人口1不可思議人の世界
第1話 自由の名のもとに
人口は、1不可思議人。
数えきれぬほどの人類は、この宇宙だけでは足りず、幾重もの宇宙へ広がり、さらに数多の電脳世界にも居場所をつくった。
兆兆人が集まる巨大都市は、永遠に続く祭りのように光り輝いていた。どこを歩いても人の声があふれ、歓声と笑いが風のように街を駆け抜ける。光る塔は惑星の大気を突き抜けて雲を貫き、上層には数百京人が暮らす空中庭園が広がる。そこでは花が一日ごとに色を変え、音楽は歩くだけで道に合わせて自動生成された。
一方で、丸ごと一つの惑星を独り占めにして、静かな暮らしを楽しむ者もいた。大海原に浮かぶ孤島にただ一人で住み、波の音だけを友にして暮らす人もいれば、氷河の大陸に雪像を作り続けるだけの生涯を選んだ人もいた。
電脳世界ではさらに奇想天外だった。数式や物語が現実となり、ひとつの方程式を解くことで宇宙全体を作り変えることすら可能だ。ある者は一冊の詩集の中で永遠を生き、またある者は“無限に生成される仮想都市”を旅しては、新しい街の住人として毎日を始めていた。
けれども、これら暮らし方の違いに大きな意味はなかった。
すべての人々を支配する原理は、ただひとつ――「自由」。
戦争は遊びになり、仕事は趣味となり、愛は何度でも選び直せる。
昨日の戦争で100京人が命を落としたと報告されたが、今日にはもう全員が復活して笑いながら次の戦争を計画している。兵器は芸術品のように設計され、「次はもっと派手にいこう」と語り合う。
仕事という概念も、今ではほとんど死語になった。人々はやりたいことをやりたいときに行い、それがまた別の誰かの楽しみとつながる。パンを焼きたい人が焼けば、銀河中にその香りが複製され、食べたい人の口に届く。研究したい人が方程式を解けば、その結果はすぐに共有され、数兆の電脳世界で応用される。
愛だってそうだ。ある朝に結婚を決め、昼には離婚し、夜にはまた別の誰かと恋を始める。結婚届はスマートデバイスのワンタップで送信でき、離婚は指をひと振りするだけ。愛の重さも儚さも、もはや「気分アプリ」の一機能でしかなかった。
そして命さえも、無限に与えられている。
死は恐怖ではなく、気分転換だった。
一度死ねば痛みや疲れがリセットされ、目覚めれば新品のような身体で再び生き直せる。だからこそ、人々は「死に方」にこそ趣味を見いだし、華麗な最期を演出するための競技大会すら存在した。
けれども、すべての人が復活を望むわけではなかった。
「もう十分だ」と静かに笑い、本当に消えてしまうことを選ぶ者もいる。
その選択は、祝福のように受け入れられる。
膨大な命があふれる世界だからこそ、二度と戻らない終わりにこそ、特別な意味が宿っていた。
――これが、「人口1不可思議人の世界」。
そんな中で、僕はただひとりの存在にすぎない。
名前も特別じゃないし、住んでいるのも平凡な星系の片隅だ。学校に通ってはいるけれど、先生はAIで、クラスメイトは数億人。ときどきは全員が同じ質問をして、同じ答えを返される。退屈でもあり、どこかおかしさに笑いそうになる。
けれども、ときどき思うんだ。
「本当に、この世界は幸せなのかな?」
戦争で命を落としても笑って復活する人々を見たとき。
愛を十回も二十回も繰り返している友達が、「本物の恋って何だろう」とつぶやいたとき。
僕の胸の奥に、小さな疑問が芽生える。
自由は素晴らしい。誰もがそう言う。
だけど、何もかもが無限に与えられるなら――その「自由」は本当に価値を持つのだろうか?
空を仰ぐと、数千の光る都市が流星のように軌道を回っている。
祭りの音楽が風に乗って届く。
でも僕の胸には、ぽっかりとした静けさがある。
――この疑問が、物語の始まりだった。
第2話 芽吹く問い
教室には、ざっと数億人のクラスメイトがいる。
僕の住む星系では、学びの場はこうして星ひとつ分の巨大建築として用意されているのが一般的だった。
別のコミュニティでは、自宅で映像を眺めるだけで済むこともあるらしいけれど、ここでは、実際に集まるという形式がまだ残っている。
座席が見渡せないほど並び、先生の声は分身を通して各自に届く。授業は一瞬で終了する。
学ぶことはもう義務じゃなく、趣味に近い。
そんな中、僕は三人の友達とよくつるんでいた。
一人は、電脳世界にほとんど住んでいるユイ。
身体は教室にいても、意識は数式都市や無限生成の物語空間を漂っている。時折こちらに戻ってきては、「竜と千年間踊ってた」とか、「小説世界の住人に告白された」と笑って話す。
もう一人は、カイ。
戦争を遊びと心から信じていて、昨日も数百兆人の戦場に参加したらしい。手足を吹き飛ばされても、すぐ蘇るから痛みすら冗談になる。「今日はどんな死に方をしようかな」なんて、ランチの話題みたいに軽く言う。
最後はミナ。
静かな子で、よく僕の隣に座っては本を読んでいる。本といっても、この時代の本は無限に自動生成される。それでも彼女は、あえて古い文学や詩を好んで読んでいた。
放課後、四人で校舎裏の空き庭に集まった。
空は七色に揺らぎ、人工的に調整された夕焼けが、まるで絵画のように広がっている。
「ねえ、今日はさ」ユイが笑いながら言った。「わたし、千回死んだんだ」
「え、何してたの?」僕が聞くと、横からカイが割り込む。
「たぶん俺の戦場だな。あの空爆、派手だっただろ?」
二人はけらけらと笑いあう。死も、戦争も、遊び道具に変わっている世界。
ミナが小さく笑って言った。
「でもさ、どんな遊び方をしても既出なんじゃない? この世界には1不可思議人もいるんだし。私たちが思いつくこと、きっと誰かがもうやってる」
彼女は一度本に視線を落とし、すぐに静かに閉じて僕を見た。
「あなたは、楽しい?」
僕は答えに詰まった。楽しい、と言えば楽しい。退屈しないのは確かだ。でも、なぜか胸の奥にひっかかりがある。
その晩、僕はユイと電脳世界に入った。
無限に生まれる街並みを歩いていると、突然ユイが立ち止まった。
「ねえ、消えたい人っているじゃない?」
僕は驚いて彼女を見た。
「復活しないで、本当に終わっちゃう人のこと?」
「うん。でも、あれってすごく自由だと思うんだよね。永遠に生きられる世界で、終わりを選べるなんてさ」
彼女は笑って言った。
その言葉が、僕の胸に小さな波紋を残した。
――終わりを選ぶ自由。
それは、死が恐怖ではなく贅沢になった世界だからこそ成立する考え方。けれど、なぜだろう、僕にはどうしても笑えなかった。
次の日、カイはまた楽しそうに戦場へ向かい、ユイは物語世界へ飛び込み、ミナは静かにページをめくっていた。
みんな自由だ。何を選んでも、誰かの価値観に測られることすらない。
けれど僕の中で、はっきりとした違和感が芽生えていた。
――どうして僕は、楽しいのに満たされないんだろう?
初めて、それを言葉にした瞬間、胸の奥に確かな輪郭が生まれた。
それは疑問であり、不安であり、そして物語の小さな始まりの鐘だった。
第3話 愛と選択
この世界では、愛もまた自由だった。
結ばれることも、別れることも、何度でも。誰も傷つかず、誰も失われず、思い直せばすぐに最初からやり直せる。だから恋愛や結婚は、ほとんどゲームのような気軽さを帯びていた。
僕の住む星系では、毎年のように「模擬結婚イベント」が開催される。参加資格は、ただ面白そうと思うこと。それだけで、誰もが一夜にして夫や妻となり、あるいは伴侶を無数に抱え込む。
広場に足を踏み入れると、すでに数億人が笑いさざめき、盛装で行き交っていた。ドレスやスーツといった古風な衣装を身にまとう人もいれば、光の羽や電子の冠で身体を飾る者もいる。性別や種族の垣根はとうに消え、相手の姿をその場で自在に変えながら、「あなたと結ばれたい」と言葉を交わしていた。
僕は特に参加するつもりもなく、ただ眺めていた。だが、友人のレナがすぐに僕を捕まえた。
「ねえ、一緒にやってみようよ!」
彼女は鮮やかな虹色の衣装をまとうと、楽しげに笑った。
「一度くらい、遊びで結婚してみたらどう? 楽しいよ」
レナは、何度も結ばれては解消している。昨日は星の管理者と、今日は電脳世界の王子と、明日はきっと別の誰かと。彼女にとって「結ばれる」とは、ただの遊びの延長線だった。
その様子を見ていると、説明のつかない違和感が静かに滲んだ。
「……レナ、それって意味があるのかな」
「え? もちろん意味はあるよ。楽しいってこと!」
彼女は笑い飛ばすように言った。
「別れたって何も失わない。やり直せるんだから、怖くない。だからこそ、気楽に愛せるんだよ」
彼女の言葉は正しい。この世界の理を前提にすれば、何も間違っていない。けれど、僕の心には奇妙な影が落ちた。
本当にやり直せることは幸せなのだろうか。
間違えれば取り消し、飽きたら別の誰か。そんな繰り返しの先に、一度きりだからこそ大切にするという感覚は存在しないのではないか。
ふと、会場の中央で誓いの言葉が響いた。無数のペアが同時に永遠の愛を宣言していた。だが、その永遠は無数にやり直せる永遠だった。口にするたび、新鮮さは薄れていく。それは、永遠という言葉の皮をまとった一瞬の遊戯に思えた。
その時、僕の中に小さな願いが芽生えた。
――もしも、やり直せない愛があったなら?
――もしも、一度だけの結婚しか許されない世界だったら?
考えただけで、胸が熱くなった。怖さと同時に、何かに引き寄せられる感覚があった。
レナはそんな僕の表情に気づかず、次々と相手を変えて笑っていた。
「見て、ほら! さっき誓ったばかりの彼、もう別の誰かと組んでる! 面白いでしょ?」
彼女の声は楽しげで、悪意も軽蔑もない。ただ、無邪気だった。
僕は笑えなかった。
その光景が、あまりにも軽すぎて。
僕は群衆の中からそっと離れた。
星の広場を包む光の装飾が遠ざかるにつれ、心の奥で囁く声はますます強くなった。
――僕は、やり直せない何かを選びたい。
――一度きりだからこそ、震えるほど大切なものを。
ユートピアの喧噪の外で、初めてその言葉を自分の胸に刻んだ。
それはまだ幼い願いでしかなかったけれど、確かに僕を次の場所へと導く力になっていた。
第4話 死と再生
僕らの世界では、死もまた一度きりではなかった。
事故に遭っても、戦いで敗れても、肉体が破壊されても、記録された意識を呼び戻せば、すぐに再生する。蘇生の手続きは、スマートフォンの電源を入れ直すのと同じくらい気軽で、誰もそれを特別とは思わない。
街の広場では、今日も「模擬戦死イベント」が開かれていた。
兵士の姿をとった数万人がレーザーを撃ち合い、爆発の光が夜空を染めていく。参加者は派手に散り、地面に崩れ落ちる。数分後には、何事もなかったように再び立ち上がり、笑いながら仲間と戦果を語り合う。
傍観していた僕に、友人のカイが手を振った。
「おい、見学ばっかりしてないで参加しろよ! 一度死んでみたらわかる。爽快だぜ」
彼はいつもそうだった。毎日のように戦場で死に、蘇ってはまた挑み、勝敗よりもその死にざまを楽しんでいた。彼にとって死は、スポーツの一種にすぎない。
「痛みは感じるのか?」
僕が問うと、カイは得意げに笑った。
「感じるよ。リアルそのものだ。でもすぐに消える。苦しさも恐怖も、終わった瞬間に全部リセットされる。だから怖くない」
そう言って彼は再び戦場へ駆けていった。数秒後には爆炎に包まれ、また蘇り、歓声を上げていた。
――死んでも戻れるなら、死は本当に死なのだろうか?
その思いが胸に残った。
誰もが何度でも生き直せるこの世界で、本当に終わりというものは存在しているのだろうか。
帰路につきながら、僕はかつて耳にした噂を思い出していた。
「完全停止を望む人々がいる」
再生を拒み、自らの記録を削除して、本当に消えることを選ぶ者たち。それも珍しいことではなく、ひとつの生き方として尊重されていた。僕には、彼らの選択が勇気ある行為のようにすら感じられた。
僕の親しい友人のひとりが、かつてこう言ったことがある。
「生き直せるのって便利だけど……同じ時間を繰り返すたびに、全部が薄っぺらくなっていく気がするの」
彼女は控えめに笑ったが、その瞳にはかすかな影が揺れていた。
その時は深く考えなかった。けれど今はわかる。何度も死んで、何度も蘇れば、痛みも恐怖も色あせる。本来なら二度と戻らないという事実の与えられるはずのものが、この世界からは失われてしまっているのだ。
僕は空を仰いだ。星々は煌めき、永遠を約束するかのように瞬いていた。
だが、胸の奥では小さな声が囁いていた。
――もしも、再生できない死があったなら?
――もしも、一度きりの終わりがあったなら?
それは恐ろしく、同時に抗えないほど強い憧れを呼び起こした。僕はまだ、答えを見つけてはいない。
けれど確かに、心のどこかで終わりのある生を求めている。
その思いを抱えたまま、僕は広場を後にした。背後では仲間たちがまた死んで笑っていた。
その光景は、限りなく明るく、そして限りなく空虚だった。
第5話 無限の虚無
昼休みの校舎裏。
カイは戦場へ、ユイは物語世界へ、それぞれ遊びに出かけてしまった。残された僕とミナは並んで腰を下ろし、静かに空を見上げていた。
空は今日も演出めいて鮮やかだった。七色の虹雲、銀河を模した装飾、人工流星。美しい。だが同時に、あまりにも整いすぎていて、落ち着かなさを残した。
「ねえ」
ミナが口を開いた。細い指で本を閉じながら、まっすぐ僕を見る。
「ユイのこと、どう思う?」
唐突な問いに僕は言葉を詰まらせた。ユイは確かに楽しそうだ。毎日、無限に生まれ続ける都市を歩き、毎日、新しい登場人物に恋をする。彼女にとって現実と虚構の境界は、もうほとんど意味を持たない。
「……すごいと思うよ。だって、あんなに自由に遊べるんだから」
「でも、彼女が話すことって、どれも翌日には忘れているみたいじゃない?」
そう言われて、僕はハッとした。
ユイが語る冒険はいつも楽しげで、千年踊った竜の話も、百回殺された戦場の逸話も、まるで昨日のランチの感想のように軽やかだ。記憶が積もらない。昨日も今日も、同じ瞬間の中に溶けているようだった。
「彼女にとっては、今日と昨日の区別なんて必要ないんだよ」
「……それって、幸せなのかな」
ミナの言葉は、答えを待つように宙を漂っていた。
その晩、僕はユイに誘われて再び電脳世界に入った。
目の前に広がるのは、きらびやかで無限に生成される街。歩くたびに道が変わり、出会う人も言葉も新しく生み出されていく。
「ほら、今日の街は面白いでしょ?」
ユイは笑って駆け回る。通りの両脇には透明な書物が浮かび、触れると物語が始まり、また次の展開へと分岐する。
僕は圧倒されながら問いかけた。
「ユイ、こんなにたくさんの出来事をどうやって覚えてるの?」
「覚えてないよ!」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「だって無限にあるんだから、ひとつひとつ覚える必要なんてないでしょ? どうせ明日にはもっと面白い世界ができてるんだし」
その瞬間、何かが静かに抜け落ちた気がした。
「じゃあ……ユイにとって本物って、何?」
「え?」彼女は首をかしげ、少し考え込んだ。
「本物? そんなのないよ」
笑みとともに返された言葉は、あまりに軽やかだった。
僕はふと、かつて聞いた噂を思い出した。
「完全に消えるなんて、できないんだよ」
そう囁く人がいた。
自分の痕跡をすべて閉じても、別の宇宙で目を覚ますことがあるらしい。まるで見えない手が人口を補うかのように、人は再び数の中へ組み込まれてしまうという。それが真実なのかどうか、僕にはわからない。
現実へ戻ると、ミナが待っていた。
「どうだった?」
僕は答えに詰まり、ただ空を見上げた。
無限に遊べる世界。
無限に生まれる街。
無限にやり直せる日常。
ユイにとって、それは幸福そのものだろう。だが僕には、すべてが手のひらから零れ落ちていくように思えた。
――記憶に残らない自由は、本当に自由なのだろうか?
――本物なんて存在しないなら、僕はいったい何を求めているんだろう?
胸に生まれた思いは、答えのないまま、重く沈んでいった。
無限の虚無が、静かに僕を包み始めていた。
第6話 孤独の惑星
ある日、僕は学校の課題で遠方の星系へ出かけることになった。
課題といっても遊びの延長で、気になる場所を訪れ、レポートを提出すればいいだけだ。だが、僕はその旅で思いがけない出会いを経験することになる。
航路の果てに浮かぶその惑星は、驚くほど静かだった。
空は深い群青に染まり、海は風ひとつなく広がっている。都市もなく、祭りもなく、喧噪もない。
ただ一人――たった一人の住人がそこに暮らしていた。
「ようこそ」
出迎えてくれたのは、年齢も性別もよくわからない人物だった。穏やかな声で僕に微笑むと、砂浜に腰を下ろすように促した。
「どうして、こんな何もない場所に?」
思わず尋ねると、相手は肩をすくめて笑った。
「君たちの世界は、あまりにも賑やかすぎるんだ。愛も死も戦争も、すべてが遊びのように繰り返される。群衆の中で生きると、私は自分が消えてしまう気がする」
彼は大きな貝殻を拾い上げ、耳に当てた。波の音が小さく響く。
「ここでは、私の声が世界に届く。誰かにかき消されることなくね」
夕暮れ、ただ果てしない水平線が赤く染まっていた。
彼はそれを眺めながら、ぽつりと言った。
「孤独は寂しいと思うかい?」
「……少し」
正直に答えると、彼は目を細めた。
「でもね、孤独は贅沢なんだ。無限に他者と繋がれる世界で、あえて一人を選ぶことは、最高の自由なんだよ」
その言葉は僕の胸に重く響いた。
ユイは無限に繋がり、カイは無限に死に、ミナは静かに本を読む。
そしてこの人は、無限の孤独を生きている。
別れ際、彼は僕に問いかけた。
「君は、どんな自由を選ぶんだい?」
答えられなかった。
けれど確かに、僕の中で何かがまた芽生えていた。
――孤独すらも、自由の一形態。
――けれど僕は、そのどれもに満たされない。
星を離れる時、広大な海と小さな家が遠ざかっていった。
あの静けさは確かに美しく、同時に胸を締めつけるほど寂しかった。
無限の中で、僕の疑問はますます濃くなっていった。
第7話 問いかける学生
放課後の庭園。数億の生徒が思い思いに遊び、笑い声が空に渦巻いていた。
僕は三人の友人と並んで腰を下ろしていた。ユイは電脳世界の出来事を誇らしげに語り、カイは今日も戦場でどんな風に死んだかを笑い、ミナは静かに本をめくっていた。
その光景を見ていると、胸の奥で何かが疼いた。
今までなら笑って聞き流せた。けれど今日は違った。
「……ねえ」
気づけば声が出ていた。三人の視線が一斉に僕へ向く。
「もし、やり直せなかったらどうする?」
ユイが首をかしげる。
「やり直せない?」
「そう。結婚も、死も、冒険も……一度きりで、二度と戻れなかったら?」
しばしの沈黙。やがてカイが大笑いした。
「ははっ! そんなの地獄じゃないか。俺なんて昨日だけで十回は死んだんだぜ? 一回きりだったら、とっくに終わってるよ」
「そうだよ」ユイも笑う。「もしやり直せなかったら、楽しくなくなっちゃう。選び放題だからいいんだよ」
彼らの反応は想像通りだった。
けれど、ミナだけは本を閉じ、静かに僕を見つめていた。
「……どうして、そんなことを考えるの?」
「わからない」僕は正直に答えた。
「でも、何度でもやり直せるなら、最初に選んだものの意味はどこにあるんだろう。何度でも復活できるなら、死ぬことの意味はどこにあるんだろう。……楽しいはずなのに、胸の中が空っぽなんだ」
ユイとカイは顔を見合わせ、肩をすくめて笑った。
「深刻すぎるよ」
「もっと気楽に考えろよ。どうせ無限なんだから」
二人はすぐに次の話題に移ってしまった。
でも、ミナだけは黙って僕の言葉を胸に留めているようだった。
そのとき、近くの誰かが冗談めかして口にした。
「やり直せないなんて、ありえないよ。消えたと思っても別の世界で、また最初からだ」
周囲は笑って流していたが、その言葉だけが僕の胸に重く沈んだ。
もしそれが本当なら――僕たちに終わりなんて、最初から許されていないのではないか。
帰り道、人工の夕焼けが街を赤く染めていた。
僕はひとり歩きながら、さっきの会話を反芻していた。
――やり直せない選択に、意味を感じてしまう。
――やり直せることが、逆に虚しさを生んでしまう。
なぜそんな思いを抱くのか、自分でも理解できない。
ただ確かなのは、胸の奥で小さな波紋が広がっているということだった。
夜、ミナから通信が届いた。
「さっきの話、もう少し聞かせて」
彼女の声は穏やかで、真剣だった。僕は迷いながらも、自分の考えを言葉にしていった。
「もし一度きりしか生きられなかったら……きっと僕は、今より慎重に生きると思う。愛する人を選ぶ時も、死ぬ時も、もう戻れないと思ったら、その一瞬一瞬がもっと大切になるんじゃないかって」
通信の向こうで、しばらく沈黙があった。やがて彼女は小さく答えた。
「……それ、素敵だと思う」
その言葉に、胸が少し温かくなった。
誰もが軽く流した問いを、彼女だけは受け止めてくれた。
眠りにつく前、僕は窓辺から空を見上げた。
数兆の星々が瞬き、無限の光で宇宙を満たしている。
けれど僕の心には、ひとつの小さな問いが輝いていた。
――無限の中で、有限を求めてしまう僕は、異常なのだろうか。
――それとも、これこそが「本物」への道なのだろうか。
答えはまだ見えない。
けれど確かに、僕は問いかける学生になっていた。
第8話 禁じられたものはない
その噂は、掲示板の片隅から始まった。
〈禁止のない世界で、あえて「制限」を欲する人の小さな展示会〉――奇妙な招待状。場所は、学区の古い図書棟の地下。ミナが見つけて、僕を誘った。
「行ってみない?」
彼女の声は静かに弾んでいた。
「あなたの問いに、近い人たちかもしれない」
地下へ続く階段は、足音が吸い込まれていくほど柔らかかった。扉の向こうには十数人。皆、年齢も姿もばらばらで、けれどどこか同じ色の影を瞳に宿している。
主催の人物が「規」と名乗った。
「ここでは“自由の増やし方”としての制限を考えます。禁止は罰ではなく、軸を取り戻すための道具だという立場です」
展示は、どれも奇妙で美しかった。
一本の銀の指輪――片道指輪。はめると、たった一つの選択に不可逆の封をする。解除コードはない。
透明な紙片――忘却不可メモリ。そこに書いた約束は、世界に刻印され、誰もそれをなかったことにできない。
薄いガラス板――戻らない鏡。鏡の前で口にした言葉だけは、二度と撤回のプロトコルに乗らない。
説明を聞きながら、胸の奥で何かが静かに揺れた。
ここにあるのは、罰や監視の道具ではなく、意味を濃くするための仕掛けなのだ。
「反対派もいるよ」規が微笑む。
「自由至上の人たちは、制限は自由の否定だと言う。私たちは逆に、自由が薄まった今だからこそ、濃度を上げる枠が要ると考える」
その言葉に、ミナが小さく頷いた。
体験コーナーがあった。
テーブルに並ぶのは、手軽な試作品――片道の言葉。
今日この場で一つだけ「もう使わない言葉」を選んで宣言する。宣言は記録に封印され、以後その語は自分の口から自然に立ち上がらなくなる。危険はないが、日常の言い回しに微細な欠落が生まれる。
参加は自由。誰も強制しない。
それでも、次々と人が列に並ぶのを見て、僕は震えた。ここでは「欠くこと」が、誇らしい選択になっている。
ミナが僕の袖をそっとつまんだ。
「やってみる?」
「……うん」
順番が来た。僕はカードを一枚取り、黒いペンを握った。
しばらく迷ってから、ある語を書いた。「いつか」。
読み上げる。
「僕は“いつか”という言葉を、もう使わない」
封印の瞬間、胸のどこかでかすかな音がした。
未来へ逃がす曖昧な梯子が、そっと外れる。“いま”に寄りかかるしかない重みが、掌に乗る。
ミナもカードに何かを書いて、静かに宣言した。
「私は“ついでに”を手放す」
彼女は照れたように笑う。
「本を開く理由を、別の用事の影に隠したくないから」
その選択の仕方が、たまらなく彼女らしかった。
展示の最後に、短い対話の時間があった。
自由至上派の青年が挙手する。
「制限は、結局のところ怖さに依存している。撤回できないから重い、と。そんな恐れに頼るのは後ろ向きじゃないのか」
規は首を振る。
「恐れではなく、関係に頼っています。
撤回できない誓いは、相手との関係を“世界の側”に繋ぎ直す。だから重い。
私たちは重力を創っているんです。意味の重力を」
青年は言葉に詰まり、やがて肩を落とした。
討論は戦いにならず、静かに終わる。ここには勝ち負けを求める空気がない。ただ、濃く生きたい人たちの淡い同盟だけがある。
帰り道、地上に出ると夜風がひんやりと頬を撫でた。
僕は反射的に「いつか」と言いかけて、喉の手前で止まる。
言えない。小さく驚く。代わりに、言葉は自然と別の形を選んだ。
「……いま、僕は決めたい」
ミナが横で笑う。
「いい響き」
彼女の手に、封印カードの薄い角が光った。“ついでに”の欠落が、彼女をまっすぐにしている。
ふと気づく。
僕たちは、ほんの小さな欠片を手放しただけだ。世界は変わっていない。
それでも、重みは確かに戻ってきた。言葉が、選択が、ほんの少し沈む。足元に重力が戻る。
禁じられたものはない世界で、僕たちは初めて、自分で禁じることを覚えた。
それは誰かを縛るためではなく、自分の自由を濃くするための帯だった。
夜空の都市は今日も眩しい。
だが僕の耳には、地下の展示室で聴いた小さな合唱が残っている。
――やり直せないことは、怖い。けれど、美しい。
胸の奥で、微かな音が響く。
終わりに向かう旋律。
それは、次の章の扉を静かに叩いていた。
第9話 終わりを夢見る
夜の街を歩きながら、僕は無意識に「いつか」と言いそうになり、喉の奥でつかえた。
封印した言葉が、もう出てこない。代わりに浮かぶのは――「いま」。
それは不思議な感覚だった。
ただの言葉ひとつを手放しただけなのに、未来が曖昧な霞ではなく、くっきりと輪郭を持ち始める。
翌日、ユイとカイに会った。
「昨日の展示? そんなとこ行くなんて、物好きだなあ。」
カイは笑い飛ばした。
「わざわざ縛りを選ぶなんて、理解できないな。俺なら自由を薄めずに浴び続けるね」
ユイも同意した。
「私だってそう。やり直せるのが最高なんだもん。もしやり直せなかったら、きっと怖くて何もできないよ」
二人の笑顔は眩しかった。
けれど僕の胸には、違う光が宿り始めていた。
放課後、ミナと二人で図書棟のテラスに出た。
空には人工の流星群が流れていた。彼女は静かに口を開いた。
「ねえ……“終わり”って、怖いと思う?」
「怖いよ」僕は即答した。
「でも、だからこそ美しい気がする。一度きりだから、心に焼きつくんじゃないかな」
ミナはゆっくり頷いた。
「私もそう思う。二度と戻れない詩を、一度だけ読んで閉じたい」
彼女の瞳には、はっきりとした輝きが宿っていた。
けれど彼女は、少し声を落として続けた。
「でも……死んでもどこかでまた目を覚ますっていう“還流の環”が本当なら、私たちはどこまでいっても逃げられないのかもしれないね」
僕はその言葉に返すことができなかった。
無限の愛、無限の死、無限の選択。
そして無限の還流。
――それは、楽園の仮面をかぶった地獄じゃないか。
その夜、夢を見た。
一度きりの結婚、一度きりの死、一度きりの出会い。
やり直しのない世界で、僕は誰かを選び、二度と戻らない未来へ進んでいた。
目覚めると、胸が熱く震えていた。
夢の中の有限の輝きが、現実よりも生き生きとして見えたのだ。
次の日、授業で教師AIが問いを投げかけた。
「無限の自由における幸福とは何か」
数億人の生徒が一斉に回答を送る。
〈制限のない遊び〉
〈繰り返せる愛〉
〈何度でも蘇る死〉
画面は眩しいほどの肯定で埋め尽くされた。
だが僕は違う言葉を入力していた。
〈やり直せないこと〉
送信した瞬間、胸が震えた。
多数の中で埋もれることはわかっていた。
けれど、それでもよかった。僕は初めて、はっきりと自分の夢を言葉にできたのだから。
放課後、ミナが微笑んで言った。
「あなたの答え、ちゃんと見たよ」
その声は、僕の中の小さな炎をさらに強くした。
――終わりを夢見る。
それは矛盾しているのかもしれない。
けれど、無限の世界にいるからこそ、有限の輝きが胸を刺す。
空を見上げる。数兆の都市が軌道を描き、無限の光を撒き散らす。
でも、僕が見つめていたのは、やがて燃え尽きる流星のひとすじだった。
第10話 自由の果てに
朝の空は澄んでいた。数兆の都市が軌道を巡り、祭りの音楽が銀河を満たしている。
無限の笑い声、無限の遊戯、無限の命。
――これが「人口1不可思議人の世界」。
けれど僕の胸の奥では、ひとつの答えが形をとり始めていた。
昼休み、友人たちと広場に集まった。
ユイはまた電脳世界の冒険を語り、カイは今日の戦場での派手な散り際を自慢し、ミナは静かに本を閉じて僕を見ていた。
僕は深呼吸し、声を出した。
「僕は――やり直せないものを選びたい」
ユイとカイは笑った。
「またそれ? 本当に変わってるな」
「そんな縛り、なんの得があるの」
二人の声は軽やかに宙へ溶けた。
でも、ミナの瞳だけが真剣に僕を映していた。
彼女は頷き、ただ一言を返した。
「……いいね」
その瞬間、僕は確信した。
たとえ誰に理解されなくても、この思いは本物だ、と。
放課後、ひとりで高台に立つ。
足元には無限の街が広がり、空には無限の星が瞬く。
だが僕の目は、燃え尽きて消える流星に釘づけだった。
そのとき、ふと耳にした気がした。
「大丈夫。たとえ消えても、還流の環が君をどこかに運ぶ。終わりなんて存在しないんだよ」
その声は優しく、安心を約束する響きだった。けれど、僕には恐ろしく聞こえた。
無限の愛。無限の死。無限の虚無。
そして無限の還流。
それは、永遠の楽園を装った牢獄じゃないか。
――無限の自由は、素晴らしい。
でも、僕は有限にこそ意味を見たい。
繰り返せない選択、二度と戻らない瞬間。
その重みを抱きしめて、生きてみたい。
胸の奥で、はっきりと声が響いた。
「僕は、やり直せない何かを選ぶ」
――この疑問すらも、数京回は繰り返されているのかもしれない。
それでも、僕にとっては初めてだ。だから、前へ進む。
夜、ミナから通信が届いた。
「ねえ、決めたんだね」
「うん」
「怖くない?」
「怖いよ。でも、それでいい」
彼女は小さく笑った。
「私も……同じだよ」
言葉が途切れる。沈黙が、やさしく世界を包む。
やり直しのきかない沈黙。二度と同じにはならない沈黙。
その一瞬が、僕にとってかけがえのない光だった。
空を仰ぐ。
数兆の都市が輝く中、ひとすじの流星が夜を裂く。
燃え、消え、二度と戻らない。
僕は微笑んだ。
それこそが、僕の夢見た「終わり」であり「始まり」だった。
――自由の果てに、有限の意味がある。
お蔵入りしてたやつだけど、お蔵出し。連載にしようと思ったけど短編一括。
人口1那由他人で足りたかもしれない。
ユートピア生活を書くはずが、明後日の方向に行ってしまったお話。( ・`ω・´)
(・ω・`; )




