婚約破棄されたようです
「ベルフェルミナ! お前との婚約を破棄させてもらう!」
巨大なシャンデリアがキラキラと輝く王宮のダンスホールに、エストロニア王国の第一王子フレデリックの声が響き渡った。髪色と同じアッシュグリーンの瞳が、怒りと憎悪に満ちている。
「フ、フレデリック様……な、何故そのようなことを?」
腰まである絹のように艶やかな黒髪を揺らし、ウォーレス伯爵家の長女ベルフェルミナは狼狽えた。優雅に夜会を楽しんでいた貴族令嬢、令息たちも会話を止めて心配そうに見守っている。ただし、見栄や虚栄心に満ちた貴族社会では、他家に降りかかる不幸ほど楽しいことはない。ほとんどの者が伯爵令嬢の失脚を内心ほくそ笑んでいた。妖艶な美しさと可愛らしさを兼ね備え、それでいて聡明で凛とした佇まいに、男性だけでなく女性からの人気も高い。そんな憧れの的が、今までに見せたことのない表情をしているのだ。ベルフェルミナの燃えるような深紅の瞳が潤んでいるのを見て、可笑しくてしかたがない。
「何故だと? よくも白々しく言えたものだな。この悪女め!」
憎しみのこもったフレデリックの声が、ベルフェルミナの純真な心に突き刺さる。危うく涙が零れ落ちそうになるのを、キュッと唇を噛みしめ何とか堪えた。
「あ、悪……女? わたくしが?」
他人に、ましてやフレデリックに、ここまで憎まれるようなことをした覚えはない。むしろ、誰かを傷つける傍若無人な振る舞いは、恥ずべき行為だと思っているほどだ。
だとしたら……ここで初めてフレデリックの隣に寄り添うローズピンクの髪の少女に視線を向ける。
「……ごめんなさい。お姉さま」
継母の連れ子である義妹のリーンだ。ベルフェルミナと同じ十五歳というが、本当かどうか定かではない。というのも、父親と継母は高級娼館で出会い、父親の一目惚れですぐに結婚をしてしまったのだ。しかも、世間には娼婦であったことを隠し、領主の権力で素性を偽装している。
「お前は妹のリーンを召し使いのように扱い、虐げているそうだな? リーンは世界にたった一人しかいない聖女なのだぞ」
「えっ!? ええと……リーンが、聖女? ですか?」
「そうだ。この十五年間、王都エストと近郊の町や村は魔物の襲撃を一度も受けていない。隣国や帝国の首都ですら、魔物の被害を受けているにもかかわらずだ」
「……はい。存じております」
「リーンが生まれたのは十五年前。これは、リーンが聖女であることを証明している」
(……それだけ? たったそれだけの理由で? わたくしだって十五年前に生まれておりますが?)
しかし、ベルフェルミナは口にしなかった。いや、いずれは国王になる第一王子ともあろうお方の考えが、余りにも浅はかで呆れて言葉が出ない。
「妹が聖女であることを妬み、姉であるお前はリーンに酷い仕打ちをしているのだろう?」
「…………」
ツッコミどころが多過ぎて、ベルフェルミナはポカンと口を開けたままフリーズしてしまった。
先ず、リーンは屋敷の内と外では別人のように性格が違う。我儘でキレやすく、ちょっとしたことで侍女やメイドに当たり散らしている。ところが一歩外に出れば、守ってあげたくなるような従順で可憐な少女を演じるのだ。さらに、優しく接してくれる義姉を毛嫌いし、言うことを全く聞かない。どちらかと言えば、ベルフェルミナのほうが顎先で使われていた。それを諫めるはずの父親も、リーンの可愛らしい見た目と愛嬌にすっかり魅了され、今では実の娘よりも溺愛している。傲慢で強欲なリーンと継母に虐げられているのは、むしろベルフェルミナのほうだった。
そんな、フレデリックに隠れて意地悪そうな笑みを浮かべている者が、本当に聖女だというのならば、己の身を犠牲にし困っている者に手を差し伸べる、慈愛に満ちた心の持ち主という伝承は間違いだったことになる。
「何も言えぬということは、本当のことを言われて動揺しているからだ」
「待ってください。わたくしは誓ってリーンを虐めるようなことはしておりません」
「なんだと? お前は、リーンが嘘をついていると言うのか!」
「殿下の婚約者に選ばれてから六年の間、わたくしが一度でも嘘をついたことがありましたでしょうか?」
ベルフェルミナが王宮に呼び出されたのは九歳の時である。あまり乗り気でない様子のフレデリックの前に、婚約者候補として立たされた。他にも十人ほどの美しく着飾った婚約者候補者たちと一緒に並んでいたので、その中から選ばれた時はとても嬉しかった。
それからは、厳しい妃教育に耐えフレデリックと結婚するために生きてきたといってもいい。
「さあな。今までお前の言葉を信用したことなどない。俺はリーンを信じている」
「――なっ?」
冷え切ったフレデリックの目を見て、父親が同じ目を向けてきたのを思い出した。この人に何を言っても無駄、声は届かないだろう。初めから信頼関係などなかったのだ。この六年間はなんだったのか。悲しみを通り越して怒りすら沸いてきた。
「よく聞け、俺はリーンと婚約することにした。すでに、国王陛下とウォーレス伯爵の許可はもらっている。つまり、リーンは俺の正式な婚約者というわけだ」
堰を切ったように周りがザワつき始めた。
「…………」
ベルフェルミナは開いた口が塞がらない。三年前に母親が病死すると、喪に服す間もなく父親は継母と再婚した。まだ、貴族の礼儀作法もままならないリーンにせがまれて茶会を開き、フレデリックを紹介したのが二年前だ。その時にフレデリックの護衛騎士であるパトリックと意気投合し、お付き合いをしていたはずである。そう思っていたのだが、いつの間にフレデリックと深い関係になっていたのか。
(たしかに、最近はパトリック様よりも、フレデリック様と一緒にいるところをよく見かけたけれど……)
フレデリックとリーンの後ろでは、深海のように暗い青色の髪に、切れ長で吊り目のパトリックが何食わぬ顔で突っ立っている。
「あの……フレデリック様?」
「どうした? リーン?」
「リーン、怖い。屋敷に帰ったらきっとお姉様に虐められるわ。いいえ。もっと酷いことをされるかもしれない」
「心配するなリーン。二度とそのようなことはさせん。愛するお前を、国の宝である聖女を守るのは俺の義務だ。そして、この国で一番幸せにすることを約束しよう」
「嬉しい。フレデリック様、大好き」
「フフフ、やはりリーンは可愛いな」
あろうことか婚約破棄したばかりの元婚約者の前で、二人はイチャイチャし始めた。
すると、思い出したかのようにフレデリックが向き直り、唖然とする元婚約者に指先を突き付ける。
「ベルフェルミナ! お前に国外追放を命じる! 早急にこの国から出ていけ!」
「――――っ!?」
もうこれ以上、驚くことはないと思っていたが、最後にとんでもないものをブチ込んできた。絶望の淵からさらに地獄の底まで落とされた気分だ。
「こ、国外追放と言われましても、わたくしは何処へ行けば……?」
国外に親戚や知り合い、頼る者などいない。自力で生きていく術を持たない貴族のお嬢様だ。物乞いをして路地裏や橋の下で暮らせというのか。
ベルフェルミナは縋るように周りを見渡すが、誰も目を合わせてくれない。茶会で仲良くしていた令嬢たちも、扇子で口元を隠しクスクスと笑っている。社交界には味方が一人もいないことを思い知らされた。
「フレデリック殿下の御命令に不服そうだな? 国外追放が嫌なら、王城の地下牢で一生を過ごすことになるのだぞ。ネズミと自身の糞尿にまみれ、家畜以下の扱いを受け。やがて病にかかりもがき苦しんで死んでいくのだ。さて、どちらがいい?」
フレデリックに代わって、ドスのきいた低い声でパトリックが脅しをかける。冷徹な光を放つ吊り上がった目からは、殺意すら感じた。
「……わ、わかりました。ですが準備に十日、いえ。七日ほど頂いてもよろしいでしょうか?」
「バカを言うな。旅行にいくわけではないのだぞ。明後日の朝、迎えをやる。必ずそれに乗って行くのだ」
「明後日? あした一日で準備をしろと仰るのですか? 貴族籍を失ったわたくしは、出国用に身分証を発行するにも数日かかります」
「チッ。そんなもの無くてもいいだろ」
面倒くさそうにパトリックが舌打ちする。
「ですがっ」
身分証もなしに国境は超えられない。それこそ、密入国がバレたら拘束され収容所行きである。結局、他国で牢獄生活を送る羽目になるのだ。
「いい加減にしろ! さっさと帰れ!」
「きゃあっ」
パトリックに軽く肩を押されたベルフェルミナは、バランスを崩して尻餅をついてしまった。
「いっそのこと、冒険者にでもなればいいんじゃないのか? クククッ」
「おお、そいつは名案だ。聖女の有難みもわからんお前には、汚らわしい魔物の相手がお似合いだ。ハッハッハ」
「頑張ってくださいね、お姉様。クスクスッ」
蔑んだ言葉と嘲笑を浴びせ、パトリック、フレデリック、リーンの三人がその場から離れると、再びダンスホールが盛り上がり始める。
「どうして、こんなことに……」
悔しいやら情けないやらで、涙が溢れ出てきたベルフェルミナは、気力を失くし立ち上がることもできない。
「――大丈夫ですか?」
そんなベルフェルミナに優しく手を差し伸べる者が現れた。仮面舞踏会でもないのに、目元と額を隠す黒地に金の刺繍の入った仮面をつけている。
「……あなたは……メイソン様?」
夜会でたまに見かけたことはあるが、言葉を交わしたことは一度もない。
しかし、いろいろと噂は耳にしていた。いつも仮面をつけているのは、仮面の下には火傷の痕があるという。それでも、美しい金色の髪に、仮面越しの眼差し、整った口元と鼻筋を見れば、極めて端正な顔立ちというのがわかる。おまけに、身長が高くスタイルも良いため、一時は仮面の貴公子と令嬢の間で騒がれていた。
それなのに、空気的な存在になってしまったのは、地方の男爵家三男で訛りが強く、声をかけてもあまり喋ろうとしないのが理由であった。
「僕のことを御存じなのですね。さあ、立てますか?」
「……あ、ありがとうございます」
わざわざ床に片膝をつき支えてくれたメイソンの手を借りて、ベルフェルミナは何とか立ち上がることができた。
そして、さりげなくメイソンに渡されたハンカチで涙を拭う。
「助けに入ることができなくて、申し訳ありません」
「そんな……とんでもありません。お気持ちだけで十分です」
あの場で止めに入ってしまったら、一緒に国外追放になっていたかもしれないのだ。
誰も近寄ろうとしないのは、僅かでも王子の反感を買いたくないからである。見て見ぬフリをしたとしても責められることはない。
ところが、この仮面の貴公子は唇を噛み締め、心底悔いている様子だ。その熱い眼差しを見れば、正義感が強く心根の優しい人物だということがわかる。それと、心の奥底に隠した特別な想いも。
しかし、現実を受けとめることで精一杯のベルフェルミナには、他のことを考える余裕などなかった。
「よろしければ、馬車までお送りしましょうか?」
「いえ。これ以上わたくしと一緒にいると、ご迷惑をかけてしまいます。本当にありがとうございました……」
泣き顔を隠すように頭を下げたベルフェルミナは、トボトボとダンスホールを後にするのであった。