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不運体質な公爵様はハズレ姫を娶らされる

作者: 雫まりも

 


「公爵様も可哀想よね。才色兼備の第8王女様じゃなくて、まさかハズレ姫と結婚することになるなんて」

「ほんとよね。やっぱり、公爵様の“不運体質”は伊達じゃないわね」


 同情するように、でもどこか楽しげに王宮の侍女がそんな噂話を口にする。

 今にもくすくすと笑い出しそうだ。


「ねえ、公爵様って……」

「何ですか?こっちはあなたのお手伝いで忙しいんです。無駄なことは話しかけないで下さい」


 少女の髪を整えながらそんな話をしていた侍女に、その少女が声をかけると先ほどまでの楽しそうな声音が嘘のように冷たく返した。

 その声に少女ははっとした。

 話しかけて邪魔をしてはいけなかったことを忘れていたと。

 今日はその少女、第13王女であるクレア・マクレナンとプレスコット公爵家の嫡男、レスリー・プレスコットとの結婚式がある。

 侍女たちはその準備として、クレアの身支度をしていた。

 わざわざ自分の手伝いをしてくれていた侍女たちに迷惑をかけるなんていけないことだったと、クレアは声をかけたことを後悔した。


「ごめんなさい。不運体質ってどういうことなのか、気になって……」

「ああ、そのことですか」


 クレアはすぐに侍女に謝った。

 もう話しかけて邪魔しないようにするからと伝えようと思ったクレアだったが、次女はクレアの疑問に答えて話を続けた。


「あなたと今日、婚姻を結ぶレスリー・プレスコット公爵様は不運な公爵様とお呼ばれなんです。道を歩けば穴に落ち、買い物に行けば直前で売り切れ、晴天でも彼が出かければ雨が降る。公爵様を知る方々は皆、そんな彼の不運体質をご存知だそうです」

「そんな方なのね。可哀想だわ」

「そうです。とても可哀想な方なんですよ。そして、その不運体質のせいであなたみたいなハズレ姫を娶らされることになってしまったんです。とても不運だとは思いませんか?」

「うん、とても申し訳ないわ……」


 侍女はどこか機嫌良さそうに説明してくれて聞けばもっと教えてくれそうではあったが、クレアはそれ以上話しかけるのをやめて俯いた。

 クレアは自分が誰かと結婚できるなんておかしいと思っていたから、その話を聞いてそういうことだったのかと納得した。

 本当はプレスコット公爵は第8王女と結婚することになっていた。

 しかし、直前になって第8王女は失踪してしまった。

 王家とプレスコット公爵家の結びつきを強めるための結婚を中止することはできない。

 そこで急遽、第13王女のクレアがその代わりとなることになった。


 クレアは自分が“ハズレ姫”と呼ばれていることを知っている。

 国一番の魔術師であった母親と国王である父親の間に生まれたクレアだったが、魔力を一切持っていなかった。

 国王はクレアが生まれて間もなくそれが分かった時に「ハズレだな」と言ったのだという。

 だから、クレアはハズレ姫なのだ。

 頭の出来も悪いから、教育も受けられない。文字も読めない。

 そんな自分と結婚させられるなんて、公爵様は本当に可哀想な方だとクレアは申し訳なく思っていた。

 本当に自分なんかと結婚して良いのだろうかと不安に思っていた。


「ほら、ぐずぐずしないで準備してください。貧相なあなたを何とか見られるようなものにするのは大変なんですから」


 髪を結い終わった侍女が苛立ったように俯くクレアを促した。

 クレアは慌てて立ち上がると、花嫁衣装に着替え始めた。

 ゆっくり考えている暇はない。

 結婚式はもうすぐだ。




 ***




「あなたはこの者を妻とし、病める時も健やかなる時もこの者を愛し、生涯を共にすることを誓いますか?」

「はい、誓います」


 凛とした声でクレアの隣に立つ背の高い男性は迷いなくそう答えた。

 それを聞いたクレアは、自分の旦那様となるレスリー様はこんな格好良くて優しい声をした方なんだと、この時初めて知った。

 急遽決まった結婚であったことと、クレアの準備に時間がかかったこともあり、クレアとレスリーが顔を合わせるのはこの時が初めてとなっていたからだ。


「あなたはこの者を夫とし、病める時も健やかなる時もこの者を愛し、生涯を共にすることを誓いますか?」

「はい、誓います」


 クレアも同じように神父に聞かれた誓いの言葉に対して答えた。

 クレアは教育を受けていなかったが、この結婚のために必要な礼儀作法とマナー、結婚式での流れについては教わっていた。

 次は指輪の交換をして、誓いのキスをする。

 ここまではちゃんと上手にできている。

 クレアは指輪を落とさないか少しドキドキしながらも、レスリーの指に通すことができた。


「では、誓いのキスを」


 神父のその声で、クレアは少し上を向いてレスリーの前に立つ。

 そして、レスリーがクレアのベールを上げた時、クレアは初めてレスリーの顔を見ることができた。

 簡単に頭の後ろで一つにまとめられた髪は少し落ち着いた色合いの金色で、艶のないクレアの髪とは違ってサラサラだ。

 それに、クレアをまっすぐに見つめてくれている瞳は深みのある澄んだ藍色で、誠実さを表しているようだった。

 クレアの頭の悪そうな桃色の髪と瞳とは大違いだ。


「キスをしても、いいですか?」


 クレアがレスリーのことをそんな風に見ていると、こっそりとクレアにだけ聞こえるように声をかけてくれた。

 結婚式の流れの中で、こんなことは教えてもらっていない。

 もしかすると、レスリーが初めて会う相手であるクレアを気遣って聞いてくれたのかもしれない。

 柔らかい笑みを向けて優しい声をかけてくれる彼に、クレアは緊張しながらも頷くと目を瞑った。


「……うっ」


 しかし、待っていても唇に何かが触れる感覚はなく、代わりにそんな呻き声が聞こえてきた。

 うっすらと目を開けると、レスリーはクレアの前で右頬を押さえていた。

 どうやら、指輪を持ってくる役目をしていた男の子がいたのだが、その男の子がその時に使っていたトレイを振り回して手からすっぽ抜けてレスリーの頬に飛んできたようだった。


「今、神と会衆の前において、この二人は夫婦となりました。神がこの二人を祝福し、これからの歩みを導いてくださいますように」


 クレアは大丈夫ですかとレスリーに声をかけようと思ったが、その前に神父が祝福の言葉を述べた。

 神父の方からは二人がキスをしたように見えたのかもしれない。


「不運だ……」


 誰かがそう呟く声が聞こえた。

 そしてそのまま、結婚式は終えられたのだった。



 ***



 誓いのキスは果たされなかった結婚式ではあったが、クレアは予定通りプレスコット公爵家へと嫁ぐことになった。

 結婚式の後、クレアはそのままプレスコット公爵邸へと移り住むことになっていた。

 屋敷までの馬車の中、クレアとレスリーは隣に並んで座った。

 少し疲れた様子のレスリーに話しかけてもいいものだろうかとも思ったが、これだけはどうしても聞きたかった。


「レスリー様。ほっぺたの怪我は大丈夫ですか?とても痛そうでした」


 クレアの隣で気まずそうにしていたレスリーだったが、声かけに反応してクレアの方を向いてくれた。

 そしてまた、あの優しそうな笑顔で答えてくれた。


「心配していただいてありがとうございます。実は僕、簡単な治癒魔法なら使うことができるんです。だから、ほら。もう何ともないでしょう?」


 レスリーはそう言って、トレイが当たった方の頬をクレアに見えるように寄せてくれた。

 ふわっといい匂いがする。

 そんなことに少し気を取られつつも、レスリーの頬を確認すると傷も腫れもなかった。


「そうだったんですね。もう痛くないのなら、良かったです」


 クレアはそう返すと、近くなった距離から少しだけ離れるように馬車の端に寄った。

 自分は香水なんて持っていないし、今日はお風呂には入っているけれど彼みたいにいい匂いなんてしないだろうからと、クレアは近づいているのが恥ずかしくなった。

 今まではそんなことが気になったことなど一度もない。

 しかし、何故だかその時のクレアはそんな風に思って、彼から身を引いた。


「……」


 レスリーも元の位置に座り直すと、それ以上クレアに話しかけることはなかった。

 けれど、クレアはレスリーとのこの短い会話を心の中ではとても嬉しく思っていた。

 自分が話しかけても嫌な顔をせずに答えてくれたから。

 クレアは本当は話すことが好きだ。

 しかし、王宮では皆、クレアに話しかけられると面倒そうに、嫌そうに短く返事をするだけだった。

 返事をくれないことさえあった。


(レスリー様は、とてもお優しい方なんだわ。また、少しだったら話しかけてもいいかな?)


 あまりしつこく話しかけると、ハズレ姫の自分に話しかけられることだけでも嫌だろうに、もっと嫌われてしまうかもしれない。

 1日1回。いや、3日に1回でもいいからレスリーが自分と話してくれますようにと、クレアはこっそり願った。



 公爵邸に着くと、レスリーはクレアに屋敷にいる人達を紹介した。


「彼は僕の補佐をしている執事長のロイ。それと、彼女はクレア様付きの侍女となるアンナです。分からないことがあれば、彼らに何でも聞いてください」

「クレアと申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします」


 クレアは彼らに深々と礼をして、礼儀作法の時に習った挨拶をした。

 今まで自己紹介なんて数えるほどしかしたことがなかったクレアは、上手にできたか不安だった。

 間違えてなかったかなと、2人の反応を見るとどこか戸惑ったような様子だった。

 やっぱり、自分はハズレ姫だから挨拶も上手くできないんだと、クレアは落胆した。


『失敗した時は、どうするんでしたっけ?』


 クレアの頭に、何度も言われたその言葉が響いてきた。

 クレアは体が震えそうになるのを抑えながら、手袋に手をかけた。


「ご丁寧なご挨拶、ありがとうございます。ですが、私どもにはどうぞ気軽にお話し下さい。クレア様はこの屋敷の奥様なのですから。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

「馬車での移動でお疲れでしょう。お部屋にご案内いたします。ゆっくりとお休み下さい」


 次は叱られるのだろうと覚悟していたクレアだったが、2人から返ってきたのはそんなクレアを気遣う言葉だった。

 クレアは手袋にかけていた手を戻した。


「ありがとう。2人ともよろしくね」


 クレアは2人の気遣いが嬉しくて、心からの感謝を伝えた。

 いつも王宮ではお礼を伝えても、反応してもらえることはなかった。

 けれど2人はクレアの言葉をしっかり受け取ってくれて、にっこりと笑顔で返してくれた。



「では、こちらでお寛ぎ下さい。お夕食の時間になりましたら、また呼びに参ります」


 クレアが案内されたのは、プレスコット公爵邸の奥様のために用意された部屋だった。

 本来だったら失踪した第8王女が過ごす予定だった場所なのだろう。

 クレアは自分なんかにはもったいないと思ったけれど、そのまま使わせてもらえるようだった。


「案内してくれてありがとう。ねえ、アンナ。1つだけ聞いてもいい?」

「はい。何でもお聞きください」


 先程、レスリーがアンナ達には何でも聞いていいと言っていたからと、アンナに尋ねてみるともちろんですと頷いた。

 クレアは王家を出る前に、結婚について一通りのことは教えられていた。

 その中で、結婚式が終わって公爵邸に着いた後の流れで1つだけよく分からないことがあった。


「“初夜”っていうのをこの後の夜にするらしいのだけれど、それってお夕食の前?それとも後?私は何をすれば良いの?」

「……」

「アンナ?」


 クレアの質問を聞いたアンナは笑顔のまま固まってしまった。

 何でも聞いて良いと言われたからといって、聞いてはいけないようなことを聞いてしまったのだろうかとクレアは不安になった。


「……すみません。恐らくお夕食の後のものだと思いますが、私もあまり詳しくありませんので旦那様に確認いたしますね」

「面倒なことを聞いてしまってごめんなさい。どうしても知りたいわけじゃなくて、ちょっと気になっただけだから。そこまでしてもらわなくても……」

「いいえ、面倒だなんてとんでもありません。私は奥様付きの侍女ですから、奥様をお手伝いすることが仕事です。奥様が我慢されて私の仕事がなくなってしまったら、私は仕事を辞めなければならなくなってしまうかもしれません」

「それはいけないわ」

「はい。ですから、奥様は遠慮なさらずに私に何でもお聞きください」

「うん。分かったわ」


 とにかく、質問したことは駄目なことではなかったようで、クレアはホッとした。

 侍女の仕事が増えるようなことを言ってしまうのは怒られることだと思っていたが、王宮と公爵邸では違うようだ。

 自分は頭が悪くて無知だからしっかり覚えておかないとと、クレアは心に留めた。


 アンナはクレアの返事に、また優しい笑顔を向けてくれた。

 今までこんな風に言ってもらえることはなかったからだろうか。

 胸がくすぐられるような不思議な感覚がした。



 ***



「奥様は心の綺麗な純粋そうな方ですね。安心いたしました」


 プレスコット公爵邸の執務室にて、レスリーが腰を落ち着けて早々執事長のロイが話しかけてきた。

 まるで、第8王女とは違ってとでも含みがありそうな感じだ。

 ロイはレスリーの乳母兄弟であり、幼い頃からまるで本当の兄弟のように過ごしてきた。

 今回の結婚については、レスリーから逃げるように失踪した第8王女にも、レスリーを蔑ろにするような国王の態度にもかなり憤慨していた。

 結局はクレアとすることになった結婚についても、不満をこぼしていた。

 だが、そんなロイですら、クレアのことをすでに受け入れつつあるようだ。

 クレアがどんな人物なのか、レスリーはまだわかりかねていた。

 彼女との結婚は数日前までは、予定外のことだったから。


 プレスコット公爵家は代々、聖地や大聖堂を領内に抱えるセントリーベル領をおさめている。

 王家とのつながりを強めるために、王命によってプレスコット公爵家嫡男と王女との婚姻が決められていた。

 第8王女は魔術の才能に優れ、気の強い女性だった。

 レスリーは一度会ったことあったが、彼女が不運体質の自分に対してあまり良い印象を持っていないだろうということは感じ取っていた。

 だが、結婚が嫌で直前になって失踪するとまでは思っていなかった。

 王命としては王女と結婚しさえすれば良いとのことで、レスリーに対して侮辱もいいところだが、すぐに代わりの王女を差し出してきた。

 それが、第13王女のクレアだった。

 彼女は社交の場にはほとんど顔を出していないため、どんな人物かあまり情報がなかった。

 ただ、国一番の魔術師の母親から生まれたのに、魔力を一切持たないハズレ姫と呼ばれているということはすぐに分かった。

 そのような蔑称で呼ばれているクレアの立場は強いものではないのだろう。

 レスリーとの結婚が嫌だからといって、逃げ出すこともないと選ばれたのかもしれない。

 プレスコット公爵家と王家との間での婚姻はどうしても必要だ。

 クレアには申し訳なく思うが、せめてプレスコット公爵邸では不自由のないように彼女を迎えようと、レスリーは今日の結婚式に臨んでいた。


 そして、結婚式でクレアに初めて会った時、装飾で取り繕ってはいるが王女らしからぬ彼女にレスリーは内心驚いていた。

 ベールを上げて、顔を合わせたクレアはまだ少女のようでもあった。

 今日は誓いのキスさえできなかったが、それはそれで良かったのかもしれない。

 彼女を妻としてだけではなく、純粋な乙女として丁重に接しようと心に決めていた。


「旦那様、アンナです。奥様のことで、少しご報告したいことがございます」

「ああ、入ってくれ」


 先程、クレアを部屋へと送り届けたばかりのアンナがレスリーの執務室を訪れた。

 アンナにはクレア付きの侍女として、そしてレスリーへの報告係として些細なことでも伝えるように言っていた。

 しかし、この短時間で何があったというのだろうか。


「失礼します。奥様はお部屋へとご案内し、夕食までお休みいただくようにお伝えしています」

「ありがとう。その時に何かあったのか?」

「何かあったというわけではありませんが、奥様は先程の挨拶の時もそうですが、侍女の私にも遠慮なさっているような方でした。ですので、差し出がましいとは思いつつも、侍女への態度について提言させていただきました」

「そうだな。恐らく王宮での彼女の立場は良くないものだったのだろう。プレスコット公爵邸の女主人としての彼女を支えてあげてくれ」

「かしこまりました。それと、もうひとつお耳に入れたいことが……」

「なんだ?」


 それまでの報告は滞りなく話していたアンナだったが、続きを言うのが躊躇われるように言いづらそうにその先を口にした。


「奥様は私に“初夜”とはどんなことをするのかとお尋ねになりました。私から説明しても良いものかとその時は濁してしまったのですが」

「……そうか」


 レスリーとアンナ、そしてそれを聞いていたロンも頭を抱え、息をついた。

 クレアは成人していると聞いていたが、見た目としても言動としても本当はもっと幼い少女なのかもしれない。

 彼女は一体、どんな人なのだろうか。

 レスリーは彼女との結婚がどんなものになっていくのか、全く想像ができなかった。

 そして、今夜はどう乗り越えようかと頭を悩ませ始めた。



 ***



「おなかすいたなあ」


 クレアは夕食後にも関わらず、窓の外を眺めながら一人の部屋でそんなことを呟いた。

 夕食の時間になって呼びにきてくれたアンナに連れられてやってきた食堂にはレスリーが待っていた。

 机には豪華な料理が並べられている。

 とても美味しそうな料理だった。

 けれど、クレアは食べ始める前にこういった食事の時のマナーを思い出した。

 フォーク、ナイフの使い方。音を絶対に立ててはいけないこと。溢さないように食べること。

 慣れない料理にマナーを間違えたらどうしようという不安もあって、クレアは夕食をほとんど食べることができなかった。

 それに……


「また血が滲んできちゃってる」


 クレアは自分の手の甲に痛みを感じ手袋を取ると、そこにある無数の傷に目をやった。

 これはクレアが失敗したことへの罰の証。

 クレアは失敗した時にはいつも両手の甲を差し出して罰を与えてもらっていた。

 ハズレのできない子だから。

 血の滲んでいる新しい傷は最近のものだ。

 結婚について教えてもらうときに覚えが悪かったから。結婚式の準備の時にぐずぐずしていたから。

 たくさん失敗したから、たくさんの罰を与えてもらっていた。

 だから、クレアは手の痛みもあって、上手に料理を食べられなかった。


 次の夕食の時には今日よりももう少し食べられるかな、難しいかなと思いながら、クレアは空腹を紛らわせるために窓から庭を見下ろした。

 月夜の下に見える大きな庭の一角にりんごのきがあるのが目に映った。


「美味しそう……ちょっと見に行くだけなら良いかな」


 クレアは誘惑に耐えきれずに、部屋を抜け出し庭へと向かった。

 りんごの木には大きく実ったりんごの実がたくさんなっていた。

 クレアは王宮にいた時は食事をあまり与えられていなかった。

 クレアは王女にも関わらず、小屋のような王宮内の離れに住まわされていたから、その近くにあった果物や雑草を食べて空腹を満たしていた。

 けれど、結婚式までのこの数日は準備で忙しく、雑草も食べることができていなかったからクレアはどうしてもお腹が空いていた。


「……でも、勝手に食べるのはいけないことよね」


 もしかすると、食べるために育てているりんごかもしれない。

 それを勝手に食べたら泥棒だ。

 クレアは悩んだが、地面に落ちている少し傷んだりんごを拾って食べることにした。

 一口、二口齧る。十分食べられるおいしいりんごだ。

 クレアは夢中でりんごを食べ進めた。


「クレア様?ここで何をしているのですか?」


 りんごを半分くらい食べたところで、突然そんな声がかけられた。

 クレアは食べるのに夢中で、誰かが近づいてきていたことに気がついていなかった。

 クレアが顔を上げると、そこには少し驚いた様子のレスリーがいた。

 だが、レスリーはクレアの手の中にあるりんごに気づくと、表情を険しくした。


「……あなたは何を食べているのですか?どうしてそんなものを」


 語気を強めたレスリーの問いに、クレアは間違ったことをしてしまったのだと分かった。

 やっぱり、勝手に食べてはいけなかった。

 この人を怒らせるくらいなら、空腹なんて我慢すれば良かったとクレアは酷く後悔した。

 失敗して怒られることも罰を受けることも慣れている。

 それでも、今はそのことをいつも以上に悲しく思った。


「ごめんなさい。とてもおなかがすいていて、勝手にりんごを食べてしまいました。間違った私に罰を与えてください」


 クレアは両手の甲をレスリーに差し出した。

 部屋を出る前に手袋は脱いできたので丁度良かった。

 頭を下げたクレアに、レスリーが近づいてくるのが分かった。


「なんて酷い傷……あなたは何度、こんなことをされていたのですか?」

「え?」


 クレアはいつものムチが当たる鋭い痛みを覚悟していた。

 けれど、クレアが手に感じたのはレスリーの温かい手の温度だった。

 そして、レスリーはクレアの手を包み込むと呪文を唱えた。

 クレアが手の甲に体温とは違う温かさを感じると、その後から痛みも消えていた。

 手を見ると、新しい傷も昔の跡になっていた傷も全部なくなっていた。


「大きい声を出してしまってすみません。僕は怒ってはいませんよ。庭にあるものもなんでも好きにしてもらってかまいません。ですが、腐りかけのものを食べるのはやめてくださいね」


 レスリーは申し訳なさそうに、優しい口調に戻ってそう説明してくれた。

 今までのクレアの食事は腐りかけのものもよくあったし、腐りかけのものを食べてはいけないことを知らなかった。

 自分は本当に知らないことばかりだ。

 クレアは優しい人たちにまた迷惑をかけてしまったと、沈んだ気持ちになり俯いた。


「クレア様。上を見てくれませんか?」

「上ですか?」


 レスリーはまたクレアに優しく声をかけてくれた。

 クレアは言われた通り、彼の指差したりんごの木に視線を向けた。

 レスリーが先ほどとは違った呪文を唱える。

 すると、りんごか1つ枝からもぎ取られて空中移動し、クレアの手の中へと落ちてきた。


「今度からりんごが欲しいときは僕に言ってください。いつでも、取りに行きますから」

「……ありがとうございます」


 クレアは手の中にあるりんごをじっと見つめながらお礼を言った。

 今までにないくらい嬉しい気持ちが胸の中にあって、クレアは戸惑っていた。

 お腹が空いていて食べたくて欲しかったりんごがもらえた。

 だから嬉しいのだろうか。

 いや、それだけじゃない。

 レスリーがクレアのために何かをしてくれたことが嬉しかったのだ。

 クレアはりんごからレスリーへと視線をパッと移した。


「レスリー様、ありがとうございます。とっても嬉しいです。傷を治していただいたことも、りんごを取っていただいたことも」

「喜んでもらえたなら良かったです」


 レスリーはクレアのその言葉に満足したように笑っていた。

 では戻りましょうか、とレスリーがクレアの手を取ろうとした時、りんごの木の上からガサっという音がした。


「痛っ!」


 そして、次の瞬間にはそんなレスリーの声とゴツンという音がした。

 りんごがレスリーの頭の上に落ちてきたのだった。

 驚くクレアを前に、レスリーはバツの悪そうな顔をしていた。



 ***



 庭から屋敷に戻る途中、レスリーはクレアを夜食に誘った。

 寝る前に寝室で食べながら少し話をすることになった。

 食堂よりも小さな丸いテーブルを2人で挟む。

 そのテーブルの上には先程のりんごが食べやすいようにカットされて置かれた。


「どうしてお腹が空いていたのに夕食を食べなかったのか、聞いても良いですか?」


 促されてりんごを3切れほど食べたクレアに、レスリーが少し聞きにくそうに質問した。


「マナーが……」

「マナー?」


 質問に答えようとしたクレアだったが、その先を言い留まった。

 マナーに不安があって十分に身についていないことを怒られないように、夕食の時は気づかれないように頑張っていた。

 ここで言ってしまっては意味がない。

 だから、クレアはその続きを言うのが躊躇われた。


(……でも、本当にマナーができないことを言ったら怒られるのかな?)


 こんなにも、クレアの話を真剣に聞こうとしてくれる人は今までいなかった。

 そんな人が聞き出したことで怒るとは思えなかった。

 言葉の続きをなかなか言い出そうとしないクレアを前にしていても、レスリーに面倒そうな様子はなく、ただクレアが話し出すのを待っていてくれた。


「……マナーに自信がなくて、ゆっくり少しずつしか食べられませんでした。それに、手が痛くて上手に食器が使えなかったんです」

「そうだったんですね。これからは僕との食事の時はマナーを気にせずに食べてもらって大丈夫ですから、いっぱい食べて下さいね」


 レスリーは拍子抜けするくらいあっさりとクレアの告白を受け入れて、マナーのことも許してくれた。

 言おうかどうしようか、悩む必要なんてなかったようだ。

 そして、レスリーはロイに目配せして、サンドイッチが乗った皿を机の上に運ばせた。


「りんごも美味しいですが、サンドイッチもどうですか?きっと、夜食にピッタリだと思います」


 どうぞ、とレスリーはクレアに手に取るように促す。

 ふわふわのパンと新鮮な食材が挟まった見た目から食欲のそそられるようなサンドイッチだ。

 だが、クレアは食べたいと思いつつも、まだすぐには手を伸ばせずにいた。


「食べられそうであれば、遠慮せずにどうぞ。僕もいただきますね」


 レスリーはクレアにそれ以上強くは勧めず、自らがサンドイッチを手で掴んで口に運んだ。

 その姿を見たクレアは、同じようにサンドイッチを手に取って口にした。


「美味しい……」


 クレアの口の中には、新鮮な野菜とハム、ふわふわなパンの食感が広がっていた。

 こんな美味しいものは初めて食べた。

 クレアには豪華な食事を食べる機会が今までにも何度かあった。

 でも、その時はいつもマナーで緊張していて味なんて分からなかったから、これが安心して味わって食べられた初めての食事だった。


「そうですよね。美味しいでしょう?うちのシェフの腕はとても良いんです。だから、マナーを気にして残すよりも、そうやって美味しそうに食べてくれた方がシェフ達も喜びます」

「あ……」


 クレアは言われてその時気づいた。

 マナーばかりに気を取られていたけれど、料理を作ってくれた人たちに申し訳ないことをしていたことに。


「これからは、残さず食べようと思います」

「ぜひそうして下さい」


 クレアの返事に、レスリーはさらに嬉しそうに頬を緩めた。

 やっぱり自分は知らないことが多い。

 けれど、この屋敷に来てから知ったことは、温かい気持ちになれることばかりだとクレアは思った。


 レスリーとサンドイッチを分け合って、一緒に美味しいですねと言いながら食べる。

 一緒に話をする。

 クレアは優しい彼のことを知って、自分のことも彼に知ってもらえている感覚がした。


「これが“初夜”なんですね」

「……はい?」


 そんな感覚の中、クレアはふと思ったとこを呟いた。

 だが、クレアのその言葉を聞いたレスリーはどこか戸惑ったような声を出した。

 また、間違ったことを言ってしまったのだろうかとクレアは不安になった。


「結婚初日の夜に、夫婦の仲を深めるために交流するのが初夜だと教わりました。レスリー様との仲が深まっていると思ったのでそうだと思ったのですが、違いましたか?」


 クレアは不安げにそう尋ねたが、その言葉を聞くとレスリーは表情を緩めた。


「そうですね、その通りです。間違っていませんよ。僕とクレア様が仲良くなれていると、僕もそう思います」


 クレアは自分が言ったことが間違いではなかったことに安堵した。

 そして、レスリーもそう思ってくれていて良かったと思った。


「レスリー様」

「はい、なんですか?」


 クレアは自分の胸の内から沸き起こる感情を抑えきれずに、彼の名を呼んだ。

 そして、自分の気持ちを伝えた。


「レスリー様にはハズレ姫の私と結婚するなんてとても不運なことだったと思いますが、そんな私を受け入れてくださったこと、とても感謝しています。私と結婚していただいて、ありがとうございます」


 レスリーが不運体質だから、ハズレ姫の自分と結婚することになった。

 それなのに、レスリーは嫌な顔をせずにクレアのことを受け入れてくれた。

 そのことをクレアは申し訳ないと思いつつも、同時に心から感謝していたからそのことを伝えたかった。

 すると、クレアの目の前にいるレスリーは少し微妙な顔をして首を振った。


「クレア様。あなたは勘違いしています。僕はクレア様との結婚が不運だったとは少しも思っていません。むしろ、幸運なことだったと思っています。こちらこそ、この屋敷に来てくださって、僕と結婚してくださってありがとうございます」


 レスリーはクレアに対して、そんなふうにお礼を言ってくれた。

 本当に優しい人だ。

 クレアに気を遣ってそう言ってくれたのだろうとクレアは思った。

 でも、本当にレスリーがそう思っていてくれたらどんなに嬉しいだろうかとも思っていた。



 ***



 クレアは夢を見る。

 まるで暗い闇の中にいるような夢。

 光のない闇の中でも目が見えるから不思議だ。

 声が聞こえる。赤ちゃんの泣き声。

 この世に生まれたことを力一杯主張するように泣いている。

 でも、その赤ちゃんに誰も見向きもしない。


「ハズレだな」


 赤ちゃんの泣き声の他に男の人の声が聞こえた。失望するような冷たい声だ。

 そして、女の人の泣き声も聞こえてきた。


(待って……!!)


 クレアは女の人がしようとしていることに気づいて、声を上げようとした。

 だが、声は伝わらず、目の前には悲しい光景が広がる。

 女の人が自らの胸を刺し、命を絶ってしまったのだった。

 赤ちゃんがハズレだったことに絶望して。


(お母様!!)


 その声も届かない。

 クレアに魔力がないハズレだったから、クレアが生まれたから、母は死んだ。




「……様、クレア様!」


 心配するような声、揺すられる感覚の中、クレアは目を覚ました。

 怖かった、悲しかった。

 そんな感情が余韻として残っている。


「クレア様、大丈夫ですか?酷くうなされていましたが、夢見が悪かったのですか?」


 クレアの隣で寝ていたレスリーがうなされるクレアに気づいて起こしてくれたようだった。

 夢見は悪かった。何度も見る夢だ。クレアが生まれた時の夢。

 怖くて悲しくて何もできなくて、自分がどんな存在なのかを思い出させるような夢。

 クレアは瞳からいつの間にか溢れていた涙を拭った。


「……大丈夫ではないです」

「そんなに悪い夢だったのですね。僕に何かできることはありますか?」


 夜中に起こされることになったのに、レスリーはそうやって心配してクレアを気遣ってくれる。

 やっぱり、大丈夫じゃない。

 こんなに優しい人と自分が結婚することは、間違っていた。


「レスリー様。私との結婚をなかったことにしてもらえませんか?私は、レスリー様の結婚相手には相応しくありませんから」

「……どうして、突然そんなことを思ったのですか?」

「私はレスリー様みたいに優しくて素敵な方と結婚してはいけないんです。私はハズレだから。私は本当は生まれない方が良かったから」


 自分が生まれたせいで母は死んでしまった。

 ハズレの自分が生まれなければ、今も優秀な魔術師の母は生きていた。

 自分が母を殺した。

 そんな人間を誰も愛さない。

 そんな人間だから愛されてはいけない。


 何度も何度も言われた言葉。

 少し優しくしてもらったからって、忘れてはいけない言葉。

 だから、忘れかけようとしていたクレアに夢を見せたのだろう。

 思い出せて良かった。


「クレア様はハズレなんかではありませんよ。純粋な素敵な方です」

「レスリー様は知らないんです!お母様は私がハズレだから、自ら命を絶った。私はお母様にもお父様にも愛されない。そんな人間なんです!」


 言いたくなかった。レスリーには知られたくなかった。

 でも、自分は本当はそんな人間なのだから仕方がない。

 レスリーも王宮の人と同じように、自分のことを嫌なものを見るような目で見るようになるだろうか。

 クレアはレスリーの様子を伺ったが、彼の反応はクレアが予想していたものとは違った。

 彼は怒っていた。

 それも目の前にいるクレアではない何かに怒っているようだった。


「……誰かにそんなことを言われたのですか?」

「お父様にも王宮の皆にもそう言われました。皆、私がハズレの悪い子だって知っています。私は誰にも愛されない子だって」

「違います!愛されないなんてそんな嘘、信じないで下さい。あなたはちゃんと愛されています!」

「それこそ嘘です!そんなこと信じられません!」


 クレアはもうこれ以上レスリーの言葉を聞きたくないと耳を塞ごうとした。

 だが、その前にレスリーがクレアの腕を掴んだ。


「クレア様、聞いて下さい。あなたは愛されています。だって、あなたには母親が自分の子供にしかかけられない加護魔法“母の敬愛”がかけられていますから」

「……かご……まほう?」


 クレアはレスリーの言葉に腕の力を抜いた。

 聞き馴染みのない言葉。

 だが、クレアはレスリーが自分を慰めるためだけに、根拠なくそう言っているわけではないことが分かった。


「はい。加護魔法です。その人のことを大切に想い、傷ついてほしくないと想い、守るための魔法。その魔法があなたにはかけられているんです」

「私のお母様が私にその魔法をかけてくれたということですか?」

「はい、その通りです。それも強力なものが。偉大な魔術師だったあなたのお母様にしかできない術です。あなたはお母様に愛されていたんですよ。僕はクレア様に初めて出会った時から、あなたが愛されている人なんだと分かっていましたよ」


 レスリーは優しく穏やかな表情で、けれど力強く真っ直ぐにクレアを見つめてそう言った。


(……私が愛されている人?)


 クレアはレスリーが言ったことを頭の中で繰り返したけれど、すぐに理解することができなかった。

 まるで夢のような話で現実味がなかったから。

 誰かに愛されていればと願ったことがある。

 そして何より、家族に愛されたかったと願っていた。


「……お母様は私が嫌で命を絶ったのではないのでしょうか?」

「こんな加護魔法をかける人がそんなことをするなんて、絶対に有り得ません」


 レスリーはクレアの問いを強く否定した。


「……お母様は私のことを愛してくれていたのでしょうか?」

「はい。絶対にあなたのことを心から愛していましたよ」


 レスリーはクレアの言葉を優しい笑顔で強く肯定してくれた。

 クレアは自分は誰にも愛されていないと思っていた。

 父にも母にも見捨てられた自分は、愛されることはないと思っていた。

 けれど、自分は母に愛されていた。

 それを知ったクレアは、自分の中に温かい母からの愛があるような気がした。


「……お母様」


 クレアは呼びかけるようにそう口にした。

 もちろん返事はない。

 けれど、クレアは自分を産んでくれた、愛してくれた母の存在を感じた。


「お母様……お母様!」


 その言葉を口にするたびに、クレアの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 そして、いつの間にかクレアは大声で泣き出していた。

 それは今はこの世にいない母を寂しく思っての涙か、母に愛されていたことを嬉しく思っての涙か、本人にも分からなかった。

 ただ、今まで仕舞い込んでいた感情が溢れ出して止まらなかった。


 そんなクレアの肩に手の温もりを感じた。

 レスリーが泣きじゃくるクレアに何も言わず、ただ肩を抱いてくれていた。

 クレアはレスリーに縋り付くように涙を流し続けた。

 今までの辛かったこと、悲しかったことを全て出し切るように。

 明日から自分も自分を愛していけるように。


 そんなクレアが泣き疲れて眠るまで、レスリーはクレアの傍にいてくれた。




 ***




 とある日の昼下がり、執務室の窓から外を見たレスリーは庭にクレアがいるのを見つけた。

 花を見ているにしては花壇から距離が近く、座り込んでいるようだ。

 何をしているのだろうかと、レスリーは様子を確認しに庭へと降りることにした。


「クレア様、良い天気ですね」

「レスリー様、こんにちは」


 少し急ぎ足でクレアの元に向かったが、そんなふうに何気なく声をかけた。

 レスリーの声かけに反応して振り返ったクレアに、レスリーは驚いた。

 クレアはどうやら花を食べているようだった。

 だが、レスリーはなんとか驚きを隠して、また注意するようなことを言わないように意識してクレアに尋ねた。


「美味しいのですか?」


 そう言って、レスリーはクレアが食べていた花と同じものを取って自分も食べてみた。

 少し酸っぱいような変な味だ。

 美味しいとは思わなかったが、食べられなくはなかった。

 微妙な表情のレスリーにクレアは小さく笑った。


「前に王宮にいた時に、同じ花をよく食べていたんです。このお屋敷のお庭にも咲いていたのでつい食べてしまいました」

「そうだったんですね。この花はいろいろなところに咲いていますよね」


 クレアが手に持つ黄色の小さな花はカタバミといって、実は花壇で育てている花ではなく雑草だ。

 けれどレスリーは、今後は庭師に指示してその花の花壇を作ることにしようと決意した。


 クレアがプレスコット公爵邸に来てから2週間が経とうとしていた。

 初めてクレアが屋敷に来た日の夜、泣きながら眠りについた彼女は目が覚めると付き物が落ちたように明るくなった。

 レスリーや使用人たちによく話しかけたり、屋敷の中を楽しそうに回ってみたりしていた。

 その中で、クレアには全く意図はないのだろうが、普通とは違った驚くような行動をすることが多々あった。

 きっと王宮ではほとんど1人で過ごしてきたクレアにとっては普通のことなのだろうが、プレスコット邸の人間たちは驚かされてばかりだった。

 屋敷の主人であるレスリーはそのクレアの行動に振り回されてはいたが、レスリーにとってそのことは全く苦ではなかった。


「この花は幸運の花なんです」


 クレアは新しく摘んだ花を口に運びながら嬉しそうにそう言った。

 レスリーはこの花について名前は知っていたが、そういった話は聞いたことがなかった。


「幸運の花ですか?」

「はい。王宮にいた時、お腹が空いてどうしようもないと思っていた時に見つけました。食べても大丈夫なものなのか分かりませんでしたが、食べてみたらお腹を壊すこともなくちょっと元気にもなったんです」

「……そうですか。そんなにお腹が空くことがあったのですね」

「あ、でも、他にもお腹が空いている時に、空からうっかり鳥が落としたパンが降ってきたことがあったり、動物が起き忘れたのか扉の前に木の実が置いてあることもありました。そんな幸運ばかりでした」


 クレアはそうやって明るく嬉しそうに話すが、レスリーは彼女に共感できず、酷く胸が痛んだ。

 クレアは本心から良かったと思っているのだろう。

 彼女は自分が置かれていた状況をおかしいと思うことなく受け入れてきたから。

 クレアは話を聞いて黙り込んでしまったレスリーに、不安げな表情を向けた。


「私はまた何か、間違ったことを言ってしまいましたか?」

「あなたは何も間違っていません。あなたが色々なことに幸運だと思うことは素敵なことです。ですが、あなたの今までの状況は全部間違っています。あなたがそんなことをされていたことが許せません」


 クレアの王宮での暮らしは普通以下で、本来なら当たり前に受け取れることさえ受け取れずにいた。

 そんな環境にいれば常識など分かるはずもなく、幸運の基準も低くなるだろう。

 彼女が幸運だと思えることは素晴らしいことだ。

 けれど、今の彼女の幸運を当たり前にして、さらに幸運なことはこの世に溢れていることを彼女に知ってもらいたいと思った。


「クレア様。きっとあなたはこれから色々なことを知って、色々なことを感じていくと思います。その中で、僕と一緒に新しい幸運もたくさん見つけていきましょう」


 レスリーは優しくクレアの手を取り、そう言った。

 クレアは言われたことの意味を完全には分かっていないようだった。

 けれど、レスリーからの提案に嬉しそうに頷いた。




 執務室に戻ったレスリーは、机の上に置いていた報告書に目を落とした。

 今朝届いたばかりの王宮でのクレアについての報告書だ。

 クレアはハズレ姫と呼ばれ、王宮でも冷遇されていたのだろうと想像はしていたが、その報告書には予想以上のことが書かれていた。

 小さい子供の頃からクレアを王宮内の小屋に追いやり、身の回りの世話も十分にしない。食事も十分には与えない。

 王族としての教育をしないどころか、使用人さえクレアを王族として扱っていなかったという。

 しかも、やはりクレアは成人していなかった。

 成人まではあと半年あるという。

 正直なところ、もっと幼いのではないかと思っていたが、王宮での生活では十分に成長できなかったのだろう。


 そして、レスリーが一番気になっていたクレアの母親について。

 クレアの母親が亡くなった原因は、やはりクレアが王宮の人間から言われていたようなものではなかった。

 それどころか、クレアの母親は国王に殺されていた。

 クレアが生まれてすぐに魔力がないと分かった国王がクレアを殺そうとした。

 それを阻止しようとして、母親は殺されてしまった。

 そして、殺される直前、彼女は最大級の加護魔法“母の敬愛”をクレアにかけた。


 “母の敬愛”は実際にはまじないのようなものだ。

 子供が大人になるまでに病気にかからないように、事故に遭わないように成長できますようにという願いを込めたもの。

 だが、偉大な魔術師の母親がかけたそれは、まじないどころではなく国宝級の魔法といっても過言ではなかった。

 クレアに危害を加えることはできないし、そんなことをした者には災いが降りかかるだろうとされていた。

 だから、クレアは酷い扱いであっても生かされ、王宮に置かれていた。

 加護魔法があるうちはクレアには誰も何もできない。

 だが、母親の加護魔法が切れた後は、魔力も一切ないクレアを守るものは何もない。

 もし、クレアがあのまま王宮で暮らし、成人を迎えて加護がなくなっていたら……


 そうだった時のことを考えたレスリーは報告書を破り捨てたい気持ちになったが、部下が苦労して作成してくれたことを思い出して机に置いた。

 そして心の内を整えるように、先ほどクレアが帰り際「これは特別に美味しそうです」と選んで渡してくれた花に視線を移した。

 劣悪な環境にいたにも関わらず、純粋で優しい心をもったクレアには幸せになってもらいたい。

 幸せにしてあげたい、そう思わずにはいられない。

 ……でも、彼女にとってのその存在が自分でいいのだろうか。


 レスリーは鍵のかかった引き出しを開けて、1つの封筒を見つめた。

 その中には、未記入の離婚届が入っている。


「またそんなもの眺めて。出すつもりなんてないくせに」


 ティーセットを持って部屋に入ってきた執事のロイが呆れたようにレスリーに声をかけてきた。


「公爵家の主人に対して、なんて口の聞き方だ」

「これは大変失礼いたしました。使用人としてではなく、乳母兄弟としての助言が必要かと思いましたので」


 ロイはトレイを手にしたまま器用に礼儀正しく深々と頭を下げた。

 主人に対して手本のような所作ではあったが、どこか呆れた感じが伝わってくる。

 ロイには全部見透かされているようだ。

 侍女だったロイの母親を乳母として育ったレスリーはロイとは小さい頃は兄弟のように接していた。

 楽しいことも悩みも共有してきた。

 だから、ロイにはレスリーの今の悩みもバレバレなのだろう。


「怖いんだ。クレア様にもいつか見放される時が来るんじゃないかって」

「だから、その前にクレア様から離れようと?クレア様と必要以上に関わらないようにしようと?まあ、それは全然できていませんけど」

「うっ……それは……。クレア様は危なっかしくて放って置けないから。それに、彼女にはまだ助けが必要だ。だから、つい気にしてしまうというか」

「クレア様もレスリー様も楽しんでいらっしゃるのですから、それでいいのではないですか?」


 そう、クレアと話すのも過ごすのもとても楽しいのだ。

 だからこそ、これ以上親密になってから彼女が自分から離れていくようなことがあると考えると辛い。


 レスリーにはこの屋敷の人間以外にほとんど親密な人間はいない。

 親しかった人間も、皆、何度もレスリーの不運を目にするといつの間にか遠ざかっていく。

 それは仕方がないことだ。

 誰だって、そんな不運ばかりの人間と一緒にいたいとは思わないだろう。

 巻き込まれることもあるかもしれないと、忌避するのは当然だ。

 だから、レスリーは誰かと親密になることを諦めていた。


 今のクレアは雛鳥のようなものだ。

 不当な扱いから正当な扱いを初めて受けて、普通の世界を知り始めたばかりだ。

 レスリーを好意的に見てくれているのも、まだ他の世界を知らないから。

 クレアはレスリーの不運を何度か目にしているのに、レスリーと一緒にいることを嫌がらない。

 レスリーと親しくなろうとしてくれている。

 けれど、他にも王宮以外には素敵な人がたくさんいると知ったら、不運ばかりのレスリーにはきっと愛想を尽かして見捨てるだろう。


「……本当にそう思いますか?クレア様がそんな人間だと」

「思わない。彼女はそんな人じゃない!」


 さすが、長い付き合いの男だ。

 レスリーが考え、悩んでいることなどお見通しのようで、その上どう言えばレスリーにハッパをかけられるか分かり切っていた。

 思わず声を上げたレスリーに対して、ロイはにっと兄弟に向けるように笑った。


「じゃあ、どうすればいいか分かるだろう?自分の心に従えばいいだけだ」


 分かっている。

 分かってはいるけれど、まだレスリーにはその言葉にすぐに頷くことはできなかった。



 ***



 クレアはあまり自ら望みを口にすることはなかったが、学習欲のある人間のようだった。

 この屋敷では出来なくても咎められることはないが、マナーを気にしていたクレアに学びたいかと尋ねたところ、目を輝かせて頷いた。

 クレアの希望通り、マナーの講師をつけるとどんどんと上達していった。

 そして、文字が読めないことも気にしていた彼女にレスリー自ら文字を教えた。

 文字が読めるようになると、自由に使うことを許可した屋敷の図書館で1日に何冊もの本を読んだ。

 クレアは着実に知識と教養を身につけつつあった。

 しかし、今まで培ってきた彼女の中の常識と世間一般の常識のすり合わせは一朝一夕にはいかない。

 クレアは突然木に登ったり、物置に行って姿を消したり、変なものを作ったり予想外の行動をする。

 その度にレスリーがフォローに走った。

 レスリーがクレアと関わることについて考える暇もないくらいに。

 レスリーはクレアと毎日顔を合わせて交流し、仲を深めていった。

 そしてある日の休日、2人は初めてのお出かけをすることになった。


「レスリー様。お忙しいのに私をお出かけに誘っていただいてありがとうございます。本で読んでからピクニックというものに行ってみたいと思っていたので、とても嬉しいです」

「こちらこそ、ありがとうございます。僕もクレア様と行けることをずっと楽しみにしていました」


 明るい表情で馬車の中から窓の外を眺めたり、レスリーに笑いかけたり忙しく浮き足立っているクレアを前に、レスリーはほっこりした気持ちで本心を述べた。

 2人で出かけることは直前まで悩んでいたが、こんなに喜んでくれるのなら計画して良かったと思った。


 クレアは屋敷に車で、一度も王宮を出たことがなかったという。

 そして、今までは外の世界を知りようがなかったが、本で読み、人から話を聞けば興味を持つことは必然だ。

 だから、外出に誘った。

 その時のクレアの嬉しそうな顔は目に焼き付いている。

 お天気の中での昼食がとても楽しみだと言っていた。

 窓の外を見るクレアと一緒にレスリーも馬車の中から空を見上げた。

 雲ひとつない晴天。

 大丈夫だろう……大丈夫だろうか。


「レスリー様?」


 クレアが心配そうにレスリーに声をかけた。

 レスリーの表情は、自分では気づかないうちに固くなってしまっていたようだ。


「すみません。少し馬車に酔ってしまったようです。外の空気を吸ったら落ち着いたので、もう大丈夫です」


 レスリーはクレアを心配させないように、自分自身の不安を消し去るようにそう誤魔化した。


 目的地には日が真上に登りきる前には着くことができた。

 昼食の時間にもちょうど良い。

 順調に行き過ぎているくらいだった。

 晴れ間が覗く木漏れ日の中、屋敷から持ってきたお弁当を広げてピクニックの準備を進める。

 あとは食事を始めるだけとなったため、気を利かせて使用人達は皆、下がっていった。

 ここまでくれば、もう大丈夫だろう。


「クレア様、それではいただきましょうか」

「はい。では、私がお茶を注ぎますね」


 持ち運び用のカップを受け取って、クレアが注ぎやすいように掲げていたところ、レスリーの手に水滴が落ちたような感覚がした。

 クレアはまだ容器を傾けていないので、中身が溢れて手に掛かったわけではない。

 レスリーは恐る恐る空を見上げた。

 つい先程まで雲ひとつなかった空は、急激に分厚い雲に覆われ始めていた。

 そして、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきたかと思うと、すぐに大粒の雨が降り出した。


「確か、あちらに洞窟がありました。避難しましょう!」

「はい。わかりました!」


 2人は急いで広げたお弁当をまとめ直すと、洞窟へと走った。

 急いで片付けて駆け込んだものの、洞窟へ着く頃にはかなり雨に降られてしまった。


「……申し訳ありません。僕のせいでクレア様までこんな目に合わせてしまって」

「レスリー様のせいではありません。山の天気は変わりやすいと、この間読んだ本に書いてありましたから。今度、ピクニックに行く時は傘を持って行けば安心ですね。レスリー様の分も準備しますね」

「あなたは、また僕とピクニックへ行こうと思ってくれるのですね」


 レスリーはクレアの言葉に、ついそんな本音をこぼした。

 クレアは雨で髪も服も濡れてしまっているが、そのことを少しも気にしていないというようにレスリーに微笑んでいた。

 クレアがこの屋敷に来てから彼女と一緒にいる時にレスリーに不運が降りかかりことは度々あった。

 そんな時、クレアはいつもレスリーに心配そうな表情を向けることはあっても、うんざりしたような表情を向けることは一度もなかった。

 クレアがレスリーと一緒にいることを嫌がったり、躊躇ったりすることは決してなかった。


 レスリーのせいではないと、心から信じて言ったくれた彼女。

 不運に巻き込まれても嫌な顔一つしない彼女。

 そんな彼女を前に、レスリーは真実を隠していることを後ろめたく思った。

 それに、クレアにだったら言っても良いのではないか。クレアには伝えるべきなんじゃないのか。

 レスリーはふいにそう思った。


「クレア様はそう言ってくれると思っていました。ですが、本当に僕のせいなんです」

「……どういうことなのでしょうか」


 レスリーの様子に冗談を言っているのではないと感じ取ってくれたクレアが、真剣に向き直った。

 そんな彼女を前に、レスリーはやはり話すことを決めた。


「プレスコット公爵家は代々、聖地や大聖堂を抱えるセントリーベル領を納めてきました。そして、公爵家には何代かに1人、“幸運”を扱える者が生まれます。それが僕でした。そして、僕は小さい頃に病気で生死を彷徨った時に“幸運”の力を使い、生きることができました。

 しかし、その代償として“不運”という現象が起こりやすくなりました。だから、今日の雨も僕の不運のせいなんです」


 申し訳ありません、とレスリーは再びクレアに謝った。

 こんな話を聞けば、優しいクレアもさすがにレスリーを煩わしく思うだろう。

 もう一緒にいたいと思わないかもしれない。

 そもそも、こんな嘘みたいな話、信じられないかもしれない。

 どちらにしろ、レスリーはクレアから良い反応が得られるとは少しも思っていなかった。

 しかし、クレアはレスリーの予想と反して、ただぽかんとした表情をしているだけだった。


「そうだったんですね。そのような力が存在することを初めて知りました。最近は本を読んで知識を得られてきていると思っていましたが、まだまだ知らないことばかりです」

「いえ……このことは世間一般には知られていないようなことなので、クレア様が知らなくても当然のことなのですが……」


 クレアの反応はレスリーの斜め上の返答で、そう返すだけで精一杯だった。

 レスリーが“幸運”の能力を使えること、プレスコット公爵家がそのような家系だということは公爵家の秘密だ。

 クレアだから話した。

 今、そのことを伝えてももっと混乱しそうなので、どうしようかと考えているとクレアの方が先に口を開いたのだった。


「それでも、やっぱりレスリー様に謝っていただく必要はないと思います。雨が降ったことがレスリー様の“不運”に関係していたとしても、私は雨が降ったことを嫌だとは思っていませんから。こういうの、ハプニングっていうんですよね。ちょっとしたハプニングがあった初めてのピクニック。レスリー様と手を繋いで洞窟へ駆け込んだのは、少し楽しかったくらいでした。きっと、ハプニングのなかったピクニックよりも、もっと楽しかった思い出として今日のことは心に残ると思います」


 あっけらかんとそう言ったクレアに、今度はレスリーがぽかんとすることになった。

 クレアがそんなことを言うなんて、思ってもいなかった。

 “不運”で起こった出来事を、そんなふうに良いものとして考えたことなんて一度もなかった。


「でも、きっとこの先も僕といればさまざまな不運が起こって、あなたもそれに巻き込まれることがあるかもしれませんよ。穴に落ちて汚れたり、物が落ちてきて怪我をしたり。そんな僕が嫌になる日がきっと来るはずです」


 レスリーは自暴自棄にもそんなことを口にしていた。

 レスリーと関わってきた人々は皆、最初は良くても最後は嫌な顔をして離れていく。

 だから、期待するよりも前に自分の方から先に言ってしまった方が傷つかないと、無意識に思った。

 しかし、クレアはそんなレスリーを前にしても、目を背けることはなかった。


「そんな日は絶対に来ません。レスリー様に起こった不運な出来事を嫌だと思うことがあったとしても、レスリー様を嫌だと思うことはこれからも絶対にありません」


 クレアは真っ直ぐにキッパリと、少し怒ったように言い放った。

 その言葉には、力強さがあった。

 その言葉を信じても大丈夫なんじゃないかと思わせるような力があった。

 それでも、まだマゴマゴとしているレスリーにクレアは言葉を続けた。


「それに、レスリー様は不運だと気にしすぎなんだと思います。穴に落ちた日があっても、受け身の練習になった、登る時に良い運動になった、汚れた服を着替えて気分転換になった。そう思えば、不運な出来事も嫌なだけではなくなるかもしれません。レスリー様がよく怪我をされるのは心配ですけれど、そのおかげで治癒魔法も上達されたのですよね。そうやって良いところにも目を向ければ、もっと気楽に過ごせるようになるのではないでしょうか?」

「……そんなふうに不運を考えたことなんて、ありませんでした。気楽に過ごすことなんて、できるでしょうか」


 レスリーはもう少しも取り繕おうとはせずに、素直な不安を口にしていた。

 自分より年下の女の子に、こんな弱音を吐くなんて普段ならあり得ないことだけれど。

 なぜだか、クレアには話したいと思った。


「きっとできます。1人ではできそうにないと思うのなら、私のことをどんどん巻き込んで下さい。私は不運が起こっても嫌なことだけでは終わらせませんから。それに、レスリー様が私に言ってくれたのではありませんか。一緒に幸運を見つけていこう、と。一緒に、不運の中の幸運を見つけていきましょう」


 一緒に幸運を見つけていきましょう。

 それは確かにレスリーがまだ屋敷に来たばかりのクレアに言った言葉だった。

 その時は、彼女の幸運を思って言った言葉だった。

 それが、別の意味を併せ持って自分に帰ってくるとは思ってもいなかった。

 そして、そう言ってもらえることが、こんなにも嬉しいことだとは知らなかった。


「ありがとうございます。不運の中に幸運を見つける。クレア様と一緒なら、できる気がしてきました」


 レスリーの言葉を聞いたクレアは嬉しそうに表情をパッと明るくした。

 自分のことのように喜んでくれた。

 その時、まるでクレアを照らすように洞窟の外から光が差し込んだ。

 急な雨は止んだようだった。


「あ!レスリー様、見てください!虹が出ていますよ。これも雨が降ったおかげですね」


 虹の下、クレアが楽しそうにクルクルと回っている。

 ああ、これが不運の中の幸運なのか。

 レスリーは心の中に染み入るようにそう感じた。

 虹を見られたことよりも、虹を見て喜ぶクレアの姿を見られたことがレスリーにとっては幸運だった。

 だからきっとこの先もクレアがいてくれるだけで、自分はどんなことがあっても幸運を感じられるのだろうと心から信じられた。



 ***



 今日は特別な日だ。

 レスリーは今までは記念日なんてほとんど気にすることはなかったが、今日という日だけは大切に感じていた。

 なぜなら今日はクレアの誕生日。それも、成人となる日だからだ。

 レスリーはクレアがまだ成人していないと知った時、クレアの成人の日には盛大に祝いたいと思っていた。

 そして、クレアの要望を聞きつつ、張り切って準備を進めた。

 結局、屋敷の人間だけでの小さなパーティーになったが、それでもレスリーはクレアが喜ぶようにと色々考えた。

 クレアが笑ってくれたらと、そう考えるだけで楽しかった。


 パーティー会場は屋敷の中庭にした。

 今は晴れているが、いつ雨が降っても問題ないように雨よけの場所も用意してある。

 出来うる限りの準備はした。

 そして、自分自身も今日のために用意した正装に身を包み、クレアが来るのを待っていた。


「お待たせしました」


 中庭の花畑の中、そこに着飾ったクレアが現れる。

 レスリーはしっかりと着飾った彼女の姿を見るのは二度目だったが、一度目の結婚式の時よりも遥かに輝いて見えた。

 それはクレアが心身ともに健康になったということもあるだろうが、彼女が自分に自信を持ち、そして楽しんでいるからだろう。


「クレア様、お誕生日おめでとうございます。とても綺麗で見惚れてしまいました」

「ありがとうございます。レスリー様こそ、とても素敵です。今日はこんなに素晴らしいパーティーを準備してくださって嬉しいです」


 クレアは少し頬を赤くして、花が咲いたように微笑んでいた。

 レスリーはクレアのその表情を見られただけで、もう満足だった。


 その後はダンスを踊ったり、中庭を眺めたり、軽食を取ったり。穏やかで楽しい時間を過ごした。

 温かい安心して楽しめるようなパーティーになった。

 デザートまで食べ終わった時、クレアが少しソワソワした様子で口を開いた。


「レスリー様。先程、花壇を見た時にカタバミだけが咲いている場所がありました。あの花は実は雑草だったと知ったのですが、もしかして私が前に食べていたから育ててくれていたのですか?」


 クレアが屋敷に来てすぐの頃、彼女が食べていたカタバミの花をレスリーはクレアのために雑草としてではなく、花壇の一角に植えるように指示していた。

 その花壇がしっかりと育って花を咲かせていた。

 そのころは花の名前さえ知らなかったクレアだが、知識をつけてその花が雑草だと知ったのだろう。


「クレア様が気に入っているものは全て残しておきたかったので、庭師には変な顔をされましたがカタバミの花壇を作ってもらっていたんです」


 嘘はつけないので、レスリーは事実を話した。

 今思えば行き過ぎた行動だったかもしれない。

 けれど、それを聞いたクレアはとても嬉しそうだった。


「レスリー様、ありがとうございます。久しぶりに食べてみたくなりました。摘んできてもいいですか?」

「はい、もちろん」


 レスリー様の分も一番立派なものを選んできますね、とクレアは楽しそうに立ち上がった。

 クレアが花を摘む姿を見て、晴れた空を眺め、レスリーはこんな幸せな時間がずっと続いてほしいなと思わずにはいられなかった。


「レスリー様!」


 クレアが花を手にしてレスリーに駆け寄る。

 レスリーはまるで幸せが走って来てくれているように感じた。


 ―――キィィィィン


 しかし、幸せはレスリーの元には辿り着かなかった。

 大きな魔法発動の感覚。

 その瞬間、クレアは何かに打たれたような衝撃を受けると、その場に倒れた。

 クレアが手にしていた花が舞い散り、その中で苦痛に表情を歪めたクレアが倒れていく光景が、まるで時が止まったかのようにレスリーの目には映っていた。


「クレア様!!」


 レスリーはすぐにクレアに駆け寄った。

 彼女の胸からは止めどなく血が溢れていて、その顔からはどんどんと血の気が失われていく。

 そして、彼女の加護魔法は消失していた。

 レスリーは自身が使える最大限の治癒魔法をクレアにかけ続けた。

 だが、その血が止まる気配は少しもなかった。


「大きな魔法発動を感知しました。恐らく、もともと巧妙に隠されてクレア様にかけられていた魔法が加護魔法がなくなったと同時に発動したのでしょう。王宮魔術師の魔法ではないかと」

「分かっている!」


 医者と魔術師を大至急呼んでくるように指示したロイが止血を試みながらも、言いにくそうにそう口にした。

 そう、分かっている。

 この治癒魔法のかかりにくさ、そして王宮で冷遇されていたクレアの立場から彼女を処分するためにかけられていた魔法だとしたら、ただの貴族に太刀打ちできるわけがないことは。

 けれど、このままクレアを失うことなんて考えられなかった。


 レスリーはクレアに治癒魔法をかけるのをやめた。

 そして、別の力を使い始めた。

 クレアとレスリーは目も眩むほどの強い光に包まれた。


「その力は……レスリー!まさか、幸運の力を使うつもりなのか!すでに一度その力を使っているお前がまたその力を使えば、どんな不運が起こるか予想もできないぞ!」


 ロイはレスリーがしようとしていることに気づき、止めようと叫んだ。

 幸運の力は万能ではない。

 代償が大きすぎる。二度その力を使った者は命を落としたとも言われている。

 けれど、レスリーはそれでも力を使い続けた。


「かまうものか!どんな不運が訪れようとも、彼女を失う以上の不運なんてない!だから……だからどうか、お願いします。クレア様を助けてください。どうか僕達に幸運を」


 レスリーは心からの祈りを捧げた。

 そしてその直後、二人はより一層強い光に包まれた。

 その光はまるで花びらが舞うように無数の小さな光となると、パッと消えた。

 幸運の力は成功したのだろうか。

 横たわるクレアを皆、祈るように見つめていた。

 そんな静寂の中、クレアの瞼が開かれた。


 ワッと歓声が上がった。

 クレアは少し戸惑ったように、その歓声の中ゆっくりと体を起こした。


「レスリー様?」

「クレア様、良かった……!」


 レスリーはクレアを抱きしめずにはいられなかった。

 不安だった気持ちと安堵と嬉しさが一緒になって押し寄せてきていた。

 そんな感情が溢れるようにクレアを抱きしめたまま震えていたレスリーに、クレアは何も言わずに背中に手を回して抱きしめ返してくれた。


「あなたを失ってしまうかもしれないと思った時、とても怖かったんです。今までの不運なんて比じゃないくらいに。本当に良かった……」

「大丈夫ですよ、私はここにいますから。レスリー様が助けてくれたおかげです。ありがとうございます」


 クレアは震えるレスリーをなだめるように言葉をかけてくれた。

 自分が死にかけて怖かっただろうに、痛かっただろうに、そんな風に相手を思いやる。

 なんて優しくて強い人だろう。

 本当に魅力的で愛しくて、幸せになってほしい人だ。


「クレア様。僕とあなたは結婚していて、もうすでに愛の誓いは済んでいますが、もう一度言わせてください。僕はあなたを心から愛しています。病める時も健やかなる時もあなたを愛し、そして僕があなたを幸せにすると誓います」


 結婚式の時の形式的なものではない心からの愛の言葉。

 クレアにもそれが伝わったのか、嬉しそうにその誓いを受け入れると顔を上に向け目を瞑った。

 結婚式ではできなかった誓いのキスを待っているようだ。

 レスリーはあの時よりも緊張しながら、それでもそれ以上に幸せな気持ちで唇を重ねようとした。


「あっ……」


 だが、唇が触れ合う前にレスリーの頭の上に何かが落ちてきた感覚がした。

 クレアから身を離し、頭の上を触るとそこには鳥のフンがあった。


「不運だ……」


 誰かが、そう呟いたのが聞こえた。

 やっぱり、この体質からは逃れられないようだ。

 しかも、これからは今まで以上の不運に見舞われるかもしれない。

 クレアに愛を誓ったのは早まったかもしれない。

 そんな風にレスリーがまたぐるぐると考え出した時、目の前のクレアは少しムッとした表情をしていた。


「いいえ、大丈夫です。不運のまま終わりませんから」

「え?」


 クレアは不服そうにそう言うと、レスリーの肩に手をかけて彼女の方から顔を寄せた。

 次の瞬間、レスリーの唇には柔らかい唇の感触があった。


「こんな幸運があっていいのでしょうか。反動でどんな不運が待っていることか……」


 レスリーはクレアとの初めてのキスに胸が痛いほど熱くなったが、同時に幸せすぎて不安を感じた。

 だが、クレアはそんなレスリーの言葉を一蹴した。


「いいえ、不運なんて起こりません。だって、これは運なんかではありませんから。ただの愛の形です。私がレスリー様を心から愛している。ただそれだけのことですから」


 クレアはそう言って微笑むと、再び愛を示すために唇を重ねた。




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― 新着の感想 ―
王家への罰が無いのにモヤモヤする・・・。 ここまでの仕打ちをされているのに、縁を深める意味が有るんだろうか?。
公爵家との縁を深めるために婚姻させたのに今更暗殺? さすがに王家の対応が意味不明すぎるんだが…
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