店や雑貨屋が続く。

所詮、流行など一時期の栄光に過ぎず、今でこそ輝いて見えるかも知れないが、実体のない商売は五年と続かない。

一見、華やかそうに見えるテナントも、入れ替わり立ち替わりで、時代とともに消失していく。

若者の抱く夢など儚いものである。


駅に向かって曲がりくねった路地をしばらく歩くと、古い一軒家が立ち並ぶ一角で、鬼田の目に薄桜色の小さな看板が映った。

洋菓子店のようなメルヘンチックな外観は御伽噺の世界から飛び出してきたようだ。鬼田が横切ると、


「いらっしゃいませ」


と、若い女性の声が聞こえる。


「小ぢんまりとした民家のようだが、これも店なんか」


振り向くとそこには、鬼田の身長の半分程しかない小柄な女性の姿があった。

どうやらここは彼女が切り盛りしている喫茶店のようであった。

呼掛けに気にせず、鬼田は適当にやり過ごそうとしたが、


「もしよろしかったら召し上がってください」


と、彼女が差し出す試供品に気が付き足を止めた。


店内にはガラスケースに飾られた色取り取りの洋菓子が見える。

赤、青、黄色、と鮮やかな菓子が、綺麗な化粧箱に飾られ、店先に並ぶ。

女性店員はそのひとつを手に取ると、鬼田に差し出して見せた。


「着色料マンキンじゃないか、気色悪い」


つい本音が飛び出しそうになったが、喉元まで出かかった心の声を何とか止めた。レディの前では紳士を装うのが流儀である。顔に似合わない笑みを浮かべると、鬼田は女性と向き合った。


店員の説明によると、海外で流行りの喫茶スタイルを取り入れているらしく、原料を直輸入し、本場さながらの味を再現しているのだという。

一見、規模は小さいが、豊富な品揃と内装から、かなり手の込んだ店に思える。


スーツ姿の後期高齢者が入店するにはやや不相応であるように思えた。

中を見ると、どうやら鬼田の他に客はいないようで、狭い路地からさらに奥まった、人目につきにくいロケーションであり、さらに平日ということで周囲は人気もなく閑散としていた。


「ちょうど小腹が空いた頃合だ。コーヒーでも一杯もらおうか」


普段なら適当にやり過ごすはずの鬼田だが、女性の円な瞳に惹き寄せられ、店の中に足を運んだ。年甲斐もなく鬼田の下心が垣間見える。


奥にあるテラス席に腰をかけると、鬼田は壁に描かれたメニューを眺めた。


「横文字ばかりで分かりにくい」


女性用の小さな椅子に、鬼田の巨体は馴染まない。それでも、革靴にスーツという銀行員スタイルで出歩いた足は酷く浮腫んでおり、小休止するには都合がよかった。


「姉ちゃん、このブルーマウンテン、アイスでくれ。あとそれに合う付合せも、一緒に頼む」


「畏まりました」


鬼田は手頃なコーヒーを注文すると、ついでにオススメの洋菓子を頼んだ。曲りなりにも下北沢という人気エリアで店を営むくらいであるから少しは味に期待が持てそうだ。


パキラ、アイビー、窓外には観葉植物の種々が映える。店主の趣味なのだろう。それほど新しい建物ではなさそうだが、清潔感もあり、細部の装飾にもこだわっているようだ。洋風邸宅のような、洒落た雰囲気を演出している。


「お待たせ致しました」


そうこうしているうちに、五分も待たずしてブルーマウンテンが鬼田のテーブルへと運ばれてきた。同時に、小皿に乗った見慣れない丸い菓子が見える。


「これは何だ、食い物か」


恐る恐る鬼田は問うと、


「ええ、マカロンです」という答えが返ってきた。


「なに? マッカーサー?」


耳慣れない単語と、毒々しい色合い、そしてフォークで突いてもビクともしない硬い感触。


女性に対する鬼田の猜疑心は一挙に増幅した。


「当店で最も人気があるベリー味と、チョコレート味です」


チョコレートと聞いて、鬼田は拍子抜けしたように肩の力が抜けた。


――チョコレートか、餓鬼の食いもんだ。


古い記憶が蘇り、眉を歪める鬼田。


戦後間もない頃だったか、連合国総帥指導の下、日本国に進駐軍を派遣した米公が、貧しい日本人に分け与えたのがチョコレートであった。

進駐軍に配給された軍用チョコレートは高カロリーで栄養価が高く、また士気高揚性がある。

飢えに苦しむ戦災孤児が、マッカーサー総帥印の施されたチョコレートに群がり、夢中でそれを貪っていたのを思い出した。


「みっともない姿だった。あれは我が大日本国軍にとって屈辱の姿。自国の女子供も守れず、敵国に衣食住を乞うとは、大本営参謀長を勤めた兄を持つ身として汚恥極まりない」


悔しさのあまり目に溢れる熱いものを、鬼田は制御することが出来なかった。


鬼田にとってチョコレートとは、日本国敗北の記憶を蘇らせる苦い記憶の塊。


鬼田は潤んだ瞳を袖で拭うと、気を取り直し、再度マカロンに対峙した。


「桜色がベリー味、そして茶色い方が憎きアメ公のチョコレートだな」


鬼田は一口ばかり熱いコーヒーを口に含んだあと、恐る恐るそのマカロンとやらを手に持った。

フライパンほどの大きな掌に、豆粒のようなマカロンは包まれる。

海外駐在中、散々ゲテモノを食わされてきた経験のある鬼田だが、九十八年生きてきて、マカロンは初めて口にする代物である。


鬼田は清水の舞台が飛び下りるように度胸を据えて、ゆっくりとそれを口に入れた。


――ガリッ。


その瞬間、鬼田の表情が濁った。


歯の詰め物が、鈍い音を立てて取れる感覚がする。


まるで鈍器で顎の骨を砕かれた強い衝撃だった。


慣れない食感である。

表面は岩のように硬く、内部は僅かに柔らかい。

甘ったるい、砂糖菓子のようだ。

さらに噛む。

水分が奪われ、唾液腺の分泌がマカロンの吸収量に間に合わない。

奥歯に詰めた銀歯が抜けそうだ。

そういえば、キャラメルを噛んで母君に注意されたことを思い出す。

「よく噛むと、歯が抜けるわよ」

鬼田は全身の神経を研ぎ澄ませ、得体の知れない物体を咀嚼した。


――ガリ、ガリ、ガリッ。


三度ほど噛んだところで、今度は舌の上に転がした。

妙な味がした。

これは、遠くタンザニアの大地で口にした乾燥タロ芋の食感にも似るが、少なくともそれより硬く、今まで経験したことのない味覚だ。


鬼田は苦悶の表情で店内を見つめた。

女は相変わらず澄まし顔でバーの中をうろついている。


さらに噛み締める。


甘い。


甘過ぎて飲み込むことができない。


脳が拒絶する。


これが本当に人間の食い物なのか。


まさかこの女、この鬼田に毒を盛ったというのか。


今時、財閥銀行の頭取の首を取ったところで、何の利益になるというのか。

否、これはもしや、大本営参謀長を兄に持つ鬼田への、旧ソ軍による必死の抵抗姿勢の顕れなのかも知れない。


女の微笑が不気味に映る。


――ゲホッ。


鬼田は堪らず、それを皿に吐き捨てた。


「貴様、ワシに毒を持っただろう」


鬼田はセカンドバッグから短刀を取り出すと、女性の喉元に突き出した。


「と、とんでもございません」


鬼田の腕に抱えられ、女性は思わず身を硬直させた。


百戦錬磨、軍に手を染めなかった代わりに、金融界という戦場で、余多の要人と対談を行ってきた鬼田の目には、嘘偽りのない女の瞳があった。


「むむ、そなた、果てはソ軍の遣いではなさそうであるような。ワシの想い違いか」


そう言うと鬼田は女性を解放し、短刀を腰蓑にしまうと、気を取り直して再び席に着いた。


「しかしこのマカロンとやら、明らかに糖分を過剰摂取させる」


店員は強張った小さな体で精一杯声を振り絞り、鬼田に対峙した。


「マカロンは砂糖菓子ですから、甘いものが苦手な方は好まれないかも知れませんね」


「ったく、ワシを糖尿にさせる気か」


鬼田は口に残った滓を吐き出すと、怪訝な表情を浮かべた。明らかにマカロンは鬼田の舌に合わなかったようだ。


「戦時中、なかなか砂糖菓子が口に出来なかった頃、砂糖は嗜好品だったんだが、にしてもこれは食えたもんじゃない。まるでクレヨンを食っているみたいだ」


鬼田は急いで苦いコーヒーを口に含み、まるで解毒するように歯に付いた砂糖の滓を流し込んだ。


「申し訳ございません。お口に合わなかったようで――」


精一杯の謝罪の言葉を並べる女に小切手を差し渡しすと、そそくさと鬼田は店を出た。

その後、駅前のコンビニで適当な菓子パンを口にし、暫し空腹を満たした鬼田。マカロンの妙な食感を消すための口直しだ。


「得体の知れないもん食わせよって。なんて街だ」


駅に向かう鬼田の目には、流行に変わりゆく街の景色が映った。


「しかし、ワシが子供の頃はこんな景色はなかった」


すっかりと変わってしまった下北沢の町並み。


どこか懐かしくもあり、一方で、次々と新しい流行が取り入れられる若者の街。


しかし、この街に、本当の意味で残すべき景観はあるのだろうか。

住民がこれまでにして守り抜こうとする町も魅力とは何なのか。

次から次へと沸き出す諸々の疑問を解せないまま、俯き加減に商店街を振り返ると、夕闇に浮かぶ下北沢の街を感慨深く見つめ、鬼田は足を進めた。


「――どうでしたか」


本店に戻った鬼田に話しかけるのは秘書役の中津川だった。

鬼田はソファに深く腰をかけ葉巻を一本吸い出した。紫煙が両の鷲鼻から豪快に噴き出る。足を組んで丸の内の街を見下ろす姿は支配者の様である。


「どうって、何がだ」


「現地視察に出向かれたそうで、ご様子は如何でしたか」


中津川は配膳板に乗った御絞りとコーヒーを鬼田に手渡した。

苛ついた様子で鬼田は受け取ると、灰皿に葉巻を押し付けた。


「全く駄目だ。想像を絶する。私が目を離すとすぐにこうだ」


鬼田は中津川を怒鳴りつけると、濡れた御絞りで顔を拭った。

草履ほどもある大きな顔は窶れ、眉の間に大きな皺が寄っている。


「申し分ございません」


訳も分からず謝罪の言葉を並べる中津川。どうしたものか、視察中、気に召さない出来事でもあったのか。


豊かなオランダ葉巻の香りが室内に立ち込める。

鬼田は、自ら下北沢に出向いて工事予定地を視察した経緯を説明した。現地現物主義。

それが鬼田の流儀である。


しかしそこに待っていたのは、当初の期待に反する現実であった。

住民を気遣って少しでも文化継承に協力的姿勢をみせようと配慮したのだが、実態は想像を絶するほど酷く低俗だ。

今の下北沢に、残すべき文化的価値はない。メディアの評判は名ばかりで、実際は小汚い商店の寄せ集めに過ぎないと、鬼田は指摘した。


「すぐに立ち退きを実行させたい。早いとこ街を取り壊さないと、いよいよまずい。まずは駅近辺の建造物を全て潰そう」


鬼田は計画の実行を急いだ。どうせ残しておいても、博物館の飾りにしもならないガラクタである。


金回りのない商店街を残すほど銀行は甘くない。

焦る鬼田に対し、中津川は何とか踏み耐えるべく説得を続けた。


「相談役、それは御無理です。周知の通り再開発には多くの反対意見が寄せられています。地権者の合意を得るのは並大抵ではありません。まずは住民説明が先です。住民の理解を得ないことには何も始まりません」


不敵な発言に中津川は怖じけず反論した。


「たわけ、そんな生温いことを言っているから街が死んだんだ。浮浪者で溢れてるじゃないか。何が若者の街だ。実態は酷いぞ」


鬼田の目には、雑貨屋やカフェで働く若者の姿が、停職に就かずに現を抜かす浮浪者に映ったのだ。


夢追い人だが、彼らも非正規労働者に変わりない。

一刻も早く現実の世界に引きずり出して、若者の目を醒ますべきと鬼田は危惧した。

中津川が決断に及び腰でいるのには理由があった。


方や反対運動が盛んに行われているなか、社内の意向は「一刻も早く開発に乗り出せ」とある。板挟みになった人間ほど辛い立場はない。どちらに転んでも敵をつくる結果となる。


いつまでもはっきりとしない中津川の様子を見て痺れを切らした鬼田は、ゆっくりと腰を上げると意を決して言った。


「分かった。ならばワシが直接出向いて何とかしよう」


銀行とて一企業に過ぎない。決断には合意と調整が必要となる。しかし今は時間の余裕もない。一刻も早く行動に移す必要があった。


「ほんなら、ワシが一店一店虱潰しに調査する。ワシが良いと思った店は今のまま残す。人気店は新しくできる下北沢ヒルズのテナントとして採用しよう。店の開業費用は銀行が負担する。しかし、それ以外の不人気店はすべて潰す。そして、職を失った若者の再雇用に協力しよう、どうだ」


「素晴らしいご意見です」


こうして始まった鬼田流下北沢実地調査である。


鬼田は自らの目利きで、店舗の善し悪しを判断し、加えて幻想の世界に閉じこもる不幸な若者を引き摺り出し更生さすべく、立ち上がった。

鬼田の目は士気でめらめらと燃えており、周囲を焼き尽くすような気概であった。


戻り際、中津川は深々と腰を折ると、ひとり鬼田を摩天楼に残し、役員フロアの重たい扉を閉じたのであった。

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