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満員電車のなかで居眠りをしていた男が目を覚ますと目の前にお腹の大きな女性が立っていました、というお話

作者: きら幸運

概ね実話です。

妄想を織り交ぜています。


 その日、俺は疲れていた。

 満員電車のなか、(かろ)うじて席を確保した俺はすぐに眠りに落ちてしまった。


 しばらくして、俺は眼を覚ました。

 電車の運転手が急ブレーキをかけたわけでも、他の乗客が身体をぶつけてきたわけでもない。

 強いて理由を挙げるなら、人混みの蒸し暑さが不快だったからだ。


 あと十分じゅっぷんくらいかな……


 寝起きの頭で、俺はそう見積もった。

 降車する駅までの乗車時間のことだ。


 ボンヤリとしていた意識が徐々に明瞭になる。


 視界を埋め尽くすのは、席を確保できずに立っている人びと。

 スシ詰め状態で苦悶の表情を浮かべる「負け組」だ。

 望んで参加したわけではないしくら饅頭(まんじゅう)は、少しも楽しくないだろう。

 俺も同じ苦難を数え切れないほど味わった。

 彼ら彼女らの気持ちは痛いほど分かる。


 横一列に並んで座る乗客たちは、いわずと知れた「勝ち組」。

 惰眠(だみん)(むさぼ)る者、スマホゲームで遊ぶ者、折り畳んだ新聞を読む者など様々(さまざま)

 皆、限られた時間と空間のなかで人生を謳歌(エンジョイ)している。


 そんな「勝ち組」席でくつろいでいた俺は、目の前に立つ女性のお腹がぽっこりと膨らんでいるのに気づいた。

 女性のトートパッグにはマタニティマークのキーホルダーが揺れている。

 そう。目の前の女性は妊婦さんだった。

 未来のお母さんは人混みに揉まれて辛そうな表情を浮かべている。


 妊婦さんがいつ電車に乗ったか分からない。

 俺が寝落ちする直前、目の前には太ったおっさんが立っていた。

 お腹のサイズは似ているが、同一人物のはずはない。

 彼女は俺が眠っていた間に乗車したのだろう。


 俺は立ち上がり、妊婦さんに「どうぞ」と言う。

 両者合意のもと、「勝ち組」と「負け組」の入れ替えがスムーズに行われる。

 思わず付け足した「気づくのが遅れてすいません」という俺の言葉は余計だったかもしれない。

 だが、俺は疲れ果てて眠っていたのだ。許してほしい。

 俺が譲った一人分のスペースに妊婦さんが悠々と座れたのも指摘しないでくれ。


 その日、俺は十分じゅっぷん間だけ「負け組」になった。

 なんら悔いはない。



 その日、俺は悩んでいた。

 満員電車のなか、「勝ち組」席を確保した俺の一メートルほど斜め前に妊婦さんがいたからだ。


 混雑する車内でも、マタニティマークのキーホルダーはハッキリ見えた。

 だが、妊婦さんの前の席に座る大学生らしき青年はスマホに夢中だ。まったく顔を上げる気配はない。

 タクトを操るような青年の指使いから察するに、ゲームで遊んでいるのではなく文字を書いているようだ。

 もしや、なろう小説を投稿しているのか? 

 そうか、頑張れ!

 いや、そうじゃない。

 いまは妊婦さんの話だ。

 

 スマホに夢中な青年の両隣のおっさんたちは眠っている。

 「勝ち組」席で意識があるのはスマホ青年と俺だけ。


 ちっ、こうなったら俺がやるしかないか。


 妊婦さんに席を譲ることを決めた俺は、立ち上がろうとして……一旦停止する。

 目の前に立つおっさんが、俺の席に興味を示したからだ。


 いやいや待ってくれ!

 くたびれたおっさんが別のくたびれたおっさんに席を譲ると思うか?

 お前はそんなに疲れているのか? 

 見知らぬおっさんの好意に甘えたくなるほど追いつめられているのか?

 はあ!? 甘えるんじゃねえ! 

 立ってろ! 頑張って立ち続けろ!

 俺も一緒に立ってやるからさ!


 妄想のなかでおっさんに説教する。

 うむ、まったく効果はないな。

 現実にかえり、俺は自分の席に鞄を置いて守りを強化する。

 ディフェンスは大事だ。

 中腰の姿勢になり、「妊婦さん。この席に座りませんか」と声をかける。


 こうして「勝ち組」と「負け組」の入れ替えはスムーズに行われた。

 我ながら攻防一体化した動きは見事だったと思う。

 自分を褒めてやりたい。


 ただ、ひとつだけ問題が派生した。

 いや、問題と呼ぶにはスマホ青年が気の毒か。


 気づくと、スマホ青年は顔を赤くしていた。

 そんなに狼狽(うろた)える必要はないのだが、俺は彼に気まずい思いをさせてしまったようだ。

 少しばかり錯乱したスマホ青年は、俺に自分の席を譲ることを申し出てきた。

 

 いやいや、気持ちは嬉しいがそれはちょっと違うんじゃないかな?

 てか、そう思うなら、今度は妊婦さんやお年寄りを見かけたら席を譲れば良い。

 それが大人のマナーってやつさ!


 なんて会話を妄想しながら、「いえ、いいです」とサックリ断った。

 別に他意があるわけではない。

 ただ単に俺がシャイな性格だっただけだ。

 

 その日、俺はふたたび「負け組」になった。

 やはり悔いはない。

 むしろ、ひとりの青年がこれからマナーアップに努めるのではないかと想像し、良い気分になった。


 誤解がないように言っておこう。

 俺はとりたてて善人というわけではない。

 募金箱には小銭しか入れたことないし、ボランティアらしき善行も積んだことはない。


 高校生のとき、好きだった女の子が電車のなかでお婆さんに席を譲るのを目の当たりにしてから、真似するようになっただけだ。

 当時の俺は、お年寄りに席を譲りましょうという標語じみた言葉は知っていたが、実践するには勇気が足りなかった。

 だが、俺が好きな女の子は照れも迷いもなく、あっさりとやってのけた。

 

 感動した。


 俺の横の席に見知らぬお婆さんが座ることになったが、それでも感動した。

 俺は思わず女の子に席を譲ろうとしたが、笑いながら断られた。

 その笑顔も素敵だった。

 彼女の顔を見上げながら会話を続けるのも変なので、俺も立ち上がった。

 あのあと、どんな話をしたかは忘れてしまったが、ひとつの決意をしたことだけは覚えている。

 

 せめて、電車で席を譲るくらいの勇気は持とうと。



 その日、俺は躊躇ちゅうちょしていた。

 満員電車のなか、「勝ち組」席に座る俺の前に立つ女性のお腹がぽっこりと膨らんでいたからだ。

 だが、俺に逡巡する気持ちをもたらしたのは、膨らんだお腹ではない。

 女性の持つファッショナブルなパッグには、マタニティマークのキーホルダーがなかったからである。

 ものすごーく探したけど、どこにもピンク色のキーホルダーはなかった。


 けれど、女性は手でお腹を守るような姿勢をしている。

 お腹の大きさに比べて顔や腕はほっそりしている。

 そもそもお腹の膨らみ具合が肥満とは異なっている。


 俺は目の前の女性は妊婦さんだと最終判断を下し、勇気を出して小声で尋ねた。


「もしかして、妊婦さんですか?」

「ええ……」

「こちらに座られますか?」

「え! ありがとうございます!」


 ふたたび「勝ち組」と「負け組」の入れ替えが行われた。

 勇気をもって話しかけた自分を褒めてやりたい。

  


 その日の俺は自信を持っていた。

 満員電車のなか、「勝ち組」席に座る俺の前に立つ女性のお腹は、ぽっこりと膨らんでいた。

 女性の持つリュックにマタニティマークのキーホルダーはなかった。

 だが、俺は自分の目利きに自信があった。

 この女性は妊婦さんに違いないと確信めいたものがあった。


 俺は、さっそく女性に話しかけた。


「こちらに座られますか?」

「え? なんでですか?」

「妊婦さんですよね?」

「……違います」


 ええもう、やってしまいました。

 まっこと、申し訳ございません。


 俺は何事もなかったかのように振る舞おうとした。

 「勝ち組」席でタヌキ寝入りという贅沢三昧。

 うむ、バチが当たるかもしれないな。


 電車が次の駅で停まると、俺はそそくさと降りた。

 目的地でもなんでもないけどね。


 はじめて降りた駅で電車を待ちながら、俺はシェイクスピアの名言を思い出した。


 "成し遂げんとした志を、ただ一度の敗北によって捨ててはいけない"

 

 うむ、いい言葉だ。

 けどまあ、今度からはもっと慎重に行動しなくちゃね。



<追伸>

 あのときの女性。

 ほんと、ごめんなさい。

 悪気はなかったんですよ。


 おしまい。

最後までお読みいただきありがとうございます。

新幹線のなかで書き始めて地下鉄のなかで推敲し、自宅で投稿しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 勇気いりますよね。席変わるのって。 私自身は譲ったり譲らなかったりでしたが、あまり妊婦さんには遭遇しませんでした。お年寄りが多かったです。 席をゆずるのってタイミングを逃すとなかなか声が…
[良い点] その心がけが素晴らしいですね! [一言] 山口県のような超田舎者には満員電車の悲哀が分かりません。 なのに自らお声がけされたきら幸運さんは素晴らしい。 善人万歳!
[良い点] あれよあれよと読ませてしまう筆力、すばらしいです。 勇気、優しさもすばらしい。 そして面白い。 多くはじめ勝ち組席にいられるのは、何故?と思いました。(^_^)
2018/11/28 15:49 退会済み
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