序 相打ち覚悟で戦った。
それは決戦前夜のことであった。
魔王は一人静かに、己の居城の窓辺で、透明なグラスに注がれた赤い酒を眺めていた。
血のように赤い酒は、主に魔族の領域で飲み、栽培の出来る果実を使用した酒である。
この酒の利益一つで、国一つ変えるほど、この酒は貴重な酒とも言えた。
それを淡々と、武骨な色の入ったガラスの瓶から注いでいくのは、さすが、魔王と言った所か。
魔王はそれを眺めて、一口、口に含む。
甘くそしてほろ苦い香り、なめらかな舌触りは今年も格別の物で、去年よりも少しばかりのど越しがいい。
「たしか……肥料に貝殻を少し増やしたか」
魔王は、酒の材料である果実を作っている、魔族からの報告を思い出す。
「これも今年で終わりか」
魔族の努力も、むなしく終わる可能性がある。
魔王は城の周りに、意識を集中させる。
己の民からも離れた山にある、この魔王の城。そこの周りを取り囲むのは、同胞ではなく襲撃者たち……人間だ。
つい数年前に、人間たちはたった一匹の魔物の事で、待ち構えていたように戦線を開き、……魔王軍に敗北した。
度重なる敗北と言うのに、戦略的撤退と銘打ち、人間どもは何度も、魔王領を襲って来た。
その理由がこれだ。
「……この酒を造るために、我らの国土を狙うとは、人間は愚かだ」
そして、人間どもはこちらの国土に攻め入り、魔王城付近まで攻め込んできた。
「民を早いうちに進路から遠ざけたのは、正解だったな」
人間たちの傍若無人は、聞くに堪えない物だったのである。
誰もいない村や町から、あらゆるものを奪っていくのだ。報告を聞き、魔王はほとほと呆れ、人間の強欲さに果てはないと知る。
「酒の次は何を奪うつもりか……まあ国土は確かか」
今城には、魔王以外誰もいない。だが。
びょう、と風が吹いた。
月の光が、一瞬だけ、雲に隠れ、そして現れる。
月明かりに照らされていた魔王に、影が差しこんだ。
誰かが現れたのだ。
それも、窓枠に立って。
誰かは一人で、音もなく現れた。
侵入者は軒並み、魔王の結界に探知されるという、魔王の力を張り巡らせた城に、だ。
魔王は人間側の暗殺者か何かか、と目を細めた。別段、暗殺者には慣れていた。飽きるほどそんな物はやって来る。
だが、ここへこうして現れるだけでも、大したものだ。
褒美として、一合程度は切りあってもいい、と思ったその瞬間、魔王はその誰かの髪の色が、伝聞で聞いた色と同じだと気付いた。
伝聞で聞いた色と同じ色を、頭髪に持つその人間は、窓枠に立ち、武器を一つも持ち合わせていない。
隠している様子もなく、魔王を静かに見下ろしていた。
びょう……と窓から風が吹き込む。
肩ほどまで伸ばされた頭髪が、それにあおられ、月明かりをはじいた。
「……一人でここまで来るとは、大したものだなぁ?」
魔王は目を細めた。
明日、人間と、魔王の決戦が行われる。
「勇者どの?」
揶揄するような声に、面白がるような声に、勇者と呼びかけられた人間は、静かに目を伏せた。
蒼褪めたように色が白い。明らかに丈の足りない衣類から伸びた手足には、様々な傷の痕が残っていた。
「魔王」
勇者はざらざらとした声で、宿敵に静かに呼びかけた。
勇者を選んだ神の、宿敵に対する声とは思えないほど、声は平坦なものだった。
「お願いがあるんです」
「ほう……?」
「お願いです。あなたにしかできないから」
勇者はそう言い、一度も魔王から目をそらさず、願った。
「ここで、僕を殺してください」
人間の信じる神々が、神託を与えて選んだ、飛び切りの戦士が言う言葉ではないな、と魔王はまず思った。
戦うのが怖いなら、逃げ出せばいいはずだ。
しかし、勇者は今言った。
己を殺せ、と。
「それだけか」
「はい」
「つまらん願いだ」
魔王はそれだけを言い、勇者がどう出るか眺めた。何かあっても即座に対応できる、と判断したのだ。
「……殺しては、くれませんか」
「死にたいならば、明日すぐに殺してやる」
魔王の言葉に、勇者はかすかに持ち上げた瞳を、また伏せた。
「そうですか」
勇者は一言、落胆を隠せない声で言い、先ほどと同じように、音もなく去って行った。
「……さて、お前たち」
魔王は玉座の上から、つまらなさそうに、倒れ伏す人間どもを眺めた。
聖女、や姫騎士、と言われた女ども。王子、武闘神、と呼ばれた男ども。賢者、魔法使い、と言われた術使いども。
どれもが倒れ伏し、胃液をまき散らし、うめく中、一人立っているのは、昨晩ここに乗り込んできた勇者のみ。
勇者は這いつくばる誰よりも、貧相な装備で、息を荒くして立っていた。
「魔王の結界の中は、いかような気分か?」
誰も答えない。答えるだけの精神的余裕など、倒れる人間には存在しない。
「他者の城に、許可もなく入り込み、無様に這いつくばるとは愚かしいものだな」
王子や聖女が睨み付けて来る。だが罵倒を言う余力はない。
魔王はそれを見下ろし、立つばかりの勇者を見る。
「貴様も立っているだけが限界だろうなぁ?」
「……いいえ」
勇者は荒い息でそう言い、すう、と滑らかな動きで剣を構えた。
倒れる人間どもが、驚愕を超えた表情で、勇者を見ている。
「あなたを打ち倒す、までは、膝をつくわけにはいかないんです」
勇者は昨晩と同じ、静寂をたたえた瞳で、恨みも憎しみも何もない双眸で、魔王を見つめ、一拍の空白ののちに、飛び掛かってきた。
魔王は玉座でそれを眺め、他の生き物とは明らかに動きの違うそれを相手にするため、するりと玉座から立ち上がり、今まで人間に向けた事もない刃を、抜き放った。
圧倒的に魔王に有利な、魔王の力の満ち溢れた空間で、魔王と勇者の殺し合いが始まった。
勇者の動きは、明らかに訓練ではなく、実践で叩き込まれたものだった。
そして確実に、急所を狙ってくる、殺すための技術だった。
急所を狙い、視界を潰そうと動き、相手の関節や健を狙う。
騎士道的な戦い方とは、明らかに、系統が違っている。
「お飾りの戦いの動きではないな」
魔王は単純に賞賛し、勇者は何も答えない。魔の王と勇者では、明らかに持久戦に持ち込まれた時、勇者が不利であった。
勇者が呪文を使おうとするたびに、魔王の一声が、呪文の力をかき消した。
精霊の力を借りようと祈るほどに、紙一重の剣筋が、祈りを阻害した。
かといって、勇者は嬲られているわけではなく、その刃は何度も魔王をかすめていく。
「俺に血を出させる人間は、お前が初めてだ」
魔王は再び賞賛し、そして、本気を出して、勇者に打ち込んだ。
その一撃で勇者は、脆くも体勢を崩して吹き飛び、魔王の城の壁に叩きつけられる。その衝撃で、壁の一部が崩れ落ち、勇者はそれに飲み込まれる。
「さて、動けるものは動けなくなってしまった。これらはどうするか」
魔王が、うめいているばかりの人間どもを見下ろして呟いたその時、崩れたがれきの奥から、人間どもへ光が放たれた。
「ほう、転移術か」
あれだけ気合いを入れて叩きつけたというのに、勇者は呪文を使う事が出来たらしい。
それに免じて、魔王は城の結界をほんの少し、開けた。
倒れる人間どもは、その結界の穴から、勇者の転移術によって脱出させられていく。
魔王はそれを眺め、そして、崩れる壁まで近付いた。
「根性はあったようだな」
壁では、最後の力を振り絞り、人間を逃がした勇者が、体中から血を流し、倒れていた。
死んだふりをしているわけでもないようで、ぴくりとも動かなければ、何らかの罠の気配もない。
本当に、最後の力で、逃がしたのだ。
魔王はそれを眺め、少しばかり考えたのちに、その胴体を持ち上げ、そこから出て行く。
瓦礫ばかりが、玉座とともに残され、辺りは静寂に包まれた。