3-1 始まりの終わり①
ルナに引きずられて白い霧を越えたカインを待ち受けていたのは湖畔だった。
「なんだこりゃあ?」
入る直前に幻視した湖に似ているが鳥獣も植物も何もない殺風景が広がっている。
寒さや暑さもない。まるで湖という絵画がそのまま漂白されてしまったかのような印象を受ける。
と、そこでルナが指さした先に白波が崩れ落ちているのを発見した。
「あそこ! 白波」
「あいつ……何やってるんだよ」
心の中で悪態をつきながらもカインは走り出す。
ここがどこだという疑問は尽きないもののとりあえず後回しだった。
今は孤児院からの脱出、つまりこの謎の空間を突破する必要がある。
「おい、大丈夫か? なんつー表情してるんだよ」
カインが苦もなく白波に近付いたので彼は信じられないものを見るような瞳を向ける。
「お前、どうやって来た?」
「大丈夫か? 大丈夫なんだな?」
「これが無事に見えるか?」
白波が炭化して崩れた両膝を指さすとカインは痛ましそうな顔をした。
「お前たちは逃げろ」
「どうやってだよ! というかお前はどうするんだよ」
「妖精郷の展開は妖精自身にもかなりの負荷がかかる。
この世界に認められない異界だからな、長続きしない。
そうすればアイツも逃げるか、死ぬしかないさ」
「それじゃあお前が……ってルナ!?」
ルナが二人の横を通る。
その先にいる使徒の成れの果て──妖精獣の方はなにやら困惑するようにルナを見つめていた。
「あなたがずっと泣いていたアーポ・アークの眷属なのね」
【…………? お前ハナんダ? $M&@%……ドウして動ける?
いや、ソレヨリモこの気配ハ…………『白』ナのカ?】
そうして使徒がおそるおそるルナへと長い腕を伸ばした。
その指先は尊いものへ触れる畏れで少しだけ震えている。
怪物の灰色の指先がルナの頬に触れようとした瞬間──
「ルナッ!」
それを攻撃と思ったカインが鞭を振るって怪物の手を捕まえ、引っ張った。
【邪魔ダッ!!】
恍惚な瞬間を妨害された妖精が激怒する。
発せられた怒声には魔性が宿っており、物理的な衝撃波を生みだした。
「が、んのォッ!」
不可視の衝撃を受けたカインは木端の如く飛ばされそうになるが、鞭を強く握り、吹き飛ばされないように踏みとどまる。
しつこい蠅に苛立つように怪物が唸りながら呪詛を唱えた。
【“腐食、捕食、醜悪、凶悪──食い散らかす黒”】
妖精獣が何かを発動させると大気がパァンと炸裂し、湖が波立ち、飛沫が舞った。
最初に見た時はそれだけだった。
(こけおどしか?)
などと考えていたカインだったが、その推測はすぐに外れることになる。
飛び散った水滴がカインにかかった。
それは服に沁みることも、肌を濡らすこともなく彼の体を貫通した。
「は? なん、で……」
カインは穴だらけになった体から血が噴き出るのを見て困惑した。
攻撃の正体が分からず、困惑している間も再び大気が弾けて水滴が飛んだ。
「ず、う、おおおォォォッ!」
肺に、眉間に、股間に、心臓に。
カインの体の重要器官、急所のあらゆるところが穴だらけにされていく。
人間なら当たり前に死んでいる。
そしてようやく気付く。
「が、は……ゲホ、水滴……か……」
攻撃が分かったところで手遅れだった。
大量に血が失われたため寒いし、目が霞み、頭が動かない。
唯一の武器である鞭も水滴によって千切れていた。
一方で拘束を逃れた怪人はルナを捕まえて何かを呟いていた。
【返セ……いや、私タチニ……還してクレ。死にタクない】
怪物には余裕がない。
怪人の頭部から半透明な触手が何本も湧いて次々とルナの体に巻きつく。
ルナが苦悶の悲鳴を上げる。
「やめて、痛ッ……痛い!」
ルナの体には傷一つついていない。だが苦痛の表情は本物だ。
あの触手が彼女から致命的な何かを吸っているのだとカインは悟った。
止めねばならないと思う。
怪物はこっちに意識を割いていない。攻撃するなら今がチャンスだ。
そう理解していながら身体は動かなかった。
(どうして、俺は……)
さっきは咄嗟に動けた。
体は万全で状況の不明瞭さが逆に蛮勇を与えた。
その前は落ちてきた瓦礫を守ろうとして動けた。
瓦礫が落ちたのは悪意がない自然現象だから。敵じゃないから義務感で動けた。
でも今は違う。
あの怪人の体を持つ化物は明確にこちらへ悪意と殺意を向けている。
アレの作った三頭騎士に打つ手なく負けた。
その三頭騎士を倒した白波ですらあの妖精獣には勝てない。
そう、自分では勝てないのだ。
負けて、傷ついて、死ぬ。
それがどうしようもなく怖かった。
(動け。動けよ。なんで足が震えてるんだ)
少女を見殺しにする罪悪感と、痛みへの恐怖。
体は負傷しているが動けるはずだ。
だけど負傷を理由に動きたくない自分がいる。
そんな自分に対する嫌悪や無力感がないまぜになり、結局、進めなくなっていた。
(一体どこで間違えたのだろう)
幼馴染の獣人奴隷たちに鞭打てなかったところか?
それともルーとランドを救うという名分に縋って戦いから逃げたところか?
どうしてこんな場面に居合わせてしまったんだという後悔だけが無尽蔵に湧いてくる。
その時、背後で体が崩れかけていた白波が問う。
「死ぬ覚悟はあるか?」
「……ない」
「傷つく覚悟は?」
「それも……ない」
「じゃあ誰かを傷つける覚悟は?」
「絶対に嫌だ」
この期に及んで覚悟がない。
そんな彼を白波は持てる限りに憎悪を以て糾弾した。
「そうだ。それがお前──カイン・バン・ソルデンだ。
傷つけることも傷つくことも逃げ、何も選べず、何もせずに手から全てをこぼす。
手遅れになって初めて言い出すわけだ──こんなはずじゃなかったって。
無能め。クズめ。お前の優柔不断が大勢を不幸にするんだ」
「……何を知った気でいるんだ」
「知っているとも俺は……お前だからな」
白波が放った衝撃的な言葉を理解する前にトスッと、カインの心臓を白波の剣が貫いた。
そして魔術が発動される。
「“血濡れ火”」
白波が自分の血を火に変える魔術が発動されると同時、カインの全身の血が沸騰、いや発火した。
体が内側から燃える痛みに絶叫する。
「が、ああああああああああああああ」
悲鳴と共に吐いた血が火焔の吐息に代わり、喉を、肺を燃やし尽くしていく。
全身を焼く炎が激痛をもたらし、なのに強靭なヴァンピレスの神経はショック死も発狂も許さない。
焼かれる痛みの嵐の中、カインは背中越しに懇願する。
「やめ……ろ……」
「大丈夫だ。お前なら絶対に耐えられる」
冷徹に切り捨てる白波。
カインは何とか剣を抜こうとしても指が炭化して崩れた。
そのままボロボロと二の腕まで焼け落ちる。
落ちた自分の腕から肉の脂が泡立っている音が聞こえる。
「やめて……やめ……」
「お前にはこの苦痛すら生温い」
「やめへ……くへ……」
猛速で命が消えていくのが感じるのをカインは感じた。
早く消えてくれと祈るほどの、想像を絶する焼身の苦痛。
まだ死にたくないと願うほどの死の気配。
痛みから救われたいという思いが早く死にたいと死にたくないという強い願望を両立させる。
しかし白波はそんなこと知るかと、より深く剣を突き刺してカインの体を持ち上げた。
「消し飛ばせ」
白波が突き刺さったカインごと剣を使徒へ投げつける。
カインの背中から白炎を噴き出して加速し、音の壁を突破。
使徒に激突すると体内で圧縮されていた爆炎が紅蓮の華を咲かせた。




