その二
自分が誰かに好かれることなんて、おそらく一生ないだろうと思っていた。
石炭色の髪は、枝毛だらけ。
鏡も見ずに括ったおさげは、左右の長さが揃っていることの方が稀。
低く掠れた声は、葵だけが大人びていると褒めてくれる。
客観的に見て、私には愛らしさの欠片もない。
葵のような存在を間近で見ていると、その事実を否が応でも突き付けられ、認めざるをえなくなってしまうのだ。
だから、最初は――二ヵ月前のあの日、私は本当に驚いた。
高校二年生に進級して、三日目。
彼―星川夏樹―が、私そっくりの姿で登校してきた時は、本当に驚いた。
会話したこともない男子が、なぜか私そっくりの格好をしている。
異常な視覚情報を、脳がしばらく認識しなかった。
私以外の生徒は、私が既に自席で頬杖をついていることになど気付いていなかったから、誰も星川君に目をやろうとしなかった。
おそらく、葵は気付いてくれただろう。だが、たまたまその瞬間、葵は教室におらず。
しばらくは私一人だけが呆然としていた。
混乱のさざ波が立ったのは、微かなすすり泣きがきっかけだった。
教室の入り口で棒立ちしていた星川君の体が、小さく震えだして。
ようやく違和に気付いた数人の生徒が、星川君に注目し始めた。
気付きの波紋が増えるにつれ、混乱の波は大きくなり、広がっていく。
緊張と沈黙が教室内に満ちる頃には、すすり泣きは嗚咽へと変化していた。
私の格好で、涙を流す星川君。
その涙の意味を理解できたのは、おそらく本人だけ。
ただ、どういうわけか、彼は私を見つめていた。
私そっくりの格好で泣きじゃくりながら、私を見つめていた。
涙を零しながら、ずっと。
私のことを、見つめていた。
当然、波乱はあった。
騒動を聞いて駆けつけた担任が、星川君の肩を抱きながら、職員室に連行していった。職員室でどのような会話が交わされたのか、知っているのは当人のみ。
翌日。星川君は、再び私そっくりの格好で登校して来た。
前日と変わらぬ姿の星川君を見た担任は目を見開き、朝のホームルームを放棄して、星川君を職員室へ連行してしまった。
この時点で、クラス内での星川君の評価は「よくわからないけど、やばい奴」で統一されつつあったように思える。
その余波か、クラスメイトの何人かは、私に同質の視線を向けてきた。
濡れ衣をいちいち否定するのも面倒なので無視していたら、視線はいつの間にか消えていたけれど。
次の日。星川君は、やはり私そっくりの姿で登場した。
担任が姿を現すよりも先に、まず我がクラスの風紀委員が星川君に詰め寄った。
至極まっとうな感性と常識を持つ、清潔な十七歳の眼鏡っ子。
自他ともに認める真人間の目に、星川君という存在は、どう映ったのか。
「男子の制服を着なさい」
「そもそもその制服はどこから持ってきたの」
「先生にまた怒られるわよ!」
などなど。警告や説得の言葉は、しばらく続いていた。
負い目がある時の正論は、耳と胸に刺さる。
正直に言うと、少しだけ期待してしまった。
星川君が、どんな風に取り乱すのか。見てみたいと思った。
「……」
緊張と、静寂の中。
星川君は、下唇を噛んだまま、そっと私を見た。
どうしてそうなるのか、わからなかったけれど。
私に似せた要素の中で、潤んだ瞳だけは、たしかに星川君のもので。
思わず、息を呑んでしまった。
無視された風紀委員が怒鳴るのを無視して、星川君は私を見つめていて。
私は、そんな星川君から目が離せなかった。
四日目。教室内の空気が、決定的に変わった日。
風紀委員は、登校して来た星川君を一瞥もしなかった。
担任は、星川君をなるべく視界に入れないようにしていた。
説教や忠告は、ある種の思いやりだったのかもしれない。
断絶が生まれる前に最終勧告をした担任や風紀委員は、葵と同じく善性の人なのだと思う。
プロセスを経た無関心は、周囲に納得を与えた。
「仕方ない」
と、無言の同意が教室に満ちていた。異を唱える者は、いない。
一方で、星川君はやはり、私を見つめていた。
私を見つめる瞳に、どのような意図が込められているのか。
そんなことを考えていると、知らぬ間に私も星川君を見つめ返していて。
――そのことに気付いた葵に、窘められてしまった。
「気持ち悪いのはわかるけど、気にしない方がいいって」
「気持ち悪くはないけど、気にはなるわ」
「気持ち悪くない、っていう気持ちがよくわかんないけど……やばいじゃん、あいつ。下手に気を引いたら、怜佳になにかしそうで怖いよ」
葵にしては珍しく、容赦のない辛辣な言葉。
葵が、なるべく私に見せないようにしていたであろう一面を見ることが出来て、鼓動が高鳴った。
「……どうしようかしら。困ったわね」
選択肢は、いくつかある。
そのどれを採っても、面白そうだけれど。
「どうもしないのが、一番だって。あいつに近寄ったら、怒るからね」
「どうしてあなたが怒るのよ」
「怜佳のことが心配だからに決まってるじゃん! 言っとくけど、怜佳になにかあったら、わたしはあいつを許さないから。本当に」
眉間にシワを寄せる葵がかわいらしくて、つい頷いてしまったから。
しばらくの間は、約束を守って、なにもしないことにした。
そして、今。
制服が中間服へ移行したこと。
星川君が生徒指導員に連行され、マンツーマンでみっちり説得され、数日間、学校を休んだこと。
突然、星川君が両親を伴って学校に現れたこと。
その次の日から、学校側が本格的に星川君という存在に対して、見て見ぬフリを始めたこと。
細々とした騒動はあったが、結果的に大きな変化は起きず。
私たちの距離感も、変わっていない。
でも、私の心には、大きな変化が生まれていた。
当然といえば、当然だと思う。
二ヵ月間も、私たちは見つめ合ってきたのだから。
星川君が、なにを考えて、私の姿形を真似しているのか。
興味を持たずにいる方が、異常だと思うのだ。
葵には、悟られずに。
表向きは、約束を守っているフリをして。
星川君に、接触してみたい。
十分過ぎるほどに、心は惹かれているのだ。
あとは、転がり落ちることが出来るかどうか。
この興味は恋だ。と認めるのではなく。
この気持ちは恋だ。と気付きたい。
そのために、星川君に触れる必要がある。
触れて、確かめなければ。
もしも、星川君の理屈が、つまらないものであるならば。
今、こうして私が抱いている気持ちは、ただの幻想でしかない。
面白みのないものを、大切に抱えていることになってしまう。
滑稽であることには、耐えられるけれど。
失望感に耐えられるかは、わからない。
それも含めて、楽しみではある。
星川君との「この先」に、なにがあるのか。
理性では、もう理屈を抑えられなくなっている。
手紙を、書いてみた。
メールアドレスも、アプリのIDも、わからない。
触れ合いたいという気持ちを言葉にして直接ぶつけるのも、無粋だと感じてしまった。
だから、手紙を書いてみた。
学校近くの公園で、待っています。
ノートの切れ端にそれだけ書いて、二つ折りにして、昼休みの間に星川君の靴箱へそっと忍ばせた。
葵から逃げるように教室を抜け出して、公園に辿り着いた時。
経験したことのない不規則な鼓動が、私の胸を内側から強く叩いていた。
入り口付近の木に背を預けて、小さく深呼吸する。
来るだろうか。
来ないかもしれない。
どちらでもいい気がした。
星川君のことなんて、なにもわからないから。
あれこれ考えるだけ、無駄なのだ。
それに、
「……来てくれて、ありがとう」
考える暇もなく、「私の姿」が公園の入り口に見えたから。
杞憂する暇すら、なかった。
公園のベンチに、同じ格好の人間が半人分の間を空けて腰掛けている画は、傍から見ればさぞ妙なものだろうと思う。
ここまで、私たちの間には、一度も言葉が交わされていない。
いつものように、数秒見つめ合って、どちらともなく歩き出し、示し合わせたようにベンチへ腰を下ろした。
空の端が、橙色から茜色に移ろい始めている。
なにを言えばいいのか、わからない。
もともと、多弁ではないのだ。
考えてみれば、自発的に他人とコミュニケーションを取ろうとしたのは、初めてかもしれない。
葵のことを、脳裏に思い浮かべてみる。葵との会話を掘り返して、糸口になりそうな切り出し方を思い出してみる。
「……」
失敗だった。
葵の言葉は、葵だからこそ、きっかけになる。
葵の言葉に、私という大月怜佳との親和性はない。
上っ面をなぞっても、歪で嘘臭い言葉になってしまうだろう。
なら。
「星川君は、どうして私と同じ格好をしているのかしら?」
私の言葉を、そのまま口にしてみた。無骨ではあったかもしれないけれど、空虚ではなかったように思える。
一言目としては、まずまずだったはずだ。
「……やっぱり、気持ち悪いかな?」
不必要なまばたきを、繰り返してしまった。
彼が、客観性と常識を持ち合わせていることが、わかった。
実のところ、その二つこそが星川君には欠如しているのではないかと、期待していたから。
私に対してそれを問うならば――客観性を持ち合わせた上で、私に容姿を寄せているのならば。
星川君に欠如しているのは、別のものなのだろう。
あるいは、他者にはないものを、星川君は抱えているのかもしれない。
「私は、あんまり気にしてないわ」
事実、嫌悪感を覚えたことはない。
「え、そうなの?」
「ええ」
「いつもボクを睨んでたから、怒ってるんだろうなって……ずっと気持ち悪がられてるんだろうなと、思ってた」
「別に、睨んでいたつもりはないのだけれど」
見つめ合っていた、と思っていたのは、どうやら私だけらしい。
「いつも私のことを見ていたのは、それを気にして?」
怒っているのだろう。気持ち悪がられているのだろう。
たった、それだけの理由なら、興醒めも甚だしい。
「ううん……違う」
かぶりを振って、星川君は視線を落とす。
「……」
逡巡しているのか、星川君の膝がせわしなく揺れている。
私を見つめていた理由。
それは、星川君の行動の核で、他人へ気安く披露できるものではないのだろう。
私だって、私の理屈を他者へ簡単に明かすような真似はしない。
秘めておきたいほど大切だから、どうしようもなく、自身を突き動かす。
大切であると同時に、恥部でもあるのだ。
おいそれと、他者へ見せるような真似は出来ないだろう。
「いいわ。今、教えてくれなくても。その気になったら、教えて」
寛容さを装って、微笑む。
もともと無理筋だとわかっていながら、さも物分かりが良いフリをして、諦めてみせて、良心の呵責を誘う。
卑怯かもしれないが、罪悪感はなかった。
私は、彼がどういうつもりなのか、知りたい。
その一念で、取り繕う。
「……大月さんって、寛容なんだね」
唐突に、星川君がそんなことを言った。
私の擬態に騙され、素直に信じ込んでしまっているようで――星川君の視線は、もはや見つめるという形容には納まらないほど強烈に、私を直視している。
私の思考を覗きこもうとしているような、観察するような、そんな色が星川君の瞳には浮かんでいる。
背筋が、粟立った。
悪寒なのか。歓喜なのか。私にもわからない。
かつてない至近距離で見つめ合っているから、かもしれない。
「そういう星川君は、意外と大胆なのね」
心の揺らぎを悟られないよう、微笑みを維持したまま、言葉を返す。
「ボクは、必死なだけ」
小さく息を吐いた後、星川君は薄く微笑んだ。
余裕を滲ませた笑みに、息が止まりそうになる。
微笑みながら鏡を見たことは、ないけれど。
きっと、私の目の前にある微笑みは、私にそっくりだろう、と。
わかってしまったから。
衝動的に、星川君の頬へ、手を伸ばす。
「私、知りたいわ。なぜ、あなたがそんなに、私になりたがるのか」
抜き身の言葉を、吐息の届く距離でぶつけた。
「ボクも知りたいんだ。キミのことを」
互いに深層の意図を隠したまま、表層的な願望を押し付ける。
もしかすると、会話と呼べるものはなかったかもしれない。
だけど、伝わったと思う。
私が、星川君に興味を抱いていることが。
受け取ることができたと思う。
星川君が、私へ抱いている興味の熱量を。
茜色の滲む薄暗がりの中で、私たちは見つめ合う。
青春らしい甘さは、微塵もないまま。
断崖へ向けて、少し進めたような気がしていた。
私は、恋の縁に立っている。
そのことを強く実感しながら、私たちは身じろぎもせず、見つめ合っていた。




