5.世界
額にマシュマロのような柔らかな感覚を感じた。その感覚が皮膚の神経を通り、脊髄を通って脳に行ったとき思考が止まった。すぐに恐怖が消え、意識が何処かに引きずられていくような気がした。
もうわたしの頭は動いてない。だからここからはわたしの思念体、自分でもよくわからないのだが、魂の様なものが考えたと言ったら聞こえは可笑しいけれど一番伝わりやすい表現はそれだと思う。
魂のようなそれが今考えること、それはあの恐怖体験で一つ学んだことである。
意固地になることは良いことではないということ。
芯があるのはいいが、たまには柔軟な頭も必要だ。生きていく為に。
あの一件があって奴の言った通りにここは異世界なんだと思える。
確かにあの硬貨はわたしが見たことのない種類だった。それにあのショッキングピンクの蛙だって、異形だった。そもそも海外だなんて……。日本語の話せる街なんて日本以外にそうそう無い。よく考えてみれば、文字だってちぐはぐで……わたしは本当に認めたくないだけだった。わたしはずっと奴に甘えていたのだ。
「わかったなら、バトンタッチだね。」
いきなり知らない男の子の声がした。それは頭(今は魂だが)の中に直接響くような声で、外部からの声とは思えなかった。
「……え」
「あっ!弥唖ちゃん気付いたんだね!!」
男の子の声に返事しようと声を出すと奴の声が聞こえた。
ふと思うと今は目も見えるし、耳も聴こえる。あの強い力は何処にもなく、わたしの重い瞼がぱっちり開いた様だった。
ずっと目を閉じさせられていたせいか、見えるものが白い靄がかかってみえる。
奴の白い顔もぼやけて明るく見えた。
「弥唖ちゃんが気を失ってから、必死に目眩ましして次の町まできたんだよ」
漸く目が慣れて少し遠い奴の顔がはっきり見えた。目元が緩み、口許も緩みきってだらしない顔だ。しかしこいつは次の、この町まで運んで来てくれたのだと言う。
わたしは「ありがと」と早口で呟いた。奴は近場の椅子を引き寄せ軽い動作でそれに腰掛けた。
「いいよ。それはお互い様だし」
「は?」
「いや、こっちの話だよ」
歯切れの悪い言葉と曖昧な笑顔に流された。
その態度に不満は残るものの、奴に向き直る。
知りたいことは沢山あるのだ。
「此処は、異世界だと言っていたな」
にやぁと緩みきった目元と口角が少しもとに戻る。
しかし奴が真顔に戻らない所を見ると、そう大した問題ではないらしい。
「うん。言ったね。それで?」
一切表情を変えず、すぱっと奴は言った。その様子に思わずため息が溢れる。
「それで?」だと?
いつぞやの必死な顔が蘇って、一瞬でかき消えた。
そんな言葉に相当するほど世界を渡ることは簡単なのだろうか。
それで死ぬ思いをしたわたしは複雑な気分である。
「信じる。
だから聞きたいことは山ほどある……が、なにを聞けばいいか分からないんだ」
「何で?思ったように聞けば良いじゃない」
こてんと首を傾げると、目をゆっくり閉じて、また開いた。
ドライアイなのだろうか。全く検討違いだと分かっている。あれだ、ボケてみたくなったんだよ。面白くない?
……ほっとけ。
「質問したらわたしは、この世界のことがわかるのか?わたしはそこまで頭の出来がよくない」
「十分だと思うけどね」と肩を竦める奴は何処か馬鹿にしている様にも見えた。
そして動作ばかりに目がいっていたが、奴の目は一度だけ観察する目になった。
そしてそれはすぐに息を潜め、影さえ見当たらなくなった。
「……知りたいかな、って思ったことは大体予想つくよ。」
予想がついていたなら早く言えばいいのに、本当に面倒な奴だ。
その言葉は口に出すこと無く、目で続きを促した。
☆
この世界は七番と呼ばれる世界である。
人口や土地の細かい大きさは解っていないが、気温の変動はそう大きくはないので四季はない。
町はエイとユウの二つ。エイは緩やかな発展を遂げたのどかな町で、ユウの方が国家らしく大きく、国王の様な統率者もいて、急速な発展を遂げ、今もどんどん拡大している。
方角の概念もあり、北の方には幻獣の類いを従える魔王がいて、勇者が倒す度に新たな魔王が産まれ、また新たな勇者が魔王を倒す。その度に世界はリセットされる。
勇者となる者、働く者は教会へ行き、職業を選択。勇者は強制ではないが、大抵パーティを組む。
そして今、まだ勇者は現れない。
☆
「こんな所でどう?」
話が終わっても、大した衝撃は無かった。ある意味もっと予想を裏切って欲しかった。
某RPGの紛い物じゃないか、こんなの。どこぞのB級ファンタジーだ。クオリティ不足にも程がある。
「わたしが言うのも何だけど、あんまりに設定雑すぎないか」
「設定とか言うのは感心しないけれど、そこは俺も同感だよ。これじゃあ味気ないよね」
肩を竦める奴は気楽である。マントから棒付きのロリポップのキャンディを取りだし、口に含む。甘い苺の様な香りがふわりと漂う。
「弥唖ちゃんも」
「ああ、ありがと」
甘いものはいい。こんなトンデモな世界でも穏やかな気分になる。包み紙を剥がすと桃のような柔らかな甘い匂いがした。
「それで、これからどうする?教会に行く?」
「教会へ行って何をするんだ。お祈り捧げても帰れるわけではないから……」
「帰る方法かは解らないけど、とりあえず魔王を倒してリセットさせるしかないでしょ」
飴が口の中にある状態でくぐもった声になりながらも、ナチュラルに話す辺りが器用だ。わたしは未だに飴を口に放り込めないでいる。
口に入れたものを出すのははしたないとさすがに理解しているので、口に入れれないでいる。飴食べたい。
「じゃあ教会だな」
「まず先に教会探そうね」
「お前教会知らないのか?」
何でも知ってるガイドタイプの人間ではないのか。わたしは残念ながら冒険に向かないタイプである。
簡潔にいうと方向音痴だ。
あんまり人に弱みを見せるタイプではない為か親さえ知らないかも知れない部分というか。
これまでRPGは全て迷宮で飽きて止めた。しかし今回は、諦めが死に繋がるかもしれないので、簡単には放り出せない。
「じゃ、探しに行くしかないだろう。行くぞ」
「弥唖ちゃんがベットから降りたらすぐにでも行けるよ」
「…………そうだな」