第3話 捕食者からの求愛
上空三千メートル。
そこは、死と静寂、そして圧倒的な星空だけが支配する世界だった。
頬を切り裂くような冷たい風が吹き荒れているはずだが、俺の体は微塵も寒さを感じていなかった。
理由は単純だ。俺を包み込むように展開された風除けの魔術障壁と、何より俺がしがみついている、この極上の毛皮のおかげだ。
「どうだ、我が夫よ。乗り心地は」
脳内に直接響くような、凛とした、それでいて甘えるような声。
俺を乗せて夜空を駆けているのは、銀色の毛並みを持つ巨大な狼――伝説の魔獣『終焉の魔狼』であるシルヴィアだ。
彼女は空中を蹴るたびに、まるで地上を走るかのように加速していく。眼下には雲海が広がり、その遥か下には、俺が先ほどまでいた魔境の森が小さく黒い染みのように見えていた。
「……最高だよ。揺れひとつないし、ファーストクラスの座席より快適だ」
「ふふん、当たり前だ。そんじょそこらのワイバーンやグリフォンと一緒にするな。私は風そのものを従えているのだからな」
シルヴィアは鼻を鳴らし、さらに速度を上げた。
本来であれば、魔境から最寄りの冒険者都市『オルティア』までは、徒歩で三日はかかる距離だ。
だが、この速度なら一時間もかからないだろう。
俺は背中の毛に顔を埋めた。陽だまりのような温かさと、森の深奥を思わせる清涼な香りがする。
つい数十分前まで、俺はあの薄暗い森で、傲慢な勇者の顔色を窺い、神経をすり減らして歩いていた。
それが今はどうだ。
世界最強の魔獣をタクシー代わりにし、夜景を独り占めしている。
この落差に、俺は思わず乾いた笑いを漏らした。
「おい、何を笑っている? 私の背中がくすぐったいぞ」
「いや……人生、何が起こるか分からないと思ってな。まさか追放された直後に、空を飛んで帰ることになるとは思わなかった」
「フン、あの雑魚どものことか。……なぁ、戻って喰い殺してやろうか? お前が望むなら、あの森ごとブレスで消し飛ばしてやるが」
シルヴィアの声には、冗談ではない殺気が混じっていた。
彼女にとって、俺を追放した勇者たちは「所有物を害した敵」として認識されているらしい。
俺は首を横に振った。
「いいや、その必要はない。放っておいても、奴らは今頃地獄を見ているはずだ。わざわざお前の手を汚す価値もないよ」
「そうか。お前がそう言うなら、見逃してやろう。……その代わり」
不意に、シルヴィアが首をぐりんと180度回転させ、巨大な金色の瞳で俺を見た。
「街に着いたら、美味いものを食わせろよ? それと、ふかふかの寝床だ。ここ数百年、岩肌で寝ていたからな。人間界の『ベッド』というやつに興味がある」
「分かった、約束する。最高級の宿と食事を用意してやるよ」
「うむ、良い心がけだ。愛しているぞ、レン」
彼女は満足そうに喉を鳴らし、再び前を向いた。
愛している、か。
出会って一時間もしない人間に向ける言葉ではない気もするが、魔獣の求愛行動というのはこういうものなのかもしれない。あるいは、彼女の言う通り、俺の『隠密スキル』がそれほどまでに彼女の琴線に触れたのか。
どちらにせよ、俺は強力すぎる、そして少々重すぎる相棒を手に入れてしまったようだ。
◇
冒険者都市オルティア。
大陸北部の最前線基地であり、数多くの冒険者や商人が行き交う活気ある街だ。
深夜ということもあり、大通りを行き交う人の姿はまばらだったが、街の灯りはまだ消えていない。
俺たちは街の入り口から少し離れた平原に降り立った。
いきなり巨大な狼の姿で正門に突っ込めば、街中が大パニックになり、防衛システムが作動してしまうからだ。
「よし、シルヴィア。人化できるか?」
「お安い御用だ」
シルヴィアの巨体が光に包まれ、瞬く間に人間の少女の姿へと変わる。
銀色の長髪、血のように赤い瞳、そして透き通るような白い肌。
月明かりの下に立つ彼女は、この世のものとは思えないほど美しかった。
ただ一つ、問題があるとすれば。
「……あのな、シルヴィア」
「なんだ?」
「服を着ろと言っただろ」
「む……この姿は魔力効率が悪いのだ。布一枚でも邪魔に感じる」
彼女は不満げに頬を膨らませたが、俺が渡した黒いコートを素直に羽織った。
サイズが大きいため、コートがまるでワンピースのようになっている。前をしっかりと合わせ、腰紐で縛ると、辛うじて公序良俗に反しない格好になった。
それでも、剥き出しの白い太腿や、襟元から覗く鎖骨のラインは、すれ違う男たちの視線を釘付けにするには十分すぎる破壊力を持っていたが。
「行くぞ。俺の気配遮断で、お前の異常な魔力は隠蔽してある。普通の人間には、ただの綺麗な娘に見えるはずだ」
「ふふ、お前の『帳』の中は心地よいな。まるで胎内にいるようだ」
「比喩が独特すぎるんだよ……」
俺たちは正門の衛兵に冒険者カードを提示し、街の中へと入った。
衛兵はシルヴィアを見て一瞬動きを止めたが、俺が「旅の途中で保護した」と適当な嘘をつくと、顔を赤らめて通してくれた。
やはり、俺のスキルがあれば検問もザルだ。
その足で、俺たちは冒険者ギルド『北の明星』へと向かった。
深夜のギルドは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
併設された酒場エリアでは、数組の冒険者が突っ伏して寝ているか、静かに酒を飲んでいる程度だ。
俺がカウンターへ歩み寄ると、顔なじみの受付嬢、エリエルが眠そうに書類整理をしていた。
「……いらっしゃいませー。あ、レンさん?!」
エリエルは俺の顔を見た瞬間、眠気が吹き飛んだように目を見開いた。
「えっ、嘘、もう帰ってきたんですか? 『聖雷の剣』の遠征予定は、確か二週間だったはずじゃ……」
「予定変更だ。俺だけ先に帰ってきた」
「お、お一人で? アレク様たちは?」
「まだ魔境の奥だ。俺はパーティーを抜けたからな」
俺は淡々と告げながら、カウンターに冒険者カードを置いた。
エリエルは「ええっ!?」と声を裏返した。
「ぬ、抜けたって……あのSランクパーティーをですか? しかも魔境のど真ん中で? ご無事だったんですか?!」
「見ての通りだ。五体満足で帰ってきたよ」
「信じられない……あそこはソロで歩けるような場所じゃないのに……」
彼女が絶句するのも無理はない。
斥候職の俺が、護衛もなしに魔境から生還したこと自体が奇跡に近いからだ。
だが、驚くのはまだ早い。
「それと、パーティー離脱の手続きと、新しい『従魔』の登録を頼みたい」
「えっ、従魔ですか?」
「ああ。こいつだ」
俺は背後に立っていたシルヴィアを前に出した。
シルヴィアは退屈そうに欠伸を噛み殺しながら、エリエルを一瞥した。
「……なんだ、貧相な雌だな」
「こら、失礼なことを言うな」
「事実だ。魔力も少ないし、肉付きも悪い」
「あ、あはは……綺麗な方ですね……」
エリエルはシルヴィアの暴言に苦笑いしつつも、その美貌に見惚れているようだった。
俺の隠蔽スキルが効いているため、彼女はシルヴィアが『人ならざる者』であることに気づいていない。
「お名前はシルヴィアさん、ですね。種族はどう登録しますか?」
「『銀狼族』としておいてくれ。珍しい種族だが、人化の能力がある」
「分かりました。では、魔力測定用の水晶に手を……」
エリエルが水晶を取り出そうとした時だった。
ギルドの奥にある執務室のドアが勢いよく開き、初老の男が飛び出してきた。
この支部のギルドマスター、ガンツだ。
彼は元Sランク冒険者であり、引退した今でもその勘の鋭さは衰えていない。
ガンツは血相を変えてカウンターまで大股で歩み寄ると、俺とシルヴィアを交互に睨みつけた。
「おい、レン!! 貴様、一体何を連れ込んだッ!?」
その額には脂汗が滲み、呼吸が荒い。
やはり、このレベルの古強者になると、俺の隠蔽越しでも「ヤバい気配」を感じ取れるらしい。
「ギルドマスター、こんばんは。ただの新しい相棒ですよ」
「相棒だと……? ふざけるな、俺の『危機感知』が警鐘を鳴らしっぱなしだぞ! そこの嬢ちゃん、ただの亜人じゃねぇな? その内包している魔力量、ドラゴンの比じゃねぇぞ!?」
ガンツの怒鳴り声に、酒場で飲んでいた冒険者たちが驚いてこちらを見た。
シルヴィアはニヤリと笑い、俺の腕に抱きついた。
「ほう、人間の分際で私の力が分かるとは。なかなか見所があるではないか」
「し、シルヴィア、挑発するな」
「ふふ、構わん。レン、こいつには教えてやってもいいんじゃないか? お前の『凄さ』を理解できる数少ない男のようだしな」
俺は溜息をつき、ガンツに目配せをした。
ここですべてを話すわけにはいかない。
ガンツは俺の意図を察し、厳しい顔で頷いた。
「……エリエル、ここは俺が引き取る。レン、奥へ来い。特別室で話を聞く」
「分かりました」
◇
重厚な防音扉が閉められた応接室。
ガンツはソファに深々と腰を下ろし、震える手で葉巻に火をつけた。
「……で? そこの化け物は、伝説の『終焉の魔狼』で間違いないんだな?」
「正解です。よく分かりましたね」
「分かるわッ! 昔、遠目に見かけたことがある気配と同じだ! ……寿命が縮むかと思ったぞ」
ガンツは紫煙を吐き出しながら、シルヴィアを恐る恐る見た。
シルヴィアは俺の隣に座り、俺が出した干し肉をスナック菓子のようにポリポリと食べている。その姿に威厳はないが、放たれているプレッシャーは部屋の空気を歪ませるほどだ。
「それで、レン。お前、アレクたちと別れたってのは本当か?」
「ええ。クビを宣告されました。『お前の隠密なんて役に立っていない、魔物が来ないのは俺の覇気のおかげだ』と言われましてね」
俺がそう告げると、ガンツは口をポカンと開け、持っていた葉巻を取り落とした。
「……は? 覇気?」
「はい。本気でそう信じていましたよ」
「馬鹿なのか? いや、馬鹿だとは思っていたが、そこまでとは……」
ガンツは頭を抱えた。
彼は俺の実力を知っている数少ない理解者だ。
以前、アレクたちがギルドで武勇伝を語っていた時も、ガンツだけは「その状況で無傷なのは、斥候の誘導が完璧だったからだ」と俺を評価してくれていた。
「じゃあ何か? 今、あの馬鹿どもは、お前の『帳』なしで魔境の深部にいるってことか?」
「そうなりますね。俺が抜けたのが三時間前ですから……」
「……終わったな」
ガンツは天井を仰いだ。
「Sランクパーティー『聖雷の剣』、全滅確定だ。明日には訃報を出す準備をしなきゃならん」
「まあ、運が良ければ生き延びているかもしれませんよ。ソフィアの結界と、アレクの聖剣がありますから」
「無理だ。あそこは『魔境』だぞ。お前という安全弁が外れれば、数分で数百の魔物に囲まれる。……レン、お前、わざとやったのか?」
ガンツの鋭い視線が俺を射抜く。
俺は肩をすくめた。
「まさか。俺は忠告しましたよ。『大声を出すな』『火を消せ』と。でも、彼らは聞かなかった。俺を追い出し、装備まで奪おうとした。……俺に、彼らを守る義務がありますか?」
俺の言葉に、ガンツはしばらく沈黙し、やがて重々しく首を横に振った。
「……ねぇな。冒険者は自己責任だ。優秀な斥候を無下にしたリーダーが悪い。それだけの話だ」
ガンツは机の引き出しから、皮袋を取り出して放り投げた。
「これは今回の依頼の達成報酬の前払い分と、口止め料だ。フェンリルを連れているなんて情報が広まったら、国軍が動いて面倒なことになる。しばらくは『凄腕の大型犬』ってことにしておけ」
「助かります。話が早くてよかった」
俺は金貨の入った袋を受け取った。
ずしりと重い。アレクたちといた頃は、報酬のほとんどを「装備の維持費」や「ミリアの化粧品代」などという名目で天引きされていた。
自分の手元にこれだけの金が残るのは初めてかもしれない。
「それじゃ、俺たちは宿を取って休みます。疲れたんでね」
「ああ、行け。……レン、お前はもう自由だ。これからは、その規格外の相棒と好きにやればいい」
ガンツの言葉に、俺は小さく笑って頷いた。
部屋を出る時、背後でガンツが「……覇気、か。傑作だな」と自嘲気味に呟くのが聞こえた。
◇
ギルドを出た俺たちは、街で一番高級な宿『金月の雫』へと向かった。
最上階のスイートルーム。
一泊で金貨五枚もする超高級部屋だが、今の俺には痛くも痒くもない。
部屋に入ると、シルヴィアは真っ先に巨大なダブルベッドにダイブした。
「ふわぁぁ……なんだこれは! 雲の上より柔らかいではないか!」
彼女はベッドの上でゴロゴロと転がり、シーツに顔を擦り付けている。
その無邪気な姿を見ていると、数時間前に見た「魔物を睥睨する捕食者」としての顔が嘘のようだ。
「気に入ったか?」
「うむ! 最高だ! レン、早く来い! 一緒に寝るぞ!」
「先に風呂に入らせてくれ。汗を流したい」
俺は浴室へと向かった。
魔法具でお湯が出る広いバスタブ。
温かい湯に浸かると、体の芯から緊張が解けていくのが分かった。
長かった。
三年間、俺はずっと気を張っていた。
アレクの機嫌を取り、仲間のミスをカバーし、見えない敵の気配を探り続けてきた。
それが、終わったのだ。
「……ははっ」
笑いが込み上げてくる。
俺は自由だ。
誰にも縛られない。誰にも罵倒されない。
強力な力と、金と、そして(少々手のかかる)最高のパートナーがいる。
これ以上の幸せがあるだろうか?
風呂から上がり、バスローブを羽織ってリビングに戻ると、テーブルにはルームサービスで頼んだ最高級のワインと料理が並んでいた。
シルヴィアは既に骨付き肉にかぶりついている。
「遅いぞレン! 肉が冷めるではないか!」
「悪い悪い。……美味いか?」
「うむ! 人間の料理というのは、なかなかどうして悪くないな!」
俺も席に着き、グラスにワインを注いだ。
芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。アレクが飲んでいたものよりも、ずっと上等なワインだ。
一口含むと、甘美な液体が喉を滑り落ちていく。
「……美味い」
心からの言葉だった。
今夜は最高の夜だ。このまま泥のように眠り、明日の昼まで惰眠を貪ろう。
そう思った矢先だった。
俺の脱ぎ捨てたコートのポケットから、ブブブブ……という低い振動音が響いた。
「ん? なんだその音は」
シルヴィアが怪訝な顔をする。
俺はグラスを置き、コートからその音の発生源を取り出した。
それは、青白い光を点滅させている水晶の通信具だった。
パーティーメンバー同士が緊急時に連絡を取り合うためのマジックアイテムだ。
発信者の魔力波長を示す刻印が、激しく明滅している。
『勇者アレク』
その名前を見た瞬間、俺の口元に自然と冷たい笑みが浮かんだ。
ついに来たか。
もっと早いかと思ったが、意外としぶとく生き残っていたらしい。
それとも、これが最期の言葉になるのか。
「……誰からだ? 殺気立っているようだが」
「ああ、昔の知り合いだよ。ちょっとした『余興』の誘いかもしれない」
俺は通信具を手に取り、親指で起動スイッチを撫でた。
繋ぐべきか、無視するべきか。
いや、ここまで楽しませてくれた彼らだ。
最期のショータイムくらい、特等席で鑑賞してやるのが、元仲間の情けというものだろう。
「シルヴィア、静かにしていてくれ。面白いものが聞けるぞ」
「ほう? 人間の悲鳴か? それなら大好物だが」
俺はニヤリと笑い、通信具の通話ボタンを押した。
瞬間、静寂だった部屋の空気を切り裂くように、耳をつんざくような絶叫が飛び出してきた。
『――助けてくれェェェェェッ!!!』
それは、かつて「覇気」を誇っていた勇者の、あまりにも無様で、心地よい命乞いの声だった。




