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こいしてるーぷ  作者: 白木サトミ
3/4

その三

「言い訳を聞く」

 どんな眠気も死滅しそうな、ミントの香りに包まれていた。

 登校するなり、鞄も置かず抱き付いてきた葵。

 ボディソープやコンディショナーの香りを振り撒く女子は、それなりに居るけれど。

 ミントの香りを身に纏っている女子は、そう居ない。

「くんくん」

「……なにやってんの?」

「香りの発生源を探しているの」

 私を抱き締めていた葵の腕を、逆に絡めとり、逃がさないようにする。

「こら、やめなって!」

「……制服からもミントの香りが。どうして? 制服ごと、ミントから抽出したオイルの中にでも浸かっているの?」

「またわけわかんないこと言ってる……!」

 恐怖と諦観の入り混じった表情を浮かべる葵へ、くすりと微笑んでみせる。

「冗談よ」

「冗談に聞こえない……って、話を逸らそうとしてるでしょ!」

「なんのこと?」

「だから、昨日のこと!」

「……首筋から、良い匂いがする」

 わざとらしく舌なめずりしてみせる。

「ちょっ!」

 葵の顔が、怒りと驚きで赤く染まった。

 面白いくらいに、私の思う通りに動いてくれる葵。

 昨日の、星川君とのやり取りの後だと、この素直さが一層愛らしく思える。

「……むーっ。そんなに、言いたくないんだ」

「言うことなんて、なにもないだけよ」

 我ながら、無理のある嘘だと思う。

 葵から逃げ出したことなんて、今まで一度もなかった。

 私が葵の立場でも、なにかあったと疑うだろう。

「……本当に? すごく嫌な予感がするよ? 嘘吐いてないよね? 怒るよ? 嘘だったら、許さないよ? 確かめちゃうからね?」

 疑問を口にしておきながら。

 頬を膨らませておきながら。

 さりげなく、いじらしく、私の手に指を絡ませておきながら。

 信じているようで、疑っているような、曖昧な言葉を口にする。

 あまりの愛おしさに、感嘆の吐息が漏れた。

「本当よ」

 赤ん坊をあやすつもりで、言葉を返す。

「……わかった」

 納得はしていないようだが、この場はそれで収めることにしたらしい。

 私の腕に絡む葵の腕に、荒々しさはない。

 制服越しの体温を感じながら、つい胸をときめかせてしまう。

 私と星川君が昨日交わした約束を、葵が聞いたらどう思うだろう。

 

 私が、男子とデートする、なんて。

 葵は、想像したことが、あるのだろうか。



 白いブラウスと、紺色のプリーツスカート。

 これが私の外出服である。

 というか、これしかない。

 身なりに頓着せず、これまで生きてきた。

 服を新調することも考えたが、私は背徳に恋がしたいだけで、別に星川君に好かれたいわけではないことに気付き、結局はこの組み合わせでデートに臨むことにした。

「……ふむ」

 臨む。

 大仰な表現だと思う。

 緊張しているのかもしれない。

 ゆっくりと歩いているのに、額が汗ばんでいる。

 わざとらしく深呼吸してみたが、両手が握られたままであることに気付き、苦笑してしまう。

 自分の乙女らしさが、おかしくて。

 葵がこんな私を見たら、きっと仰天してしまうだろう。

 出来る範囲で、おしゃれをして。

 待ち合わせ場所に、緊張しながら向かって。

 柄にもなく、自分の乙女な部分に気付いてしまって。

 私らしさが、欠片もない。

 こんな私を見て、星川君はどんな顔をするだろうか。

 いつもと同じように、私をただ見つめるだけだろうか。

 ――どうせなら、私の予想を裏切る反応を見せて欲しい。

 ありきたりな上辺だけのお世辞を吐かれたら、失望してしまいそうで。

 それだけが怖い。

 そんなことを考えながら歩いているうちに、待ち合わせ場所が目前に近付いていた。

 市の中央駅、その南口にある噴水広場。北口の銅像前と並んで、市内の人間が待ち合わせによく利用している――と、聞いたことがある。

 待ち合わせするような相手なんて、葵しかいないから、実際はどうなのか、わからない。

 葵は私に気を遣って、静かな喫茶店や、長閑な公園を待ち合わせ場所に選んでくれる。

 間違っても、こんな噴水広場を待ち合わせ場所に指定することはないだろう。

 今度、葵との待ち合わせ場所に、この噴水広場を提案してみてもいいかもしれない。

 私の変化に、葵はかわいらしく驚いてくれるだろう。

 葵のリアクションを想像するだけで、口元が緩んでしまう。

「……?」

 首筋に氷を落とされたような、寒気がした。

 原因が、わからない。

 空は晴天。初夏の日差しは何物にも遮られずに降り注いでいる。

 風邪の兆候だろうか。

 喉の調子を確かめながら歩みを進めていると、

「あ」

 黒いなにかが、噴水の前に居た。

 日傘を差して、周囲からの視線を気にするかのように俯きながら――星川君が、待ち合わせ場所に立っていた。

 ゴシックドレス、というのだろうか。

 ふわりとしたシルエットのドレス。かわいらしいフリル。噴水広場という日常感溢れる空間の中で、異彩を放つ存在感。

 TPOを考えなければ、石炭色の髪とゴシックドレスの親和性は高く、つまり私もああいったドレスが似合うのかもしれない。

 などと他人事のように考えてみたところで、私が今から、あの異彩に近付いていくことには、変わりなく。

 私は、他者からの目をあまり気にしないけれど。

 注目されることに関しては、抵抗がある女の子なのだ。

「……ふふっ」

 待ち合わせ場所で、待ち合わせ相手に声を掛けるために、覚悟を決めなければならないなんて。

 背徳、とは少し違う。

 まだデートは始まっていないのに、楽しいと感じてしまった。

 期待感十分。

 楽しい気分に任せて、私は一息に星川君へ近付いた。

「こんにちは、星川君。待たせてしまったかしら?」

「あ……こんにちは、大月さん。ボクもさっき来たばかりだから。大丈夫だよ」

 目じりを垂れるような笑い方は、口元だけを緩める私の微笑みとは、まったく異なるものだった。

 緊張から解放された一瞬、素の星川君を見つけたような気がした。

 ありきたりな挨拶から一転、星川君の視線が私の体を這った。

 起伏に乏しい私の体を凝視した、というわけではないのだろう。

 星川君の目には、性欲の気配が微塵もなかったから。

 となれば、

「この服、似合うかしら?」

 おどけて、プリーツスカートを摘まみ、持ち上げてみせる。

 彼が興味を持ったのは、おそらく私のお出かけ服。

 その予想は的中したようで、

「大月さんって、そういう服を着るんだね」

 星川君は得心したように、何度も頷いていた。

 似合っているかどうかを尋ねての返答としては適切ではなかったが、褒められるよりも嬉しかったから、ただ微笑むことにした。

「星川君は、随分と派手な服を着るのね」

「ああ、これは……大月さんなら、こういう服を着るかなと思って」

「……なるほど。そういうことね」

 合点がいった。納得はできないけれど。

「あれだけ私のことを見つめているくせに、私のことを、まだわかってくれていないのね。少しショックかも」

「あはは。ごめんね」

 無垢であどけない笑みも、私のものではない。

 星川君は、自分がどんな表情を浮かべているか、わかっているのだろうか。

「……たぶん、だけど」

「なに、かしら?」

「大月さんは、そうやってふざけてる時が一番かわいいよね」

 不覚にも、動きを止めてしまった。

 私が常に余裕ぶっているのは、心理的下流に立つのが、嫌いだから。

 容姿や陰気さをどれだけ見下されても、私に余裕があるうちは、イーブンなのだ。余裕という名の足場さえあれば、目線はいくらでも底上げできる。

 私という存在は、偽悪的に振る舞い、余裕ぶることで平静を保っている。

 精神的優位と余裕を失ってしまえば、私はただのもさっとした陰気なおさげ少女に成り果ててしまう。

 動揺に任せて、星川君をなじろうとして。

「っ」

 なじろうとした相手の顔に、照れや打算がないことに、気付いてしまった。

 星川君は、ただ思ったことを口にしただけなのだ。

「一人で、バカみたい」

 顔を手で仰ぎながら呟くと、星川君は不思議そうに首を傾げていた。

 人のことを、かわいいなどとバカにしておきながら、平然として。

 悔しい。

 悔しいと思っている時点で、精神の安定は損なわれているのだけれど。

 悔しいものは、悔しくて。

 滅多に悔しがらない分、こうしてたまに悔しいと思ってしまった時、悔しさを抑える術を私は知らない。

 だから、八つ当たりをするしかないのだ。

「星川君こそ。私に劣らず、かわいいわよ」

 言った後で、男子に対する「かわいい」がどういった意味を持つのか、不安になった。

 自分の言葉が、自分が思う以上の刃渡りを持っていたのではないかと、不安になってしまったが、

「そ、そうかな?」

 星川君は頬を染めながら、嬉しそうにはにかんでいた。

「……」

「いたっ⁉ ちょ、ちょっと、大月さん⁉」

 無言でバッグを叩きつけてやると、少しだけ胸がすっとした。

「かわいい、って言われて嬉しいなら……どうして私の真似をするのよ」

 自虐ではなく、素朴な疑問だった。

 かわいいと言われたいなら、私の真似をするのは、間違っている。

 それこそ、私ではなく葵を真似るべきなのだ。

「ボクは、大月さんになりたい……から」

 私の言葉が飾り気のないものだったせいだろうか。

 星川君は、こちらが拍子抜けするほどあっさりと、私の問いに答えをくれた。

 言い終わった後で、そのことに気付いたのか、星川君は慌てて口元を押さえてしまった。

 聞かなかったフリなんて、するつもりはない。

「そこまで熱烈に想ってもらえるなんて、嬉しいわ」

 わざとらしく満面の笑みを浮かべる。

 今度こそ、仕返しになるように。

 星川君の羞恥を煽るつもりで、余裕たっぷりに、わざとらしく笑ってやった。

 だというのに。

「そういう笑い方もできるんだね」

 皮肉は通じず、帰ってきたのは真っ向からの視線。

 星川君の瞳に、私らしくない笑みを浮かべている私を見つけてしまって、なんとも言えない気持ちになってしまった。

「……そろそろ行きましょうか」

 このまま延々と不毛なやり取りを続けるつもりはない。

 建設的な提案をしたつもりだったのだが、星川君はなにかを言いたそうに、口をもごつかせている。

「どうしたの?」

「あの……こんなこと言うと、引かれるかもしれないんだけど」

「今さらね」

 素っ気なく切り捨てられたことで、かえって楽になったのか、星川君は意を決したように口を開いた。

「大月さんの口調、なんだけど。真似してもいいかな?」

「……口調を?」

「うん。せっかくこうしてお話してもらえるんだから……真似、したい」

「いいんじゃない?」

「いいの?」

「私は気にしないわ」

 ひらひらと手を振ってみせると、星川君は嬉しそうに、

「――なら、そうさせてもらうわね」

 と言った。

 声は、私よりも少し低かったけれど。

 イントネーションは、なかなかのものだったと思う。

「もしかして、練習していたの?」

「ええ、少しだけ。小日向さ……葵との会話を、盗み聞いていたから」

「なるほどね」

「どう? あなたから見て、なにかおかしいところは、ない?」

「問題ないと思うわよ」

「よかった。あなたにそう言ってもらえるなら、きっと大丈夫ね」

「……私、そんなに殊勝なこと、言わないわよ」

「ふふっ。たしかに、そうかも」

 境界が、融けていく。

 私が、私と会話しているような感覚。

 私が、私に惹き寄せられていくような感覚。

 目の前の私に向けて、転がり落ちそうになる。

 縁から、踏み出してみたくなる。

「さて、これからどうしましょうか」

「一度、喫茶店に入らない? いろいろ見て回るのもおもしろいかもしれないけれど……今は、あなたと話していたい気分」

「奇遇ね。私もよ」

 このデートに、次があるのなら。

 きっと、星川君は私が今着ている服を、着て来るのだろう。

 今よりも、もっと私に近付いた私と私が、向き合って。

 私について、言葉を交わす。

 傍から見れば、本当に私が二人居るように見えるかもしれない。

 私が、私に恋をする。

 背徳を感じるには、十分な字面だった。

 もしかすると――それこそが、私の求めていた恋の形なのかもしれない。

 私自身に恋をするのではなく。

 私ではない私に、恋をする。

 想像しただけで、胸が苦しくなる。

 この切なさが、恋の苦しみだというのなら。

 私は今、まさに、恋へ向けて足を踏み外そうとしているのかもしれない。


「ねえ、なにしてんの?」


 恋に酩酊していた私の腕が、とても強い力で引かれた。

 バランスを崩し、転倒するはずだった私の体が、なにかに受け止められる。

 混乱の中で、私の肺を満たしたのは、ミントの香り。

 まさか。なぜ。

 そんなことを思う暇もなく、肩を掴まれる。

 見慣れた顔が目前にあって。

「ちゃんと見張っといて、よかった」

 見たことのない表情を、浮かべていた。

「怜佳。なにしてんの?」

 声の冷たさに、内股から力が抜けそうになる。

 つい先ほど、星川君と合流する直前に感じたものと同質の、氷のような冷たさ。

 私の知らない葵が、そこに居た。

「ねえ、なにしてんの?」

 目を血走らせて、私の貧弱な肩を握り潰さんばかりの力で掴む、冷淡な声の、葵。

 ごめんなさい、と。

 理由もわからないまま謝罪を口走りそうになって、奥歯を噛み締める。

 欠片ほどの理性で、現状について、思考を巡らせる。

「なんで、答えてくれないの?」

 葵の瞳に、狂気はない。

 ただ、怒りがあった。

 怒り。なにに対しての?

 星川君と、会っていたことに対して?

 そこまで怒るようなことだろうか?

 問い詰められた時に、納得を与えておくべきだったのか。

 私の理屈を開示して。星川君への興味を打ち明けて。それから、葵に許可を得るべきだった、と?

 ――馬鹿馬鹿しい。

 私の理屈は、恋は、葵に許可を取る必要などない。

 なぜ、私は葵の怒りに対して、怯まなければならないのか。

 負い目はないはずだ。

 恋心を胸の内に秘めておくことが、罪であるはずがない。

「答える必要がないから、と言ったら?」

 骨が軋んだ。

 貧弱な上腕骨が歪み、堪えきれなかった悲鳴が、噛み締めた奥歯の隙間から漏れ出てしまう。

「なんで、そんなこと言うの?」

「っ、言葉通りよ。私が星川君と会うことを、どうしてあなたに教えなくてはならないの」

「だって、心配じゃん」

「心配? なにが?」

「なにが、って。あいつ、あんな恰好を…………ううん。別に、星川が女の子の格好してても、どうでもいいよ。でもさ、あいつがしてるのは、怜佳の格好なんだよ?」

「それが、なに」

「なに、じゃないでしょ!」

 叩き付けられる怒声に負けじと、葵を睨み返す。

「星川君が、私の格好をしていることの、なにが問題なの?」

「問題しかないじゃん! わけわかんないこと言わないで!」

 腕の痛みが消えたと思った瞬間、今度は全身に圧迫を感じた。

「……痛いわ、葵」

 肉親以外に、ここまで熱烈に抱き締められたのは、初めてかもしれない。

「怜佳が変なこと言うのは、もう慣れたよ。そういうところも怜佳なんだって、わかってるし」

 でも、と葵は言葉を継いだ。

「『これ』はダメだよ、怜佳」

「……なぜ駄目なのかを、教えて」

「教えなくても、わかるでしょ?」

 続く「常識で考えれば」という言葉を、わざと黙殺した。

 私は、偽悪的な人間だから。

 常識は、説得材料にはならない。

「わからないから、私はここに居るの」

「やめて……そういうこと言わないで」

 説得が、懇願へと変化した。

「……帰ろ、怜佳。ね?」

 憐憫を誘うような声色で、葵は弱々しく微笑んだ。

 葵らしくない振る舞いだった。

 なかなか弱さを見せない友人が、意図的に弱さをさらけ出している。

 偽りの弱さで、私を引き止めようとしている。

「……」

 やめて欲しい。

 あなたの美点は、善性にこそあるのだから。

 私を常識へと引き戻すためだけに、悪性に染まらないで。

「無理なのよ、葵」

 あなたという「他人」の理屈では、無理なの。

「なに、が? どうして?」

 私の為に必死な葵になら、理屈を開示しても、いいと思ってしまった。

 けれど、ただ言葉にはしたくなくて。

 一から十まで説明するような、野暮な真似はしたくなくて。

 葵なら、わかってくれることを、信じて。

 偽悪的な私らしく、意地悪く、微笑んで。

「あなたじゃ、無理なの」

 断絶を、口にした。

 駅前の喧騒が、噴水の水音が、消える。

 息苦しくて、喉が渇いて。

 身じろぎすら出来ずに、葵を見つめる。

「……わたしね、今日、用事があったんだよ?」

 唐突な、告白。

 意図を汲もうとしたが、

「わたしね、ちゃんと早起きして、怜佳の家の前で、ずっと待ってたんだよ?」

 淡々と紡がれる独白は、甘える子供のような響きを含んでいて。

「ここまで、ちゃんと我慢してたんだよ?」

 言葉を、差し挟めなかった。

「なんでだと思う?」

 それは、あなたが善い人だから――そんな陳腐な理由ではないことは、葵の様子を見れば、わかる。

「わたしね、ずっと怜佳のこと……っ」

 単調な言葉に、ノイズが混じって。

「――だから、わたしじゃ、だめ?」

 決定的な言葉は隠したまま、葵は瞳から涙を零した。

 反芻する。これまでのことを。

 なぜ、葵のような人間が、私に構っていたのかを。

 善性が理由なら、私だけが対象になるわけがないのに。

 葵ならば、欲しいものに手を伸ばせば、大抵のものは手に入れることが出来る。

 そんな葵の手は、なにを欲して、どこへ向けて、伸ばされていたのか。

 わからないままにしていた。

 奇縁だと、腐れ縁だと、無邪気に受け入れていた。

 友情だと、信じていた。

 だって、私は――偽悪的なだけの、ただの女の子だから。

 自分の理屈だけが特別だと思い込んで。

 背徳へ向かう私への説得や忠告を、ただの思いやりだと信じ込んでいた。

「……っ」

 心臓が、破裂しそうなほど、高鳴っている。

 自分がどんな顔をしているのか、わからない。

 葵を受け入れることに、抵抗はない。

 かわいくて、優しくて、素直で。

 欠点を挙げる方が難しい少女。

 私なんかに、四年間も付き合ってくれた少女。

 葵は、実に好ましい友人だから。

 私は、葵に恋することができる。


 そこに背徳は成立しない。

 それが、すべて。


「私は、帰らないわ」

 私は、私の理屈を口にした。

 葵の表情は、見えない。

 なぜか、視界が歪んでいたから。

 わかったのは、葵が口元に手を当てたこと。

 一言も、発さなかったこと。

 そうして、振り返って去っていく葵の背中が、とても小さかったこと。

 それだけだった。

 


 葵の姿が、霞んだ視界からも消え去ってしまった後。

 私は、服の袖で雑に目元を拭った。

 奇異の視線を集めていることに、ようやく気付く。

 唐突に喧騒が戻り、冷え切っていた感覚が陽光に溶かされていく。

 星川君は、傍らに立っていた。

 とても嬉しそうに。

 見たことのないほど、口元を歪めて。

 なにかを見つけたように。

 愉快そうに。

 笑っている。

 歪に。

 おぞましくも見える。

 ふと、手を口元に当てて。

 気付く。

 口元の、歪みに。

 私の、歪みに。

 ――安堵してしまう。

 私の理屈が、損なわれていないことに。

 私は私のままだ。

 彼も、私。

 だから、きっと。

 大丈夫。

 予感ではなく、確信。

 私の恋は、きっと成就する。



 ねえ、私。

 今さら。

 どうして。

 どうして、私ではなく、葵の背中を見つめているの?

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