1章-2
惨劇の発端は、下北沢を巡る複雑な権力分布にあった。
住民説明会の主催は施主の多摩急電鉄とディベロッパーの安徳不動産、そして自治体を管轄する区長の林田である。
規模に関わらず土地開発を行う際はこういった住民説明の場を設けるのが施主の義務であるが、大抵、開発サイドと地権者の意見が合わず対立するのが関の山である。
特に今回の開発においては複雑な構図が背景にあり、一体どこまでの意見を線引きして良いか主催者は判断にあぐねていた。
「休日ともいう中、貴重な場所とお時間を御頂戴頂き、誠に感謝申し上げます」
多摩急建設複々線化事業部の城山は月並みの言葉を並べると、仰々しい挨拶から始めた。
用地取得は住民の同意を得ながら幾多のプロセスを経て行われる。
住民説明会に始まり、地価の査定、物件調査、物件補償額の算定と段階的に進み、その後、住民と企業グループ及び自治体の合意のもと契約が締結され、具体的な土地引渡しといった段取りが行われる。その後、住民が土地を引き渡すと、晴れて着工の準備と取り掛かるわけである。
今回の下北沢駅前再開発においては、最初の用地説明の段階から、住民のみならず同地区の愛好者からの反発も根強く、マスコミによる風説被害などもあり、その度に施工グループは対応に四苦八苦し、当初の予定に対し大幅な遅れを取っていた。
「前置きはいい。いったい自治体はどういうつもりなんだね。あんた達がつくった駅舎のどこに、我々住民の意見が取り入れられているというんだい」
質疑応答より先に異議を申し立てたのは清野正と名乗る初老の男性であった。
清野は下北沢で二十年以上にわたって飲食店を営むオーナー兼地権者である。
「我々が作り上げた街の景観を壊す気かい」
清野が引き合いに出したのは、説明会の直前に多摩急によって発表された新駅舎のイメージ図であった。ガラス張りの駅舎は従来の下北沢駅とは全く異なるものであり、住民の期待を大きく裏切る結果となった。
「都市と自然の共生」と謳われた開発テーマも、字面ばかりで内容が伴わず、実態は景観破壊に繋がると清野は主張した。
「一体、どうなってるんだい」清野の一声に感化された他の参加者も野次を飛ばし、住民会合は収集の付かない事態に陥った。必死に制止する城山だが、議論は一向に前進しないまま最初の休憩を迎えた。
「予想以上に難しい状況ですね」
城山は同席していた依田に小声で耳打ちした。
区民会館の三階ホールには荒々しい剣幕の地権者が腰を据えていた。各々で非難囂々の言葉が飛び交う。このような状況で、住民から一定の合意を得るには困難を極めると思えた。
依田は胸ポケットからショートホープを取り出すと、軽く指で挟み火を点けた。
その後、両鼻から勢いよく紫煙が流れ出る。緊迫した状況で、呼吸も荒くなっているようだ。
依田は俯いた顔を上げると、住民のいる方向を眺めて首を拉げた。
「おかしいな」
依田の言葉に、解せない様子で城山は応えを煽った。
「おかしいって、何が」
「理事の姿がない」
「理事?」
依田は安徳不動産で土地開発事業部部長を務める男である。中背の企業人風貌であるが、緻密な性格で知られる。大規模プロジェクトを総括する責任ある立場におり、大きなストレス下にいた。
依田は短く燃え尽きた煙草を灰缶に強く押し付けると、説明を続けた。
「そうだ。確かにさっきの清野という老体も店の保有者だが、規模はそれほどデカかねえ。それより、界隈の土地を牛耳ってる理事の姿がねえってのは不思議だ」
依田は事前に自治体から得た膨大な住居録を元に、周辺の土地について所有者の情報を大方把握していた。土地の査定にあたって所有権を明確化する必要があり、依田はこれまでの土地開発の経験から情報収集の重要さを既知していた。
依田によると、下北沢には広大な土地を所有する数人の名士が存在する。その内の一人が商店街理事を勤める傍ら土建業を営む東田という男で、多くの住民や愛好者を引導して反対運動を繰り返しているのだという。
「東田はフィクサーだ。自ら公の場に姿を見せることはねぇ。大抵は手下を操って妨害行為を行ってくる。今日も誰かしら舎弟を送り込んでくると予想していたが、それらしき人物はいねぇな」
会場に集まったのは五十代から七十代までの男性が大半を占める。
多くがこの地に私有地を所有しており、かねてから立ち退きを抵抗していた一派である。清野もその内の一人だった。
後半の部まで残り五分を切っている。城山は時計を気にする素振りを見せた。
「依田さんは、その東田って男の手下の顔を把握しているということですか」
依田は会場にいる八十名程の参加者を見渡すと、再び城山の方を見て言った。
「いや、さすがにそれはない。しかし風貌を見れば一目瞭然だ。明らかにその筋の輩ばかりなんでね」
昼が明け、一時から始まった説明会は五十分の説明の後、休憩を挟み再開される。内容は前半が開発構想について、後半は具体的な用地調査の説明である。
後半に進むに従って立退きに関わる具体的な事務説明へと移るため、住民も緊張感を持って聴講に臨んでいた。
「では、定刻になりましたので、後半の部を始めさせて頂きたいと思います」
城山が再び先陣を切リ出すと、賑やかだった会場が一変して静まり返った。物件調査から引き渡しまでの具体的な日取りが記載された資料が係員から配布されると、参加者は括目して文字を追った。前半の討論とは違って具体性を増した内容により、住民は再開発が目先に迫った現実であることを実感する。
「用地説明に続いて、自治体による測量と物件調査、契約の締結、実際の引き渡しまでは二年を予定しております。その間に代替地や補償額の詳細について説明を続けます」
下北沢駅周辺の地価が提示されると指を弾いて目算する者の姿もあった。着工は目前まで来ている。住民に焦りと緊張が走った。
――その瞬間は突如として訪れた。依田の予想に反して異様に落ち着き払った説明会の様相を一瞬にして陰惨な光景へと陥れたのは、常識を逸する存在だった。
後半の部が始まって十分程経った頃だろうか、突然、轟音を立てながら会場の扉が蹴り開かれた。
「さっきから聞いてりゃ好き放題抜かしやがって」
静寂な会場に響き渡る怒声は参加者の耳に届き、一同は忽ちその方向に目をやった。
目線の先にはダークスーツ姿の男性が約十名いた。殺伐とした目差しが印象を与える。さらにその中心には、一際存在感を放つ和装の男が見える。
「ガタガタ抜かしてると洗い浚いマスコミにバラすぞ」
男は声を荒げると、施工者の方へと歩み寄って来た。
途端、城山の表情が硬直する。そこにいたのは紛れもない、これまで影で反対運動を操ってきた東田の姿であった。
東田尚毅――。
下北沢に複数ある商店街の中でも、駅東側の「東会」理事を勤める男だ。
かつて農村地帯であった下北沢に現在のような住宅が造られたのは鉄道が開通した直後の話。
兵庫県に本店を構えていた月菱建設が関東に進出したのもこの頃だ。建設業を鎬に持つ暴力団「月菱会」は、ここ北沢界隈のインフラ建設の大部分を施工した。
その後、本店を北沢に移し本格的に土建業として建設請負を行った他、戦後闇市時代は隣町から物資を配給し、北沢代田地区での幅を広げた。
今の下北沢の根幹は月菱建設が造り上げたと言っても過言でない。
東田は、その月菱建設で三代目取締役を務める。
加えて月菱会を率い、組一番の武闘派として名を馳せている。
東田は、月菱建設、そして東会理事の二足の草鞋を履く性分として、駅前開発を強く非難した。
「ワシらのシマに何をしてくれるんや。相手が自治体だろうが国だろうが関係ないんじゃ。ワシらは半世紀以上この界隈に居住し続けてきた。何も分からん若僧にワシの土地を奪ってもらっちゃ困るんじゃ」
東田は会社経営者でありながら北沢に多くの土地を所有する地権者でもある。東田自身の自宅に加え、月菱建設本店、さらに貸店舗と賃貸マンションを複数所有する地元の名士として知られていた。
「しかし、本件は既に計画道路を含め都議会でも決定した事項でございまして」
東田の剣幕に施工グループ一同は怖気づいて声を潜めた。
さらに表情を強張らせた東田は、唾を飛ばしながら続けた。
「戯けたことを抜かしよって」
短く刈った頭髪に鋭い眼光は、明らかにその筋らしい風貌だ。これまで数多くの土地開発を行ってきた城山にとっても、経験したことのない殺気である。
「都でも国でも関係ないと言うておるじゃろうが。ほんならこの場所に都知事連れてきて頭の一つ下げさせろ。貴様みたいな若僧の話聞いて、納得するとでも思っとんのか、ワレ。黙ってシマ引き渡すほどワシらの仁義は甘くないんじゃ」
東田が再開発に反対する一つの理由として、東会商店街に下北沢の成長を支えてきた多くの劇場があることを挙げた。特にこの地で劇場文化の橋架となった豊田劇場も駅前開発の対象地となっている。多摩急の要請には、この豊田劇場の立ち退きも含まれていた。
「百歩譲って、東会の土地を譲るのは構わんとして、しかし劇場の取り壊しだけは何が何でも許すわけにはいかねえ。豊田劇場はあんたらが産声を上げるもっと前からこの地で生業しとったんじゃ。それが何の仁義もなく取り壊しの対象じゃあ、戯言抜かすのもええ加減にせいっちゅうんじゃい」
東田は目の前のテーブルを蹴り飛ばした。瞬間、大きな物音を上げ、会場が静まり返る。
「戯け、命乞いするのもこれまでやぞ」
捨て台詞を吐き、東田は組員を連れ会場を後にした。
残る住民の目も、開発関係者に鋭い視線を送り続ける。
住民説明会では、議論が平行線を辿るどころか、住民と企業の間に大きな亀裂を残したまま幕を閉じた。