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君の心に春が止まる

作者: わらびもち

 ピピピピ……ピピピピ……


 冷たい光が鋭く差し込む早朝、目覚ましの音が俺を夢から掬い上げた。瞼が重く、目を開けると痛むせいでなかなか開けられない。


 冷たい空気に晒されながらも手探りで目覚まし時計を停止した。2分ほど目を閉じ続け、ある瞬間、覚悟したように一気に飛び起きた。


「くっ……ふぁああ……」


 両手を結んで天井に伸ばすと、無意識に情けのない声が溢れてしまった。絶妙に霜の降りた窓を少し開き、俺、蓮輪はすわ慶介けいすけの身体を強制的に覚醒させた。


「うわっ、寒っ……」


 時期は二月、もう一月もすれば春に差し掛かるというのに、未だに日本は寒さを忘れはしないようだ。


 そもそも最近の日本は頭がおかしいんだ。四季という特徴を忘れ、ほとんどが夏と冬になってしまっている。俺達が求めているのは春と秋だということを知らないのだろうか。


「いただきます……うん。まぁ美味しいか」


 しかし自然環境に文句を言っても仕方がない。俺は昨日の残り物を朝食として食べ、その後はすぐに顔を洗いに洗面台に向かった。


 母さんも父さんも、この時間にはまだ起きてはいない。休日だからおかしな話でもない。そもそも休日にこんな早起きをしている俺の方がおかしいんだ。


 日課と言えば殊勝なものだが、その本質は褒められるようなものではない。まぁ嫌というわけでもないが……


 未だに覚めきらない感覚を覚えつつも、スポーツウェアに着替えて外に出た。


「あぁ……あぁ〜……」


 薄い布越しに、冷たい空気が肌を撫でた。息を吐けばすぐに白くなる。


 どうしてこうも寒いのか。家の中に篭っていたかったが、俺はいつものごとく意を決して軽やかに走り始めた。


 スッ—スッ—ハッ—ハッ—


 2回吸い、2回吐く。そしてもう一度2回吸う。


 冷たい空気が喉を焼いた。肺に流れ込む風が痛い。


 乾燥するようなこの感覚を好きにはなれないが、嫌いな感覚を抑えてでも俺は走りに来たかった。


 いつからか、気づけば隣に海があった。冬の海辺は風が強く打ちつける。砂が刺さるが目は覚める。じんわりと身体が温まり、そのまま近くの海浜公園へと向かった。


「ふぅ……。えーっと……」


 遊具もなく無駄に広い公園を俺は見渡した。この寒い朝にも、散歩やらランニングやらで人は少なくない。そんな中で俺はある1人を探しているわけだが……


「ケイ! こっちこっち!」


「お、ああ。おはよう、ハル」


 すぐ隣から俺に声をかけたのは清水しみずはるか、中学からの友人だ。彼女とはかつて同じ陸上部だったこともあり、別の高校に上がってからも何かと仲良くしていた。


 ハルと合流した俺は2人で公園の外周をゆっくりと走り始めた。頬を撫でる風がさっきよりも心地良い。……気がする。


「やっぱりケイは陸上には戻らないの?」


「まぁちょっとなぁ。熱が冷めちゃったっていうかなんというか……」


 中学の頃は部活に打ち込めたが、高校に上がってからはどうにもその気になれない。


 勝とうと思えないって言うのかな。あくまで趣味として自由に走っていたい。それを、部活として熱を持ってやりたいとは思えない。


 トットットッ……


 少しの沈黙の中、2人の足音だけがただ静かに響いていた。


「でも今走ってるじゃん」


「趣味の範囲だよ。試合に出たいとか、そんなじゃないから」


「まぁ別に、好きにすればいいとは思うけど……」


 ハルからすれば理解が難しいのだろう。彼女は単純に走るのが好きなんだ。ただ“好き”という動機であって、勝てるかどうかなんて気にしてはいない。


 だからこそ、俺の選択に理解はあってもその理由には本当の意味で理解はしていない。


 そしてだからこそ、俺はハルを好きになったんだ。


***


 中学に進学し、俺はすかさず陸上部に入部した。理由は大したものではなかった。ただ小学校の頃に毎年やっていた持久走、それで誰よりも速かったというだけだ。


 俺は自分が才能のある人間だと思っていた。幼さゆえの勘違いというものだ。今思っても恥ずかしい。


 実際、部内の同級生の中ではそこそこ速い方だった。練習を積めば一番になれるだろう。だから俺は誰よりも走った。


 けれど本当に才能のある人間というのはとても手の届かないところまで登っていた。学校では一番速かった俺も、大会では所詮は中の上だった。


「あぁあ……なんだかなぁ……」


 俺は誰よりも頑張ったと思っていたが、速い人達はもっと頑張っていた。肺を破る思いで走っても、喉を焼く気持ちで踏ん張っても、勝てない相手はいるらしい。


 もちろん、初めての大会でここまで思ったわけではない。むしろ何度も何度も大会を経るごとに、山頂は俺よりもずっと高いところに移っていった。あるいは俺は、気づかぬうちに下に降りていたのかもしれない。


 俺はどうにもならないほどに打ちひしがれてしまったけれど、部活をやめる勇気も持てずにただ義務感で部活を続けていた。


 別に絶望したわけではない。ただ現実を知った、というだけだ。幼さゆえの無敵感を、俺は強制的に剥がされてしまった。


「いやぁ、みんな速いよね。やんなっちゃうわ。あはは!」


「言う割に元気そうじゃん」


「だって楽しいじゃん」


 ある日の大会、ハルはいつもの通り真ん中でゴールをしていた。決して良い結果ではなかった。苦しく走って、それでも勝てなかったというのに、彼女は明るさを捨てなかった。


 俺はそれが気に入らなかった。ヘラヘラとしているようで、悔しさを分かりやすく隠しているように見えた。


 でもそれが本心だということは、何度もその様子を見れば分かった。彼女は勝つことに、一番になることにこだわってなかったんだ。俺とは違って、ただ走ることを、競争すること自体を楽しんでいた。


 勝たなくったっていい。相手にならなくていい。ただ自分の満足のいくことを……


 はっきり言って、俺には理解し難いものだった。気持ち自体は理解できるが、どうしてそのような美しい心を持てるのか、それが俺には分からなかった。


 同じように彼女は俺の気持ちを本当の意味では理解できない。勝ちにこだわりたくなるという気持ちに理解は示してくれるが、その理由は理解できない。


 だからこそ、俺は彼女に惹かれた。いつまでも彼女を見ていたいと思った。


***


「君はねぇ、深く考えすぎなんだよ」


「違ぇだろ。考えてないから普通の考えなんだよ」


 木々の間を走りながら、俺とハルは適当に話していた。爽やかな風が暖かな音を奏でた。走り始めて小一時間か……流石に少し温まりつつあった。


「ってかハルは今はどうなんだ? 速いの?」


「全っ然! やっぱ才能が無いのかな?」


 ハルはケタケタと笑ってそう言った。


「それで続けられるならある意味才能あるよ」


「ある意味って何よ!」


 走りながらのため会話は絶妙な間があった。それでもちゃんと、会話としては成立している。


 俺とは違ってハルは走りを楽しむことができる。速くなかったとしても、それは大きな才能だと思う。少なくとも俺にはできない。


 体温が上がってきたからか、空気はどこか温かくなってきた。そんなことはないだろうが、春が近づいている気分だ。


 ハルは少し息苦しそうにしつつも、その美しさを失わない。こんなに見ていることを知られたくはないが、それでもいつまでも見ていたい。


 俺とハルは価値観が違う。俺は山を登りきることを目標とし、ハルは山を歩くことを娯楽としている。本質的に違うんだ。


「なぁ、ハル。今更言うのもアレだけどさ……」


「……?」


 瞬間、冷たい空気が喉に張り付いた。まつ毛に風が凍りついた。走るのが苦しいことだと思い出した。


 今までこの言葉を伝えなかったのは、俺に度胸がなかったからだ。俺とハルではものの見方が違うから、だから叶わぬことだろうと。


 だけど今日は、決めたんだ。いつまでもこんな冬を過ごしているわけにはいかないと。春の光を浴びなければと。


 だけど、今は冬だということを、冷めきった空気が叩きつけてきた。幼さゆえの無敵感から、強制的に覚めさせられた。


「……? どしたん?」


 さっきまで暖かくなっていたはずの空気が、一瞬にして冷え込むのを感じた。


 一滴の汗が背を伝った。急に目の前に壁が現れ、真っ暗な闇の中に放り込まれた気分だった。世の男子はいつもこんな気持ちなのだろうか……。


「……ハル!」


「わっ! な、何……?」


 俺は苦しい心臓を押さえながら意を決した。関係が崩れたって構わない。今のままでもいいけれど、それ以上に俺は気持ちを伝えたかった。


「今更! だけど……! 俺と付き合って……ください……」


 最初こそ勢いが良かったが、途中からその勢いは殺されていった。急に身体が熱くなり、どうにもならないほどに恥ずかしくなった。


 なんでこんなことを言ってしまったんだ……!


 俺は恐ろしいほどの後悔に食い殺された。雰囲気ムードも何も考えずに、勢いに任せて口を開いてしまった。やってしまった……。穴があったら入りたい……


「えっと……え? ほ、本当に……?」


「……うん。結構マジ」


「そ、そっか……」


 2秒か3秒か、怖いほどの静寂が流れた。依然として寒く冷たい空気だったが、どこか暖かな空気も流れていた。


 そしてハルは顔を赤く染めたかと思うと、プイっと視線を横に逸らしてからゆっくりと口を開いた。


「……なら毎日……毎朝一緒に走ろうね?」


「え? お、おう! もちろんだ!」


 沈黙の少し後、一気に風が暖かくなった。さっきまでの緊張が嘘のようだった。


 朝日が肌に沁み渡り、北の空には富士の山頂が見えた。


 トットットッ……


 暖かい風と共に、2人の足音が爽やかに響いた。空気は喉を焼かなかった。風は春の香りを肺に運んだ。


 この冬は、春に移り変わった。

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