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Autumnal leaves

作者: 鈴村弥生

 最後に笑ったのは、いつだったろう。



 机周りの片付けを終えたのは、いつも通り夜中だった。時計を見る気にもならない。どうせ九時を過ぎている。

 今から早足で駅に向かって、間に合ったとしても一番早い電車は二四分発。ぎゅうぎゅうのすし詰め状態という苦行の果てに、降りる駅に着くのが三十分後。さらにアパートまで歩いて五分。風呂に入ったり着替えたり寝支度をしたら、何だかんだで十一時になる。

 休みまでが一番遠い月曜日、繁忙期の今はこんな生活が一週間続くと思うだけでうんざりする。

 貴子は重い足取りでオフィスを出た。鞄までがずっしりと腕に食い込む。エレベーターが四階から一階へ下りるまでの間、五回も溜息をついてしまった。幸せが逃げるというが、逃げるような幸せがいったい今の自分に残っているのだろうか。

 大不況のこの時代、食があるだけ幸せだと周囲は言う。だが、仕事があって幸せのはずの人間が毎週次々と自殺するのはなぜなのか。甘えているからか、だとしたら、心の病も所詮甘えか。

 価値観も何もかも違う人間同士の、幸せというものすら相対評価で測ろうとするのは間違っていると貴子は思う。

 いらいらしながら歩く道には、しかめ面をした人間ばかりが歩いている。恐らく、自分も同じ顔をしているのだろう。

 早く帰りたい。けれど帰ったところで、何をする時間もなく寝るだけだ。目が覚めたらまた仕事だから、気持ちはちっとも休まらない。睡眠は身体を癒やすためのものであるはずなのに、少しも疲れが取れた気がしない。

 こんなことがこの先ずっと続くのか、そう考えるだけで目の前が真っ暗になる。

 だからといって、他の選択肢など恐ろしくて手を出せない。

 溜息でもつかなければ、そんな気持ちが身体の中でどんどんたまってパンクしそうだ。

 貴子はまた、深く溜息を吐き出した。

 このまままっすぐ帰る気がしない。

 誰も待っていない真っ暗な部屋は、確かに彼女の城だけれども。

 ふと辺りを見回すと、飲み屋が多い界隈まで来ていた。あまり店で飲むことはないが、彼女は相当酒に強い。それに好きでもある。

 酔っ払った中年男の集団や、騒がしい若いOLのいないような店を探す。静かに呑みたいのだ。ほんの一、二杯でもいい。

 酔客がうろつく表通りから、一本奥へ入る。街灯は充分に設置されているのに、人の気配が少ないせいで急に暗くなったように思えた。

 そんな通りの入り口、古めかしい木の扉のこぢんまりした店の看板が貴子の目に留まった。

 『Autumnal leaves』

 流麗な飾り文字で、そう書かれていた。Autumnal leaves――紅葉。

 めずらしい名前が気に入って、貴子は扉を軽く軋ませ、中へ入った。

 薄暗いけれどいかがわしくない、しっとり落ち着いた空気が控えめな音楽と一緒に彼女を出迎えた。

「いらっしゃい」

 カウンターの中でシェイカーを振っていた初老の男性が、優しい声で短く言った。

 客はそう多くなかった。カウンター席に若い男性が一人、ボックス席はぽつぽつと埋まっているようだが、ソファーの背が高く照明も弱いのでよくわからなかった。

「どうぞこちらへ」

 マスターが、カウンターの中央の関を示す。少し迷ったが、貴子はそれに従った。

「最初の一杯はいかがいたしましょうか」

 綺麗に文字が印刷されたカードを取って、読む。カクテルだけではなく、サワーやチューハイ、ソフトドリンクもかなり豊富に揃っている。値段も手頃だった。

「そうね……」

何度か視線をその上で遊ばせて、目を止めたのは。

「じゃ、ハイボールお願いします」

 かしこまりましたと言って、マスターは手際よくグラスと氷、ウィスキーとソーダを捌き始めた。

 カクテルなんて、あまり飲まない。種類もよく知らない。酒は基本的に、酔えればいいと思っている。そんな貴子が唯一本当に好んでいると言えるのがハイボールだった。

 甘すぎずに辛すぎない、けれどしっかりと存在感がある。

 何とも表現しがたいその味が、彼女は好きだ。

「お待たせいたしました」

 氷を浮かべたグラスに、薄い琥珀色が満ちている。小さく礼を言って、貴子はゆっくりとそれを口に流し込む。

 甘くない。

 辛くも、ない。

 硬質で、本当に透明な。

 まろやかに味覚を満たして、身体の中に入ってくる。

「……おいしい」

 店で作ってもらったというだけで、こんなに違ってくるものなのだろうか。

 しみじみとグラスを揺らし、貴子は二口目を大切に迎え入れた。


     *


 貴子は週末まで、ほぼ毎日『Autumnal leaves』に通った。女の一人暮らし、服や化粧品に過剰に金をかける質ではないから、貯金も余裕がある。少し高級な酒を雰囲気のいい店で楽しむくらいは何でもない。

 不思議なもので、まっすぐ帰るより遅くなっているのは確かなのに、時計の針が深夜を指しても苛立つこともないし、次の日を考えて気が滅入ることもなかった。

 それどころか、十二時近くにベッドに入っても翌日の目覚めは爽快だった。

 あの店の酒はおいしい。特にハイボールは。

 けれど、たったそれだけのことでこうも変わるのだろうか。

 貴子が『Autumnal leaves』へ足を向けるのは、その謎を解くためでもあった。

「いらっしゃいませ」

 マスターが、いつもの穏やかな声で貴子を出迎える。彼女はいつも通り、カウンターに座った。

「ハイボールをお願いします」

「かしこまりました」

 本当は、こんな本格的な店でハイボールのような気軽な酒を頼むのは無粋なのだろう。けれど、一杯目はこれと何となく決めた。

 やはり、好きなのだ。

 甘くもなく、辛くもない、硬質にとろりと舌に馴染むあの味わいが。

 マスターが注文の品を作る音を聞きながらふと周囲を見回した貴子の目に、かなり離れたカウンター席の男が飛び込んできた。

 テーブルに突っ伏して、かなり酔っているようだ。くたびれたコートを羽織ったままの肩は、それとわかるほどぐんなりと力が入っていない。眠ってしまったのだろうか。

 顔が見えないので確かなことはわからないが、貴子と同い年か、少し上か。勤め人なのは間違いなさそうだ。

「お待たせいたしました」

 マスターの声ではっと我に返る。目の前に置かれたグラスに礼を言い、口をつけた。

 おいしい。

 今日も、来てよかった。

「昨夜は、電車のお時間は大丈夫でしたか?」

 だいぶ親しくなったマスターは、さりげなく尋ねてくる。帰り際に終電に間に合わないかもと騒いだのを気にしてくれていたのだと、嬉しくなった。

「ええ。ご心配おかけしました。ここからだとそれほど遠くなかったんですね。何とか乗れましたよ」

「それはよかった」

「今日は金曜日だし、もう少しゆっくりしてもいいかなぁ」

 忙しいとはいっても、週休二日は保証してくれる会社だ。明日が休みだと思うと、酒の味も格別に感じる。

 今週もよく頑張った。お疲れ様。

 心の中で言って、自分に乾杯しながら二口目を飲もうとして。

 乱暴な音が、せっかくのいい気持ちに皹を入れた。

「会計」

 あの男だった。目つきが完全に酔っ払いのそれだ。反射的に貴子は顔を背ける。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ち申し上げております」

 おつりと一緒に寄越されたマスターの丁寧な挨拶を、男は荒々しくむしり取って出て行った。

 相当飲んでいた様子だ。それも、いいことがあったときの飲み方ではない。

「お替わりをお作りしますか?」

 何事もなかったかのように、マスターは戻ってくる。口を開きかけたが、この人に言うべきことではないと思い直した。

「ええ、じゃあ……カカオ・フィズを」

 クレーム・ド・カカオとレモンジュース、ソーダ水と砂糖、レモンスライスをベースのリキュールと混ぜて作るカクテルだ。カカオとつくくらいだし、リキュールベースなのでやや甘い。けれどさっぱりした酸味のおかげで、口当たりがいい。

 今日のような夜にはぴったりだ。

 今週は総じて大きな失敗もなく、部署でのトラブルもなかった。忙しいだけで平和な週だったと言える。

 明日と明後日の休みは、何に使おうか。部屋の掃除などの家事もしなければならないが、のんびりと自分のために時間を使いたい。

「お待たせいたしました」

 グラスが置かれる。濃い茶色のカクテルに、鮮やかな黄色が浮かんでいる。

 改めて、貴子は心の中で乾杯した。


     *


 扉を開く音の大きさに、自分で驚いた。けれどそれで、やっと我に返る。

「いらっしゃいませ」

 マスターの声は、やはり少しも変わらなかった。貴子だけが取り乱して、どうしようもない気持ちでいる。

「ご注文は?」

 この二週間、最初の一杯はずっとハイボールだったのに、マスターは未だに初めの質問を変えない。律儀なのか、それとも。

「……いつもので」

「かしこまりました」

 わざとぼかした答えをしても、寄越されたのはちゃんとハイボール。覚えていないわけではないのだ。貴子の好みを。

 目の奥が熱くなって、零れた物が危うくグラスの中に落ちるところだった。

 今日はさんざんだった。何となく集中力がなくて、おまけにずっと以前に貴子が担当した仕事に不備があったことが今頃判明して、部署の全員で後始末に奔走した。誰も彼女を責めたり、陰口を言っているのを聞いたわけでもないが、それからずっと気持ちはどん底から持ち上がらない。

 もう務めて三年になるのに。

 最悪だ。あんなのは、初歩中の初歩のミスではないか。

 自分がそれほど仕事のできる人間でないのはわかっている。頭もよくない。だから、ミスが恐ろしい。

 同じミスを二度するのは社会人として失格だと、世間は言う。それはそうだろう。何度も同じ失敗をして、迷惑を被るのは周りだ。最悪会社の信用を落として、経営がうまくいかなくなるかもしれない。

 でも。

 ミスをしないように気をつけても、してしまうのだ。

 どんなに気をつけても、いつかは失敗する。

 今日のように。

 それが恐ろしい。

 怖くて怖くて、仕事をすること自体から逃げ出したくなる。

 自分は絶対また失敗する。今気をつけていても、将来絶対に何かをしでかす。

 そんな無音の囁きが、胸の中でぐるぐると渦を巻いて消えなくなるのだ。

 あまり思い詰めて眠れなくなり、以前一度カウンセリングを受けたこともある。責任感を持つのは大事だが、自分を責めすぎるのはよくないというようなことを言われた。

 でもそうしていなければ失敗を忘れて、また同じ事を繰り返すのではないか。

 貴子は、やはり怖さからは逃げられない。

 ハイボールをあっという間に飲み干して、強い酒を求めた。マンハッタン、ゴッド・ファーザー、いずれもウィスキーベースのアルコール度数三〇度を超えるカクテル。

 気持ちが落ち着いているときは、酔うためだけの飲み方はしないと決めているが、こんな日は酔わなければ立つことさえ難しい気がする。

 何を注文したか、いったいいくら費やしたのか、まったく考えなかった。

 けれどなぜか、何杯目かにまたハイボールを口にしたのだけは記憶に残っている。

 甘くもなく、辛くもないはずの酒が。

 なぜか、舌を刺すようだったことだけは。


     *


 その日は、木曜日だった。

 酒を飲ませる店では、週の中でこの曜日は客の入りを予想できないのだという噂がある。休みまでにあと一日ある木曜日は、遊ぶべきかまっすぐ帰るべきか確かに迷うところだ。

 貴子自身は躊躇うことなく、もう習慣になっている毎夜の寄港先へと足を向けた。

『Autumnal leaves』は、そう広い店ではない。貴子と同じ時間帯に来ている客も、だいたい見慣れた顔ぶれだ。

 カウンターの隅に座る男も、やはりそうだった。

 今日は機嫌がいいようだ。ゆっくりとグラスを傾けて、酒を味わっている。表情でわかる。

 あれは、ブルー・ムーンだろうか。ジンベースの、綺麗なすみれ色のカクテル。レモンジュースが入っていて、やや甘い。

 テーブルに頬杖をついて、貴子はぼんやり考え込んだ。

 繁忙期にもようやく区切りがついて、職場全体にほっとしたムードが流れていた。貴子もあんなに落ち込むような失敗をすることなく、何とかやっている。

 あの日から、二週間近く経っている。やっと二週間なのか、まだ二週間なのか。

 ふとした拍子に思い出して、落ち込みそうになることもある。

 でも。

「どうぞ」

 注文をわざわざ入れなくても、差し出されるハイボール。今日はレモンが一切れ浮いていた。マスターを見ると、「当店にお越しいただくようになって、一ヶ月目ですね」と返された。

 もう、そんなに経ったのか。

 休みの日以外は、毎晩ここへ寄っている。ウィークデーはいつも、この店のハイボールが供にあったのだ。

 甘すぎず、辛すぎず、何度飲んでもその味をうまく言葉にできない。

「ねえマスター」

 気づけば、貴子の口からほろりと言葉が零れていた。

「仕事は好きでもないし、嫌いでもないけど、手を抜いてるつもりはないんです。人間関係にも気を遣ってるし、ミスもしないように努力はしているつもり。でも、何か問題が起きたら、『自分は努力が足りないんじゃないか』って思っちゃうんです」

 もっと努力しろ。結果を出せ。効率よく。計画を立てて。成功しろ。

 ことあるごとに、どこかで誰かがそう主張する。

 大切なことには違いない。社会人として生きていく上で、重要な心構えには違いない。

 でも。

「どこまでやれば『努力した』になるのかなぁって、どんなに苦しい思いをして、必死にやったとしても、結果が出なければそれは無駄なのかなぁって、時々やりきれなくなるんです」

 テレビに出てくる大富豪、一流の起業家、偉い学者、そんなものにならなければ、『努力した』事にはならないのだろうか。

 本当に、そうなのだろうか。

「そういう偉い人にならなければ駄目だというなら、なれなかった人の人生は全部無駄なのかなって。私から見れば、家庭を作って子供を育てていることだって充分すごいことだと思うのに。自分一人を養って生きているのだって、毎日いろいろあって時には疲れて立てなくなるのに、それは『努力をしていない』『無駄なことだ』って言われているようで……生きることすらしたくなくなるんです」

 病気や戦争で、生きたいのに生きられない人にとっては、自殺なんて贅沢だ。我慢しろ。

 そんな論理がどれほど理不尽で一方的で傲慢なものか、つくづく貴子は実感する。

 人が抱える不幸も苦痛も、その人にしか感じられないもののはずだ。外から見ただけで勝手に判断して、辛さを相対評価しようという者はいったい何様のつもりなのか。

 たとえば、誰にも理解されず愛されることもなく巨大な富を築いた人間は、富故に幸福に違いないのか。孤独を理由に自ら命を絶ったとしても、それはわがままで片付けられるのか。

「ごめんなさいね。マスターにつまらない話をして」

 貴子は、何とか笑って見せた。せっかくの特別なハイボールが、このままではぬるくなってしまう。

「いただきます」

 グラスを、ゆっくりと傾ける。レモンの香りと酸味が混じった酒は、やはり言い表せない味わいだった。

 甘くもないし、辛くもない。少し酸っぱいけれど、不快ではない。

 でも間違いなく、おいしい。

 ほうと息を吐いて、グラスを置く。じっくり味わってみたいと思った。

 視線を感じたのは、そのときだった。

 カウンター席の端。いかにも慌てた様子で、あの男性が顔を背ける。

 あの席を自分の指定席と決めているらしく、いつも同じ場所に座っている。貴子もカウンター席を好んでいるから、彼がいればああまた来ているなとすぐに目につく。それは向こうも同じだろう。

 だがこんな風に、明らかに「見られている」と感じたのは初めてだった。

 そういえば以前、酔いつぶれていたことがあった。彼もやはり勤め人に違いないから、きっと職場でいやなことがあったのだ。

 あのときは、ここのカクテルをやけ酒にしてしまうなんてもったいない、と思ったものだけれど。

「マスター、お会計お願いします」

 グラスが空になるとすぐ、男は立ち上がった。金を払って、静かに出て行く。貴子に視線を投げかけることはもうなかった。

 何だったのだろう。

 けれどつまらないことを思い悩むより、目の前のグラスにすぐ気持ちが惹きつけられた。おいしいハイボール。甘すぎず辛すぎないこの味。

「人生のようだな、と思うんですよ」

 唐突にマスターの声が降ってきて、貴子は軽く目を瞠った。

「申し訳ありません、突然。私もハイボールが好きなので」

 いつもご注文くださって嬉しいのです、とマスターはにこやかに続けた。

「甘すぎず、辛すぎもしない。でも気分によって甘く感じたり辛いと思ったりするものです。人生と似ているな、と」

「……そうですね」

 人生。

 貴子の人生は、今まで特に不幸な出来事があったわけではない。かといって、死ぬまで忘れられないような劇的で幸せな体験もしたことがない。

 平穏な毎日が一番の幸福とはいうが、平穏であるはずの現実の日々は、一日を過ごすだけでぐったりと疲れるばかりだ。

 この店がなければ、もうきっと駄目になっていたのではないかと貴子は思う。不思議なことに、ここで過ごす数時間と酒の何杯かは、めまぐるしく流れていっているはずの時間をゆったりしたものに変えてくれる気がする。

 仕事をする一時間も、この店での一時間も、同じ長さのはずなのに。

 ハイボールは人生と似ている。確かにそうかもしれない。

 だったら貴子は、人生を愛しているのだろうか。この酒と同じように。

 そういえば、ここに来るようになってからだ。自分自身のことや、それこそ人生についてなどを考えるようになったのは。

「どうぞ」

 マスターが、グラスをテーブルに置いた。まだ注文していないのに、と思ったが、「ご愛顧のお礼をさせてください」と先に言われてしまう。サービスということらしい。

「キティです」

『子猫』の意味を持つこのカクテルは、赤ワインとジンジャーエールで作る。ワインの色が少しまろやかになり、ほどよい甘さが心地よい。

 一口、飲む。舌の上で弾ける炭酸がさっぱりして、ワインの辛さをジンジャーエールが邪魔をしない程度に和らげている。

 ハイボールが人生なら、キティは何だろう。

 甘いのに辛い。でもそれを哀しいとは思わない。

 ――恋、だろうか。

 そういえば、もうずいぶん長いこと、恋などした覚えがない。


     *


「あの」

 躊躇いがちの声に、貴子は顔を上げた。誰だろう。マスターではない。ずっと若い。

「……ハイボール、お好きなんですか?」

 声の主を突き止めて、思わず目が丸くなった。カウンター席の男が、硬い表情で貴子を見ていた。

 彼からの視線を感じた夜は、もう半月も前のことだった。それから何度も店で一緒になったが、一度も貴子を見向きもせずに、一人で飲んでは帰っていた。あれは勘違いだったのかと彼女も思い始めていたのに。

 よほど勇気をふりしぼったのだろうか。顔が引き攣っているのは、緊張のためらしい。その証拠に、手にしたグラスが細かく震えていた。

「ええ」

 見知っていても、深い知り合いではない。なのに警戒心は沸かず、頷いていた。

「すみません、突然……。いつもここでお会いして、気になって」

 グラスの中身が零れそうだ。そんなに固くならなくてもいいのに。どうせ酔った上での気安さで、あとでどうとでも言い訳できる。

 貴子は、男をつくづくと見つめた。

 一言でいえば、地味で冴えない。真面目ではあるのだろうが、要領の悪いタイプのような気がする。喩え酒が入っていたとしても、軽い気持ちで女をナンパするような性格には思えない。

 彼がひどく酔って、荒々しく店を出て行った夜を思い出す。よほどのことがあったのだろう、つらいことが。

 苦しかったり、つらかったり、それを忘れさせる楽しいことがあったり。貴子だってそうだ。今日までいろいろあったし、今日もたくさんのことがあった。

 彼のグラスに、ふと目が留まる。さっき彼の声がサイド・カーを注文していた気がするから、きっとそれだ。ジンベースのやや甘い、琥珀色の美しいカクテル。

 ――寂しいときに飲みたくなる。

 自然に、貴子の頬は綻んでほどけた。

「よろしければどうぞ、お隣に」

 こんなにさらりと、自分がこんなことを口にできるなんて。

 酒のせいだ。そうに違いない。

 おずおずと男が席を移すのを横目に、ハイボールを傾ける。

 おや、と思った。

 いつもは甘過ぎないし辛すぎもしなかったはずの、味が。

 なぜだろう、少しだけ変わった気がした。

「ええと……じゃあ、とりあえず自己紹介でも」

 しきりに額の汗を拭いながら、男はひどくまずい切り出し方をする。うわずった声で名のるのに応えてから、貴子は自分のグラスを男のそれとかちんと合わせた。



 最近こういう感じでもやもやしていたので、去年の実体験をおしゃれにしてみました。実際はコンビニでニッ○のハイボールとおつまみ買って家で飲んでました。ニ○カはおいしいですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして(・∀・)♪ 読ませていただきました* とても面白かったです\(^O^)/ これからも頑張ってください(*^-^*)
2012/09/29 11:25 退会済み
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