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曇天⑧(だが、戦うべき敵はどこにいる)

 天条ルミネは七月二十九日で七歳になった。

 すでに暦は八月に突入している。娘の誕生日をじかに祝えなかった現実に、天条は世界が終わったような息を吐いた。他者から見れば一生のうちの一日だが、天条夫妻にとって、その日はとても大きな意味を持つ日だった。

 天条夫妻の初めての子供は、七歳を迎える前に死亡した。

 娘は先に生まれた兄弟の存在を知らない。伝える必要はないと、夫婦は兄の存在を隠してきた。

 妹が、兄の年齢を越える。

 去来した感情を、天条は言葉にすることができなかった。胸に打ち寄せる波はどれも勢いや温度を異にし、大きなうねりを上げて彼を飲みこむ。

 息子を守れなかった悔しさ。加害者を憎む気持ち。自分たちを支えてくれた者たちに対する感謝。生まれてきてくれた娘に対する愛情。

 複雑に絡み合った感情の大海の中、天条は水面から顔を出して息をする。

 見上げた天井は、そっけないものだった。

 いま天条がいる場所は、日本どころか赤道をはさんで反対側の南半球になる。世界防衛機構軍オーストラリア本部の一角で、天条は他者の目がないのをいいことに、ため息を連続で発している。

 急に天条を本部へ呼び戻した防衛軍は、情報の漏洩を理由に、調査が終わるまで外部との交流を禁じた。基地外へ出ることはできず、携帯電話などの端末も取り上げられた。さすがに監禁まではされていない。防衛軍もそこまで非人道的な組織ではなかった。天条が外部へ連絡することはできないが、代わりに一般回線で回って来たメールをプリントしたものを回してくれた。

 返事を出すことはできなかったが、それでも天条は薄いコピー用紙に印刷された娘の写真に頬を緩ませる。バースディケーキを前にはしゃいでいるのがよくわかる。

「ルミネ……」

 次いで、出そうになった息子の名前をどうにか飲みこむ。この名前も、存在も、娘には伝えないと夫婦間で決められている。写真や記録の類もほとんど処分した。天条の手元にあるのは写真が一枚だけ。それも一度は手放そうとしたが城崎の手により戻ってきた。

 娘の誕生日も祝いたかったが、城崎の行方についても有益な情報がないので余計に気分が沈み、また天条は重い息を吐いた。

 意識をそらすため、現状で得られた情報を元に思索を開始する。

 本日の議題は、世間を騒がせている結晶病だ。

 それぞれの国が独自に対応策を講じようとして情報が錯綜し、現状がつかめず世界保健機構の調査が大幅に遅れている。民衆の非難の声に対し、未確認だが政府軍が武力制裁に踏みきった国もあるという。

 政府による民衆への武力弾圧による死者は、ある国では千人を越えたとある。都市部などで死者多数。軍部の無差別攻撃は激化している。混乱を鎮めようとする行動の裏に、武器を持った者たちもまた、何に対して銃口を向けていいのか迷っている様が透けて見えた。

 しかし、国際社会は輸出制限などの効力の薄い対応にとどまり、軍事介入を求める声は少ない。背景には、介入が宗派間紛争を誘発する危険や自国権益に関する思惑が絡んでいる。反体制派側にも外国の直接介入への反発があった。

 介入をためらう周辺諸国にも事情がある。

 某国では最高指導者のクーデター以来、半世紀近く軍事政権が権力をにぎっている。厳しい統制で独裁への不満を抑えていたが、結晶病の蔓延により民衆の不満が募り、反政府デモが発生。最高指導者である大佐の退陣を求めるデモは各地に広がった。首都などで軍の戦闘機がデモ隊を攻撃するなど、武力弾圧で数百人をこす死者が出た。政権幹部が弾圧に抗議して相次いで辞任。地方都市を反政府勢力が反抗の拠点として旗を上げた。独裁は大きく揺らいでいる。

 事態を重く見た諸外国は、経済制裁を始め、防衛軍の出動も視野に入れているが、どうにも動きは鈍い。

 どうやら世界情勢は、結晶病という大きな問題を前にしても、それが新たな燃料とばかりに燃え上がっているらしい。

 ある意味では代わり映えのない現状に、天条は息を吐く。軍人である彼は出撃の指示があればそれがどんな理不尽な命令でも従わなければならない。

(だが、戦うべき敵はどこにいる)

 仮想の敵に対して注ぎこまれる弾薬や資金は常に、一般市民の理不尽な犠牲の元に成り立っている。

 天条は早く家族の元へ帰りたかった。妻には世界くらい救ってみせろ、と発破をかけられたが、たったひとりあがいたところで相手が世界では強大すぎた。

 ドアがノックされ、天条は思索を中断する。

 また尋問の時間だった。同じことを執拗に繰り返すだけの苦痛の時間だったが、いまの天条にできることは機械知性体は敵対すべき存在ではないと訴え続けるだけだった。

【曇天 終】



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こちらは7巻収録分です。

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