第十八話 敢えて言わなかった名前があるのう
「いちか、伏せろ!」
空気を切り裂くような号令。
耳を圧する衝撃と共に、何らかの魔力で出来た無形の盾と、鋭い剣の斬撃が叩き付けられた。叩き付けられたセイランが体躯をよろめかせ、刀を地面に突き立てて踏み止まる。
咄嗟に地に伏せたいちかが、そのままゴロゴロと転がり、立ち上がるかと見せかけて、ゴロゴロ、ゴロゴロ……とこちらに向かって転がってきた。歩くより、転がる方が楽になったのであろうか。ちょっと意味が分からぬな……と思いながら見ていると、パッと起き上がり、満面の笑顔を見せる。
「有難う、雅仁くん! 助かっちゃった」
「俺だけの力ではない。守がいてくれたからだ」
ふふ、と柔らかな笑みを浮かべる美青年。その背後に影のように添う、大柄な青年はむっつりと押し黙っているが、黒い眉を顰め、冷ややかな眼差しでいちかを見据えている。
──来てしまった。
とうとう来てしまった……この世界の主人公が。
いや、もしかして、ジョーカーが時間稼ぎをしろと言ったのは、このためなのか?
妾はごくりと唾を呑み込んだ。
妾、「この世界の主人公は妾じゃ」と思っておったこともあるのじゃが。こうして雅仁と向かい合って対峙しておると、いささかその自信が揺らいでくる。
ハーフ顔の若手イケメン俳優が演じる皇子様キャラ。前世の妾が知っていた雅仁・セイレス・ジェス・アヴァルティーダとは、そのような作られたキャラクターじゃ。だが、この世界に実在する雅仁は数万年の歴史を誇る銀河帝国の唯一の後継者であり、生まれながらにして傅かれることに慣れた支配者の系譜である。同時に、遺伝子操作の領域において地球より遥かに進歩した世界における、究極的な成果の一つといってもいい。
……この遺伝子操作、単純に進化しただけではなく、特に貴族階級においてはなかなか歪んだ形となっておるのじゃが、それは今は語る場ではなかろう。
とにかく、本物の主人公の色香がすごい。
青年期に至って、漂わせ始めたばかりの男性的な色香がだだ漏れになっているというか……ルシアンのような、少年らしい潔癖そうな美とは異なり、妾のような、色恋に興味のないロリですら戦慄させるものがある。びっしりと濃い睫毛に囲まれた瞳はやや目尻が下がって、どこまでも整った顔に柔らかみを添える。白く滑らかでありながら、日常的に剣を握る者らしく長く節のある指。血統書付きの貴族犬のようなふんわりした髪。全身から温和かつ気怠い色気を漂わせ、それを帝国の皇子らしく抑制の効いた、品格を感じさせる所作を身につけることで辛うじて抑え込んでおる。
全人類を無差別に誑し込みそうな美形、というか、すでに誑し込んでおったな。こやつの通う学園では朝晩、全校生徒が校門前に直立してお見送りするという話、現実味がありすぎて怖い。
(じゃ、じゃが……妾だって滅多にない美少女じゃからな……!)
謎の競争心に駆られてギリギリしておると、ジョーカーが妾の腕をトントン叩いて、妾にだけ聞こえる音量で話しかけてきた。
「お気を確かに、レジーナ様。あれは『魅了』スキルです」
「魅了スキル?」
「はい。銀河帝国皇族は全て、生まれながらにして魅了スキルを所持しています。意識的に発動しない限り微弱で、元々の好感度や精神耐性によって弾かれますが、あの方のスキルは特に強力ですので……」
「ほほう」
今の話で、気になるところが無数に出てきたのじゃが……ジョーカーの、どこか言葉を濁したような「あの方」という言い方とか。じゃが、妾は一つ質問するにとどめた。
「……妾にも、魅了スキルがあるのかの?」
「はい。ですが、私やルシアンやセイランには効いておりませんのでご心配なく」
ご心配なく?
今、ジョーカーが言及しなかった名前があるのじゃが、妾はそこに突っ込むべきか? それとも何も聞かなかった振りをしていた方がいいのかのう?
「うちの総裁には割と効いているようですね」
「総裁に効いておったのか……」
それはともあれ、
「……お前。強くあろうとする意志を感じる。未だ荒削りの発展中ではあるが……」
セイランが喜んでおるようである。
「俺はセイラン、剣の高み、まだ見ぬ地平を求める者である。お前はそこへ到れるか……?」
「……これはこれは」
ゆらり、と立ち上がって相対したセイランに対し、雅仁は騎士じみた礼を取った。周囲の空気は緊迫してヒリついているが、彼の表情には諧謔味があって、どこか楽しげだ。
「俺を指名して貰えるとは。俺は雅仁・セイレス・ジェス・アヴァルティーダ、第862代銀河帝国が継嗣、皇太子。奪われた家族と故郷を奪い返すために戦う者である。未だ発展中、と言われてしまうのは納得しているが、いかな強敵にも退くつもりはない」
「復讐が、お前の原動力か」
「それだけじゃない。愛する人や、俺の前で死んだ教官のことを忘れたことはない」
その教官、今はどこにおるのじゃろうな……
(やたら登場が遅いが、地下通路で迷子にでもなっておるのかのう)
「……」
教官の死を想ったせいか、雅仁の顔に影が差したが、彼はにっこりと唇の端を上げると、
「では、剣客どの。達人とお見受けするが、それぞれの目的のために。仕合うとしようか」
ゆるりと構えを取る。幼少期からしっかり叩き込まれ、教育されてきたことが分かる、綺麗な構えじゃ。
キャアアアアア!
雅仁さまあああ
元気いっぱいな観衆の間から、最大音量で黄色い声が迸る。とてもうるさい。
妾は顔を顰めた。
「……仕合うのは結構じゃが。せめて、これ以上周囲に被害が及ばぬ場所でやってもらえないかのう」
思わず、口を出してしまった。
だって! 散々振り回されて、ルシアンも疲れておるしな?
これ以上、狂人の思うままに振る舞われたくはない。
「……」
ぱっとこちらを振り向いた雅仁が、亡霊を見たかのように口をあんぐりと開けた。
息を呑むような美形にしては、間抜けな表情じゃ。
「……リリス」
そして彼は、確かにその名前を口にした。