エピローグ
夏服へ移行した、初日。
葵が、なにかを気にするように、身を縮こまらせていた。
「どうしたの?」
問うと、葵は頬を染めながら、
「……怜佳には、言いたくない」
そんなことを言う。
けれど、ちらちらとこちらを見る瞳には、期待する色が隠しきれていなくて。
その要望に応えて、私は葵の胸元へ顔を寄せ、わざとらしくミントの芳香を吸い込んでみせた。
「ちょっ、やめてよ! 汗臭いんだから!」
「そんなことないわよ。とても良い匂い」
「こら!」
頭を思いきりはたかれてしまった。
「痛いわね」
「怜佳がふざけるからじゃん」
口をへの字に曲げながら、
「……みんなが居るところで、そういうのは、やめて」
相変わらず、いじらしいことを言う。
かわいらしいことを言いながら、他の生徒には見えないように、私の手をそっと握ってくる。
私は、逃げない。
求められれば、応える。
私の理屈に沿って。
私は、葵を受け入れる。
昼休みの屋上で、私が葵に、手作りの弁当を披露していた。
「……マジで上手くて、ちょっと引くんですけど」
「ふふっ、褒め言葉として受け取っておくわ」
私は楽しそうに微笑みながら、卵焼きを箸で摘まんで、葵の口元へ運ぶ。
「あーん」
からかいの響きを存分に含んだ「あーん」だった。
葵は目を白黒させながらも、
「……あーん」
観念したように、口を開いて、卵焼きを咀嚼した。
「……嬉しい。夢がまた一つ叶ったわ」
私は幸せそうに笑っていて。
葵は、眉をへの字に曲げながら卵焼きを飲み込んだ。
「……こういうのは、まだ慣れない」
「そう? 私はすっかり慣れたわ」
言いながら、私は思い出したように、水筒を取り出した。
「ごめんなさい。先に飲み物を出しておくべきだったわね。つい浮かれてしまって……」
コップを葵に手渡す時、指と指が触れ合う。
私も葵も、表面上は平静を装っていたけれど。
私には、私の心が揺れたのが、わかった。
――もしかすると、葵も気付いてはいるのかもしれない。
気付いた上で、気付かないフリをしている。
葵は、優しいから。
私が傷付かないように、私を受け入れてくれる。
葵の中の、葵なりの理屈で。
葵は、私を受け入れる。
私の手は、私よりも少しだけ冷たい。
どれだけ一緒に居ても、私が私になれない部分は、ある。
だけど、私はきっと、私であろうとし続けるだろう。
あの日。
初めて、自分を剥き出しにした私。
私のように、歓喜しながら。
私ではなく、葵を見ていた私。
私になりたいという言葉の奥にあった理屈を見た、あの日。
私の恋は、輪郭を帯びた。
「近頃ね、こうしていると、あなたの考えていることが、なんとなくわかるようになってきたわ」
「あら、本当かしら?」
「本当よ」
橙色の空の下で、私たちは手を繋いで、歩き続ける。
自宅へ向かっているわけではなく。
ただ、気の向くままに歩いている。
「ああ、そういえば」
「なに?」
「今日ね、ふと授業中に思い付いたことがあるの」
私は、興味深そうに首を傾げた。
「そろそろ、キスしてみない?」
「……どう、かしら」
「あら、ダメ?」
「私は別にいいけれど、葵が怒りそう……ううん、絶対に怒るわ」
考えるのも恐ろしいと言わんばかりに、私は大きくかぶりを振った。
「初めてを私がもらったら、きっと葵に殺される」
真剣な表情から、切実な言葉が零れ落ちた。
「――私は、あなたとキスすることに、なんの抵抗もないわ」
不意打ちで、私は私の頬に手を添え、唇を重ねた。
瞼は閉じずに。
私を見つめている私を見つめながら、しばらく唇を重ねていた。
「……っ」
私が僅かに身を引くと、私たちの唇は余韻も残さずに離別した。
「私のキス、覚えた?」
「……ええ、覚えたわ。ただ……」
「ただ?」
「目は、瞑ってほしかった」
「……ふふっ。ダメよ。そんなことをしたら、私を見れないじゃない」
私は、私にキスをしたのではない。
私を通じて、私の恋にキスをしたのだから。
私たちは、恋している。
まともで、道徳的な恋ではなく。
辿り着く先のない、歪な恋。
捻じ曲げて、見て見ぬフリをして、ようやく成立している。そんな恋。
おそらく、誰にも理解されなくて。
けれど、私たちの中では、理屈が通っている。
壊れていたから。
壊れてしまったから。
――転がり落ちて、しまったから。
引き返すことは、もう出来ない。
どこに辿り着くとしても。
この恋は、たしかに存在している。
たとえ、一方通行でも。
気持ちが、一つとして向き合っていなくても。
ぐるぐると、どうしようもなく破綻したまま、巡り続けるだけの恋だとしても。
それこそが、私の求めていたものだから。
私は、微笑む。私へ向けて。
偽って。
偽悪的に。
私は、恋を続けていく。