1-8 海と血
そのとき聞き覚えのある足音が聞こえ、カインの表情が恐怖に染まった。
仲間の革靴ではない。鉄靴が硬い床の上を叩く音。
守護騎士だ。ここにあいつがくるということは、つまり、上にいたアルバスとポーンは……
「奴らが近づいている。ああ、くそ! くそ、なんで……どうしたら……」
「一方通行の仕組みなのかしらね」
マリアが暢気に言いながら来た方とは反対側の壁へと歩いてコンコンと叩く。
「ここじゃない。ここでもない。あ、音が違う。ここね」
マリアが爪先で壁を蹴ると壁が回転ドアのように半回転した。
その手慣れた仕草にカインは確信する。
こいつは小説家なんかではない。
「マリア……お前一体何者……」
問われたマリアは質問には答えず、前に進みながら振り向いてカインに命令する。
「“ついて来なさい”」
気が付くと考えるよりも先に体が扉へ動いていた。
マリアに続いてカインが扉を抜けると白い石材でできた通路があった。
青白く光る石はこれまでは壁や天井に雑に埋め込まれていたのだが、この通路では均等に埋まっている。
床には何かを引きずったように血の跡が続いている。しかもこの血はまだ新しい。
「ルー……ランド……!」
今、想像したくないことを想像している。
通路の先を見たくなくて、横へ目を背ける。
すると白い壁に紋章と無数の言葉が彫られていることに気付いた。
(確か、この言葉、天使教の聖書に載ってるフレーズじゃなかったか?)
天使教の聖句が彫られた隠し通路。
無残に殺されていた野盗たち。
襲ってきた天使教の守護騎士。
散らばっていた子どもたちの遊具。
死んでいた天使教の暗部の伝道者。
天使教会の施設ならばいくつか説明がつく。
だが野盗たちが根城にしていたのか、天使教がこの施設のオーナーならなぜいきなり調査団を襲ったのか、さっきの部屋でなぜ伝道者とやらが死んでいて、その部屋に子供の遊具があるのはどうしてなのか。
分からない。噛み合いそうで噛み合わない。
だが今は謎解きをしている場合じゃない。後ろからは敵が来ている。
それに仲間と合流しないといけない。その後はどうする。いいや考えたくない。
とにかくカインは前に進んだ。すると通路を抜けて広い部屋に出た。
「なんでこんな部屋が……」
隠し通路の先は子ども部屋だった。
赤ん坊用のベッドが置かれ、あやすためのラトルが床に転がり、人型の木製人形が机に並べられている。子ども用の椅子も十数個あり、壁には天使教の旗が掛けられていた。
「まさかここって養護施設か」
「言ったでしょ。孤児院よ。あと危ないわ」
カインがマリアより僅かに前に進み出たのでマリアが彼の肩を掴み、凄まじい腕力で後ろに引き戻した。勢い余って後ろへ転びそうになったカインが何をするんだと抗議しようとした直前、前方の天井から何かが落ちて床に広がった。
何かの液体だった。だが動いている。うごめきながら部屋全体へと薄く広がっていく。
生き物だ。どう考えてもまともなものじゃなく、恐怖のあまり怒鳴るようにマリアに尋ねた。
「あれはなんだッ!?」
「……『スライム』よ」
「スライム!?」
スライムはカインでも知ってるほど有名な魔獣の名だった。
意思のある粘液塊の魔獣でその流動性のある体で生物を包み込んで溶解するという。
液体であるため武器は通じず、逆に金属を腐食して破壊する恐ろしい存在だ。
「なんでそんなやつが」
「侵入者対策でしょうね。ここで待ち伏せて不用心に入ったあなたのような間抜けを上からパクリってところかしら」
「どうするんだよこれ!」
カインが絶望の声を上げる。前方に危険な魔獣、後方に天使教の騎士。
どちらもカインが手に負える相手ではない。
「……対策はあるわ」
マリアがカツカツとわざと音を立てて前へ出る。
音に反応したのか床に広がっていたスライムが凝集してマリアへと向かう。
マリアよりも数段高い水柱のような形状し、彼女を飲み込もうとする直前、胸の前でマリアは手を組み、透き通った祈りを捧げられた。
「“海よ、波よ、潮流よ。我が祈りを聞き届けたまえ”」
瞬間、スライムはピタリと動きを止めた。かと思うとブルブルと震え出した。
「“汝は海の精にして荒ぶる波の旗を持つ者。
今このときは凪なれば眠るるように淀みたまえ──〈凪の静まり〉”」
最後の一言を言い終わるとマリアの手前で白い光が弾けて消える。
そしてスライムがただの水に還ったように静かに床下へと沈んでいった。
カインはこれを家庭教師から教わっていた。天使教の修道士が使っているのも実際に見たことがある。
「今のは“奇蹟”か?」
奇蹟とは天使教の信徒が使う祈りによって超自然的な現象を引き起こす技術だ。
魔術と違って特別な準備や才能がいらず、篤い信仰と真摯な祈り、そして祈祷文の詠唱があれば使えるという。
「……まあ、そんなところよ。血は奥まで続いているわ。先に進みましょう」
何事もなかったようにスタスタとマリアは部屋のさらに奥にある通路へ進んでいく。
慌ててカインも続いた。聞きたいことがいっぱいあった。
「なあ、今のは何でスライムが消えたんだ?」
「私が使ったのは海の波を静める奇蹟よ。スライムはね、元々は西の古代都市にあった海を崇める『拝海者』って人たち作った魔獣なの。つまりアレは海の擬人、いいえ擬獣化ね。だから荒波を静める奇蹟を使えばアレは鎮まるのよ」
「その拝海者って連中はどうかしてるぜ。あんなバケモン作るなんて、何考えてんだ」
「………………」
マリアの表情は見えない。
「っていうかなんでマリアはその祈りを──」「ここね」
前を歩いていたマリアが急に立ち止まった。
マリアの前には白くて大きな扉があった。恐らくは壁の材質と同じなのだろう。
床の血痕は扉の先まで続いている。
「開けるわよ」
「ああ……って、おい待て。手、怪我しているのか? 血が出ているぞ」
マリアの指先から血が出ている。
本人も忘れていたというように顔の前に指を持っていき、ああそうだったと呟いた。
「これはさっきあなたを助けたときにね」
「助けたとき?」
カインが首を傾げる。スライムの時? それとも前の部屋で幻覚を見ていた時か。
どちらも彼女が怪我をするような出来事は記憶にない。
「幻覚剤の話はしたわよね? その中和剤をあなたに飲ませようとしたの。でも水がなかったわ」
「それで?」と続きを促すと彼女は驚くことを言ってきた。
「代わりに血を口に含んで口移しで飲ませたのよ。指の傷は血を出すのに噛んだせいね」
「は? はあああああ血を飲ませた!?」
「何よ。そんなに嫌だったのかしら? ファーストキスじゃあるまいし」
「それ以前の問題だっつの! 口に鉄っぽい味がしたのはそのせいか」
マリアはカインを助けるために口移しで中和剤とやらを飲ませたようだ。
初の接吻で動転するカインはマリアの耳が赤いことに気付かなかった。
「うっさいわね。いいから開けるわよ」
会話を無理やり打ち切るように再び扉に手をかけるマリアの腕を赤面したカインが掴む。
過程がどうあれ怪我をさせたのならば彼女にこれ以上負担を強いるわけにはいかない。
「ちょ、待。待てよ。とにかく俺のせいで怪我しているなら代わりに開けるよ」
「あら、紳士ね。じゃあどうぞ」
道を譲るようにマリアがどく。
未だ心臓がバクバクと言っているがなんとか落ち着けようとしつつ扉に手をかけるカイン。すると扉の向こう側から何かが聞こえてきた。
──何か歌のようなものが。