第十九話 何を答えても絶叫が上がるのじゃ
「リリス……」
「リリス?」
無論、妾の知らぬ名前じゃ。
じゃが、その名前にはどこか、妾の心の奥底を揺さぶるような、既視感めいたものがあった。
妾、その名を知っているのではないか?
深い関わりがあるのではないか。
(妾、どこかで、その名を……)
ずっと目を背けていた事実なのじゃが。
(妾にも言い訳はあるぞ。こんな理不尽な世界で唐突に目覚めて、周囲に合わせようとして右往左往しておったのじゃ。落ち着いて深く物事を考える余裕なぞ無かったわ)
妾、記憶というものがほとんどすっぱ抜けているのである。
前世の記憶、と言って語れるようなものもほぼ無い。途切れ途切れの断片や、この世界の「設定」が蘇るばかりで、具体的なことは何も分からない。恐らく、前世も女子であっただろう。そして、この世界をテレビ画面を通して知っていた。あと、雅仁×守を愛する友がいた。その程度じゃ。
そして、「前世があった」と認識する前の記憶は全く無いのじゃ。
気がつけば妾は悪の組織にいて、幹部をやっていて、部下たちに引き合わされておった。総裁のボス・ゾアスは妾の父親のはずじゃが、ろくに話した記憶もない。母親の顔も知らぬ。
妾は妾のことを、何も知らぬ。
「……リリスとは、髪の色も目の色も違う。だが、どう見てもリリスだ。俺の生き別れの妹、リリス・レジーナ・ジェス・アヴァルティーダ。一年前に奸臣に攫われて、行方知れずになった皇女。ずっと探していたんだ……母上は心痛のあまり倒れて、その隙を突かれ、父上と共に逆賊に陥れられて」
「ふえっ」
妾、思わず奇声を発してしまった。
薄々察していたような感じではある。なんかこう……ヒントらしきものは何度か出されておったしな?
じゃが、情報量が多すぎる!
(銀河帝国皇帝と妃は囚われて、首都は反乱軍によって陥落させられておったはずじゃが……その原因が妾? 妾がいなくなったせいで出来た隙を突かれた、じゃと?!)
妾は悪の組織の総裁をパパだと思っておるのじゃが……真実は銀河帝国皇帝がパパ? 何一つ思い出せそうにないのじゃが?
「リリス」
気が付いた時には、目の前に雅仁が来ていた。
薄茶色の瞳が、妾を見つめている。
「帰ろう。お兄ちゃんが迎えに来たぞ、リリス」
「……」
差し伸べられた手を取っていいのか分からぬ。
途方に暮れて、妾は雅仁を見上げた。
「……」
沈黙が落ちる。
(ごくり)(ごくり)(ごくり……)
唾を呑み込んだのは、一体誰であっただろう。緊張に耐え切れず、くぐもった音が複数、重なって響いて、妾はびくりと肩を揺らした。恐る恐る周囲を見渡してみて、そして慄く。
観衆どもじゃ。
いつものように黄色い声で叫び立てることもなく、じいっと、食い入るように、無数の目がこちらを見ておる。雅仁がどう動くか、妾がどう答えるのか、一挙一動を見逃さぬように見入っておるようじゃ。
(ひえっ……)
どうやら、先程唾を呑み込んだのも彼らであったらしい。
そして極めつけに、背後のテレビジョンに映っておるのも、雅仁と妾じゃ。巨大な画面に、見合って立つ青年とゴスロリ少女が映し出されておる。これ、今、全世界に放送されておるのか……
妾の返答次第によっては、この後この場は絶叫の坩堝と化すのであろう。いや、妾がどんな返答をしても同じことかもしれぬ。爛々と目を光らせ、マイクを握り締めてこちらを見ているレポーターの血走った目を見てしまうと、そうとしか思えぬが……
(怖さしかないのう……!)
「ええと、その……」
妾はか細い声を上げた。
「妾は……何も、覚えていなくて、じゃな。今、ここでそんなことを言われても、判断する材料が……」
「きっと怖い目に遭ったんだな……。リリス、とにかく一度、俺たちと一緒に地球防衛軍に行って、保護して貰おう。それからゆっくり話を……」
スパーン!!!
炸裂した音が、妾と雅仁の間の空間を引き裂く。
我々の鼻先すれすれを、槍らしきものが飛びすさって対面の壁に突き刺さった? 敵襲かの?!
「?!」
驚いて凝視すると、それは槍よりも遥かに小さく細い棒状のもので、ふるふると震え、そしてふっと幻のように揺らめいて消えた。何となく、見覚えのある形状をしておったような気がする。そう、例えば、編み針のような……
「駄目ですよ」
物柔らかな声がした。
この場には酷く不釣り合いに思える、子供をあやすような優しい声。
それがかえって、不自然さと不吉さの数値を吊り上げている。
「レジーナを連れて行くことは、許しません」
「お主……」
妾は、その声の持ち主をよく知っている。ほんの数ヶ月の付き合いではあるが、到底忘れられるものではない。いつ寝首を掻かれるか分かったものではない、という意味でもな。
「無名殿」
今名乗っている名前は「無名」(今更ながら、「無名を名乗る」とは何かおかしくないかの?)、本来の名は朽葉エルド。ヒーローたちが慕った元教官が、砂場で遊ぶ子供たちを見守る保母さんの如き笑みを浮かべながら、音もなく瓦礫の上に進み出てきた。