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下北沢ヒルズ  作者: 市川比佐氏
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1章-5

下北沢音楽祭――、


七月最初の週末に行われる下北沢最大の興業企画は、一九九一年のワールド・ミュージック・フェスティバルを皮切りに、その後、北沢音楽祭、そして現在の下北沢音楽祭と名を変え創設二十年を迎えた大規模イベントである。


毎月のように何かしらの催し物で賑わうサブカルチャーの町であるが、中でも全商店街が参画し、最も長い歴史と集客数を誇るのがこのイベントだ。


周辺の小中学校や有志によるブラスバンドは駅東部のタウンホールを出発し、一番街、しもきた商店街へと場所を移しながら演奏を繰り広げる。

街全体がイベント会場と様変わりするのだ。


「今年は記念すべき二十周年記念の年、例年より多くの人に訪れてもらうよう色々な仕掛けを作って盛り上げたい」


二月に差し掛かったばかりの肌寒い土曜日であった。関東全域に乾燥注意報が発令された寒々しい朝、音楽祭までまだ半年もあるが、代沢の月菱会総本部に集まったのは、各商店街の理事長面々である。



南口商店街の南達夫。


しもきた商店街の南沢周五郎。


一番街商店街の秋田一郎。


そして東会理事長であり月菱会三代目若頭の東田尚樹。



東田の一声で集まった会合に、周辺の土地を牛耳る利権者が集結した。


月菱会は下北沢一帯を領地とする指定暴力団組織である。催物を取り仕切るのは昔から続く的屋業の名残であり、サブカルチャーブームが始まった九十年代以降も、こうして変わらず月菱会による興業運営が続いていた。


月菱会は他にも、商店街運営、建設業、飲食店経営などのを主な鎬としており、特に演劇や音楽祭などの興業が盛んな同地域において、こうして毎月催事が行われる度に定例会を開催しては街の活性化を図っている。

月菱会では下北沢への集客が大事な運営資金となっており、興業衰退による資金調達が目減りするのは死活問題となる。


ガラス灰皿には四人の理事が吸った煙草が盛られており、舎弟は火付と灰皿交換に勤しんでいた。


下北沢の商店街は、立地と設立経緯から、各々の特色を持って独立的に運営を行っており、理事の面々もまた特徴的であった。


下北沢駅は井之頭線、小田原線の二路線が交差し、路線によって領地が東西南北に分割され、それぞれ異なる商店街文化を形成してきた。


多くの雑貨屋やカフェが立ち並び、サブカルチャーを生み出す洒落た雰囲気の駅北口付近には、しもきた商店街、そしてその更に北部にメインストリート一番街を構成する一番街商店街がある。


一方、駅東側には、多くの劇場を抱えながら演劇文化を支えてきた東会商店街、さらに南口から伸びる古い街並みには、飲み屋や小料理屋が立ち並び南口商店街を形成している。ちなみに駅から向かって西側は閑静な住宅街となっており、他地域と違って店舗数も少なく商店街は存在しない。



東田は半分吸いかけたメビウスを静かに置くと、紫煙を吐きながら口火を切った。


「今年は多くの予算を捻出してでも、多くのタレントやプロミュージシャンを誘致したい。毎年多くの有名人に参加してもらっているが、今年は例年よりも集客数を増やし、収入増はもちろんのこと、より多くの人に街の魅力を認知してもらうよう宣伝活動にも力を入れなければならない」


興業の中心となる演劇文化を支えてきた東会にとって、音楽祭は下北沢の芸術文化を周知させる機会であると踏んでいた。

なにより東田は別の理由から今年の音楽祭を何としてでも成功させたいという強い気持ちがあった。


「来年はこの街もどうなるか分からないですからねぇ」


気怠そうに話すのは南達夫だ。年齢は東田と同じ五十代後半であるが、鷹派の東田に比べて妙に斜に構えた印象がある。


「工事が本格化すればイベントの開催自体危ぶまれる。今年が最後だと思って、一念発起するのも粋な考えですな」


「ああん」


東田は立ち上がると、今にも南に掴み掛るかの剣幕で語気を上げた。


「乾いたこと抜かすじゃねぇか、南の旦那」


及び腰な南の態度が気に喰わず、勢いよく東田が喰いかかった.


「南さんよぉ、あんたは自分のシマが再開発の対象じゃないからって、他人事みてえな発言は止めてくれねえか」


東田は南の咥え煙草を右手でもぎ取り、灰皿に押し付けた。


「何すんだよ、テメエ」


抵抗する南の額に東田は小銃を押し付け動きを封じると、右手の指はまさに引き金を引こうとしている。

血気立った東田の顔は本気の様相だ。



銃を隔てた二人はまるで時間が止まったように硬直した。一矢報いぬ緊張感の中、固唾を飲んで見守る周囲の理事。次の瞬間、奥の襖がピシャリと開く音が聞こえると、奥から和装姿の男が現れた。


「あんたら、兄弟なんだから喧嘩は止めなさい」


その瞬間、南は急に畏まり、体勢を整えると額を畳に擦り付けた。東田は尚、表情こそ変えないままだが、手にした道具を腰蓑にしまい声の主の方を真っ直ぐに見つめる。


一触即発の事態を制止したのは豊田劇場創始者であり月菱会会長の豊田永吉だ。


豊田はゆっくりとした足取りで上座の椅子に腰を掛けると、溜息混じりに言った。


「仲間内で抗争を起こしても仕様がないでしょう。相手はもっとでかい権力だ。頭を冷やせ」


八十を超えて薄くなった頭頂部だが、その眼は鋭い光を放つ。何人もの生き死を見てきた手練の目である。


豊田と月菱会、そして下北沢に現存する商店街。

その歴史を紐解けば、それは鉄道開通以前にも遡る。


地形的に下北沢は南北で異なった時代の変遷を経た。

駅北側、北沢八幡宮のある本町付近は台地となっており、予てより住宅地として重宝されたが、一方で南側は土地が低く湿地帯となっていたため住宅地として好まれず、地主は商店向けに安価で土地を貸さざるを得なかった。

少しでも賃料を安く抑えたい商人達は南口の土地に飛びつくと、後に商店街を形成することになる。かくして南側、現在の代沢一帯が先に商業圏として発達することになる.


現在のような区画が敷かれたのは、主に鉄道の開通と戦後闇市に起因する。


下北沢には二十ヘクタールの狭い土地に、凡そ千以上の事業所が集中し、さらにその半数が建面積五十平米以下の零細店であり、街そのものが大きな商店街を形成している。


高度成長期が始まる五十三年には南口商店街が設立。多摩急線下北沢駅の橋上工事と相まって南口の商人気質がより強まっていく中で、一方で北部の住宅街は世田谷区全域への田園都市化計画から高級住宅街へと変貌を遂げた。


一九五五年以降には東大や明大をはじめ、路線近傍に大学が急増、学生街としての側面も兼ねることになる。実際には下北沢駅を最寄とする大学は存在しないが、通学圏に多くの大学が存在し、学生寮や下宿が建設されると、現在のような若者が好むサブカルチャー発祥の地という地位を得る。


こうして生まれたサブカルチャーブームは、戦後流入したジャズ喫茶、演劇、服飾店などと相まって更なる盛況を見せる。豊田が月菱会に入門したのもこの時期だ。


舞台俳優の傍ら六十店もの飲食店を経営していた実業家、豊田永吉は、俳優業の夢が破れた後も密かに劇場設立の構想を練り続け、一九八一年に劇場第一号となる「ザ・ハニワリ」をオープンさせると、下北沢の演劇文化は一躍日の目を見る。翌年にも豊田は自身の姓を付した「豊田劇場」を開設し、本格的に劇場の街、下北沢を周知させた。


高齢によって感傷的になり、会議室に立ち込める煙草の煙を嗅ぎながら、豊田は昔を思い懐かしむように瞑目した。


目先の醜い領地抗争が、八方塞がりの状況を迎えたこの頃である。


「夢破れても再起を願う。それが月菱会の戒律だ」


既に小田原線の地下化が進み、旧路線付近には工事の生々しさを象徴する幾つかの重機が頓挫している。駅周辺の狭い路地は一部通行止めとなり、着工前に比べて通行量の目減りが際立ってきていると感じる。


「ワシらが神戸からこっちに移って半世紀近く、盃交わして運命共同体として長くやってきた仲じゃねえか。どこのシマとか言わんで仲良くやろうじゃねえか」


ジワリジワリと着実に近付く下北沢終焉の足音。それを最も身近で感じながら、商店街理事達は対応に頭を悩ませ続けた。

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