手と手紙 旅立ちにて②「僕に荷物みたいに抱えられていく? それとも、自分の足で歩く?」
城崎はホテル内のプールで泳いでいた。屋外にある一般宿泊用のそれと違い、会員制のジム内にあるプールは広さでは劣るが人の姿はまばらだった。
そのプールには他に十名ほど来ていた。仲間たちと談笑したり、ゆったりと流して泳いだりとくつろいでいる。防衛軍のトレーニングセンターとは異なり、鍛える、あるいはタイムを計るためではなく気分転換の意味合いが強いらしい。水中から顔を上げる度に、高い天井に反響した歓声が耳に届く。
城崎は黙々とひとりで泳いでいた。誰からも声をかけられなかった。それでも視線は感じる。自意識過剰かと思ったが、受付から更衣室に入った瞬間、プールサイドに立ったとき。泳ぎはじめたいまに至るまで常に好奇と観察する視線を感じた。ときにはにぎやかに雑談する声の中から「あのスイートの」という単語が聞こえてきた。
謎は好奇心をかきたてる。恐らく、彼らの上流階級リストにない人間が視界の端をうろうろしているのが気になるのだろう。
城崎は自分がうわさの対象になっていることを意識はしつつも気にはとめなかった。何を言われようと、自分のやっていることに彼らが直接干渉をしてこない限り、どうでもよかった。
それに、彼らの誰もが正解にたどりつくことはない。
一泊で一般的な会社員の月給が飛ぶようなホテルに居ついて半月以上。食事などの諸経費も含めればすでにいくらかかっているのか計算機を放り出したくなる額になっている。そんな場所に、東洋系の若造が一人で泊まっている。そして誰も彼に見覚えがない。
そんな状態でうわさにならない方がおかしい。
だが城崎は無視し続けた。彼としてはこんな高級ホテルに連泊するつもりはなかった。ただ先だって、倉庫街で血まみれになった城崎に向かってハルは、心的外傷が心配だから療養しよう、とわけのわからないことを言い出し、そのまま彼を引きずってこのホテルへやって来た。
もっとも、城崎にしてみればハルといる異常さが日常になっているので、いまさら心的外傷を心配されるなら、とっくに狂ってハルの頭をかち割っているだろう。
誘拐犯に囚われたあげくに血の雨を浴びたことより、その血河を生み出した存在の方がよっぽど恐怖をかきたてられる。件の殺人鬼は、血だらけのまま歩けるか、と文句をつけた城崎に対し、それもそうだね、と笑って公園の池に彼を空き缶のように放りこんだ。
急に夜の池に投げ出されてあやうく溺れかけた城崎を前にして、殺人鬼の中にも多少の後ろめたさという感情が発生したらしい。恐らくこのホテル暮らしは彼なりの気づかいなのだろう。
城崎は黙々と泳ぎ続ける。泳ぐのは得意だったが、近年は訓練など必要に迫られて泳いでいただけで、泳ぎのために泳ぐ、ただそれのみを目的にしてプールに入ったのは久しぶりだった。伸ばした腕が水を割り、身体の周囲を流れていく感触。息継ぎのタイミングやターンの身体のひねり。徐々に身体が泳ぎを思い出していくのが面白くて、城崎は何も考えずに泳ぎ続けた。
それでも数本も泳ぐと息が上がった。水の抵抗もあったが、やはり身体が泳ぎに対応できていない。昔はほとんど息継ぎなしでクロール一本泳げたが、いまはとても無理だ。バタフライを試す前に腕が重くなってきた。
二十分ほど泳ぎ続け、一度休憩しようとプールから上がる。デッキチェアに腰を下ろして息を整えていると、背後で足音がした。
「泳ぎ、うまいもんだね」
城崎は振り返らない。声でハルだとわかる。ここ数日姿を見ていなかったが、だからといって気にかける必要も感じない。あと一日か二日たっても現れなければ、勝手にホテルを引き払うつもりでいた。次の行く先も聞かされていなければ城崎にも特に目的はなかったが、いい加減、高級の上に超がつく生活に疲労を感じ始めていたのだ。
「僕も一度、海に入ったことがあるけど、この身体はどうにも泳ぎには向いていないらしい」
チェアをひとつはさんでハルが立つ。座ろうとして、そこが濡れているのを見てやめる。
「あ、別に、機械仕掛けだから錆びるとか、そういう問題じゃあないからね」
世間話のようにハルは続ける。彼は水着ではなく、普段通りの格好のままプールサイドに立っている。その姿がまた視線を集めた。
城崎は意に介さず、チェアにかかっているタオルを手に取った。軽く身体をぬぐっていると、腕に違和感を覚える。
左腕の内側に触れると、そこに小さく硬い感触があった。
見た目にはほぼわからないが、カプセル状の異物が皮膚の下にあるのがわかる。
これは防衛軍に戻った際、身体検査時に埋めこまれたマイクロチップだ。心拍などをモニタリングする機械だと言われたが、それだけでないことは一目瞭然だった。
監視用。研究施設外に出ようものなら、即座に警備員が飛んでくる仕様になっている。
城崎は腕に触れる。いまこうして好き勝手をしているが、それを許したのはほかでもない、この人外の殺人鬼だった。
城崎は日本の病院を抜け出したあと、回収されオーストラリア本部へと戻った。だがそこで、昔の仲間と連絡を取る間もなく別の施設へ移送される。
通称、第九。
防衛軍の非公開部署。公式書類からはいっさいの存在が抹消され現存するかどうかも怪しく、隊員からは都市伝説のような扱いを受けている。
実際にはきちんと存在している人間が運営管理している組織になる。決してオカルト的なものではない。ただ施設の場所や規模、構成人数などの全体像は巧みに隠されていて、ただ働いているだけではすべてが見えない作りになっている。内部にいた城崎でさえ、未だに正確な所在地を知りえないでいた。
隔絶された内部では、防衛軍の内外問わず、いたるところから集まった人員が新技術の開発や実験を行っている。派閥などの枠がなく、企画ごとにメンバーが入れ替わるので流動性が激しい。機密漏洩を恐れて緘口令と徹底した情報封鎖が行われているので防衛軍内でも非公開扱いになり実在があやふやになっている。
うわさ話など、タネがわかればこんなもの。
外部から隔離された施設で城崎は傷の治療に専念する。やたらと検査は多かったが、人体実験という重苦しい響きとは裏腹に、それなりに丁重な扱いを受けていた。自由に外出できず、外部との連絡を遮断されていることをのぞけば安定した衣食住を提供された。
『実験適合体に認定された君は、これから人間にも僕らにも、その特殊性を狙われるだろう。このまま悠長に寝てるつもりなら、実験材料として使いつぶされて最後は標本になるだけだ。そんな終わりが嫌だって思うなら、君はどう行動する?』
そう告げた殺人鬼は姿を見せない。
殺人鬼は、城崎が過去に受けた手術の際、別の実験に身体を使われ、その結果、人の枠を越えた能力を手に入れてしまったと語る。しかし彼自身は特に何かに目覚めた気配もなく、日々ベッドに埋まっているだけ。超能力を得て物を動かしたり、驚異的な回復力で傷を一気に治したりといった力は未だに目覚める様子はない。
長期間ただベッドで眠って起きるだけの生活を繰り返す間に、城崎はどこへ向かえばいいのか。自分が何をやっているのかわからなくなっていた。病院から出たのは自分の意志だったはずなのに、どうしてここにいるのか、どうしたいのか、日を追うごとに定かではなくなってきた。包帯の量が少なくなり、自分の足で歩けるようになっても立ち上がる気力は失われていた。
日がたつにつれ、不意に城崎は逃げていることに気がつく。
そう、彼は逃げ出したのだ。安定した環境と信頼できる仲間を捨て、誰も自分を知らない場所へ逃げこみたかっただけ。決して、自分自身の能力を知りたいといった、前向きな考えからの行動ではなかったのだ。
天条親子や、防衛軍の仲間たち。彼らは最後の最後まで、城崎カズマの味方でいてくれた。たった一度さえ彼を見捨てず、裏切らず、共に歩んでくれた。暖かく、頼もしい味方だった。
彼らを信じきれなかったのは、城崎の方だ。
病院という調整されつくした環境の中、空白に染まりかけた彼の心は、遠ざけていた記憶の断片を緩やかに浮上させる。
思い出されるのは、レッドファーンの裏路地。陽の光をすべての観光街へ奪い取られ、舗装のひび割れた地面にはゴミとネズミと浮浪者が一緒になってうずくまる。
記憶が破裂し、断片が心に刺さる。
痛みから逃れるように、城崎の記憶はさらに過去へと飛ぶ。泥にまみれてはいつくばり、そこから逃げ出すこともできずにさまよい歩いていたあの時。背後から迫って来る罵声に身体が縮こまる。逃げなければならないが、足が動かない。あちこちが痛む。胸が、心臓がきしむ。
ほんの少し走っただけでも息切れし、ひどく疲弊してしまう身体がわずらわしかった。役立たずの心臓のせいで、周囲の者からはずいぶんと馬鹿にされた。まともに扱ってもらえず、稼ぎを減らされることなどしょっちゅうだ。
視界はかすみ、もうほとんど何も見えない。ただ連続する壁の残像が自分の後ろへ飛び退っていく。となれば自分はまだ走っているのだろう。その動きがひどく緩慢でも、足は前に出続け、手は壁をはって先への道を探す。
暗転しかけていた視界を、すっと何かがさえぎる。回りこまれたか、と思考するがあせりすら浮かばないほど疲弊していた。
ただそこがもう限界で、彼はゴールテープを切った選手のように、黒い人影に向かって倒れこむ。
腕はしっかりと自分の身体を支え、何事かを囁くように言った。実際はもっと大きな声だったのかもしれない。だが閉じかけていた意識には届かなかった。
「やっと、見つけた」
身動きが取れない彼を支える腕は強く、二度と離さないとばかりに抱えこんでくる。強く、熱く、小柄でやせぎすだった彼には見上げるほどの偉丈夫だった。
「もう大丈夫だ─── 」
白く裏返りかけた意識が、強い感触によって引き戻される。
「城崎くん」
手を引かれる。振り払うどころか、動かすほどもできない強さに城崎は顔をしかめた。
隔離された病室内の空気を一筋も動かすことなく現れたハルは、追憶に沈んでいた彼を強制的に引きずり出しそのまま力任せに彼の身体を引っ張ってベッドから引きずり降ろそうとする。腕と肩に走った痛みにうめき、抗議したが手は外れない。さらにハルは城崎の苦痛に気づいていないとばかりに朗らかに笑いながら告げる。
「ここから出るよ」
直後、ハルは城崎を第九から本当に引きずり出した。最初に現れたときと同様に、何もかもが唐突で強引だった。
「もうこんなところにいる必要なんかない。でないと君は、明日にでも腹を裂かれて臓器を取り出されたり、脳に電極を刺されて丸コゲだ」
笑顔で残忍な内容を口にする青年を城崎は呆然とした態で仰ぎ見る。
「ここにいるやつらは、君のことを調べたいだけだ。持っている力がどれだけか計りたいだけで、何かに生かそうとか伸ばそうなんて考えてない。そもそも、君に何かを教えられる人間なんかいやしない。ここにはいるだけ時間の無駄だ。いままでは君が動かせる状態じゃあなかったから我慢してたけど、もう限界だよ」
行くよ、と腕が引かれる。城崎はしびれるほど強くにぎられた手首と笑みを崩さないハルを交互に眺める。
「僕なら少なくとも、君を解剖して標本にするような真似はしない」
笑ってはいるが、少しも安心できない笑い方だった。城崎の躊躇に気づいたハルは、なおも笑みを深める。
「僕を信用しなくていいよ。ただ僕は君をここから連れ出したいだけだ。それだけは、抵抗されても実行するからそのつもりで」
城崎を施設に縛り付けていたチップはその場で機能が破壊された。切開して取り出すのはまた今度、とハルはとにかく城崎をせかす。
そして最終通告だとばかりに肩越しに振り返った。
「僕に荷物みたいに抱えられていく? それとも、自分の足で歩く?」
城崎は自分の足で歩き出すことにした。
そして目的のよく見えない旅を続け、今日にいたる。
プールサイドで笑うハルは、やはり代わり映えのない、記号的な笑みを浮かべているだけ。
「城崎くん、ずいぶんと思いつめている様子だったけど、何か悩みごとかい?」
声を発するのも億劫だった。ハルは返事がないことに気を悪くした様子もなく、自分の話を始める。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
差し出された手を城崎は無言で見つめる。白く、細い手だ。女のようだが、その華奢な手が城崎を軽々と抱え上げ、あっさりと他者の命を奪う。
機械知性体。傍らにいる存在は人の形を持ちながら、内包しているものは人の枠から外れている。こうして会話をしていると、時折、誰と、あるいは何がいるのかを忘れてしまう瞬間があった。
いつまでたってもこの存在には驚かされるが、同時に慣れてきていた。
そういうものだという諦念を覚えただけだが。
返事もせずに城崎は立ち上がる。着替えるためにシャワールームへ向かった彼をハルは追って来なかった。
どうせ、どこへ行く何をすると訊いたところで説明もなくハルは城崎を引きずって連れ出す。そして城崎はうっとおしい、面倒だと思いつつ、誰の詮索も入らない奇妙な旅路を少しばかり楽しみつつあった。
冊子版はピクシブのBOOTHで頒布しております。
こちらは7巻収録分です。
https://mutsugami123zero.booth.pm
pixiv ID 2358418
「六神屋」でイベントに出てます。
関西コミティア、文学フリマに出没します。




