第4話 届かない通信
『――レン! レンなのか!? おい、返事をしてくれ!! 頼む!!』
水晶の通信具から飛び出してきた声は、かつての栄光ある勇者のものとは到底思えないほど、悲惨に歪んでいた。
喉が裂けんばかりの絶叫。
その背後には、ゴグッ、バキッという、硬いものが砕かれる生々しい音と、聞いたこともないような野太い獣の唸り声が混じっている。
それはまるで、地獄の釜の底から届いた死者の手紙のようだった。
俺はゆったりとソファの背もたれに体を預け、もう片方の手で赤ワインのグラスを揺らした。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
通信具の向こう側の、血と泥と排泄物が混じったであろう臭気とは対照的な、優雅な時間だ。
「ああ、聞こえているよ、アレク。随分と賑やかだな。宴会でもしているのか?」
『ふ、ふざけるな! 宴会なわけがあるか!! 襲われているんだ! 魔物に! 数えきれないほどの魔物に囲まれている!!』
アレクの声が裏返る。
恐怖で過呼吸になっているのか、ヒューヒューという引きつった呼吸音が聞こえる。
『影虎だ! 巨人もいる! ドラゴンまで来やがった!! なんでだ!? なんで急にこんなのが湧いて出るんだよ!! お前が抜けた途端にこれだぞ!?』
「不思議だな。お前の『覇気』とやらがあれば、魔物は恐れをなして逃げていくんじゃなかったのか?」
俺が淡々と問い返すと、通信の向こうでアレクが言葉に詰まる気配がした。
『そ、それは……ち、違うんだ! 今は調子が悪いだけだ! そう、俺の魔力サイクルが一時的に乱れていて……』
「まだそんなことを言っているのか。まあいい、頑張ってくれ。俺はもう寝るところだから」
通話を切ろうと指を動かすと、アレクが半狂乱になって叫んだ。
『ま、待て!! 切るな!! 頼む、待ってくれ!!』
ガシャン! という金属音が響く。どうやら聖剣を何かに打ち付けたか、あるいは盾で攻撃を防いだ音のようだ。
『金だろ!? 金が欲しいんだろ!? 払う! 倍払う! いや、十倍だ! 今回の遠征の報酬、全部お前にやる! だから戻ってきてくれ!』
「金か。残念だが、手持ちは十分にあるんだ。さっきギルドで前払いをもらったしな」
『なら地位だ! 名誉だ! 俺のパーティーに戻れば、将来は王宮騎士の地位も約束される! お前のような平民が一生かかっても手に入らない栄誉だぞ!?』
「興味ないな。それよりアレク、後ろが騒がしいぞ。おしゃべりしていて大丈夫なのか?」
『――ギャアアアッ!!』
通信越しに、アレクの短い悲鳴が響いた。
何かが彼の近くを掠めたのだろうか。
『くそっ、くそぉぉぉ! ガルドが死んだ! あの頑丈なガルドが一瞬でミンチにされたんだぞ!? ミリアも連れ去られた! 生きたまま鳥の餌にされちまった!!』
アレクの声は涙声に変わっていた。
嗚咽交じりに、彼は続ける。
『ソフィアのあばずれは、俺たちを囮にして自分だけ転移スクロールで逃げやがった! 勇者を見捨てるなんて、聖女にあるまじき行為だ! 許せねぇ! みんな狂ってる!!』
なるほど、予想通りパーティーは壊滅か。
鉄壁の盾役ガルドが死に、火力のミリアが消え、回復役のソフィアが逃亡。
残されたのは、手負いの勇者一人だけ。
これ以上ないほどの詰み(チェックメイト)だ。
「それは災難だったな。で、俺にどうしろと?」
『隠してくれ!! お前のあのスキルで、俺の気配を消してくれ!! お前がいなくなって分かったんだ! あの『静寂』はお前が作っていたんだろ!? 俺の覇気なんかじゃなかった! 全部お前のおかげだったんだ!』
ようやく認めたか。
だが、その言葉を聞いても、俺の心には何の感慨も湧かなかった。
かつては、彼らに認められたい、役に立ちたいと思っていた時期もあった。
しかし、散々踏みにじられ、使い捨てにされた今となっては、その言葉はあまりにも空虚で、遅すぎた。
「……そうか。やっと理解したか」
『あ、ああ! 認める! 俺が悪かった! 謝る! 土下座でも靴舐めでもなんでもしてやる! だから助けてくれよレン! 友達だろ!? 仲間だろ!?』
友達。仲間。
その言葉が、俺の逆鱗に触れた。
俺はグラスをテーブルに置き、冷ややかな声で告げた。
「仲間? 笑わせるな。お前は俺を『寄生虫』と呼んだよな? 装備を奪って魔境に置き去りにしようとした相手に、よくそんな言葉が吐けるな」
『そ、それは……魔が差したんだ! 本心じゃあない!』
「いいや、それが本心だ。お前は自分以外を道具としか思っていない。だからソフィアにも見捨てられたんだよ」
俺の言葉に、アレクが押し黙る。
いや、黙ったのではない。
通信の向こうで、新たな絶望が彼を襲ったのだ。
『ひっ……あ、ああ……』
アレクの震える声。
そして、ドスンドスンという、地響きのような足音が近づいてくる音が聞こえる。
『き、来た……レッドドラゴンだ……目が合った……こっちを見てる……』
レッドドラゴン。Sランクの頂点に立つ竜種だ。
ブレス一発で地形を変えるほどの力を持つ。単独の、しかも負傷した勇者が勝てる相手ではない。
『レン! おいレン! なんとか言ってくれ! 遠隔でスキルを発動できないのか!? お前の魔力なら届くだろ!?』
「無理だ。俺はもう、お前たちのパーティーじゃない。それに、俺は今、新しい相棒との食事で忙しいんだ」
俺は隣で骨付き肉を貪り食っているシルヴィアを見た。
彼女は口の周りをタレで汚しながら、「ん? なんだ?」と首を傾げている。
その愛らしくも凶暴な姿を見て、俺はふっと笑った。
「こっちの相棒は、俺の能力を正しく評価してくれるし、俺を守ってくれる。お前とは大違いだ」
『誰だ!? 誰といるんだ!? 俺より強い奴なんて……』
「おっと、そろそろ切るぞ。デザートの時間なんでな」
『ま、待て! 頼む! 死にたくない! 嫌だ! 嫌だぁぁぁッ!!』
アレクの絶叫がピークに達する。
同時に、ゴォォォォォォッ!! という凄まじい爆発音――ドラゴンのブレスの音が、通信具のスピーカーをビリビリと震わせた。
『ギャァァァァァァァァ――――ッ!!!』
人ならざる悲鳴。
肉が焼け、骨が炭化していく音。
そして、最後にプツリと、通信が途絶えた。
水晶の光が消え、ただの無機質な石に戻る。
部屋に静寂が戻った。
俺は動かなくなった通信具を手に取り、少しだけ力を込めた。
パキッ。
脆い音を立てて、水晶が粉々に砕け散る。
それをゴミ箱に放り投げ、俺は再びワイングラスを手にした。
「……ご愁傷様。精々、来世では謙虚に生きることだな」
それが、かつて勇者と呼ばれた男への、俺からの最後の手向けだった。
「終わったか?」
シルヴィアが、ナプキンで口を拭きながら尋ねてきた。
その瞳には、深い理解と、わずかな嗜虐の色が混じっている。
「ああ、終わったよ。全てな」
「そうか。……良い声だったな。断末魔というのは、いつ聞いても食欲をそそる」
「悪趣味だな」
「お前だって、ニヤニヤしていたくせに」
シルヴィアに指摘され、俺は自分の頬を触った。
確かに、口角が上がっている。
罪悪感など微塵もない。胸にあるのは、長年溜まっていた澱が綺麗さっぱり洗い流されたような、清々しい解放感だけだった。
「さあ、デザートを食べよう。ここの特製プリンは絶品らしいぞ」
「ほう! 肉の次は菓子か! 人間界というのは天国か?」
シルヴィアが目を輝かせる。
俺たちは笑い合い、甘い夜を過ごした。
窓の外では、月が静かに輝いている。
遠く離れた魔境で起きた惨劇など、この平和な街には届かない。
ただ、明日になれば、世界は少しだけ変わっているだろう。
◇
翌朝。
俺とシルヴィアは、宿のレストランで優雅に朝食をとっていた。
焼き立てのパンに、新鮮な野菜のサラダ、そして温かいスープ。
朝日が差し込む窓辺の席は、これからの希望に満ちた未来を象徴しているかのようだった。
「レン、あーん」
「……自分で食え」
「むぅ、つれないな。新婚なのだから、これくらい良いだろう」
「誰が新婚だ」
シルヴィアは人化を解かずに、黒いコートの下に宿で借りた清楚なワンピースを着ている。
その美貌は朝の光の中で一層際立ち、ウェイターが注文を取りに来るたびに顔を赤らめていくのが面白い。
平和だ。
昨日までの、常に死と隣り合わせの緊張感が嘘のようだ。
「そういえば、レン。ギルドに行かなくていいのか?」
「ああ、飯を食ったら顔を出すよ。新しい依頼を探さないとな」
「ふふ、楽しみだ。お前と一緒なら、どんな魔境も散歩コースだろうな」
そんな会話をしていると、近くの席に座っていた冒険者たちの話し声が聞こえてきた。
「おい、見たかよ朝刊」
「ああ、見た見た。信じられねぇよな」
「『聖雷の剣』が全滅だってよ」
俺はコーヒーカップを持つ手を止め、耳を傾けた。
「なんでも、魔境の浅い層で発見されたらしいぜ。黒焦げの死体と、食い荒らされた跡だけが残ってたって」
「生存者は?」
「聖女のソフィア様だけが見つかったらしいけど、精神崩壊してて廃人同様だってさ。『覇気が、覇気が』ってブツブツ言ってるらしいぞ」
「うわぁ……あのSランクパーティーがねぇ。やっぱ魔境は怖えな」
「慢心してたんじゃねぇか? 斥候のレンって奴をクビにしたって噂もあったし」
「バカだな。有能なサポーターを切るからそうなるんだよ」
冒険者たちは、かつての英雄の死を、酒の肴のように消費している。
世間の評判なんてそんなものだ。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
アレクたちが築き上げてきた名声は、一夜にして「慢心して全滅した愚か者たち」という汚名に変わった。
「……聞いたか、シルヴィア」
「うむ。ザマァミロ、というやつだな」
シルヴィアが悪戯っぽく笑う。
俺もつられて笑った。
「そうだな。さて、行くか」
俺は席を立ち、会計を済ませた。
宿を出て、オルティアのメインストリートを歩く。
風は爽やかで、空はどこまでも青い。
俺の隣には、世界最強の相棒がいる。
俺の『虚無の帳』と、彼女の圧倒的な戦闘力があれば、この世界のどこへだって行ける。
未踏のダンジョンも、古代遺跡も、あるいは南の島のリゾートだって。
「ねえレン、次はどこへ行く?」
シルヴィアが俺の腕に抱きつき、上目遣いで尋ねてくる。
俺は少し考えて、空を見上げた。
「そうだな……東の大陸に、『竜の谷』があるらしい。そこには珍しい素材がたくさんあるそうだ」
「竜か! 良いな、久しぶりに竜の肉が食いたい!」
「お前な……まあ、いいか。行こう、俺たちの旅へ」
俺たちは歩き出した。
背後には、過去という名の影を置き去りにして。
もう二度と、誰かの引き立て役になることはない。
これからは、俺が主役だ。
俺の物語は、ここから本当の意味で始まるのだ。




