曇天⑤「君は、僕のことをもっと利用すればいいんだ」
すり減った箒を交換するため、備品倉庫に足を向けた海里の前に、何者かが立った。
夏の強烈な日差しが生み出す光と影のコントラスト。陽光が当たる部分は白く、壁と樹木の影は闇を思わせるほど深い。その陰影から顔だけをにじませて立つ男の姿があった。怪奇現象ではなく、髪と服が黒系なので、唯一露出している顔だけが浮き上がって見えたのだ。
海里は幽霊という概念を知らなかったが、異様さを漂わせる光景に目を見開く。駐屯地の閉鎖は聞かされていた。部外者の侵入はありえない。だが、現実に男はそこにいる。自衛隊員ではない。しかも相手は海里も見知った顔だった。
男は挨拶もなしに、曇天のような顔で告げる。
「イノベントは瓦解した」
抑揚のない声音だった。表情は生気がないというより、最初から、それ以外の面を持たない感じがした。
互いの間には数メートルの距離が開いている。会話をするには遠いが、男にはそれを縮める意思がないらしい。一方的に告げる。
「すでに組織と呼べる枠組みは失われた。我々……いや、すでに、私とヴァンしかいないが……我々だけでは制御しきれない状況に陥っている」
海里は手にした箒を放り出して男へ向き直る。顔は知っているが、名前は知らない。だが名前以上に強烈な印象により、忘れられない存在となっている。
男はイノベントに属する機械知性体。そして以前に、海里の腕をねじ切ったことがある。
そんな過去も、いまの会話も、男は何の表情も変えずに行っている。声は録音されたものを再生しているだけのように平板だ。
「組織を暴走させているのは、人間だ。科学者たちは知識欲を暴走させ、世界中に結晶病の因子を含んだ微細機械細胞をばらまいている」
男は顔を上げ、真正面から海里を見た。それだけの動作で上体が揺らぐ。
ようやくそこで海里は気がついた。男の半身が大きく欠損していることに。男は右腕が肩あたりからなかった。
腕を引きちぎった相手の前に、腕をなくして現れる。現実感を欠いた光景に、海里は何の行動も起こせずに立ちつくしてしまう。まるで危機感を感じなかった。男の目は海里に対して無関心で、まるで壁に向かって話しているように感情の起伏が見えない。目の前にいる海里すら素通りし、その向こうを見ているような遠い眼差し。
「イノベントはすでに、我々の手を離れた。私では制御できない。ヴァンもすでに消滅したかもしれないが、それすらも把握できない」
男の身体が膝から折れた。ぐしゃりと地に落ちて陽光にさらされた身体は人体の概念から大きく逸脱するほど損傷している。立って歩いてきたことが奇跡な状態に、海里は我が身を削られているような痛苦を覚え顔をゆがませる。
何も傷がない海里に見下ろされている男は、淡々と途切れることなく話し続ける。
「科学者たちは、フレイヤを掘り起こそうとしている」
フレイヤ、その名前に海里は肩を揺らす。始祖オリジンから生み出された最初のオリジネイターのうちのひとり。だがフレイヤはのちにアトラスや他の仲間と決別し、地上世界を目指した。
「我々の祖を、彼らの手に渡さないで欲しい」
事務的な声音だったが、海里は彼から視線を外すことができない。動けなかった。
最後の言葉を受けた身体が硬直する。
それは、願いだった。祈りであり、聞いた者の心を切り裂く刃のようでもあった。
曇天顔の男はフレイヤの眠る場所を海里に教え、結局、名乗ることもせずにそれきり動かなくなった。
「立てるかい」
差し出された手を無視し、城崎は自身の手を使って上体を起こし立ち上がった。全身が濡れて重い。鉄錆くさい臭いに顔をしかめる。これが昼間で色彩まで見えたなら、ため息ではすまなかっただろう。しかめっ面だけですむのなら僥倖だ。
彼の全身は血まみれだった。すべて返り血で、傷と言えば結束バンドで拘束されていた手首のすり傷くらい。目隠しをされていたので、目の周りだけが不自然に汚れていなかった。
血液の持ち主は全員、無言で彼らの周囲に転がっている。手や足、首や胴体が切断され、自身の血の海に沈んでいる男たちはどう低く見積もっても死んでいた。
眼前の殺戮はすべて、ここにいる人の形をした存在の仕業だ。
「生きていてよかったよ」
彼は朗らかに笑う。表情には親しみと、相手に対する真摯な姿勢があったが、城崎はすべて鼻先ではねつけた。
ハルと呼称する存在は、鮮やかな桜色の頭髪と、角度によって色を変える瞳が他者に強烈な印象を与える。髪と瞳の奇抜さに反して顔立ちは柔和で、表情には幼さがのぞく。男性とも女性ともつかない、成長期の少年のような細っこい体つきをしている。
ハルは城崎がつかまなかった手をぶらぶらさせながら踵を返した。殺した相手には興味がないのか一瞥も与えない。
いや、生きていたころの彼らにも、ハルはまったく感心を示さなかった。
城崎の監禁場所に現れたハルに強引な要求を通そうとする誘拐犯にハルは話の流れも気にせず、城崎を返すなら見逃す、とだけ言った。
彼らを取り囲んでいる一派は、どうやらハル自身を拉致することが目的らしい。だが追い回しても捕えられないので、とにかく人間なのは間違いない城崎が人質となった。
誘拐犯は誰かの雇われらしかった。世の中にはそういう行為を仕事として請け負う集団もいる。城崎は街中を歩いているといつの間にか数人の男に囲まれ、周辺の誰も気づかないまま数秒の間に車中へ押しこめられてしまう。だが誘拐犯は捕えた城崎を即座に殺すほど悪辣ではなかった。目隠しされて縛られ床に転がされる以上の暴力はなく、人質生活は予想よりは快適だった。
不快適は、ハルが現れたあとだ。
十人からなる人数に囲まれる中、平然としているハルに失笑を浮かべる者もいたが、床に転がされている城崎は気が気ではなかった。自身が置かれている状況やハルのふてぶてしい態度にではない、即座に逃げ出さなかった男たちの行く末についてだ。
ハルは男たちが城崎を開放する意思がないと知ると、あっそう、とつまらなそうに言って、手をかざした。
それだけで、すべてが終わった。
城崎は床に伏せたまま、目隠しの向こうで展開されている殺戮劇を身を震わせて小さくなっていることしかできなかった。彼が生き残れたのは、桜色の殺人鬼の気まぐれでしかない。
この人外の存在と行動を開始して一ヶ月以上になるが、すでに安堵という言葉は死語になっていた。彼の歩いたあとは血に染まっている。比喩ではなく、この存在は紙を裂くよりも簡単に人間を両断し、血河をためらいなくわたる。
今日もまた、血で汚れることを砂浜に足首が埋もれる程度にしかとらえていない存在に、城崎はもう何かを思うのをやめた。
「歩けるなら行くよ」
背を向けてハルは歩き出す。その後ろ姿は、城崎がついて来るのを疑っていない。
現実問題、城崎はハルを追う以外に術はなかった。
こんな理解不能な存在に自身の生殺与奪を預けているのは我慢ならなかったが、それでも城崎なりに利益を見出している限りは追いかけるしかない。少なくとも、ハルは城崎だけはどれだけ反抗しようとも殺さない。逃げ出しても捕まえに来る程度には執着していた。
その関心の向け方は、対等の友人に対する親しみではなく、気に入りの玩具を手の中でこねくり回しているようなものだったが。
倉庫を出て、城崎は監禁場所が港湾施設の一角だと気がつく。同じような倉庫が立ち並び、様々な色のコンテナが高く積み上げられている。人の気配はない。ハルの殺戮の痕跡が発見されるのは、もう少し先になりそうだ。
「……あいつらは、何だったんだ」
質問の内容に興味はなかった。返り血まみれで最悪の状態だったので、とにかく誰とでもいいから会話をしたかっただけ。
「誘拐犯? ただの雇われだろうに、かわいそうだったね。もう少し仕事を選べば長生きもできたはずだよ」
「雇われだとわかっていたのか。なら、そもそも誰がこんな指示を出したんだ」
ハルは肩をすくめる。
「さあね、興味はないなあ。大方、機械知性体の存在に気がついたどこかの企業家か富豪が先行投資のつもりで僕を捕まえようとしたんじゃない」
本当に、心底どうでもよさそうだった。
「僕たちの存在は、意外と知られているよ。だからこそ、利用しようと考える輩が出てくる。いままでは世界防衛機構軍……アップルゲイト財団を隠れ蓑にしていたから手が出せなかっただけさ」
これからも狙われると聞いて、城崎はうんざりする。ある意味、目の前の殺人鬼よりも欲にかられた人間の方が手段を選ばない分、予測がつかない。
「向こうが僕に価値を見出しているなら、僕も代価をいただくだけだ」
つい、と視線を動かし付け加える。
「とりあえず、今夜の騒動はなかったことにされるよ。次の接触も同じ方法を取るなら、さすがに相手をするのが面倒だから、親元を叩くけどさ」
叩くどころではなく、比喩なくつぶしてしまうだろう。それらを躊躇なく遂行できる決断力と単体で戦闘機か戦車並の武力を行使できる存在。
「どうすれば、あんな真似ができる」
ほとんど独白だったが、ハルは律儀に答えてくれた。
「あんな真似って……ああ、さっきのあれか」
城崎とは対照的に、血の一滴も浴びずに大量の人間を両断した殺人鬼は、簡単だよ、とこともなげに即答する。
「換気扇や扇風機の羽根ってさ、回ってると元の形が見えないよね。それは、素早く動いてるからであって、消えてるわけじゃあない」
びゅ、とハルは右手を一閃させる。その先にあった倉庫の壁面に大きな傷が走った。
巨人の爪跡のような痕跡に、城崎は背筋を震わせる。
今のところ、ハルはその力を城崎に向ける予定はなかったが、いつその矛先が自身を切り裂いてもおかしくはない。
そう、この瞬間にも、飽きたと言って振り返った途端、城崎の生命活動は終焉を迎える。
だがその気のないハルは面白そうな様子で語り続ける。この殺人鬼はとにかく話好きだ。
「僕は微細機械細胞を使って、極限まで薄くて鋭い刃を作って放っただけだよ。見えないんじゃなくて、見えないくらい刃が薄くて細く、速く動いてるだけさ」
「携帯用のノコギリみたいなものか」
城崎も山岳訓練の際、携帯用のワイヤーソーを所持していた。華奢な見た目の割に、細い木の枝程度は簡単に切断できる。
「近いと思うよ」
「そんなもので、あんな切れ味が得られるのか?」
ワイヤーソーで木の枝は切断できる。だが肉と骨を一瞬で断つような真似は携帯ノコギリには不可能な芸当だ。
「鋭さと薄さを優先させてるから、強度は低いね。それを速さで補ってるんだ」
速さ、城崎は口中で繰り返す。確かに、見えないほど素早く何かが飛来したのはわかった。速すぎて、風圧を感じたのは男が両断されたあとだったくらいだ。
だが手品もタネを明かしてもらえば実行可能かどうかはともかく原理は理解できた。ハルの能力はオカルト的なものではない。現実に根拠のある技術なのだ。
でもね、とハルは続ける。
「無敵に見えるだろうけど、弱点はある。さっきも言ったけど、薄くて強度は低いから対象が大きく動いて切断角度が変わったりすると刃が折れる。あと、速さを殺されると威力も半減だね。例えば、君の監禁場所が土砂降りの雨の中だったら……僕はもう少し苦戦したはずだ」
人類に対し、圧倒的な力の差を見せつけた殺人鬼は振り返って苦笑する。
「水だよ」
言って、顔を上げた。水銀灯と街明かりで藍色の空は色が薄く見えた。
「水滴の重さが刃に乗れば、その分、速さが落ちる。水の抵抗っていうのは、君が思う以上にやっかいな相手だよ。だから水辺や雨は苦手だね」
城崎はハルの言葉に瞠目する。折よく、彼らの足は倉庫街を抜けて近隣の自然公園に入っていた。敷地内の池が水銀灯の明かりを受けて表面がきらめく。
(水中では銃弾の運動能力がほとんど失われるようなものか)
スパイ映画などで、敵に見つかった主人公が水路などに飛びこんで銃撃の嵐から逃れるシーンがあるが、実際に有効な脱出方法でもある。
自身の弱点をあっけらかんと言ってのけたハルの背を、城崎は口を閉ざしたままねめつける。
(それがこいつの能力の弱点)
欠陥と呼べるほどでもなかったが、少なくとも、眼前の存在は完璧ではない。
そこまでの思考を読んだように、再びハルが静かに言葉を発した。
「君は、僕のことをもっと利用すればいいんだ」
慰撫するような声音にこめられた意図を読み取ることができず、城崎は憮然と押し黙ることしかできない。
ハルはそんな城崎を見て笑うだけだった。
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