3.三月兎(マーチ・ヘア)の夢
微睡みの中、ほんの少し焦げくさい匂いがした。
しかも砂糖がやんわりと焦げていく様な甘くむわりと唾液腺を活発にしていくような優しい匂いではない。寧ろ気管に入って噎せる様な煙たくツンと鼻にくる、それでいて爽やかさのない胃の裏にくるような嫌な臭い。悪臭だった。
何が起こっているのだろう。
瞼を開けようとした時、異変に気付いた。
体がピクリとも動かせない。全く力が入らず、全身全霊の気力(力を込めようにも入らないものはどうしようもない)を込めても人差し指さえ動かないのだ。奥歯を噛み締める事さえ出来ない。意識があるだけこの状況は苦しかった。
「アリス、何処だ」
声が響いた。
それ以降は口火を切ったように人の気配が溢れ、「アリス」を呼び続ける。
狂った群衆の叫びの様に色んな声が『アリス』を呼ぶ。
ジリッと奇妙な音が声に混ざった。
何の音かも分からないのに危険信号の様な物が脳内で喚く。目も開かないのに目の前がチカチカと無数の星が弾けた様な不快感があった。
何処かから引き笑いの下品な女の声が聞こえる。何かを嘲笑うかの様な、周囲の醜聞を楽しむおばさん達のような下級階層を嘲笑う金持ちの道楽息子の様な不快感がそこには存在した。
力の入らない瞼に必死に力を込めた。縫い付けられた様に開かない瞼はピクリとも動かない。
なんで、何で開かないの。
焦燥感に駆られ、奥歯を噛み締めようとしたその時、何故か瞼がゆっくりと開き始めた。
しかしわたしはそれに驚き戸惑う間さえ与えられなかった。
とにかく沢山の髪があった。
それはわたしには衝撃的で、見えるもの全て単語しか頭に入らない。
髪、火、髪のない女の子、女、黒、金、茶
そして何か。
そして、また強制的に抗えない力に目を瞑らされた。
☆
また香ばしい匂いがした。
次は、気分の悪くなるような悪臭ではなく、パンのような小麦粉の良い匂いだった。
そして、妙に全身が暖かくて柔らかいことに気付く。薄く目を開くと、目の前が真っ白だった。慌てて目の前の白を払い除けると、それは布だった。よく見ると白はシーツの色で、柔らかいそれは掛け布団である。
呆然として辺りを見回すと、茶色っぽい色の部屋だった。木の木目がキレイなログハウスみたいな感じである。いや、ログハウスには入ったことないのだが。
本当に質素な部屋だ。二つのベッドと簡素な水瓶以外に何も置いてない。
「何処だ…ここ」
「あ、お嬢さん起きたんだ」
「ついり……」
わたしが奴の名前を呼ぶと、長い睫毛に縁取られた目をぱちくりさせ、真っ黒な瞳が右上を見たまま止まった。
「どうした?」と、わたし。
それに対し、「ああ、ごめん」と曖昧に口角を上げる。それさえも整った容貌故に様になっている。やはり人間顔は重要である。
「そうそう、みーちゃんだったね」
ぱきりとわたしの左手が鳴った。こめかみの青筋が浮かび上がってくるのが分かる。
「いいよね、みーちゃんって。猫みたいでかわ」
「止めろ」
続けそうだった奴の言葉を遮るように必死に制止の言葉をかけた。「それ以上は」と続けるわたしの顔色は蒼白だと思う。
「その言葉を言われるとへどどころじゃなくなにかが出そうだ」
実際に今わたしの顔に血の気はない。
「なんでみーちゃんは駄目なの」
こてんと首を傾げる様子は小動物のような愛らしさがあった。こいつこそみーちゃんというあだ名に相応しい。
「絶対あの忌まわしい言葉を言われるから」
わたしの中では恐怖の一等級呪文である。
「そんなことはどうでもいいや」さっきまで隣のベッドに座ってた墜栗花が立ち上がった。それから墜栗花、わたしの中ではそんなことではないんだ。
「まず教会にいこう」
「教会?」
にっと愉快そうに奴は笑った。「早く身分証を作んなきゃ」
わたしの手を引っ張って立たせると、木の扉を開いた。
手を引かれる感覚に少しげんなりしてわたしは思わず呟いた。「身分証が教会にあるなんて某有名RPGかなにかか」
そういう時こそわたしの良くない勘は当たるのだ。