一話 出会い
人は死ぬと川を渡る。
たとえどんな未練があろうと、人はその川を渡り、現世との繋がりを断たなくてはいけない。
しかし、中には川を渡ることを断固として拒む者もいた。それらの者たちは“残留者”と呼ばれ、冥界の主をいつも悩ませている。
もっとも、そのような輩は冥界の運営に影響を及ぼしかねないため、すぐに退却させられるのが関の山だ。その誘導の役目を負わされているのが、私たち“御使い”たちだった。
「ったく。何で私たちがこんなことをしなくちゃいけないの?!」
盛大に文句を吐き捨てる。どうせ川の上だ。多少大きな声で言ったところで誰にも聞こえはしないだろう。
「主の命令」
唯一その例外である隣の相棒が正論を呟いた。
「それは分かっているけど・・・。こんな雑用、下仕えにさせれば良いじゃない。どうして私たちが」
「下仕えは川を渡れない」
またもや正論だ。死者の世界である冥界と生者の世界である下界。その二つの間にあるこの川を、冥界から下界に向かって渡れるのはゆるされた者だけ。
私たち御使いは、その限られた存在の一つである。
「でも、私たちの本当の仕事は死者を追い立てることじゃない。私たちは常に主のお側に居て、その補佐をすることが役目の筈なのに」
「死者が川岸に居座ったらそれこそ邪魔。早く終わらせて帰れば問題ない。ほら、もう着く」
少しずつ水深が浅くなっていくのが分かる。舟底が川の底に着くその直前に、舟はゆっくりと動きを止めた。
「ほら仕事。行こう」
先に降りた相棒の手を取り、素のままの足を川に下ろした。
「結構な死者の数ね」
川岸には舟を待つ死者が多く集まっていた。下界ではここで罪の重さを量られ、その重さによって待遇が変わる。などという伝承があるらしいが、実際のところ、ここはただ渡るだけだ。
この川は現世と死者の間にある縁を切るためにある。
それは、死者が何者にも囚われることなく自らの罪を受け入れ、来世へと進むためのものなのだ。
「まあ、自分の死を認めたくないというのは分からなくもないけど。でもそうなら余計早く転生すればいいのに」
でもきっとどの死者もそれを理解している。その上で川を渡ることを拒んでいるのだ。彼らには、彼らを引き留めようとする“縁”があるから。
「さ、仕事仕事」
舟を待つ列から離れた場所、何人もの死者が地べたに座り込み屯していた。
「いやよっ!私はまだ死んでない!」
「いいえ。あなたはもう死んでいます」
若い女の死者だった。座り込んだまま、腕を引いても頑として動かない。
「川さえ渡らなかったら戻れるはずよ!」
「無理です。現世にはもう貴女の身体は残っていない。潔く受け入れなさい」
もうこの女性の身体は焼かれ、骨になっている。今更戻ったところで浮遊霊になるのがおちだ。
「さあ、早く行きますよ」
もう一度女性の手を大きく引いたときのことだった。
「大変そうだね」
遠くから男性の声が聞こえた。
「誰?」
声の方向を見遣ると、少し離れた柳の木の上に人影を見つけた。
「あんな所に・・・」
あんな所にも残留者がいるなんで。私は急いで周囲の死者をおいやると、その気の元へ急いだ。
「あの」
「何?」
木の上にいた男は少し億劫そうに私を見遣った。
「私は冥界の主よりも遣わされた御使い」
「そんなの見れば分かる」
「・・・ならば私がここにいる理由も分かるでしょう?」
なんだろう。この神経を逆撫でするような男の言動は。
「さあ?心当たり無いね」
「分からないのなら言いましょう。今すぐ川を渡りなさい」
語気を強め、私は命令した。しかし、男はその場から微動だにしようとしなかった。
「嫌だね」
意地悪そうな笑みを浮かべた顔が私を見下ろしていた。
なんと整った顔立ちだろうか。年の頃は二十代くらいだろう。ひどく色白な肌と端正な顔立ちとが相まって儚げな雰囲気を醸し出している。美しい青年だった。
「貴方に拒否権はない。早く降りて川を渡るのです」
「僕は別に良いよ」
青年は眠たげにそう言うと、再び空を見上げた。
「別にいいやって、そういう問題ではなく」
「僕のことは放っておいて」
「放っ!?」
怒りでも嘆願でも嘆きでもない。ちょっとしたお誘いを断るような口調。その想定外の言動に私は口を開閉するしかできない。
「あなた死者でしょう?死者は皆この川を渡るの。例外はない」
「あるよ。僕が例外だ」
何が言いたいのか分からない。残留者は、いいや死者はすべて川を渡る。それこそが人の性、誰しもが抗えない自然の摂理なのだ。
「例外なんてあり得ません。今すぐそこから降りるのです」
強制的に引きずり下ろしてやろうか。断固として動こうとしない青年に痺れを切らし、強制連行しようとしたとき、後から相棒の声が聞こえた。
「何してる?」
気配なく近づいてきた相棒に止まっているはずの心臓が動いた気がした。このあどけない少女のような片割れは口数が少なく、そこらの幽霊よりも幽霊らしい。
「びっくりした。そうだ、あの男を下ろすの手伝ってよ」
「あの男?」
ぐいと顎で示す。
「・・・あれは放っておいていい。帰ろう」
「放っておいていいってどういうこと?」
「あれは例外」
再び告げられた『例外』という言葉。私が頭を混乱させていると、気付けば木の上にいたはずの青年が隣に立っていた。
「そういうこと。お勤めご苦労様です」
むかつくほど爽やかな笑顔がそこにあった。美形であるのが余計に腹立たしい。
そのとき、反対側にいた相棒が袖を引いた。そして青年を一瞥し、一言だけ呟いた。
「頑張ってください。応援はしないけど」
矛盾した言葉を吐き捨てるように残し、「先に行ってる」と一人で舟へと戻っていく。あの言葉はどういう意味だろう。
「貴方何者です?」
私の糾弾するような視線に青年は「おお怖っ」と一歩後ずさった。
「ただの死者だけど」
「本当に?」
「本当」
ただ、と青年は小さく付け加えた。
「ここで人をずっと待ってるだけ」
それは、寂しげな声だった。孤独を知り尽くした声だった。このような死者は初めてだ。私はそのとき“ある存在”を思いだした。
「もしかしてあなた・・・待ち人なの?」
その言葉を聞いたとき、彼の瞳は大きく揺らぎ、また悲しげに歪んだ。そして彼は一言だけ絞り出すように言った。
「・・・そうだよ」
それが彼と私の出会いだった。