後日談 泥に塗れた聖女と、届かなかった祈り
薄汚れた路地裏に、冷たい雨が降り注いでいた。
石畳の隙間を流れる泥水が、私の唯一残された靴を濡らしていく。
かつて『聖女』と崇められ、純白の法衣に身を包んでいた私が、今ではネズミが這い回るような裏路地のゴミ捨て場で、残飯を漁る野良猫のような姿で蹲っている。
「……寒い」
ひび割れた唇から漏れた言葉は、誰にも届かずに雨音にかき消された。
ボロボロになった灰色のローブ。フードを目深に被り、顔を隠すようにして私は膝を抱えた。
通りを行き交う人々の足音が聞こえる。
彼らは皆、温かい家や酒場へと急いでいる。
つい数日前まで、私もあちら側にいたはずだった。
最高級の宿に泊まり、最高級の料理を食べ、人々から羨望の眼差しを向けられるSランクパーティー『聖雷の剣』の回復役、ソフィア。
それが私の名前であり、私の誇りであり、私の全てだった。
しかし、全ては終わった。
あの悪夢のような夜に。
私の人生は、音を立てて崩れ去ったのだ。
◇
あの日、魔境の深部で起きたことを思い出すたびに、吐き気が込み上げてくる。
勇者アレクの慢心。
無能な取り巻きたち。
そして、私たちが「荷物持ち」として追放した男、レン。
彼がいなくなった直後に始まった地獄。
私は鮮明に覚えている。
巨人の棍棒でガルドが頭を潰された時の、熟したトマトが弾けるような音を。
ミリアが怪鳥に掴まれ、空へと連れ去られながら「嫌だ、助けて、アレク様ぁぁぁ!」と泣き叫んでいた声を。
そして、勇者アレクが、右腕を失い、左足を引きずりながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして逃げ回っていた無様な姿を。
『ソフィア! 回復だ! 早く治せ! 痛い! 痛いんだよォォォッ!!』
アレクは私に縋り付こうとした。
血まみれの手が、私の純白の法衣を汚そうと伸びてきた。
その瞬間、私の心の中で何かが冷え切った。
(ああ、汚らわしい)
私はとっさに、懐に隠し持っていた『緊急転移スクロール』を取り出した。
これは超高価なアイテムで、一人分しか転移できない。
本来ならパーティーのリーダーであるアレクに使うべきものか、あるいは全員で脱出するために使うべきものだったかもしれない。
だが、あの状況で全員を救う手段などなかった。
数百の魔物に囲まれ、Sランクのドラゴンまで現れていたのだ。
ここでアレクを助けたとしても、次に狙われるのは私だ。魔力の尽きた私に、彼を守りながら逃げ切ることなど不可能だ。
だから私は、迷わなかった。
『ごめんなさい、アレク。あなたはここで死んで』
私は詠唱し、スクロールを発動させた。
アレクの絶望に染まった顔。
『ま、待て! 置いていくな! 俺は勇者だぞ!?』という叫び声。
そして、直後にドラゴンのブレスが彼を飲み込み、視界が真っ白な光に包まれる光景。
それが、私の見た最後の「彼ら」の姿だった。
王都の広場に転移した時、私は安堵で膝から崩れ落ちた。
助かった。
私だけは生き残った。
私は聖女だもの。神に選ばれた特別な存在だもの。死ぬわけにはいかないわ。
そう自分に言い聞かせ、私はすぐにギルドへ駆け込み、被害者として振る舞う準備を始めた。
「魔物の大群に襲われ、勇者たちは勇敢に戦って散りました。私だけが、彼らの最期を伝えるために、命がけで逃がされたのです……!」
涙ながらにそう語れば、悲劇のヒロインとして同情を集められると思っていた。
アレクたちの死を無駄にせず、私がその遺志を継ぐ。
そうすれば、私の地位は安泰だと信じていた。
しかし、現実は甘くなかった。
ギルドマスターのガンツは、私の嘘を最初から見抜いていたのだ。
『ほう、お前だけが逃がされた、か。だが、現場の魔力残滓を解析した結果、転移魔法が発動したのはお前自身の魔力によるものだと判明したぞ。勇者がお前を転移させたのではなく、お前が自分の意思でスクロールを使ったんだな?』
冷徹な尋問。
さらに、通信具の記録魔石の一部が復元されたという嘘か本当か分からない情報まで突きつけられた。
アレクが死の間際に叫んでいた言葉。『ソフィアが見捨てた』『あばずれ』という罵倒。
それらが証拠となり、私の「悲劇の聖女」というシナリオは粉々に粉砕された。
『仲間を見捨て、自分だけ助かった卑劣な聖女』
『勇者殺しの裏切り者』
その噂は瞬く間に王都中に広まった。
ギルドからは除名処分。冒険者資格の剥奪。
さらに、ガルドやミリアの遺族、そしてアレクの実家である貴族家から、莫大な損害賠償と慰謝料を請求された。
「息子を守れなかった責任をとれ」「娘を返せ」と罵られ、私の全財産は没収された。
銀行に預けていた貯金も、高級マンションも、宝石も、法衣も、全て差し押さえられた。
残ったのは、着の身着のままの薄汚れた服と、二度と消えない『裏切り者』の烙印だけ。
それが、今の私の全てだ。
「……うぅ……なんで……」
路地裏の冷たい石畳に額を擦り付ける。
お腹が空いた。
昨日の夜から何も食べていない。
聖女と呼ばれていた頃は、最高級のステーキでさえ「焼き加減が気に入らない」と一口食べて捨てていたのに。
今は、誰かが捨てた固いパンの耳さえご馳走に見える。
なぜこうなったのか。
どこで間違えたのか。
答えは分かっている。
あの日、あの時。
レンを追放した、あの一瞬だ。
レン=ウォーカー。
地味で、無口で、目立たない斥候。
私たちは彼を侮っていた。
「魔物が来ないのはアレクの覇気のおかげ」などという馬鹿げた妄想を信じ、彼が陰で行っていた緻密な作業に目を向けようともしなかった。
彼がどれだけ神経を研ぎ澄まし、私たちの安全を確保してくれていたか。
彼がいなくなった途端に世界が反転したあの恐怖を体験して、初めて理解した。
私たちの栄光は、全てレンという土台の上に成り立っていた砂上の楼閣だったのだ。
その土台を自分たちで蹴り壊したのだから、崩れ落ちるのは当たり前だった。
「……レン」
彼の名前を呟くと、胸が締め付けられるような痛みが走った。
もし、彼を追放していなければ。
今頃私たちは、魔境の探索を終えて凱旋し、王都のパレードで歓声を浴びていたはずだ。
美味しい食事、温かいベッド、称賛の声。
それら全てが、私の手の中にあったはずなのだ。
悔しい。
悔しくてたまらない。
アレクが憎い。ミリアが憎い。ガルドが憎い。
あいつらが馬鹿だったから。あいつらがレンを追い出そうと言い出したから。私はそれに同意しただけなのに。
なんで私だけがこんな目に遭わなければならないの?
「おい、そこ邪魔だぞ」
頭上から乱暴な声が降ってきた。
顔を上げると、酒場の裏口から出てきた店主が、ゴミバケツを持って立っていた。
「チッ、またお前か。元聖女様がいつまでそんなところに居座ってんだ。営業妨害だ、失せろ!」
店主は容赦なく、バケツに入っていた生ゴミ混じりの汚水を私にぶちまけた。
「きゃっ!?」
冷たい水と、腐った野菜の臭いが全身を覆う。
悲鳴を上げる私を見て、店主は汚いものを見る目で鼻を鳴らした。
「ざまぁねえな。仲間を見殺しにした報いだ。この街にお前の味方なんていねぇよ。さっさと野垂れ死にな」
バン! と音を立てて鉄扉が閉ざされる。
私は泥と汚水にまみれたまま、震える手で顔を拭った。
涙が溢れて止まらない。
惨めだ。
かつてはこの手で高貴な人々の傷を癒し、「聖女様」と崇められていた手が、今はゴミにまみれている。
「……っ……うあぁぁぁ……」
私は声を殺して泣いた。
もう、ここにはいられない。
他の街へ行こう。名前を変えて、顔を隠して、どこか田舎の村でひっそりと暮らそう。
回復魔法の腕はあるのだから、怪我人を治せば小銭くらいは稼げるはずだ。
そう自分を励まし、よろよろと立ち上がった。
雨が小降りになってきた。
大通りへ出ると、夕暮れ時の街は活気に満ちていた。
私はフードをさらに深く被り、人目を避けるように壁沿いを歩いた。
その時だった。
「――だから、その肉はまだ焼きが足りないと言っているだろう」
「えー? これくらいが一番ジューシーで美味いんだってば。お前、野性の勘が鈍ってるんじゃないか?」
聞き覚えのある声。
心臓がドクンと跳ねた。
まさか。
いや、間違いない。あの落ち着いた、少し呆れたような、それでいて優しい声。
私は思わず足を止め、声のする方を見た。
大通りの向かい側。高級レストランのテラス席。
そこに、彼がいた。
レン。
私たちが捨てたはずの男。
彼は以前よりもずっと上質な、仕立ての良い黒いコートを身に纏い、手にはワイングラスを持っていた。
その表情は、パーティーにいた頃の「無表情な仮面」ではなく、穏やかで、満ち足りた笑顔だった。
そして、彼の向かいに座っている人物を見て、私は息を呑んだ。
銀色の長い髪、透き通るような白い肌、宝石のような赤い瞳を持つ絶世の美女。
彼女は行儀悪くステーキにかぶりつきながら、レンと楽しそうに談笑している。
その圧倒的な美しさは、全盛期の私ですら霞むほどだ。
さらに、彼女から漏れ出る魔力の波動。
素人の目には分からないかもしれないが、元Sランク冒険者の私には分かる。
あれは人間ではない。
龍や悪魔、あるいはそれ以上の……神話級の怪物の気配だ。
「……うそ……」
レンは、あんな凄い存在を従えているの?
私たちのような「足手まとい」ではなく、真に彼と対等に渡り合える、最強のパートナーと?
二人の周りだけ、世界が違って見えた。
キラキラと輝き、幸福と余裕に満ち溢れている。
それに引き換え、私はどうだ。
ゴミと泥にまみれ、悪臭を放ち、誰からも忌み嫌われる浮浪者。
(ああ……)
その瞬間、私は理解してしまった。
私たちが彼を追放したのではない。
彼が、私たちという「枷」から解放されたのだ。
無能な私たちを切り捨て、本来あるべき場所に飛び立っただけなのだ。
嫉妬すら湧かなかった。
ただただ、絶望的な格差を見せつけられ、心が折れる音だけが響いた。
だが、次の瞬間、私の体は勝手に動いていた。
プライドも羞恥心もかなぐり捨て、私は大通りへと飛び出した。
「レ、レン……ッ!!」
掠れた声で叫びながら、彼の方へ走る。
彼なら。
あの優しかった彼なら、私を助けてくれるかもしれない。
昔のよしみで、小銭を恵んでくれるかもしれない。
いや、あわよくば、私を許して、またパーティーに入れてくれるかもしれない。
私は聖女だ。回復役は必要でしょう?
あの美女は強そうだけど、回復魔法は使えないかもしれない。
なら、私にだってまだ利用価値はあるはずだ。
「レン! 待って! 私よ、ソフィアよ!!」
私は必死に手を伸ばした。
レンがこちらを向く。
目が合った。
あの懐かしい、黒い瞳。
「レン、助けて! 私、酷い目に遭って……反省してるの! お願い、私をもう一度……」
そこまで言いかけて、私の言葉は凍り付いた。
レンの隣にいた銀髪の美女が、フォークを止めて、ゆっくりとこちらを向いたからだ。
ヒュッ。
彼女の赤い瞳と視線が交差した瞬間、私は呼吸を忘れた。
殺気。
いや、そんな生易しいものではない。
『死』そのものが、物理的な圧力を持って私の心臓を握り潰したような感覚。
彼女の瞳は語っていた。
『私の番に近づくな、薄汚い雌』
声に出されたわけではない。
だが、その意思は脳髄に直接叩き込まれた。
本能が警鐘を鳴らす。
これ以上一歩でも近づけば、首が飛ぶ。
魂ごと消滅させられる。
「ひっ……あ、あぐっ……」
私は足がもつれ、無様に泥水の中に転倒した。
震えが止まらない。歯がガチガチと鳴る。
怖い。怖い怖い怖い。
あれは魔境で見たドラゴンよりも、もっと上位の存在だ。
あんなものを飼い慣らしているレンとは、一体何者なの?
泥の中で這いつくばる私を、レンは静かに見下ろしていた。
その目に、かつてのような仲間を見る温かさは微塵もなかった。
かといって、憎しみや侮蔑があるわけでもない。
ただ、路端の石ころを見るような、完全な無関心。
彼は私を「認識」していなかった。
視界には入っているけれど、彼の世界にとって、今の私は何の意味も持たない背景の一部でしかないのだ。
「……どうした、レン? 知り合いか?」
銀髪の美女が、興味なさそうに尋ねた。
レンは一瞬だけ私を見て、すぐに視線を外し、優しく微笑んで答えた。
「いいや。人違いだろ。行こうか、シルヴィア。デザートは別の店にしよう」
「うむ、そうだな。ここからは腐った臭いがしてきて、食欲が失せる」
二人は席を立ち、私を跨ぐようにして去っていった。
レンの革靴が、私の目の前を通り過ぎる。
私は手を伸ばすことすらできなかった。
「待って」という言葉も、喉に張り付いて出てこなかった。
遠ざかる二人の背中。
レンが何か冗談を言い、美女が楽しそうに笑う声が聞こえる。
幸せそのものの光景。
私は一人、泥の中に残された。
周りの人々が、「うわ、汚い浮浪者だ」「酔っ払いか?」と囁きながら避けていく。
「……あ、あぁ……」
私の手の中には、何も残らなかった。
地位も、名誉も、財産も、仲間も。
そして、唯一私を救ってくれるかもしれなかった最後の希望も、私自身の手で捨ててしまっていたのだ。
「……もう、遅い……」
口をついて出た言葉は、自分自身への死刑宣告のように響いた。
雨がまた強く降り始めた。
冷たい雨粒が、私の涙と混じり合って頬を伝う。
私は泥水に顔を埋め、声を上げて泣いた。
どれだけ泣いても、どれだけ後悔しても、失った時間は戻らない。
壊れた信頼は元に戻らない。
死んだ仲間は帰ってこない。
これから私は、この冷たい世界で、一生這いつくばって生きていくしかないのだ。
あの温かい「虚無の帳」の中には、もう二度と戻れない。
その事実は、魔物に食い殺されることよりも残酷で、永続的な罰として私を苦しめ続けるだろう。
雨音だけが、私の嗚咽を隠すように、いつまでも街を叩き続けていた。




