始まりの朝と黒い闇
────宵闇の中、都会の裏路地を一人の男が歩いていた。
虚ろな足取り。疲れ切った顔に希望のない目。もはや生きる気力など残っていないこと
はだれが見ても理解できることであった。
彼は闇の中を進み続ける。目指すべき場所などなく、帰るべき場所などなく、ただただ
彼は歩みゆく。その歩みに意味があるというのだろうか。────いや、それを考える暇
もないだけなのかもしれない。
すれ違う人々は、彼のことなど気にも留めない。その足取りを肯定するかのように、た
だ彼を避けて通るだけであった。あるいは気に掛ける人間も密かにいたのかもしれないが、
いずれにせよ彼に暖かな言葉をかける人間が存在しなかったというのは紛れもない事実で
あった。
彼の歩みは止まらない。時折にわかに輝く看板があろうと、その光が彼に届くことはな
い。彼の顔はうつむいたまま、依然変わることなく時は過ぎてゆく。一歩、また一歩。虚
ろな足取りは少しずつ自らの身体を前へと押し出していった。
しかし放浪ともいえるその歩みは、たった一枚の紙に止められた。男が踏んだその紙は、
古ぼけ、かすれたポスターであった。まるで中世の勇者のような男の絵に、左右には二つ
のキャッチコピーが大胆に書かれている。
『君の正義で世界を救おう!』
『悪人を打ち倒す、正義の味方にならないか?』
「正義、か……」
男は、かすかに呟いた。そよ風にすらかき消されてしまうような、誰にも届かぬつぶや
きであった。少しの間立ちすくんだ後、彼は言葉をつづける。
「いつ頃かな……それが腐り落ちてしまったのは……」
正義をのたまうその言葉に、思うものがあったのだろう。彼は昔を懐かしむような、そ
れでいて嘆くような面持ちでポスターを見つめていた。
だが、その思いは彼を変えるまでには至らない。しばらくした後、彼は再び虚ろに歩み
始める。
もはやそれを止めるものも、助けるものもいなかった。
虚ろに歩みゆくこの先に、何があるというのか。自分自身ですらわからぬまま、男は宵
闇へと消えてゆく。遠く、深く、闇の中へと────。
《ビーッ!ビーッ!》
「ひゃあぁっ!?」
不意に鳴り響いたアラームの音で、少女は現実へと引き戻される。
目に映るのは、自分の部屋。スマホのアラームはいまだ鳴り響き、カーテンの隙間から
は朝を告げる光がすでに見えていた。
彼女はアラームを止めると、自分の寝ていたベッドから起き上がる。そして、カーテン
を開いて外を見た。外はこの世のすべてを照らすかのような快晴で、先ほどの闇など微塵
も感じさせる様子はなかった。
「夢、だったんだよね」
彼女は確かめるかのように言うと、その夢について深く考え始めた。
────あれは、何だったのだろう。そもそもあの男にはあったこともなければ見たこ
ともない。そして彼が言っていた、『正義が腐り落ちた』とはどういう意味だったのだろう
か。考えれば考えるほど分からない。特に意味のない悪夢か、それとも本当に彼に何かが
あったのか。あるいは、あれは私に対しての────。
「あれっ、もうこんな時間!?」
真面目に考えすぎたのであろう。起床してから三〇分ほどが過ぎてしまっていた。彼女
は急いで朝支度を始めた。
少女の名は、『天掛 普』。ピンクの長い髪に紺色の目をした、現代風の少女である。つ
い先月に一八歳になったばかりであり、人を助けるのが好きであった。
「四月七日、午前七時四五分……よしっ!」
諸々の身支度を終えた後、彼女は今の日時を確認した。
二XXX年四月七日────。この日は、彼女にとって一番大切な日である。何しろ、彼
女が一三年間持ち続けた夢がかなう日なのだから。
「それじゃあ、行ってきまーす!」
彼女は家族にそう言い残すと、足早に出かけて行った。
外に出た後の彼女は────浮かれていた。
鼻歌を歌いながら、スキップで目的の場所へと向かっている。これからデートにでも行
くかのような、軽やかなスキップである。周りからは奇怪に映っていたであろうが、今の
彼女にはそんなことなどどうでもよかった。なにしろ一三年間も持ち続けていた夢がかな
うのだ。今の彼女にとって、周りの目など問題ではなかった。
建物が影を落とす裏路地も、彼女は軽やかに駆け抜けた。まるで光を纏ったかのような
その表情は、影など気にも留めない様子であった。
大通りには、大きな人の波が押し寄せていた。通勤、通学中なのであろう。だが、彼女
はそれも気には留めなかった。波の間をするりとすり抜け、彼女は夢への道を走り抜ける。
そんなご機嫌たる様子で、駆け回ること二五分────。彼女は、目的の場所へとたど
り着いた。その場所は、都会の中心のさらに中心に立っているビルであった。建物の前に
ある看板が、光を反射して彼女を照らしている。彼女はそれに記された建物の名前を、希
望に満ちた目で見つめた。
『ジャスティス協会本部』
────ああ。自分が一三年間目指してきた場所が、目の前にある。
「絶対に、正義の味方になってみせる!」
夢への決意を新たに、彼女はビルの中へと入っていく。その足元には、影ができていた。
どこかで見た宵闇と、同じ色をした影だったが────それもまた、彼女には気にも留め
ないことであった。