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第2話 ダム決壊

レンの後ろ姿が夜の森の闇に溶けて消えてから、十分ほどが経過した頃だろうか。

勇者アレクは、極上の気分でワインを喉に流し込んでいた。


「あー、せいせいした! まったく、あいつの陰気な顔を見なくて済むだけで、酒が三倍は美味くなるな!」


アレクが大声で笑うと、隣に座っていた赤髪の魔導師ミリアも、嬌声を上げて同意した。


「本当ですねぇ、アレク様。あの人、いつもブツブツ小言ばっかり言ってて、雰囲気最悪でしたもん。『火を小さくしろ』だの『声を潜めろ』だの、冒険の楽しさを全然分かってないんだから」

「全くだ。我々は選ばれたSランクパーティーだぞ? コソコソ隠れる必要などどこにある? むしろ、魔物の方から挨拶に来るべきだろうがな」

「キャハハ! アレク様ったら、カッコいい!」


ミリアがアレクの腕にしなだれかかる。その豊満な胸の感触を楽しみながら、アレクは対面に座る大盾使いのガルドに視線を向けた。


「おいガルド、お前もそう思うだろ? あいつの指示でチマチマ動くの、鬱陶しかったよな?」


ガルドは巨大な干し肉をかじりながら、のっそりと頷いた。


「……まあな。俺の『金剛の大盾』があれば、どんな攻撃も防げる。避ける必要なんてねぇんだ。レンの奴は慎重すぎた。俺の耐久力を信用してなかったんだろうよ」

「だろう? 俺たちには最強の盾があり、ミリアの破壊魔法があり、ソフィアの奇跡の治癒がある。そして俺という最強の切っ先がいる。レンのような小細工使いなど、最初から不要だったんだ」


アレクは満足げに頷くと、少し離れた場所で書物を読んでいる聖女ソフィアに声をかけた。


「ソフィア、お前もワインはどうだ? 今日は祝い酒だ」

「……結構です。アルコールは魔力循環を乱しますから」


ソフィアは顔も上げずに答えた。冷淡な態度だが、アレクは気にしない。彼女のその冷たさもまた、高嶺の花としての魅力の一つだと解釈しているからだ。

とにかく、邪魔者は消えた。

これからは報酬も四等分になり、ミリアという華やかな新メンバーと共に、名声への階段を駆け上がっていくのだ。この未踏の『奈落の魔境』を制覇すれば、王家からの褒賞も思いのままだろう。


「さて、今日はこのままここで野営して、明日の朝一で最深部へ向かうぞ。伝説の秘宝まであと少しかもしれん」


アレクが薪を焚き火にくべようとした、その時だった。


ザザザザザ……。


不意に、周囲の茂みが一斉に揺れる音がした。

風ではない。何かが、草を踏みしめて移動している音だ。それも、一か所からではない。全方位から、囲むようにして音が近づいてくる。


「……ん?」


ガルドが食べる手を止め、太い眉をひそめた。


「おい、なんか聞こえねぇか?」

「ああ? 風の音だろ。ビビるなよガルド、図体に似合わないな」


アレクは鼻で笑ったが、その直後、ミリアが短く悲鳴を上げた。


「ひっ!?」

「どうしたミリア?」

「あ、あれ……木の陰に、何か……」


ミリアが震える指で指し示した先の闇。

焚き火の明かりが届くか届かないかの境界線に、二つの赤い光が浮かんでいた。

いや、二つではない。四つ、六つ、八つ……。

無数の赤い光が、蛍のように闇の中に明滅している。

それは、明らかに生物の眼光だった。


「なんだ、野良犬か? 腹を空かせた魔狼ウルフでも迷い込んだか」


アレクは面倒くさそうに腰の聖剣『エクスカリバー・レプリカ』の柄に手をかけた。

魔境とはいえ、浅い階層の魔物なら雑魚に過ぎない。レンがいなくなったからといって、この程度の雑魚処理に手間取る彼らではない。


「俺の覇気が足りなかったか? 仕方ない、少し脅して追い払ってやるか」


アレクは立ち上がり、威圧するように魔力を放出した。

本来なら、これで低級な魔物は恐れをなして逃げ出すはずだ。

だが、現実は違った。


グルルルルルル……。


低く、腹の底に響くような唸り声が、森全体を振動させた。

その音圧は、ただの狼のものではない。もっと巨大で、凶悪な何かのものだ。

赤い眼光の主たちが、ゆっくりと焚き火の明かりの中に姿を現す。


「な……ッ!?」


アレクの表情が凍り付いた。

最初に姿を見せたのは、体長五メートルを超える巨大な虎だった。全身が漆黒の毛に覆われ、その背中からは触手のような影が揺らめいている。

『暴食の影虎シャドウ・タイガー』。

Aランク上位に指定される、凶悪な捕食者だ。

一匹だけでも熟練の冒険者パーティーが全滅するほどの化け物が、そこには三匹もいた。


「バ、バカな……なんでこんな場所に影虎が!? こいつらはもっと深層にいるはずじゃ……」


アレクが後ずさる。

しかし、恐怖はそれだけで終わらなかった。

反対側の茂みからは、岩のような筋肉の塊が現れる。身長八メートル、手には大木を引き抜いて作った棍棒を持った巨人たち。

『剛腕の巨人ギガント・オーガ』。

これもまた、Aランク相当のパワーファイターだ。それが五体、涎を垂らしながらこちらを見下ろしている。

さらに空からは、翼長十メートルの怪鳥『怪奇の毒鷲ポイズン・グリフォン』が、不快な鳴き声を上げて旋回し始めた。


「嘘だろ……なんだこれは……!?」


ガルドが盾を構える手が震えている。

ありえない。

この魔境に入ってから三日間、遭遇したのはスライムやゴブリン程度の雑魚ばかりだったはずだ。なぜ突然、図鑑の後半ページに載っているような化け物たちが、オールスター感謝祭のように集結しているのか。


「ア、アレク様! 覇気! 覇気で追い払ってください!」


ミリアが涙目でアレクの背中にしがみつく。

アレクは我に返り、必死で声を張り上げた。


「き、貴様ら! 俺は勇者アレクだぞ! 聖剣の持ち主だ! 俺の気迫に恐れをなして失せろッ!!」


彼はありったけの魔力を込め、剣を抜いて掲げた。

黄金の輝きが周囲を照らす。

だが、その光は魔物たちを威嚇するどころか、逆に彼らの興奮を煽る「合図」になってしまったようだった。

強烈な魔力の光と匂い。それは飢えた獣たちにとって、「ここに最高に美味い餌がある」という証明に他ならなかった。


ギャアアアアアアオオオオオン!!!


影虎が咆哮を上げ、地面を蹴った。

その速度は、瞬きする暇もないほど速い。


「くっ、来るぞ! ガルド、防げ!!」


アレクの指示が出るより早く、影虎の鋭い爪がガルドの大盾に直撃した。

ガギィィィン!!

凄まじい金属音が響き、巨漢のガルドが木の葉のように吹き飛ばされた。


「ぐわァッ!?」

「ガルド!?」


ガルドは背後の巨木に激突し、血を吐いて崩れ落ちた。

自慢の『金剛の大盾』の表面には、深々と三本の爪痕が刻まれている。

一撃。たった一撃で、パーティーの守りの要が半壊した。


「嘘……でしょ……?」


ミリアが呆然と呟く。

だが、感傷に浸る暇はない。続いて巨人の棍棒が、上空から振り下ろされた。


「ミリア、魔法だ! 迎撃しろ!」

「い、嫌ぁぁぁ! 『炎熱のフレイム・ランス』ッ!!」


ミリアが悲鳴と共に杖を振るう。

放たれた炎の槍は巨人の胸板に着弾し、爆発した。

しかし、煙が晴れた後、巨人は少し焦げた胸を鬱陶しそうに払っただけだった。

魔境の魔物は、表皮自体が高い魔力耐性を持っている。生半可な魔法など、蚊に刺された程度にしか感じないのだ。

今まではレンが事前に弱点部位を見抜き、「関節を狙え」「目は守りが薄い」と的確な指示を出していたからこそ通じていた攻撃だった。

ただ闇雲に放った魔法が、Sランククラスの魔物に通用するはずもない。


「うそ……効かない……なんで!?」

「チッ、役立たずが! ソフィア、ガルドを回復させろ! 俺が出る!」


アレクは聖剣を構え、巨人の足元へ切り込んだ。

流石に腐っても勇者という肩書きを持つだけあり、その剣筋は鋭い。

聖雷斬ホーリー・スラッシュ』!

閃光一閃。巨人の足首に深い傷が入り、巨人がバランスを崩して倒れ込む。


「見たか! これが俺の実力だ!」


アレクが勝ち誇ったように叫ぶ。

だが、倒したのは群れの中の一匹に過ぎない。

その隙を見逃さず、背後から影虎が襲い掛かる。


「しまっ――」


反応が遅れた。

ガブッ。

嫌な音がして、アレクの左肩が影虎の牙に貫かれた。


「ギャアアアアアッ!!」


激痛が走り、アレクは悲鳴を上げた。

黄金の鎧も、Sランク魔物の咬合力の前には紙細工も同然だ。


「痛い! 痛い痛い痛い!!」


アレクは聖剣を振り回して影虎を追い払うが、左腕はだらりと垂れ下がり、鮮血がボタボタと地面を濡らした。


「ソフィア! 回復! 早くしろ!!」

「……無理です」


冷静な声が返ってきた。

見ると、ソフィアは自身の周囲に『聖域の結界』を展開し、その中に引きこもっていた。

透明なドーム状の結界が、彼女一人だけを守っている。


「な、何を自分だけ守ってるんだ! こっちを治せ!」

「私の魔力も有限です。この数の魔物を相手に、あなたたちの無謀な突撃を支えきれるわけがありません。私は私の身を守るだけで手一杯です」

「ふざけるな! 俺たちはパーティーだろ!?」

「契約上、全滅のリスクがある場合は自身の生存を最優先することが認められています。……それに」


ソフィアは冷ややかな目で、血まみれのアレクと、腰を抜かして失禁しているミリアを見た。


「あなたたちの『覇気』とやらは、どこへ行ったのですか? 魔物が逃げていくのではなかったのですか?」


その言葉は、鋭利な刃物のようにアレクのプライドを抉った。

認めたくない。

認めるわけにはいかない。

だが、現実は残酷だ。

次から次へと森の奥から湧き出てくる魔物の群れ。

その全てが、飢えた目で自分たちを見ている。

今まで静かだった森が、レンがいなくなった途端に、地獄の釜の蓋が開いたように牙を剥き始めた。


(まさか……本当に?)


アレクの脳裏に、レンの無表情な顔が浮かんだ。

『火の魔力を強めすぎるのも危険です』

『大声を出さない方がいい』

あいつの言葉は、臆病風に吹かれた戯言ではなかったのか?

あいつがいたから、魔物たちは寄ってこなかったのか?

あいつの『隠密』が、俺たちを生かしていたのか?


「いや、違う! 違う違う違う! 俺は勇者だ! 選ばれし者だ! あんな陰気な荷物持ちごときに守られていたなんて、あってたまるかァァッ!!」


アレクは錯乱したように叫び、聖剣を滅茶苦茶に振り回した。

だが、その抵抗も空しい。

上空から急降下してきた怪鳥が、鋭い爪でミリアを捕らえた。


「キャァァァァァッ!! アレク様ぁぁぁ!!」

「ミリア!?」


ミリアの体が宙に吊り上げられる。

彼女は必死に足をバタつかせ、杖を落とした。

怪鳥はそのまま彼女を木の上に放り投げ、数匹の小型の魔物がそこに群がる。

悲鳴と、布が裂ける音が響き渡る。


「くそっ、くそぉぉぉッ!!」


アレクは助けに行こうとするが、目の前には二体目の巨人が立ちはだかり、行く手を阻む。

ガルドは重傷で動けず、ソフィアは結界の中に引きこもり、ミリアは連れ去られた。

パーティーは崩壊した。

開始数分で、完璧なまでの壊滅状態だ。


「はぁ……はぁ……なんでだ……なんでこんなことに……」


アレクは聖剣を杖にして、どうにか立っていた。

左腕の感覚はない。出血多量で視界が霞む。

周囲を見渡せば、完全に包囲されている。

逃げ道はない。

焚き火は蹴散らされ、薄暗い月明かりだけが、魔物たちのテカテカと光る涎を照らしている。


恐怖。

圧倒的な死の予感。

今まで「自分は特別だ」と信じて疑わなかった世界が、音を立てて崩れ去っていく。

彼はただの人間だった。

強力なボディーガードがいなければ、この魔境では一時間と生き延びられない、ただのひ弱な獲物だったのだ。


「レン……」


無意識のうちに、その名前が口をついて出た。

ついさっきまで馬鹿にしていた、追放した男の名前。

あいつがいれば。

あいつがいれば、こんなことにはならなかった。

あいつが静かに周囲を警戒し、ルートを選び、気配を消してくれていれば、俺たちは今頃、温かいスープを飲んで笑っていたはずだ。


「レンッ!! どこだ!! 戻ってこい!!」


アレクはなりふり構わず叫んだ。

プライドも羞恥心もかなぐり捨てた、断末魔のような叫びだった。


「俺が悪かった! 報酬もやる! ミリアもやる! だから助けてくれ!! 隠してくれ! 俺の気配を消してくれぇぇぇッ!!」


しかし、その声に応えるのは、レンの静かな声ではなく、森を震わせる魔物たちの嘲笑うような咆哮だけだった。

巨人の棍棒が、再び振り上げられる。

影虎が、喉元を狙って身を低くする。


もう遅い。

何もかもが、手遅れだった。



一方その頃。

地獄絵図と化した現場から数キロ離れた地点で、レンは驚愕の光景に直面していた。


「……本気か?」


レンは目の前の少女――人化したフェンリルを見下ろして呟いた。

彼女はレンの足元にぺたりと座り込み、その美しい顔を紅潮させながら、レンのズボンの裾をギュッと握りしめている。

銀色の髪が月光を浴びて輝き、何も身に着けていない肢体は、魔物とは思えないほど滑らかで人間離れした美しさを持っていた。


「本気だとも。我が名はシルヴィア。この森を統べる女王だ」


彼女は誇らしげに胸を張り(そのせいで豊かな膨らみが揺れた)、真っ直ぐな瞳でレンを見つめた。


「我ら魔狼族は、強き者に惹かれる。力自慢の馬鹿どもはいくらでもいるが、私の『絶対嗅覚』を欺き、背後を取れるほどの隠密使いは、数百年生きてきてお前が初めてだ」


シルヴィアはレンの手を取り、自分の頬に押し当てた。

冷たくて、でもどこか温かい肌の感触。


「お前のその『気配を殺す力』と、私の『全てを暴く力』が合わされば、最強のつがいになれると思わんか? ……なあ、私をもらってくれ。お前の好きにしていい。背に乗るのも、撫でるのも、……交尾つるむのも、許可してやるぞ?」


爆弾発言をサラリと言ってのける最強種に、レンは頭を抱えたくなった。

背後からは、微かに爆発音と悲鳴が聞こえてくる。

元パーティーメンバーたちが人生最大の絶望を味わっているその瞬間に、自分は伝説の魔物から逆プロポーズを受けている。

この温度差は一体何なんだ。


「……とりあえず、服を着ろ。話はそれからだ」


レンは自分の黒いコートを脱ぎ、シルヴィアの肩にかけてやった。

彼女はコートの匂いをクンクンと嗅ぎ、「んぅ、お前の匂いだ……落ち着く」と嬉しそうに目を細めた。

その姿は、伝説の魔獣というよりは、ご主人様に懐いた忠犬そのものだった。


「……はぁ。分かったよ。とりあえず、ここを離れるぞ。あそこの騒ぎに巻き込まれるのは御免だ」

「む? ああ、あの雑魚どものことか」


シルヴィアは興味なさそうに、勇者たちがいる方向を一瞥した。


「あの程度の『餌』に群がる下等な魔物どもなど、放っておけばいい。それより、私を撫でろ。もっと褒めろ。お前の隠密は素晴らしかったと、私に囁け」

「はいはい……」


レンは諦めたようにシルヴィアの頭を撫でた。

サラサラとした銀髪の手触りは極上で、彼女は気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らす。

どうやら、とんでもない「拾い物」をしてしまったらしい。

だが、不思議と嫌な気分ではなかった。

少なくとも、自分の能力を正当に評価し、必要としてくれる存在がいるということは、悪いことではない。

たとえそれが、人類の天敵である最強の魔狼だったとしても。


「行くぞ、シルヴィア。街まで飛べるか?」

「愚問だな。風よりも速く運んでやる。しっかり掴まっていろよ、私の旦那様」


シルヴィアはニカっと笑うと、再び巨大な銀狼の姿へと戻った。

レンはその背に飛び乗る。

ふわりと体が浮き上がり、次の瞬間、彼らは夜空へと舞い上がった。


眼下には、真っ黒な森が広がっている。

その一角で、小さな火が消え入りそうに揺らめき、そして無数の黒い影に飲み込まれていくのが見えた。

かつて仲間だった者たちの末路。

だが、レンの心に同情は湧かなかった。

それは彼らが選んだ結果であり、彼らが招いた自業自得の結末だからだ。


「さよなら、勇者アレク。……精々、あの世で自分の覇気とやらを磨いてくれ」


風の音にかき消されるほどの小さな声で呟き、レンは前を向いた。

月は高く、夜風は心地よい。

新しい人生の幕開けに相応しい、静かで美しい夜だった。

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