挿話5 皇妃コノハ・ユディール・ジェス・アヴァルティーダの物語⑤
銀河帝国に、下剋上などというものは存在しない。
生まれつき立場がはっきりした世界では、簡単に諦めることができる。何しろ言い訳をする必要さえ無いのだから。諦めることで傷付くプライドもない。自分の分をわきまえてしまえば、全ての歯車は回り行き、その場に平和が訪れる。それこそが賢い者の振舞いだ。諦めないで足掻く者を、愚かだと嘲笑する風潮がある。銀河帝国の悪いところだ、とユディールは思う。
結局、ユディールはどこまでも、帝国における「普通」に成り切れないのだろう。どこかに、「諦めないで努力するのは良いことだ」「努力する人間は尊い」という前世の感覚が消えずに残っていたのである。
「あら、ヴァスラム宰相」
その日、皇城の回廊で宰相と出くわした時、ユディールは穏やかな、好意的なものが多分に含まれた笑みを彼に向けた。
ヴァスラム宰相は、いい。何と言っても、原作にまるで出て来ないのが素晴らしい。
どんなに存在感の薄いラスボスでも、大抵は裏切るより随分前の段階でお目見えしているはずだ。何の接点もないキャラクターを連れて来て、「こいつが犯人でした」と言われたところで、大抵の視聴者はがっかりするだけだろう。
だから、ヴァスラムは「無い」。とユディールは考えていた。
「十人の凡才よりも一人の天才を連れてこい」となりがちな銀河帝国において、腐らず真面目に仕事を遂行しているのもいい。ルシアンに対して、普通の優しい叔父の顔を向けているのもいい。
(こういう人がいると、ほっとするのよね)
「ルシアンなら、今日もレジーナと侍女達と一緒ですわ」
「そうですか」
ヴァスラムは薄く微笑んだ。
くすんだ銀髪が、差し込む陽光で更に淡く、光と同化して見える。幸薄そうな男だ。控えめな笑みを浮かべながら言う。
「あの子はああ見えて、素直な子ですから……素直な皇女殿下とよく合う、と思います。いい組み合わせかと」
「そうですわね。あの子たちは幸せになって貰わないと……」
呟くうちに、ふと、内心の危機感が頭をもたげた。
どうしても消え去らない不安だ。いつもは何とか押し込めているのだけれど、ヴァスラムの穏やかな空気に触発されて、表に出てきてしまったようだ。
「……皇族として、個々の貴族家の方針に口出しすることは禁忌ですけれど。命を削るような風習は、なんとかならないのでしょうか」
「……仰ることは分かります。寿命を削って力を得るなど、悪魔に魂を売っているようだと昔から噂されていますしね」
「あの子には死んで欲しくありませんわ。簡単なことではありませんけれど、少しずつでも、風習を変えていけないのでしょうか。ヴァスラム卿のように、自分の努力だけで立っている人もいるのですもの。皆、そうできたら、どんなにか……」
そこまで言って、ユディールは言葉を切った。一般的な貴族としては、十分に失礼と見做されるようなことを言ってしまった。これ以上は言えない。言いたいけれど。
「ごめんなさい、言葉が逸ったようですわ」
「お気になさらず。私もそう思っておりますよ、皇妃殿下」
ヴァスラムは静かに頭を下げ、二人はそのまま回廊をすれ違って別れた。
だから、その時のヴァスラムがどんな顔をしていたか、ユディールは知らない。
「……レジーナが見つからない?」
その知らせがもたらされた時、ユディールは泣き叫ばないことに全力を注入した。
顔が歪む。顔中の筋肉が強張って、どうにかなりそうだ。それでも、バラバラになるわけにはいかない。
「ジョーカーは? 付き添っていたはずでしょう」
地球から一時帰国した雅仁を迎えに、空港まで自動操縦車に乗っていったレジーナだが、周囲の護衛車ごと掻き消えていた。ほんの短期間、それなりの数の護衛もついていて、普通ならなんという事もない短い外出だったはずだ。
ジョーカーの姿も見当たらないという。
唯一、ぽつんと路上に残されていたという、黒いキリンのぬいぐるみを握り締めて、ユディールは必死に自分に言い聞かせた。
ジョーカーがいる、きっと、無事でいるはず……
子を失った親は皆、こんな思いをするものだろうか。
ユディールは流す涙も尽きたような顔をして、日々、捜索の指揮を取っていた。実際には、伏して泣く時間など一分だって無い。寝台に横たわって眠ったのは、一体いつの話だろう。
「手がかりらしきものを見つけたかもしれません」
心も身体も限界だったからか、微笑む宰相が天使のように見えた。地獄に下りてきた蜘蛛の糸だ。差し伸べられた手をすんなりと取って、専用車で市街地まで走る。護衛がついてきていないことに気が付いたのは、随分時間が経ってからだった。
「ヴァスラム?」
曇った思考の隅で、何かがおかしい、と本能が警鐘を鳴らした。
なぜ、ヴァスラムは笑っているのだろう?
車の操作盤を叩き、皇妃権限で強制停車した。転がるように外に出ると、強い風がユディールの髪を吹き荒らした。
誰かがまだ笑っているのが聞こえる。堪えきれず、愉しそうに。
「ユディール!」
煙を立てそうな勢いで、見覚えのある専用車が走ってきて、少し離れたところで停車する。焦った顔の皇帝が飛び出してきて、その形相に言葉を失った。どうしたの、何があったの……という問いは、駆けてくる皇帝と指先が触れ合う前に消えた。
貴方は何か気付いたのね。
私が気付かなかったことを。
私は、どこで間違えたの?
全てを守るつもりで、今この瞬間、全てを失おうとしている。
努力は無駄だった。きっと、ここは帝国だから
せめて 貴方だけでも
「逃げて」
夫に向かってそう言おうとした時、巨大な影が二人を呑み込んだ。
ユディールは振り向く時間がなかった。影の差してくる方向を見ることは出来なかったが、自分を呑み込む影が、横向きに大きく口を開けた人型をしているのは見た。
おかしいのは、その縮尺だ。皇城と比べても、遜色ないほど大きいのでは? ああこれは、巨大な人型機体なんだわ、ユディールはそう思った。
それが最後の記憶だ。




