十一月の冷やし中華
秋のある日。
文化棟の帰り道、風が少しだけ冷たくなっていた。
琴美はふと足を止める。
思い出したように、というより――胃が勝手に思い出した。
(……ビーフシチュー、食べたい)
火曜か水曜か、確かめるまでもない。
今日は当たりの日だ。琴美の身体が知っている。
黒磯の道を曲がる。
油で曇ったガラス戸、色褪せた暖簾、頑固に生き残る看板。
――あった。
琴美は胸を張って入る。
空気が一段、昔に戻る。
揚げ物、湯気、床と時計の微妙な傾き。テレビは再放送。
そして、壁一面の短冊メニュー。
琴美は、いつもの場所に目をやる。
ラーメン、カツ丼、しょうが焼き――。
ビーフシチュー――。
(よし)
……その隣に、見覚えのない短冊が増えていた。
冷やし中華 始めました。
琴美は、反射で突っ込みかけた。
(秋だぞ)
喉元まで出たツッコミを、歯で噛み殺す。
(突っ込んだら負け。ここは平静を装うのよ。この店は、反応が目的。反応したら、負け。)
琴美は呼吸を整え、澄ました顔を作った。
昭和の客は動じない。動じない客のフリをする。
ちょうど奥から、あの声。
「いらっしゃい!決まりましたぁ?」
割烹着。ペン。審判の目。
おばちゃんは、琴美の顔を一瞬だけ見る。
――一瞬だけ。
だが、見られた。
琴美はさらに澄まして言った。
「冷やし中華」
おばちゃんは感情のない顔で、当然のように頷いた。
「はいよ」
(勝った)
琴美は心の中でガッツポーズをした。
突っ込んでない。平静。完璧。
……だが、次の瞬間。
おばちゃんが、ふっと一言だけ落とした。
「マヨ、つける?」
琴美の脳が止まった。
(何でマヨの話をするのよ)
だが、琴美は微笑みを崩さない。
崩したら負けだ。昭和は顔を見る。
「……つけます」
「だろ」
おばちゃんの「だろ」は、勝利宣言じゃない。
反応が取れたの宣言だ。
琴美は気づいた。
(あたし、もう手のひらの上じゃない。手のひらそのものだわ)
しばらくして、来た。
皿の上に、秋なのに涼しい顔をした冷やし中華。
キュウリ、ハム、錦糸卵。紅しょうが。
そして――なぜか、からしが給食の小袋みたいな形で添えられている。
(給食要素、混ぜてくるな)
琴美は突っ込みたい。
でも、抑える。抑えるほど、負けが深くなる。
一口。
……うまい。
琴美の顔が、ほんの少しだけ緩む。
その瞬間、背後から声。
「うちの冷やし中華、秋が一番うまいんだよ」
琴美は、箸を止めた。
(……秋が一番?)
おばちゃんは、もう去っていた。
説明はない。
そういうルールだけ置いていく。
琴美は静かに呟く。
「……最悪」
そして、冷やし中華を完食した。
帰り際、琴美は短冊をもう一度見上げた。
あの短冊の下に、小さく付け足しがあった。
冷やし中華 (※秋が本番)
琴美は、一歩だけ後ろに下がった。
(……あたしの顔、見て書き足したわね)
扉を出る。
外の風は現代の匂い。車の音、看板のLED。
でも、頭の中だけは、まだあの店の湯気の中にいた。
琴美は歩きながら、笑ってしまった。
「……昭和、怖い。でも、好き」
火曜と水曜が、また少し怖くなった。
そして少し、楽しみになった。
冷やし中華を食べ終わった。
悔しいけど、うまい。
それがいちばん腹立つ。
琴美は箸を置き、背もたれに寄りかかる。
体の奥が、もう負けを認めていた。
(……来る)
この店は、黙らせたあとに殴ってくる。
次はご褒美で。いつものやつで。
琴美はカップの置かれる気配を待ちながら、何でもない顔を作る。
平静。平静。反応したら負け。
――コトン。
来た。
……が、違う。
カップじゃない。
テーブルの端に置かれたのは、薄いグラスの水。
そして、おばちゃんが何の感情もなく言った。
「コーヒーは後ね」
(後って何よ)
突っ込みたい衝動を噛み殺す。
この店では、突っ込んだ瞬間に負けが確定する。
琴美は水を一口飲んだ。
冷やし中華の酢の余韻を、無理やり引っ込める。
ふと、背中側で――
カチ。
小さな電子音。
蛍光灯の白い光に、妙に似合わない別の光が立った。
琴美は反射で振り向く。
そこにあった。
アップライト筐体。
木目調の側板。角の擦れ。
画面の奥が少し黄ばんでいて、そこが逆に本物だった。
コイン投入口の横には、手書きの小さな紙。
> 1回 50円
(……安い)
画面には、あの文字。
SPACE INVADERS
琴美の喉が、鳴った。
(なにこれ)
以前はなかった。
確実に、なかった。
少なくとも、琴美が来るたびにあそこにあった空間は、空だった。
そして――
操作部を見て、琴美の背筋がさらに伸びた。
左右移動が、レバーじゃない。
ボタンだ。
小さな四角いボタンが、左右に二つ。
撃つボタンが、別にひとつ。
(バージョンによってはボタン……!)
昭和の変態仕様。
知ってるやつだけが知ってる、あの悪趣味な分岐。
琴美は、口を開いた。
「……ちょっと、待って」
おばちゃんは厨房の入り口から顔だけ出して、淡々と言った
「冷やし中華、うまかった?」
質問の形をしてない。
確認だ。反応の採点だ。
琴美は喉の奥でぐっと飲み込み、澄ました顔のまま答えた。
「……まあまあね」
おばちゃんが、目だけで笑った気がした。
「だろ」
その「だろ」が腹立つ。
腹立つのに、心が浮く。
琴美は立ち上がった。
筐体の前に立つ。
コインを探す。財布を開く。五十円玉。
(やめなさい。これは罠よ。これは――)
でも、指が勝手に動く。
チャリン。
コインが落ちる音が、店の空気に吸い込まれた。
ブゥン。
古い機械の起動音。
画面が明るくなる。
インベーダーが整列する。
琴美は手を置いた。
左右ボタンに親指。撃つボタンに人差し指。
(……レバーじゃない。ボタン移動は、重い。ほんの一拍遅れる。つまり――焦らせに来る)
琴美が撃つ。
ピッ、ピッ、ピッ。
インベーダーの動きが、ゆっくりなのに圧がある。
この店の料理と同じだ。
急がないのに勝つ。
琴美は歯を食いしばる。
「……やるじゃない」
背後で、湯気の音。
揚げ油の音。
店の時間が、ゲームと同じ速度で進んでいる。
そして、インベーダーが一段降りる。
琴美の指が速くなる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
ボタン移動の遅れが、心を焦らせる。
焦った瞬間、負ける。
焦った顔をした瞬間、店に負ける。
琴美は、笑ってしまいそうになった。
(……最悪。この店、料理だけじゃない。私の昭和まで知ってる)
その瞬間。
コトン。
音がした。
琴美は振り向かない。
振り向いたら負けだ。
今はインベーダーと勝負してる。
昭和と勝負してる。
それでも、香りだけで分かる。
コーヒー。
ちゃんとした豆の苦味。
後ねと言ったくせに、タイミングが完璧だ。
おばちゃんの声が、背中に刺さる。
「冷めないうちに飲みな」
琴美は、口の端だけで笑った。
「……どっちを?」
おばちゃんは何でもない声で言う。
「どっちも」
インベーダーが、また一段降りた。
琴美はボタンを押す。
ピッ、ピッ、ピッ。
カップから立つ香りが、戦意を煽る。
勝たせる気なんてない。
気持ちよく負けさせる気だ。
琴美は小さく呟いた。
「……趣味が悪い。最高」
その瞬間、画面の端にUFOが横切った。
琴美は反射で撃つ。
ピィン。
当たった。
得点が跳ねる。
背後で、おばちゃんが一言だけ落とした。
「今の顔、良かったよ」
琴美は、完全に固まった。
(見てた……!)
勝ったのに、負けた。
一番嫌な勝ち方で。
琴美は、椅子に戻り、コーヒーを一口飲んだ。
苦いのに、優しい。
「……最悪」
言いながら、もう一度、五十円玉を探してしまっていた。
火曜と水曜が、また少し怖い。
そして少し、楽しみだった。




