四話 アキ
「アキ」
「ああ、君か。何か用?」
「貴方のこと調べました」
アキの目がわずかに見開かれた。感情を読ませない顔で彼は私を見ている。
「あなた殺されたの?」
乾ききった喉から枯れた声が絞り出された。アキは、微動だにしない。
わずかな沈黙の後、アキは顔を上げた。
「・・・遠慮も何もない問いかけだね」
まただ。またこの顔だ。
なんと寂しい顔をするのだろう、この人は。
「殺されたってのはどういう意味かな。病気?天災?それとも・・・」
大きく息を飲み込む音が響いた。
「人間に?」
その瞳には何も映っていない。揺れはするけれど、まるで水面のように全ての現象が歪められ、はっきりとした形が捕らえられなかった。まるで彼自身が自分の感情を掴みあぐねているように。
だから彼の助けとなるかも知れないと、私は自らの知りうる彼の全てを告げた。
「あなたが亡くなったのは十七年前、三歳の時のこと。・・・あなたの死因は看護師の医療ミスによる多機能不全」
彼の死は紛れもなく殺人だった。事故であったとしてもそこに被害者と加害者の存在する、立派な殺人だった。
「でも、その事実を病院側は隠蔽し、あなたの死は世間的には先天的な病気が悪化したということになっている」
ここからは彼の知らないこと。彼が現世を去った後に起きた辛い現実。
「あなたのご両親は真実を求めた。でも、その声は何処にも届かなかった」
それが哀しい事実。でも、彼の両親はいつまでも彼のことを思い続けていた。
「あなたの罪は親より先に死んだこと。それだけ。でも、もうそれは赦されている。あなたのご両親の祈りが強かったから」
アキが亡くなった後も、両親の彼に対する愛情は薄まることはなかった。いつまでも彼のことを想い、死の先で彼が少しでも幸せであるように願った。
そんな両親の気持ちを受け止めたアキは、それでも頭を振った。
「今更そんなこと知ったって意味無いよ。彼らが生きているのは現在で、僕が此処にいるのも現在なんだ」
アキは川岸にいる限り決して幸せにはなれない。彼の両親の祈りは叶わないのだ。それでも彼は今この場所で生前叶わなかった思いを果たそうとしている。
「十七年前に消えた僕を、どれくらいの人が覚えているだろう?」
彼の消えた現世。そこに彼を覚えている者はもう、きっと両手で足りる程だ。彼の死の原因を作った人間も、きっと彼のことを忘れ、幸せな今を生きている。
でも、彼は変われない。此処で待つことだけが彼に出来ることであり、そのためには変わることは赦されない。
「もう、十七年も経つんだよ。僕が死んでから。そして、僕が待ち人になってから」
十七年の孤独に晒され、彼はこれからも孤独の中を過ごしていく。それは永遠にも等しく感じられる時間で、終わりの見えない長い長い道だ。
「流石にここでずっと待っているのは退屈かな。何もすることがないし」
誰とも話すことが出来ない。仲間が出来てもすぐに彼らはあきらめ、川を渡っていく。できることと言えば空を見上げて物思いにふけるだけ。
「そこで石を積んで親の供養・・・っていっても両親は今も健在だし」
彼に科せられた罪はただ一つ。親に先立ったこと。赦されたはずのその罪は未だに別の形となって彼に襲いかかっている。
「まあたまに君みたいな人が話しかけてくれるのが救いだけど、それもそう長くは続かない」
二度目に彼を訪ねた日、あれほど彼が嬉しそうにしていた理由が分かった。彼があれほど過去に固執していた理由が、分かった。
「僕の人生は後悔ばっかりだった。何一つやりたいことが出来なかった。」
この悔しさが君には分かるかい?そう彼の目は訴えていた。
彼は今も、その生前の後悔をはらすことが出来ていない。彼は今も、何一つ自由に好きなことをすることが出来ないで居る。
「あなたは、誰を待ってるの?」
それは冥界の主すら知らなかったこと。彼が自分の全てを犠牲にしてまでも待ち続けている人は誰なのだろうか。
「家族。いや、厳密には兄弟かな」
「ご兄弟?」
「そう。僕には兄と妹と弟が居たんだ。まあ、僕のことを覚えているのは兄くらいだろうけど。弟なんて僕が死んだ後に生まれたみたいだし」
アキの生まれ変わりだと、両親はそう言ってアキを失った隙間を埋めようとしていた。本物のアキはここでずっと待っていたのに。
「本当は僕だってよく覚えてない。でも分かるよ。家族だから」
忘れてしまったのは家族だけではない。彼自身も長い時間の中に色んなものを忘れてきた。その全てを拾い集めることは出来なくても、再び手に入れることはできるのではないだろうか。
「名前を呼ばれても返事が出来なかった。手を握られても握り返せなかった。生まれたばかりの妹に触れられなかった。『兄さん』って呼びたかった。大きくなっていく母さんのお腹に触れて、生まれくる命につける名前を一緒に考えたかった」
できなかったこと全てが悔やまれる。だからせめて死んだ後くらい、何か一つでいいから叶えたかった。あふれ出てくる願いの一つくらい、手の中に入れておきたかった。
「でも・・・でも例え、ここで会うことが出来ても、貴方の待っている人は、貴方と共に天界へは行けない。人は誰しも罪を犯している。その人生が長ければ長いほど、罪は重くなる。それをあなたは分かっているのでしょう?」
天界へ行けるのは全ての罪を赦された者だけ。だが、人が一生で負う罪は重い。それこそ人生の何倍もの時間を贖罪のために冥界で過ごすのだ。
「それでもいい」
アキはきっぱりと言い放った。
「それでも僕は待つよ。僕の今の夢は兄弟に会って、おせーよって言ってやる。そしてみんなで同じ舟に乗ってこの川を渡り、誓うんだ。もう家族じゃないけど、再び生まれたら、そこでまた会おうって」
それこそが彼をここに縫い止め続けている希望だった。
「その川を渡ってしまったら、前世の縁は全て切れてしまう。だからせめて、一度で良いから四人で居たい。僕はその願いの為だけにここでずっと待っている。」
もう十七年も経ってしまった。しかし、人の一生は長い。十七年なんてほんの四分の一ほどでしかない。彼は更に長い時間をここで再び待たなくてはいけない。
「この十七年、何人もの人がここで僕と一緒に誰かを待った。でもみんな、待ちきれずに痺れを切らして向こうに行ってしまった」
だから、私たち御使いが待ち人に会うことは滅多に無かったのだ。ほとんどの待ち人が一年と経たず、あきらめて投げ出してしまうから。
「最後はみんなこう言うんだ。『待つことに疲れた』って」
彼は、そんな言葉をどんな思いで聞いたのだろうか。
「停滞し続けることは人にとって苦痛でしかない。変わらずにいることは何よりも難しい」
それを成し遂げてきた彼は、何を今、思っているのだろうか。
「だからこれが代償。待ち人で居るための代償」
ふと思った。待ち人と御使いはよく似ていて、そしてとても遠い存在なのかも知れないと。どちらも、終わりがないという永遠の苦しみの中を過ごしている。しかし、私たちは決して相容れない。
「どんなに苦しくても、あなたは待つのですね」
相容れなくても良い。ただ、ほんの少しだけでいいから分かり合いたいと思った。
次はいつ彼に会いに行こうか。そんなことを考えていたとき、不意に誰かから呼び止められたような気がした。
「主・・・」
振り返るとそこには、あの人同じように厳しい顔をした主が立っていた。その纏う雰囲気に肩が竦む。
「止めなさい、あの者のためにも。これ以上関わっても互いにとって良いことはありません」
「あの者ってアキのことですか?」
主はただ静かに頷いた。
「あの者の十七年を無駄にしないためにも、もう二度と近づいてはいけません」
それは彼と私の別れの時を告げていた。