The Pool
透明な淀に、泡が立つ。静まり返っていた水面に、慌ただしく波紋が広がっていく。
私は川底に立って、その様子を眺めていた。呆然と口を開けた私の隣で、いつの間にか側に立っていたお母さんが呟くーーーほら、マイ。今年も来たわ。
言葉の意図を尋ねようと口を開きかけ、そこで私は息を飲んだ。
差し込む夏の陽射しの中、一人の少女が私たちのいる水の底に落ちてきた。華奢な白い体は透明な光の中、重力に引かれて、ゆっくりと近づいてくる。黒い髪は上質な絹のように、波にもまれ、光に揺れる。
生け贄。お母さんの独り言が、音の霞む水の中を走っていった。
私はもう一度、死にゆく少女の姿を瞳に映す。
その顔は苦しげで、それなのにどこか幸せそうで、そして目を疑うほど私によく似ていた。
瞳を開けると、岩の天井が見えた。
夢から覚めたことに気づき、重い体をなんとか起こす。私は寝床の隅に生えた水草をちぎり、一度延びをした。
夏の生温い水の、皮膚に絡みつく感覚。いつもと変わらない、一日の始まりだった。
なんで、大昔のことを今更、夢になど見たんだろう。
ふと浮かんだそんな疑問は、採れたての水草への食欲にかき消される。
さあ、朝食にするとしようか。
身支度もそこそこに、左手の緑の葉を口に押し込んで咀嚼する。青臭い風味が、嫌でも朝の到来を感じさせる。
一度深呼吸をした。川底の水は、退屈そうに輝いた。
住処にしている洞穴を出ると、夏の陽射しが水中の埃滓を美しく照らしていた。遠くの方には、投げ捨てられた瓶が浮かぶ。
滝壺から少し離れた深い淀に、私の住処はある。切り立った岩盤に開いた無数の洞穴は住むには十分広
く、私たちはそこを住居として使っている。
私の部屋は、底からわりかし高い位置にある洞穴だった。
ゆっくりと苔の生えた水底に足をつける、そのとき背後から声をかけられた。
「マイ、随分と遅い朝だったわね」
「・・・母さんには関係ない。それに、まだ昼にはなってないし」
振り向くと、そこには中年の女性が立っていた。
母はすっかり癖となった溜息を、静かに吐き出した。苦悩は泡になって水面に消えることはなく、ただ水に溶けて漂った。
「貴方が家を飛び出して一ヶ月になるわ。一人暮らしだなんて・・・貴方はまだ十五歳なのに」
「そんなことを言いに、わざわざ上流にやってきたの?」
母は口答えした私を、叱るような目で睨む。
「貴方が心配で、ここまで来たのよ?」
「お節介だよ。ちゃんと一人前に働けてるし、生活には困ってない」
私が言い返すと、母は眉をひそめる。
「働けてるって、まさか・・・」
「そろそろ仕事だわ、じゃあね」
背を向けて、歩き出す。心の中の苛立ちを踏みつぶすように。
「待って、あんなのまともな仕事じゃないわ!」
私はその言葉を無視して仕事場へと足を進めた。
背中で、もう一度溜息が聞こえたような気がしたので、私は独りごちる。
「そんなの、私が一番よくわかってるって・・・」
仕事場は、酷く静かだった。
私はごつごつした石の床に仰向けに寝ころんだ。
けして仕事をサボっているわけではない、とは言い切れない。
だが、勘弁してほしい。なんせ、獲物が来るのは極めて稀なことなのだから。
見上げる水面は澄んでいて、今朝の夢の中の景色を連想させた。小魚が踊るのをなんとなしに眺めながら、私は先程食欲に負けた疑問に再び頭を傾ける。
もう、十年近く前の話。幼い私は迷子になった。
生まれついて人付き合いの上手くなかった私は、独りで遊んでいる途中、道に迷ってしまった。見知らぬ岩の中を、何の手掛かりもなく進むうち、どうやら私は上流の方まで来てしまったらしい。
そして、ちょうどこの場所。今仕事場として寝ころんでいるこの場所に、私はたどり着いたのだった。
この場所は、余りにも綺麗すぎた。水は透き通り、光は跳ね回る。
小さかった私は、一瞬でこの場所の虜になった。時間を忘れるほど立ち尽くし、辺りを見渡した。
そして、その呆然とする私の目の前に、少女は飛び込んできたのだった。
彼女は、当時の私よりも大きかった。おそらく、今の私と同じくらいの年だっただろう。そして、その外見は、今の私と瓜二つだったように思える・・・
今思えば、何という偶然だろう。下流の迷子の子供が、このような辺鄙な場所に迷い込むなんて。
ここは、地上の人間が森へと生け贄を捧げる、神聖な儀式の場だったのだ。
鳴り出した自分の腹の音で、私ははっと我に返った。気が付けば、もう太陽は南に昇っている。
休憩しようと思った。
生憎、この仕事に交代制などは敷かれていないが、おそらく昼食を取って帰ってこれるくらいには暇がある。そもそも、私の仕事など気休め程度のものなのだから、第一私がいない間に何か起きても、私が攻められることはまず無いだろう。
水底に立ち上がる。神聖な場所では、食事をすることは禁じられている。なので私は目の前で泳ぐ小魚たちを、ただ見逃すしかなかった。
憎たらしい。手に入らないと知った途端美味しそうに見えるのは、私の欲深さなのだろうか。
回れ右をして、来た道を戻ろうと足を上げた、その時だった。
上方、水面で、バシャバシャと水面を叩く音が聞こえた。
それは子供のように破茶滅茶なリズムだったが、それにしては妙に力強い旋律だった。
直感的に、獲物だとわかった。私は踵を返してその音源へと急ぐ。
濁りだす淡い水の中を突っ切り、太陽の見える方へ進む。
しばらく白光に向かって泳いでいると、少し離れたところに溺れかけている男がいた。
他に人影はない。自殺だろうか。少なくとも、事故や事件ではなさそうだ。私は、肩の筋肉をほぐすために、一度大きく肩を回す。
私の仕事は介錯だ。
運命や悲しみを背負って淀に飛び込んできたものを、楽に死なせてやるための介錯。汚れた、聖なる職だった。
私が頸に腕を回して絞めると、男は激しくもがいた。四肢が水を掻き、静寂をかき乱す。
ふりほどかれぬよう、更に力を込めた。男の口から零れた泡が宙へ上る。水中で息のできない男は、数秒の内に命を落とすだろう。私は、容赦のない容赦を続けた。
何かの拍子に、男と私の目が合った。
男の口が騒がしく動く。
その声は音にはならなかった。が、その唇は確かに告げていた。
「マイ、会いたかった」と。
私は、川の中から顔だけを出す形で、河原に座り込んだ男に、自分の正体を打ち明けた。
信じてもらえるとは思ってなかった。ただ、私は彼の思っている人物ではないことを、伝えなければならない気がした。
男の声は、いつも水の中で聞く人の声よりも、はっきりと輪郭を持って聞こえた。
「貴方は私の知っている麻衣ではないのですね」
頷くと、男は笑った。
私よりも十個ほど年上らしく見える。十年前死んだ少女が生きていれば、丁度これくらいの年齢だっただろう。
「そうですよね、あり得ないですもんね。麻衣が生きていて、僕を待ってくれてるなんて。いやぁ、それにしても麻衣に似てますよ、貴方は」
「あの、一ついいですか?」
思わず問いかける。男は優しく微笑んだ。
「なんです?」
「私の話を信じたんですか?」
はい、と男はきっぱり言う。
「なんで・・・麻衣さんが生き続けるっていうのと同じくらい、あり得ないことなのに」
やはり優しく、男は笑う。涙を誘うほどに、優しく。
「そりゃあ、生け贄を山に捧げるような村人ですからね。川底に人が住んでいようと、不思議には思いませんよ」
「じゃあ」
私の次の質問は、不意に頭に乗せられた男の掌に遮られた。
旋毛を伝って、悲しいほどの温かさが伝わってくる。私が殺してきた人間も、同じ温かさを持っていたのだろうか。そんなことが頭に浮かぶ。
「なんで麻衣のことだけは、信じられないのか、ですか?」
男の躊躇いのない言葉に、かえって言葉が詰まってしまう。
「簡単なことですよ。私は麻衣を生け贄に捧げてしまった。愛している人を裏切った。そんな人間を、誰が待つんですか?」
痛かった。
この一ヶ月で何度も人を死なせてきた心でも、それでも彼の話に痛みを感じた。
と、同時に、私はあることに気づいた。
「ただ、思うんです」
男は私の目を見つめ、言う。
「貴方に私の自殺を止めさせたのは、麻衣なんじゃないかって。こんなろくでもない私を、救ってくれたんじゃないかって」
男は立ち上がり、そして滝に背を向け山道の方を向く。
「貴方にも感謝してますよ。貴方のおかげで、壊れた心を少しは取り戻した気がします。では、これで」
「あの! 俊之さん!」
男が振り向く。名乗っていない本名を呼ばれたことに目を丸くして。
「私、麻衣さんから俊之さんへの伝言があるんです。」
それは、彼女が死ぬ直前、最後にこの世界に残した声にならない言葉。
そして、私をこの場所に縛り付けてやまなかった言葉。
ーーー俊之さん、私、わかってます。
今までありがとう。
男がいなくなった後、川はいつもの静寂に戻っていた。
その透き通る美しさは、水底の私に溜息をつかせるのには十分だった。
このページを開いてくれた貴方に、最大の感謝を込めて。