振り返るな
私はただ、妻に会いたかっただけだ。
愛しい愛しい吾妹。
それが、なぜこんなことに?
はあはあ、と自らの息遣いが耳元で響く。
暗闇のなか、覚束ない足元でそれでも必死に走る。
――吾背の君。どうか。どうか、私の姿を見ないでください。
ヤクソク、シテ……
するよ、もちろん。見ないと誓おう。
――ホントウ、ニ……?
美しい声、姿は見えずともそれが変わっていないことがわかった。
震える声で懇願する吾妹に、愛しさがつのる。
約束は守りたい、しかし。
なぜ夫である私が妻の姿を見てはならないのだ。
中つ国よりはるばると、黄泉比良坂をくだり暗闇へと潜ってきた。
それもこれも妻のためだ。
一度は失ってしまった彼女を取り戻すために。
――私は何か、間違っているか?
恐る恐る、灯りをともす。
ああ、愛しい君よ。
なぜ、見てはならぬなど、ひどいことを言うのだ。
ぼんやりと浮かび上がるその、姿。
どろりと腐り、骨が覗く指。
それに、この腐臭。
――まさか。なんだこれは。黄泉の化け物か。
それ、がゆっくりと振り返る。
暗い灯りにしろく蛆が蠢いた。
――み、た、な……?
ぽかり、と空いた冥い眼窩が黄泉の底暗い闇を映す。
私は思わず息を呑んだ。
――あれほど、見てはならぬ、と……このような、恐ろしく醜いすがたを……!
ぬるり、と腐った腕が伸びる。
私は思わず身を引いた。
腐った腕は一瞬だけ、びくり、と動きを止めた。
――そうか。それではあなたはもう背の君でもなんでもない。……呪うてやろう。
呪う、とは?
どろどろと皮膚は垂れ下がり、頬骨が見え隠れする表情さえ定かではない化け物が、それでもにたりと口の端を持ち上げたのが見えた。
――黄泉のものどもよ。そやつを捕らえよ!
ぞわぞわと、足元を有象無象の蠢くものらが捕らえようとする。
私は中つ国へとつながる坂を目指し走り出した。
息を切らし、走りながら背に肩に、まとわりついてくるものどもを振り払い、必死に走る。
なぜ、なぜこんなことに?
悲しみと期待とを胸に潜ってきた道を、恐怖と怒りを持って戻っていく。
――ああ、光だ。
視線の先に、吾が世がある。
生者のための、あかるい世が。
ああ、迎えになど行くのではなかった。
死者は死者だ。妻でもなんでもない。
あれは、ただの化け物だ。
坂を登りきり、大岩で根の国への入口を閉じた。
ずるずると座り込み、その大岩へと背を預ける。
ほっとしたのも束の間、大岩が向こう側から突き上げられるように、どん、と揺れた。
――呪ってやる……!
の……呪うとは。
高笑いが大岩の向こうで響いた。
――そうさ、一日に千、黄泉に引きずりこんでやる。そうすれば中つ国はじきに滅ぶ。
「な、ならば、私は産屋を立てて一日に千五百の子を生み出そう!」
◇◇◇
「ねえ、大丈夫?」
ゆらゆらと肩を揺すられ、俺ははっとして目覚める。
いつの間にか、図書室の机に突っ伏して眠っていたようだ。
肩に手を置いた彼女が向かいの席から覗きこんでいた。
「なんか、叫んでたよ?」
心配そうに囁き、次いでくすり、と笑う。
「よだれ、ふきなよ」
「お、おぅ……」
じゅるると口元を手で拭い、彼女が差し出したハンカチを断る。
俺のよだれなんかつけちゃ悪いだろ。
起き上がった下にあったのは、古典のテスト範囲の教科書。その隣にあるくちゃくちゃのノートには『古事記』、というミミズみたいな文字がよれよれと書かれている。
……そうか、俺はイザナキ・イザナミの夢を見たんだ。
やたら、リアルだったけど。
イザナキになってて、なんか、叫んでたな。……なんだっけ?
「もう真っ暗だよ。帰ろう」
窓の外には雨が降っていた。だからか、普段よりも日が暮れるのが早い気がした。
手早く片付けた彼女を追って、学校から帰る。
昇降口を出てそれぞれ、ぽん、と傘を指す。
雨は、嫌いだ。
傘に阻まれて、彼女の顔が見えない。
距離もなんとなく遠い。
「なんの夢、見てたの?」
「ん? うん……、忘れちゃった」
「叫んでたよ」
「うわ、やべ。うるさかった? 悪い……」
傘の下でくすり、と彼女が笑う気配がする。
「『古事記』でしょ? ヨモツヒラサカ、の」
「……え。言ってた、俺?」
「うん」
国語も日本史も得意な彼女に勉強を教えてもらうつもりで一緒に図書室にいたのに。
そんな貴重な時間だったのに。
どうして、寝ちゃったりしたんだろう。……いや、わかってる。
理数系は得意だけど、俺は文系全般苦手なんだよ。眠くなっちゃうんだ。
彼女が、ふと足を留めて、道端の花に目を留めた。
気づかず、数歩先を行く俺は慌てて振り返った。
「……振り返るな」
急に、傘の下から彼女が低い声で言う。
どきり、として近づこうとした足が止まる。
「……え?」
彼女は傘を上げようとはしない。
その可愛い顔が見えない。
「昔話とか神話って、簡単に約束を破るよね。イザナキもオルフェウスも」
「や、やくそく……?」
「見るな、の約束」
「う、うん、まあ、そうしないと話が進まないからだろ? 馬鹿だなあとは思うけど」
「私との約束は守ってくれるよね?」
「も、もちろん!」
傘の下からすっと白い手が伸びる。
俺の腕にその手が触れた。
「約束破ったら……、わかってるよね?」
「は、はい……?」
な、何か約束してたっけ?
来週の映画? それとも誕生日?
えっと、なんだっけ!?
「……コロシテヤル」
「ひっ……!?」
背伸びしたらしい彼女が首もとで囁いた。
なんだろう、さっき、彼女の白い手の上に何か蠢くものを見た気がしたんだけど。
……きっと、気のせいだ。変な夢を見たから。そんな気がするだけ。
「……うそ。『古事記』の真似、よ」
「あ、ああ、そ、そうだ、よな?」
彼女は先に立って歩き出した。
その傘に、ぽつぽつ、と雨が落ちる。
――雨は嫌いだ。……だって、彼女の顔が見えないから。