【コミカライズ原作】或る華族令嬢の波乱万丈な人生
吾妻淑乃は昔から要領の悪い娘だった。
「淑乃さん、ちょっとよろしいかしら?」
まだ日も高いうちの女学校の帰り。
周りの同級の子達と挨拶や多少の会話を交わし、荷物を整えたのちに淑乃が帰ろうとしていたときだった。
声をかけてきたのは同じ華族であり、才色兼備と誉れ高い同級の娘、間宮聖子だ。
「あら、どうかなさったの。聖子さん」
「えぇ、実はこのあと手習いがあるのだけど、課題を出すのを忘れていて。申し訳ないのだけど、わたくしの代わりに出していただきたいの」
(また……?)
淑乃は歪めたい顔をどうにか理性で押し留め、顔に笑顔を貼りつける。
下手に彼女の機嫌を損ねるのは得策ではないことは、十二分に心得ていた。
とはいえ、ここのところ帰宅が遅いと母親から咎められている淑乃は、どうにか頼まれごとを回避できないかと考えながら言葉を選びつつ返答する。
「先生に課題を待っていただくか、手習いを遅らせることはできないの?」
「えぇ、課題は今日までだと言うし、手習いの先生もお忙しい先生で、遅れるのはご法度なの! だから、どうかお願い……! 頼めるのは仲良しの淑乃さんだけなのよ!!」
手を合わせて申し訳なさそうにお願いされる。
淑乃が言葉を返さずにいると、チラチラと聖子と合う視線。
口調こそ申し訳なさそうだが、悪びれた様子がないことなど淑乃にはわかっていた。
いわゆるパフォーマンス。
彼女はわざと大騒ぎして周りを味方につけるのが得意だった。
「わたくしと淑乃さんの仲でしょう? 私達、大親友ですものね! ねぇ、お願い!」
周りから注目され、視線を集めているのがわかる。
ヒソヒソと周りから「聖子さんがあそこまでおっしゃってるのに」と言っているのが聞こえる。
そして、気弱な淑乃は今日もまた断ることができずに「わかりました。お引き受けします」と苦笑しながら渋々引き受けた。
どうせ長引かせたところで勝ち目がないことなど分かっていたからだ。
かれこれ彼女の頼みを聞くのはもう両手を超える数なのだが、いかんせん長女ゆえか頼みごとに弱く、また人目を気にしてしまうのが淑乃の悪いクセであった。
「ありがとう! さすが淑乃さんだわ! 必ず埋め合わせはさせていただくから! どうもありがとう!!」
「えぇ、お気になさらず。ほら、手習いがあるのでしょう? お急ぎになって」
言いながら手を振る淑乃。
どうせ埋め合わせなどないこともわかっているが、そんなこと淑乃が言い返せるはずもなく。
そして、その背を見送りながら聖子がいなくなると「はぁ」と淑乃は大きく嘆息するのであった。
◇
「淑乃さん、お帰りなさい。今日はいつにも増して遅かったのですね。何かありました?」
「松坂さん、ただいま帰りました。えぇ、ちょっと色々とありまして」
「大丈夫です? 顔色が悪いような気がしますが」
「えぇ、大丈夫です。お気遣いどうもありがとうございます」
淑乃が帰宅すると、出迎えてくれたのは書生の松坂夏生だ。
彼はかれこれ二年ほど帝大に通うためにここ吾妻邸に下宿している。
成績優秀で淑乃の父からの覚えもよく、よく淑乃の妹の章子の元へ婿として来てくれと声をかけるほどには気に入られていた人物であり、誰が見ても好青年と呼べる男性だ。
愚鈍で要領の悪い淑乃はあまりこの家では好かれていないのだが、優しい性格ゆえか、夏生からはよく気遣ってもらうことが多かった。
「もし体調が優れないようでしたら、横になっておられては? 白湯でしたら僕でも用意ができます」
「そんな、殿方にそのようなお手間をかけさせるわけには。大丈夫です、ちょっと貧血を起こしたくらいですから」
本当は、先生に代わりに課題を出したことの是非について叱られて、さらに受け取ってもらえずにどう聖子に言い訳しようかと胃を痛めていたせいなのだが、そんなことを淑乃が夏生に言えるはずもなく。
適当に貧血だと言い訳すると、夏生は「でしたらやはり横になられたほうが」と余計に心配されてしまった。
(言い訳すら満足できないのね、私)
自分のダメさ加減に淑乃は自嘲する。
放っておいてほしい、と暗に伝えたいのに、全てが裏目に出てしまう。
実際今まで自分の思惑通りにことが進んだ試しなどなく、毎度このような調子では、自分の不甲斐なさに嘆息するのも無理はなかった。
そんな様子を察してか、夏生は複雑な表情をして淑乃を見つめる。
「淑乃さん!!」
二人で気まずくなっていると、不意に大きな響く怒声。
母親の怒った声だと気づいて、淑乃は震え、ハッと顔を上げると「はぁい!」と素早く声を返した。
すると奥から険しい形相の淑乃の母がこちらに向かってやってくる。
夏生に気づいて、多少表情は和らいだものの、それでも眉間には皺が寄っていた。
そして母の後ろには章子もいて、淑乃を見るなり母に気づかれぬようにくすくすと笑っている。
「淑乃さん、貴女、また随分と帰りが遅いわね! どこに寄り道なさってたの!?」
「申し訳ありません」
「本当、貴女はすぐに謝ればいいと思って。それに、今朝頼んでおいた玄関口の生け花! まだ生けてないのはどういうことなの!?」
「え、それは章子が自分が代わりにやると……」
「えぇ? ワタクシ、そんな話は存じ上げないわ」
「え? そんな、だって、今朝は確かに章子がやると……」
「またそんなことをおっしゃって! そもそも私は貴女に頼んだのよ? 言い訳せずにさっさと生けてちょうだい!!」
「はい。申し訳ありませんでした。すぐに致します」
深々と淑乃が頭を下げると、母親はすぐさま足音を立てながらどこかへと行ってしまう。
その足音でギュッと胸が痛み、淑乃は足音が遠ざかるまで息を詰めた。
(今朝、章子は確かに私が代わりにやると言っていたのに)
元々気まぐれな章子はこうしてたびたび約束を反故することが多かった。
今回も「本当に? 貴女にできるの? 大丈夫?」と念押しをしたにも関わらずこのザマだ。
信じた私がバカだったと、淑乃はすぐさま荷物を抱えると蒼白い顔のまま自室へと向かおうとする。
「あ」
「淑乃さん!」
だが、足下がおぼつかず、ふらっとよろめき身体が大きく倒れそうになるのを、夏生がすかさずしっかりと受け止めてくれた。
「淑乃さん、大丈夫です!? やはり体調が悪いのでしたら僕が代わりに奥様に申し上げましょうか?」
「いえ、結構です。すみません、お見苦しいものを見せてしまって」
「そうですわ、夏生さん! 姉様なんて放っておいて大丈夫ですわ。それに、ほら、ワタクシと共に喫茶へ参る約束でしょう?」
章子が夏生の裾を掴むと、淑乃と夏生を引き離すかのように引っ張る。
チラッと淑乃が章子に視線を向けると、禍々しく憎悪に満ちた瞳がこちらに向けられており、キュッと竦み上がった。
気の弱い淑乃はこれ以上章子を怒らせたら大変だと、抱き留められていた夏生の胸板を押しながら、彼から離れる。
不可抗力とはいえ、初めて男性とこうも密着してしまったことを恥じながら、倒れた際に落としてしまったカバンを拾い上げた。
「淑乃さん」
夏生に腕を掴まれる。
今日の夏生はいつになくしつこい気がした。
そんなに顔色が悪いのだろうか、と淑乃はすぐにでも鏡で自分の顔を確認したかったが、それよりも早くこの状況を脱したかった。
章子が苛立っているのが見なくてもわかる。
下手にこのまま夏生に引き留められていたら、ろくなことにならないのはわかりきっていた。
「まだ、何か?」
「あ、いえ、でしたらせめて荷物を運ばせていただけないでしょうか。それだけなら、いいでしょう?」
「……大丈夫です。お気になさらず」
「ほら、夏生さん! 姉様もこうおっしゃっているんですから。そもそも、姉様は婚約者のいる身でしょう? こうして他の殿方と仲睦まじくしてるなんてバレたら大事になるのではなくて?」
婚約者、の言葉に何も言い返せず淑乃は口籠る。
婚約者である伊東隆継は淑乃にとって唯一の心の支えであった。
眉目秀麗で淑乃にも優しく、若くして将校という淑乃とは釣り合わないほど優れた人物だ。
淑乃は彼の元へ嫁げるということだけを生き甲斐にしていると言っても過言ではなく、女学校卒業後に嫁げるのを指折り数えて待っていた。
そもそも父親が根回しをしてどうにかこぎつけた婚約なため、隆継にあることないこと言われて心証を悪くすることだけは何としてでも避けたかった。
「夏生さん。私は大丈夫なので、章子と喫茶に行ってあげてください。そのうち夕方になってしまいますし、あまり遅くなっては大変ですから」
「ですが……」
「ほらほら、行きますよ! では、姉様ご機嫌よう」
そう言うと、むりやり夏生の腕を組んで引っ張っていく章子。
まだ名残惜しそうにしている夏生だったが、淑乃が振り返らないことに諦めたのか、章子と共に玄関から出て行った。
「はぁ」と淑乃は小さく溜め息をつくと、ふらふらと覚束ない足取りをしながら自室へと戻るのだった。
◇
「お父様、淑乃です」
「入れ」
早朝、起きてすぐに父に呼ばれて私室へと向かう。
父親の部屋は綺麗に整頓されており、その部屋の主人の性格を如実に表していた。
神経質で慎重で常にピリピリとしている人で、淑乃は父親が苦手だった。
父親も淑乃が長女だからこそ手を掛けているだけで、本当は女性らしく甘え上手な章子のほうに目をかけたいと思っているというのは淑乃なりに理解していた。
「伊東様より言付けを受けた」
「伊東様から、ですか?」
「あぁ、何でもお前に用事があるとかで、本日の放課後に伊東邸へ行くように言われている」
起きて早々一体何の用事だと、父親の元へビクビクしながら向かうと、婚約者からの呼び出し。
こうして父親を介しての呼び出しは何度かあるが、朝イチで言われるのは初めてだったため、何かあったのだろうかと少なからず勘繰ってしまう。
「承知しました」
「淑乃、何かしくじったということはなかろうな?」
ギロリと鋭い眼差しで見られて、息が苦しくなる。
言われて記憶を遡るが、何か粗相をした覚えもないし、そもそも隆継と会ったのもだいぶ前で、しくじりようがない。
「特に思い当たることは」
「……そうか、ならいい。さっさと支度をしろ、女学校に遅れることは許さんぞ」
「はい。失礼します」
淑乃は恭しく頭を下げて父親の私室を出る。
つい溜め息が出そうになるのを押さえながら、静かに朝食の支度へと向かった。
◇
「あの、ご用とは……?」
放課後、伊東邸へとやってきた淑乃。
いつもと違ってなぜか奥の客間へと案内され、胸がザワザワとよからぬ気配に騒めく。
(わざわざ放課後に家へ呼び出しだなんて、一体何のご用件なのだろう)
期待ではなく不安に押しつぶされそうになりながら、淑乃は隆継が来るのを待つ。
待っている間、心臓の音が今にも爆発しそうなくらい荒ぶっていた。
「淑乃さん。お待たせして申し訳ない」
「隆継様! いえ、先程参りましたゆえ、さして待っておりませぬ」
「そうでしたか。あぁ、とにかく腰掛けてください」
「はい。あ、失礼します」
一度上げた腰を下ろす。
普段と変わらぬ姿の隆継に、「何だただの杞憂であったか」とホッと胸を撫で下ろしたときだった。
「単刀直入に申し上げる。婚約を破棄していただきたい」
一瞬、時が止まった。
一体何を言っているのだろうとゆっくりと顔を上げると、そこには険しい表情の隆継がいた。
「え、っと……今、何とおっしゃいました?」
「淑乃さんとの婚約を破棄していただきたいと、そう申し上げた」
「それは、なぜです?」
淑乃は自分でもびっくりするほど至極冷静な声が出た。
そして、まさか理由を聞かれると思わなかったのか、しどろもどろする隆継。
普段の淑乃であれば泣き崩れて縋ってしまっていたかもしれないが、あまりにも突拍子すぎて現実のことと理解できなかった。
だからこそ、普段とは違ってやけに冷静になっているのは自身でも理解していた。
「申し訳ない」
「ただ、申し訳ない、だけでは困ります。理由は何かないのですか?」
「申し訳ない」
理由を尋ねても隆継はただ謝るばかり。
真っ直ぐ彼を見つめると、視線を泳がせ、いかにこの場を切り抜けようとしているのか考えているのがわかった。
「非はどちらに? 私が何か粗相を致しましたでしょうか」
「いや、キミは悪くない」
「であれば、隆継様に不都合が?」
「申し訳ない……」
結局、隆継からそれ以上の言葉は出なかった。
淑乃は大きな溜め息やら泣きたい気持ちをグッと押さえながら、「とにかくお父様にまずは確認をさせていただきます。失礼します」とその場を去ろうとする。
だが、「お待ちになって、淑乃さん」と思わぬ人物の声が聞こえて大きく振り返った。
「聖子さん……? どうして、ここに」
「聖子さん、奥にいてくださいとあれほど……!」
「隆継様?」
あまりに唐突な状況に混乱する。
聖子は部屋に入ってきたと思えば隆継の隣に立ち、しな垂れるように隆継に寄り添う。
この二人に接点があったことなど知らなかった淑乃は訳がわからず、ぼんやりと隆継を見れば、彼は複雑な表情をしながら俯いていた。
「いざというときのためにここにおりましたの。淑乃さんのことですからもっと泣き喚くかと思いましたのに、意外と隆継様のことそんなにお慕いされてなかったのですね」
「そんなことは……っ!」
カッと手を振り上げると、聖子を守るように立ちはだかる隆継。
それを見て、ざっくりと抉るように胸が傷つく。
「こういうことですの。ごめんあそばせ。それに、私達の生命がここにありますの。ですから、淑乃さんには大人しく引き下がっていただきたいと思いまして」
優越感に浸った笑みを向けられ、頭が冷えていくのがわかる。
隆継を見ても何も言わず、ただ項垂れるだけ。
彼女の言葉をいくら反芻しても、淑乃にはてんで理解できなかった。
(あぁ、これはきっと悪い夢ね。えぇ、そうよ、えぇ)
「承知しました。とにかく、帰宅させていただきます。どうも、ご婚約と妊娠おめでとうございます」
未だふわふわと現実なのか夢なのか、悪い夢なら醒めて欲しいと思いながら、淑乃は深々と彼らに頭を下げると、自宅へと戻っていった。
◇
「淑乃! 貴女って子は!! 男を誑かして婚約者に愛想をつかされるなんて!!」
帰宅すると、そこに待っていたのは地獄だった。
帰ってくるなり、母から冷や水を浴びせられ、訳もわからず混乱していると、意味不明な罵詈雑言を浴びせられて言い訳すら許されずに地下の座敷牢へと入れられる。
「もう貴女の顔なんて見たくもないわ! この恥さらし! 我が家の家名に傷をつける親不孝者!!」
「何のことです!? 違います! お願い! 出してください! お母様!!」
バタン、と重い音と共に扉を閉められると真っ暗な空間。
光さえ差さぬ暗闇に、淑乃はただ一人で恐怖に怯えながら、自らの身体を抱いた。
「私が一体、何をしたと言うんです……!」
寒さで震える。
思い返しても、これほどまでに母が憤る理由が何も思い当たらない。
婚約者に呼ばれて出向いたら婚約破棄。
しかも婚約破棄と言えども、明らかに非はあちらにあるというのに、どうして私だけが責められねばならないのか、と淑乃はあまりの理不尽さに咽び泣いた。
(私はこれからどうなるんだろう)
このまま朽ち果ててしまうのか。
でも、隆継との婚約なき今、この苦しみから解放されるならそれもまたいいかもしれない、とそんなことを思いながら、ただただ自分の人生を悲観して淑乃はいつまでも泣いていた。
◇
「淑乃さん! 淑乃さん、起きてください」
「ん……」
いつの間に寝ていた淑乃は声をかけられ目を覚ます。
目蓋はとても重く、泣き腫らしてしまっているのが鏡を見なくてもわかった。
「淑乃さん」
「夏生、さんですか?」
暗くてよく見えないが、夏生らしき声にそう尋ねると「そうです」と声が返ってくる。
「夏生さん、どうして……」
「淑乃さんを助けに来ました」
「助け……?」
「淑乃さん、今すぐここから逃げましょう」
「え、でも……逃げる当てなど……」
「僕にはあります! 一生このまま閉じ込められたままでいいのですか!? 僕は嫌です! 淑乃さんがそのまま一生を終えられるなんて! だから僕についてきてください!」
彼の言葉は理解できないことだらけだったが、まっすぐに真摯に話してくれていることだけはわかった。
(このままここで燻ったまま生を終えるの? それだけは嫌……)
初めて芽生える抗う感情。
このままここで死ぬのは嫌だった。
誰からも嫌悪され、見下され、存在を忘れ去られるなど嫌だった。
「夏生さんについていきます」
淑乃は彼に手を伸ばすと、グイッと夏生に腕を引っ張られる。
そしてそのまま扉を出て、闇夜に紛れて家を飛び出した。
幸い、誰も見張りなどおらず、そのまま裏手側から路地裏に向かって走る。
夏生はずっと淑乃の手をしっかりと握ったまま、路地裏を駆け抜けた。
「おぉ、待ってたぞ」
「すまない、瀬羽。恩に着る」
飛び込むように二人で駐車していた車に乗る。
淑乃は訳もわからずにいると、「もう大丈夫です」と夏生から上着を被せられた。
そして、瀬羽と呼ばれた人は運転席に行くと、淑乃と夏生は隣り合って座る。
そして、冷えた身体を温めるかのようにグッと肩を抱かれると、触れ合った部分から夏生の体温が移り、心地よかった。
「あ、あの、夏生さん。もう大丈夫って、どういうことですか?」
「きちんと説明せぬまま急に連れ出してしまって申し訳ありませんでした。ですが、あのままだと淑乃さんが一生座敷牢に入れられたままだと知って、無我夢中で連れ出してしまいました」
そう言って、夏生がぽつりぽつりと話し始める。
淑乃がなぜ母親に怒られたのか、それは今回の婚約破棄の件だった。
どうも隆継か聖子のどちらかが先に根回しをしていたようで、淑乃が男性を誑かしたことで伊東家が淑乃に見切りをつけたという噂が既にあちらこちらに出回っていたそうだ。
吾妻家が否定しようにも、ここのところ聖子の頼まれごとのせいで帰りが遅かった淑乃は疑いが晴れず、母親は周りの目を気にして言い訳すら許さずに座敷牢へと入れてしまったらしい。
そして父親も今回の婚約を淑乃が棒に振ったことで、自分が結んだ縁談に泥を塗られたといたく立腹しているそうで、淑乃が座敷牢に入れられている間に世間には田舎の遠縁に嫁に出したことにして、淑乃を一生幽閉するということが決定したそうだ。
それを章子が面白おかしく夏生に話し、いてもたってもいられなくなった夏生が家人の目を盗んで淑乃を吾妻邸から脱出させたのが今回の顛末だった。
「この車は?」
「先程の友人の瀬羽のものです。瀬羽は学友でして。この件を話したら、話のネタになりそうだと気前よく力を貸してくださいまして」
「ネタ、ですか?」
「あぁ、あいつは作家を目指してまして。申し訳ありません、背に腹は変えられず」
しょんぼりと申し訳なさそうにしている夏生。
その様が叱られた犬のようで、淑乃は突然肩を震わせ笑う。
そもそも他者から見ても面白いと思われる人生なんてある意味凄くないか、小説のネタになるほどのことが人生で起きてるだなんて、と一度心のタガが外れると、淑乃はだんだんと気が大きくなってくる。
吾妻邸を離れた今、誰も淑乃を責めない、詰らない、嘲笑しない。
それだけで淑乃は気分が晴れてきた。
「淑乃さん?」
淑乃の気でも触れたかと、心配そうに夏生が淑乃の顔を覗き込む。
だが、今の淑乃は気分がよくて笑いが絶えなかった。
「すみません。ふふふ、ぜひともご本になさってくださいとお伝えください。我ながら波乱万丈な人生ですゆえ」
「え、いいんですか?」
「えぇ、ぜひに。ところで、どちらに向かう予定ですか?」
「遠縁で蝦夷の国にいる者がおりまして、そちらを頼ろうかと。もうここへは戻れなくなると思いますが、よろしいですか?」
「もちろん。私は何も心残りなどありませんから。むしろ、夏生さんのほうこそよろしいんですか? 学校や勉学など……」
「勉学はどこでもできますから。それに、僕は淑乃さんといられればそれで」
「え?」
突然の告白に顔を上げれば、今まで見たこともないようなほど真っ赤に染まる夏生の頬。
それがまるでリンゴのようで可愛らしく思いながら、淑乃はカラカラと全てを忘れるかのように笑った。
◇半年後◇
「夏生さーん! お昼ですよぉ〜!!」
「淑乃さん! 今行きます!」
あれから夏生の遠縁を頼り、汽車で蝦夷までやってきた。
家や畑を借り、慣れないながらも今日まで二人で協力し合いながら、せっせと畑仕事に精を出している。
この半年でだいぶこちらの生活にも慣れ、淑乃は夏生の妻として松坂淑乃を名乗り、夏生と仲睦まじく暮らしていた。
「お待たせしました」
「お疲れさまです。はい、これ」
「手紙、ですか?」
「えぇ、瀬羽様から。先程届きました」
夏生は畑仕事で汚れた手を洗ったあとに淑乃から手紙を受け取ると、端を丁寧に切っていく。
淑乃はその様子を見ながら、緩慢な動きで昼食の配膳をしていった。
「何て書いてありました?」
「事実は小説より奇なり、と」
「どういうことです?」
手紙の内容は、淑乃と夏生が去ったあとのことだった。
淑乃と婚約破棄したことで、新たに聖子と婚約し直した隆継だったが、どうにも子が生まれるのが早く、しかもその子供の目は青かったらしい。
もちろんお互いの家系に異国の血筋が混じっているはずもなく、そのことで間宮家と伊東家が大揉めしているそうで、その醜聞は新聞に載るほどの大騒ぎになり、世間から両家共に針のむしろになっているそうだ。
そして吾妻家は淑乃が去った今、章子が代わりに次期当主として手習いやしきたりなどを覚えているそうだが、どれもこれも全く身につかず、毎日近所に届くまで大声で罵り合っていがみあっているらしい。
このままだと吾妻家も没落の一途を辿るだろう、とそう締め括られていた。
いずれもなるべくしてなったという感じではあるが、以前だったら何かしら思うところもあっただろうが、こうして彼らから離れて自由を手にした今、淑乃は特別何も思うことはなかった。
「私の人生、小説になりそうですかね?」
「どうですかね。瀬羽の腕次第ではあると思いますが」
「なったら第一読者になりたいです、私」
「瀬羽に伝えておきます」
歓談しながら食事をつつく。
この時間が淑乃にとって何よりも幸福だった。
「今日は調子はよさそうですか?」
「えぇ。今日は吐き気はあまり」
「でしたら、このあとちょっと散歩でもしましょうか。まぁ、無理しない範囲ですが」
「えぇ、そうしましょう。体力もつけねばなりませんしね」
そう言ってお腹に手を当てる淑乃。
微かにふっくらとしてきたそこには新しい生命が宿っていた。
慈しむような眼差しを向けつつ自らの腹を撫でる。
そして、夏生に視線を向けたあと「ありがとう、夏生さん」と淑乃は微笑みながら彼に感謝するのであった。
終