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心なき涙①『こんなところでいつまでも寝ていたらダメよ』

心なき涙



 暖かな海に海里の意識は漂っていた。

 とても心地よく、離れがたく、綿にくるまれているように優しい世界。自身が沈んでいるのか浮上しているのかもわからなかったが、何も不安はなかった。

 身体の輪郭はかすんでいる。末端は溶けて崩れ、彼を包む海と自身の境はわからなくなっていた。自己の存在はひどくあいまいになっている。だが意識は茫洋と漂い、何もできず、何かをする必要も感じない。優しいが何もない夢にまどろんでいた。

『……起きて……』

 海里の輪郭をなぞる手があった。頬を滑る手が肩に下り、腕を伝って溶けかけていた指先を形作る。

 そうして出来上がった手を、誰かが柔らかく握った。

『さぁ、早く……』

 手の感触は、海里を包む海とは違っていた。決して強くはないが、何度も執拗に揺さぶってくる。

『起きて、ここから出るの』

 軽く引かれ、海里は誰かと繋がっている自分の手を意識した。

 繋がった手がさらに力をこめて腕を引き、肩が浮いた。頭が動き、海里はようやく身体全体を意識する。

 手を握っている何者かを見たくなって、海里は目を開けた。しばらくぶりに仕事をした視覚は調整がきかないのか白くぼやけていて、繋ぐ誰かの顔は見えない。

 ただそれでも、隣に寄り添う気配は感じた。

『早く起きて』

 傍らにいる何者かの声に、別の声が重なって聞こえた。

───早く、早くここから出ておいで。そして、一緒に

遊ぼう、僕らの兄弟

 それは遠いような、近いような。現実にあるようで、夢の中で出会ったような。

 海里は声の主を探そうともう一方の手を伸ばす。声は笑いながらさまよう手を握り返した。

『こんなところでいつまでも寝ていたらダメよ』

───僕は〇六〇九。ううん、……だよ

 かつて聞いた言葉が彼の中をすり抜けて行く。視界は未だに白く、影のようなもやが動くのが見えるだけ。

 笑っている誰かの顔は判別できない。

 だが、手を引く者はこれ以上彼を眠りに落とさないとばかりに力をこめた。同時に、叩きつけられる声。

「目を開けて!」

 届く声は今までで一番近い。身体を揺さぶる勢いに、覚醒を始めた意識は自身を取り巻く海を重く感じ、振り払うように身体が跳ねる。

 面白がるような声が上がり、繋がっていた手が離れた。

 笑いながら気配が遠ざかって行く。

「早く起きて、正義の味方さん」

 待ってくれ、と伸ばした手は空振りする。

 何者かは、ふらふらと手をさまよわせる海里の様を笑いながらいなくなってしまう。

(まだ、行かないでくれ……)

 海里は身体の中で膨らんでいく、透明な感情に突き上げられるようにして意識を取り戻した。

「…………あ……」

 目を開けた海里の意識は空白で、瞼は開けたが何も見えず、思考もできない。視覚情報の調整がはじまるが、崩れてしまった輪郭はなかなか戻らなかった。

 意識が寸断してからどれほどの時間が経過したのか。体内時計も微妙に狂っていて、時間の感覚が上手くつかめない。眠ってから一晩経ったのか、数年後なのかもわからなかった。

 瞬いた目の端から滴がこぼれる。全身が濡れていた。髪からしたたる水気をぬぐって彼は顔を上げる。

「……アウラ?」

 漏らした瞬間に霧散するようなつぶやきだった。

 ようやく視界が焦点を結び、そこが医療施設の一角だと気がつく。周囲を見回す余裕も生まれ、海里は自身が置かれている状態もおおむね理解した。

 海里は液体が満ちたポッド内で上体を起こしていた。ハッチが開いたことも、起き上がったことも記憶にない。

 ポッドの中は暖かな溶液で満ち、ハッチの内側に残った滴がしたたって海里の鼻先で弾けた。

 水気を振り払い、近くのモニタに映った自分の顔を見る。

 短く刈った黒髪、赤褐色の瞳。二十歳ほどの人間の男性を模した外装。

 何のためらいもなく、これが『自分』だと思った。

 意識が寸断する前と何も変わっていない。足されても引かれてもいない。

 もちろん、外装がすべて入れ替えられたこと。構成素材が以前のものとは大きく変わってしまった点はすでに気がついている。そのせいか、見慣れた室内も初めて見るような新鮮な気分があった。

 ゆっくりと身体を起こして立ち上がった。身体の各部分、関節や人工筋肉の動作や連動も滑らかだ。

 微細機械細胞。その情報も知識としてはあったが、特に意識はしなかった。そういうものだと理解していた。

 ポッドから出ると、びしゃりと水が跳ねた。そこで自分が一糸まとわぬ姿だと気がつく。機械の身体であるオリジネイターに服飾文化はない。海里も服を身につけるという人間くさい行為を最初は面倒がっていたが、人の中に混じって暮らすうちに、自然と当たり前のこととして受け入れるようになっていた。

 見回すと、机上に衣服が一式用意されていた。シンプルなシャツとジーンズ、靴や下着類。深緑色のジャケット。フードの端を飾る茶色のファーに見覚えがあった。

 海里がユキヒ達に渡されたジャケットだ。どこかでなくしたと思っていたが、どういう経緯でか再び彼の元へ戻ってきた。

 実際は、沖原家に海里が忘れていったのをユキヒが保管し、他の衣服と一緒に深海都市へ持ちこんでいたのだ。

 適当な布で身体の水気をぬぐって衣服を身につけ、海里は医療施設を後にする。部屋を一歩出た途端に最高速度で走り出した。

 走りに迷いはなく、何かに導かれるようにして彼は決然とした顔を上げた。



 走り出した海里はマイキの元へたどり着くことはできた。だが結論から言えば、少年に再び希望と不安の種をまいただけだったが。

「シン兄、大丈夫なの?」

 目覚めた途端に再びポッド内の住人になった海里を前に、マイキはおびえたように背を丸めている。

 シスとの戦闘後、白と黒の巨体は一度分解した。そして彼らの目の前でばらけた素材は青年の姿をとる。

 だが、彼は伏したまま目を開けなかった。

 トレトマンは不安に揺れる眼差しで見上げてくるマイキに対し、腕を組んで胸をそらす。

「問題はない」強く断定する口調に、マイキどころか隣にいたレックスも驚きを見せる。

「……え、珍しいね。トレトマンがそこまではっきり言うなんて」

「この眠りは、目覚めた直後に戦闘機動を取り、慣れない外装を振り回した負荷で一気にエネルギーを消費したことによるものだ。放っておけば、勝手に目覚める」

 視線の先にあるモニタの波形を示す。彼以外にはそれがどれほどの安心材料になっているのか読みとれなかったが、マイキは深い安堵のため息をついた。

「そっか、シン兄、もう大丈夫なんだ」

「マイキ君、今日は休みなさい。今、この都市は……浮上を開始している。明日になれば忙しくなるだろう」

 マイキは無理にでも追い出さなければ、海里の横で夜明かししそうだった。

「行こうよ」レックスは脚がないので運搬車上から少年を手招きする。

 レックスに連れられ、名残惜しそうに何度も何度も振り返るマイキに手を振って、トレトマンは室内に戻る。

「……忙しく、なるだろうな」

 自身に言い聞かせるように、トレトマンはつぶやく。

 シスを逃がした後の混乱は、それまでの比ではなかった。

 深海都市が、浮上を始めたのだ。

 閉鎖区画のアンカーが外れたことは、トレトマンもすぐに理解が及んだ。だがその時点では、アトラスの判断だとは知る由もなかった。ハルの仕業だと考え行方を追ったが、彼は向かってくるオリジネイターを紙人形のように引き裂きながら逃亡を計った。

 状況が飲みこめず、戦闘行動に慣れていないオリジネイター達をハルは無造作に散らし、蹴り飛ばし、叩き折る。

 何もしないうちに総崩れになっていくのを、トレトマンはただ傍観しているしかなかった。

 こちらの多大な損害を前提に捕獲を強行するか、一度態勢を立て直すか。判断に迷っていたところをアトラスが戻り、都市の浮上は自身の手で行ったことを告げる。

 そして、彼の判断でハルとシスはこのまま都市外へ出すことになった。

 実際、ハルは追撃に対し倍以上の攻撃を返しながらも、笑いながら見逃して欲しいと言っていた。

 すでに全体の三割近くの負傷者を出していたユニオンは、侵入者の脱出を見て見ぬふりをする。追撃をやめた途端、ハルは攻撃を止めた。

 笑って手を振りながら出て行く彼らを見送る者は、皆無だった。

 鬱屈とした雰囲気の中、ようやく負傷者の救助が完了。死者がいなかったこと、都市が浮上中であることが全員に伝えられたのがつい先ほどのことになる。

 トレトマンは海里の状態を示すモニタに視線を走らせた。マイキに言ったことは、今度こそ嘘ではない。波形は睡眠状態にあることを示している。ただ、彼は一度眠ると少々突いた程度では起きないのだ。

「……まあ、ゆっくり寝ていろ」

 明日。すべては明日にかかっている。

 ユニオンが住まう都市は、初めて地上の光を浴びることになるのだから。


冊子版はピクシブのBOOTHで頒布しております。

こちらは6巻収録分です。

https://mutsugami123zero.booth.pm/

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