秘密の友達
秘密の友達
日本へ戻る潜水艦の中は、静まり返っていた。
静音性が高い艦内は機関部の音もなく、深海の中を進んでいる事すら忘れてしまいそうなほど。乗員も、半自立式の整備機械をのぞけば三人しかいないのだから、それだけよけいな雑音も少ない。もっとも、艦内に人間は一人もいないのだが。
針を落とす音すら響きそうな艦内の中央発令所にいる一人は、誰もいないそこでひとりごちていた。
「……やれやれ。トラストのやつ、足の次は腕か。少しは治す方の身にもなってくれ」
肩をすくめるトレトマン。仕草は妙に人間くさいが、金属で構築された身体のどこにも人間らしさはない。
「大丈夫かな、トラスト」同じようにぶつぶつ言いながら、レックスが入って来る。
「怪我人はどうした」
「最初は荒れてたけど、すぐに寝ちゃったよ」
「眠れるだけ眠らせておけ。睡眠は乱れた感情や記憶を整理する作用がある。それに、起きていてもうるさいだけだ。どうせ日本に着くまでまだ時間はかかる」
「あれ? そろそろ行きと同じくらいの時間だけど?」
言いながら、レックスはモニターを確認する。位置情報を見ると、確かに日本はまだはるか遠い。
「あの時は急いでいたからな。軍の演習海域の側を通過したりといろいろ危なかったんだ。帰りは危険域を避けて大きく回り道をする。倍の時間はかかると思え」
「そんなぁ」退屈だ、とレックスは不満を漏らす。
「最初に無理をしたせいで、やはり各国の軍が動いている。まぁ、船籍不明の潜水艦が自国の海域に侵入すれば焦りもするだろう」
いくつものモニターに表示される情報を確認しながら、トレトマンは艦の自走システムに細かな修正をかける。
その作業を何となく見ながら、レックスはぽつりと漏らした。
「到着までには、トラストも落ち着くといいね」
イノベントと遭遇し、逃した後。今度は彼らが追われる番になった。近隣を巡回していた軍がトレトマンの砲撃音を察知し、部隊を展開させたのだ。
どうにか政府軍と防衛軍の包囲網をくぐり抜け、潜水艦まで帰還する事ができた。砲弾と銃撃の中、というほどの危険はなかったが、それでもぎりぎりだった事は確かだ。
苦労して乗り込んだ潜水艦で外洋まで出て、彼らはようやく一息ついた。そこでトレトマンは放り出す格好になっていた海里の治療にかかろうとしたが、患者の機嫌は最悪だった。
右腕部を失い、そこから冷却用循環液が大量に漏れ出した事で放熱処理がうまくできず、人間でいえば高熱を出した状態になっていた海里は、現れたトレトマンに向かって激怒した。
「どうしてこの身体には痛覚があるんだ。なければ、動けたのに!」
朦朧とした状態でトレトマンを責め続ける海里。次第に意識の混濁が始まり、ほとんど言葉にはならなかったが、おおむね言いたい事を理解したトレトマンは治療の手は止めずに答える。
「腕がなくなるなんて、そりゃあもう大事なんだ。そこからさらに損傷し、完全な機能停止を避ける為にも、痛みは必要になる。とはいっても、おまえさんは部分的に痛覚を切れる、それで問題はないだろう」
トレトマンは切断された海里の右腕部を確認する。ずたずたになった断面を見れば、無理やり引きちぎられた事がわかる。オリジネイターといえども、無視できないレベルの損壊状態だった。
「痛みは、必要だ」
もうまともに話を聞く事も、言葉も返せないとわかっていながらも、トレトマンは痛覚の必要性を海里に説き続けた。
応急処置のすんだ海里をレックスが運んで行ったが、その目は感情を爆発させたまま、こちらを睨み続けていた。
「……何を言われたのかは知らんが、惑わされよって」
発令所内に、トレトマンの声が響く。声はさして大きくはなかったが、他に音がないので隣にいたレックスにもはっきりと聞こえた。
「え? 何かあったの?」
「さてね」四人のオリジネイター。彼らと海里の間でどんなやり取りがあったのか、トレトマンは知らないし、知ったところでどうなるものでもないとあっさり片付けてしまう。
「それに、あやつの悩みの根源はそこではないだろう。常日頃から、今の形態は脆弱だの何だの喚いていたが、同じ人間の外装を持ったイノベントに軽くひねられたんだ。今まで無意識下にあった、オリジネイターである事の過信を崩されて混乱しているのだろう」
「や……何か難しいんだけど……」
「簡単だ。要するに、あやつが本当に一番弱かっただけの話だよ」
「容赦ない判断だね……」
「わしは別に、弱い事が悪い事だとは思っとらんぞ。むしろ、敗北や挫折から学べる事の方が多い。そうやって敵を知り、恐れを知り、己を知る。時間はかかるだろうが、ひとつずつ理解していけばいい」
さて、と言って、トレトマンは世間話よろしく話題を変えてくる。
「わしらはこのまま日本へ向かう必要はあるのか?」
突然の発言に、レックスは困惑する。
「え? 帰らないの?」当然、日本へ向かうと思っていたので、意外とばかりに声を上げる。
「トラストの腕もあるし、情報も整理したい。一度深海都市へ戻りたいのが本音だ。だが、今のおまえさん達の様子だと、日本へ行った方がよさそうだな」
「どういう事?」
いぶかしむレックスに、トレトマンは気さくな調子で語った。
「おまえさん達は、日本に帰るつもりなのだろう? いつの間にやら、あの島国が居場所になってしまったようだ」
言って、トレトマンは短く笑った。
海里はただひたすらに眠っていた。そこには世界の喧騒も、自身の身体を蝕む苦痛もない。
それは、再び生きる為の休息の眠りだった。
深く深く潜って行く意識はやがて、普段は沈んでいるものにたどり着く。
意識という水底に沈んでいたのは、ひとつの箱。
開いた箱の中からこぼれたのは、無数の泡だった。
泡に取り込まれた意識は、さらに向こう側へと落ちていく。
緩やかに弾ける泡の音に誘われるようにして覚醒した先は、現実ではなかった。
いや、ある意味では現実だったのだが、それは現在ではなく、過去の記憶。
生まれる前の、本来なら覚えているはずもない光景。
泡が弾ける。
こぽこぽと、水の音がする。
ようやく意識が芽生えたばかりの精神は、まだまだ単純な情動しか持ち合わせていない。周囲の状況も認識できず、彼にとって世界とは、薄い膜に包まれた、どこかあいまいなものだった。
温い眠りと覚醒の間を漂っている意識に向かって、声が届く。
「この子が、新しいオリジネイター?」
声だけでも、こぼれそうな好奇心が見えそうだった。
「そうだ。おまえさん達にとっては初めての兄弟になる。七世代目だ。慣例に倣って番号は〇七〇一だな」
「名前は?」
「まだ決まっていない。アトラスも初めての七世代目だからな、どうも考え込んでいるようだ」
「眠ってる、起きないね」
ガラスを叩くな、と声が飛ぶ。だが、叩いた方に反省の色はない。あれこれと、とにかく話しかける。声だけでもかけていれば、何かが起こるだろうとばかりに。
「そこから出せるようになるまで、まだまだ時間がかかるぞ。外装もこれから設計して作らなければならんのだからな」
適当すぎる話と声に嫌気がさし、早く出て行けと追い出しにかかるが、声の主は彼の前から動かない。
何度も何度も、反応がなくとも声をかけ続ける。
「早く、早くここから出ておいで。そして、一緒に遊ぼう、僕らの兄弟」
歓喜の声は、そこから引きずられている間も止まらない。
「僕は〇六〇九。ううん、アウラだよ」
目を開けた海里は、無機質なパイプの並んだ天井をぼんやりと眺めていた。
体内に溜まっていた熱は収まり、活動に支障のない範囲にまで落ち着いている。それでも全身は重く、なかなか起き上がる気力は沸いて来なかった。
しかし次第に意識がクリアになっていくにつれ、眠る前の出来事を思い出す。
同時に、夢に見た光景を忘れ去ってしまった。
ようやく完全に覚醒する。寝ている場合ではない、そう思って起き上がろうとしたが、途端にバランスが崩れた。上体を上手く支えられず、横に倒れる。悪い事に、傾いた身体は寝ていた場所から大きくはみ出してしまっていた。支えを失った身体はそのまま床に落ちる。手をつこうとしたが、動いたのは左腕だけ。
右腕は、肘から先が欠損していた。
倒れた海里は、短くなってしまった腕を呆然と見つめる。上半身を床に投げ出す情けない格好のまま、ほとんど無意識につぶやいた。
「アウラ……」
ここには、彼に手を貸してくれる兄弟はいなかった。
到着間際になって、ようやく発令所に顔を出してきた海里に仲間が向ける言葉はなかった。
それは海里も同様で、何も言えずに入口付近で突っ立っていた。
もちろん、言いたい事や言わなければならない事があるのはわかっている。それに、焦燥に駆られて取り乱した事も、今となっては悔いていた。しかしどこかで納得できない部分もある事は確かで、様々な感情がないまぜになり、結局、口をつぐむ事しかできなかった。
「トラスト」呼びかけに顔を上げると、トレトマンがこちらを見ていた。レックスも同様だった。
「我々は何もできなかった。それを認めた上で、次の手を考えよう。自身の無力さを悔しいと感じるなら、もっと頑張らなければならないな」
「トレトマン、俺は……」
「我々は知らなさすぎる。それを知る為に来たのだよ」
飄々とした声で海里の言葉をさえぎると、トレトマンは前に出る。
互いの身長は三倍ほども違う為、海里は精いっぱい見上げなければならなかったが。
「知らなかった事は、罪ではない。だが、無知を理由に目をそらしたり逃げ出したりする事はよくない。おまえさんが知っていても知らなくても、事実は事実としてそこにいたのだからな。しかも、一度見えてしまった以上、無視する事はできないのだよ。わしらにできる事は、目の前にあるものをありのまま受け入れ、考え、行動するだけだ」
言って、トレトマンはゆっくりと膝をつく。
が、しかし、緩やかなのは腰を下ろす動作だけで、それに気を取られていた海里は、横合いから迫って来る腕には反応が遅れた。
つかみ上げられ、海里は悲鳴を上げる。
「っ、な、離せっ!」
暴れたところで力で叶う相手ではない。それでも抵抗しなければならないと、本能から来る何かがそう訴える。
持ち上げられた海里は、トレトマンと真正面から視線が合う。
仲間をわしづかみにしたトレトマンは、左目にはまったカバーをきらりと光らせ叫ぶ。
「それはそれとして、身体を壊すんじゃないっ!」
大音量が発令所内にこだまする。
トレトマンは口々に文句を垂れ流す。治す方の身にもなれ。面倒くさい。壊すなら全部壊してしまえ、その方が楽だ、と海里を手ひどく揺さぶりながら。
「……今まで、トレトマンなりに我慢してたんだね」
レックスは前後左右にシェイクされる兄弟に同情の眼差しを向けたが、とてもではないが今、助けに行く気にはなれなかった。
潜水艦に騒音はご法度という事をトレトマンが思い出すまで、ストレス発散行動は続いた。
怒りが収まったトレトマンは、ぽいと海里を投げ捨て、今の今までやっていた行為を全部なかった事にして格好をつける。
「なぁに、これからすべき事を考えるのと、その行動に責任を取るというのはまた別の話。おまえさんは自分で考えて動いてみるんだ。疑問や不安があるなら、誰かに相談するのもいいだろう。大切なのは、誰かに言われたからではなく、おまえさん自らが行動を起こすという事そのものなのだよ」
そこまで言うと、ここが潜水艦の中でなかったらスキップでもしそうなほどの上機嫌でトレトマンはモニター前へ移動した。
「や……そんな、無理やりいい感じの方向にまとめないでよ!」
レックスはぐったりしている海里を抱え上げ、どうしようもなく情けない心持になった。
「おお、そうだ」
突如、くるりと振り返ったトレトマンに、海里は大仰に肩をすくめ、レックスはおびえる兄弟を後ろに隠す。
「トラスト。おまえさんの腕は、ねじ切られている。繋ぐのは難しいだろう。切断面のフレームは歪んでいるし、神経構造体もつぶれとる。無理やり繋いだところで、神経の一部は機能しないだろう。いっそ、肩関節あたりから腕を新しい物に交換した方がいいだろうな」
「大手術だね」
まだ口のきけない海里に代わって、レックスが答える。
「そうだな。大掛かりな物になるし、何より、今のわしの手持ちのパーツでは対応できん。一度、深海都市へ戻る必要があるな」
「え、もしかして本当に日本へ行かないの?」
「もうここまで来て、今さら引き返したりはせんよ」
ただし、とどこか愉快そうに付け加える。
「その姿のまま戻るわけにはいかんな」
日本のいつもの広場には、マイキが待っていた。
いつ帰るのか連絡はしていなかったが、どうやら毎日そこで待っていたらしい。
車両形態のレックスから下車した海里に向かって駆けて来るが、笑顔が途中で驚愕に変わる。
「に、兄ちゃん。腕どうしたの?」
子犬のような甲高い声に、海里は視線をそらしてぶっきらぼうに答えただけだった。
「───……大した事はない」
海里はマイキの視線から右腕を隠すようにして背を向ける。三角巾で吊った、動かない腕を。
(大したも何も、とりあえず形を整えただけで、神経は繋がってないんだよね……)
クルマに擬態したまま、レックスは内心で突っ込む。
海里の腕は切断面を簡単に繋いだだけで、まったく機能していない。布の端から出ている指が動いていないのを、マイキはどうやら気づかないでいるようだった。
マイキは泣きそうな顔で「痛いの?」と繰り返し尋ねている。海里の方はマイキの勢いにやや困惑している様子だったが、ぽつりぽつりと言葉を返している。
その様を車両形態のオリジネイター達は眺めつつ、互いにしか聞こえないチャンネルで会話を続ける。
「どうにかごまかせそうだね」
「見た目だけでも格好をつけなければ、片腕というのは人間の中では目立つ。わしらは腕や足がついていなかったところで修理中ですむが、人間はそうもいかんのだ」
それに、と言いかけてトレトマンは言葉を飲み込む。
(……マイキ君が心配する)
若造二人には言わない理由だが、トレトマンが日本に戻る事にしたのはこの少年がいたからだ。
(必ず帰って来ると言った手前、帰って来なければいかんだろう)
どうせ、言った当人は忘れているだろうが。
トレトマンは面倒だと言いながら、収集した情報整理の続きを開始した。
その日を、天条はひたすら陰鬱な気持ちで迎えていた。
娘の入学手続きは、滞りなく進んでいる。デパートでは昨今のランドセルの色数の豊富さに驚き、可愛らしいが機能性の低そうな文具セットを娘にねだられ、つい買ってしまったりと、家庭に関しては上手くやっているつもりだった。妻も荷造りが終わり次第、日本へ向かうと言っている。一緒に日本へ来た部下も、責務を果たそうと日々努力を重ねていた。
そう、家庭や職場に問題は何もない。あるとすれば、唐突な来訪者の件だった。
日本に世界防衛機構軍の支部を置く、その為の事前調査として派遣されてきた天条だった。人員の少なさや、拠点として与えられたビルの古さなど、悪条件は重なっていたが、文句は言ってもきりがないと半ばあきらめていた。
いくら本部の人員は潤沢とはいえ、始まったばかりで見通しの立たない計画に優秀な人材をそう何人もつぎ込めないのだ。
結果を出せばいい。それだけを念頭に励むだけ。
現状はその一言でまとめられるくらい、まだ何も始まっていない。
だというのに、日本に監査役が派遣されて来る事になった。
裏帳簿を作る余裕もないのに監査役とはどういう事かといぶかしんだが、本部の意向には逆らえない。なるようになれと思っていた天条だったが、送られてきたメールを見て、表面には出さなかったが仰天する。
日本に来る人物は、とある財団法人からの派遣だった。
アップルゲイト財団。
主な活動は、紛争によって荒廃する発展途上国の自然や文化を守る為の慈善事業になる。
しかし、表立って公言はしてはいないが、世界防衛機構軍を設立したのがこの財団だった。計画発案者は数十年かけて世界各国から出資者をかき集め、その資金を元手に一大組織の初期構築を行ったのだ。
慈善事業とはまったく逆の思想をもとに組織は生み出された。紛争からの発展ではなく、紛争そのものを抑止する事を目的にした機関。戦争という化け物に対し、同じ武力を使って強制的に戦地へ介入する為の武装集団を作り上げたのだ。
初期はそれこそ、私設警備隊の域を出なかったが、二度の世界大戦を経由する事で組織は洗練されて行った。出資者も部隊が活動範囲を広げ、相応の成果を上げるにつれて増え、さらに権力者をも取り込んで飛躍的に発展。ついには各国の議会に発言権を得るようになるまでに至った。
設立から百年あまり経過し、オーストラリア本部も拡張の一途をたどる。
それでも、初期にある「紛争を止める為の抑止力」という方針に変更はなかった。
征服ではなく制圧。
戦いを止める為に戦うという大きな矛盾をはらみつつ、組織は現在に至るまで運営され続けている。
(戦いを止める為の戦い、か……)
思考がそれてその矛盾について思いをはせていると、部下の城崎から来客を告げられた。
現れたのは、一言で表せば曇天のような男だった。
濃いブラウンの髪の下には、さらに濃い影で彩られた顔がのぞいている。陰りがあると言えば雰囲気も出るだろうが、どう取り繕っても隠せない、陰鬱な部分があった。
黒装束の男は無言で室内に入って来る。荷物は脇に抱えたノートPCと薄いファイルのみ。男に次いで城崎も室内に入ってこようとしたが、視線で止められる。
どうやら、一定の階級以下の者には聞かせたくない話がありそうだと察し、天条は城崎に別室での待機を命じる。城崎も不服そうな表情は見せない。どうせ後から天条に同じ内容を説明されると踏んでいるのだろう。たった二人しかいない新設の部署で、隠し事などできるはずもなかった。
退出した城崎の気配が廊下の向こうに消えてから、互いに名乗りあった。しかし相手の声音の抑揚のなさに名前すら聞き逃しそうになる。かろうじて「ディス・コード・サウス」という名前を聞きとったが、相手が肩書を告げなかった事でまた悩む。
サウス監査官、と呼んでみたが、肯定も否定もしない。財団法人にそんな役職が存在していたかとまた悩みかけたが、答えを出すよりも先に男が動く。
まだ物がない机上にノートPCを乗せ、起動させる。その動きを眺めつつ、天条は監査官の年齢を考える。男の年齢は今一つ判別がつかなかったのだ。天条よりかなり年下の、三十代半ばだという話だったが、もっと年長の、言ってしまえば枯れた老木じみたものが、時折、見え隠れする。それでも、折れ崩れるような弱さは見受けられない。どちらかと言えば、老獪と言った単語があてはまるだろう。
手持ち無沙汰になった天条は、黙々と手を動かしている監査官の背に声をかける。
「失礼ですが、何の為にわざわざ日本へ?」
「世界防衛機構軍の支部を日本に設立する為の事前調査」
事務的すらも通り過ぎた声は、同じ言語で話している事すら疑いたくなるほど意味がつかめない。
「では、何を求めて日本へ? 日本は紛争が起こる火種すらないというのに」
ほんのわずかに皮肉と苛立ちがこもっている事は、自覚していた。日本人だから、という事もあったが、防衛軍本部が出したその計画を、天条自身は未だに納得できていない。
天条の予想では、計画の原案を打ち出したのは、おそらく防衛軍ではない。その上のアップルゲイト財団だろうと見当をつけていた。
「内部にはなくとも、外からやってくる場合もある」
監査官は天条の皮肉など意に介さず、半身をこちらに向ける。そこには起動したPCの画面があった。
「もうすでに、侵入している可能性が高い」
タッチパッドに触れ、手早く操作する。開いたのは動画ファイルだった。
「日本で、大規模テロを行おうとしている集団がある」
再生されたのは、画質の荒い映像だった。ノイズがひどく、不鮮明で音声もない。
何が映っているのかと身を乗り出した途端、映像の端から大きな影が飛び込んできた。
クルマだった。軽自動車は倒れている何者かの前に走り込むと、瞬時に立ち上がった。
天条は思わず目を見張る。見間違いでなければ、クルマが人型の機械に変形したように思えた。
機械仕掛けの巨人は何かに相対するように構え、その後ろには別の巨人も見えた。
何なんだ、これは。
それが天条の内心のすべてだった。
新しい映画のプロモかとも思ったが、相手はそんな冗談で場を和ませるような性格には見えない。何も言えずに硬直していると、監査官はファイルから写真を取り出す。
写っているのは、東洋系の青年だった。
年齢は二十歳前後。一目で隠し撮りだとわかる角度からの撮影だった。気になるのは、背景がどう見ても日本ではなかったところ。砂漠かと思ったが、崩れた煉瓦や焼けた金属片が至るところに転がっていた。
「彼が、そして、この映像にある存在が何なのかを知りたい」
スクリーンは繰り返し同じ映像を流し続ける。
「映像は日本ではないが、同じような存在は日本でも目撃されている」
天条も知っていた。だからこそ、千鳥ヶ丘市に来たのだ。本部でも聞かされていたが、文書のみ。映像や写真はなかった。だからこそ、半ば信じていなかった。
人型の巨人が武器をふるって市街を蹂躙したなど、映画やアニメの世界だと思っていた。むしろ、そんなものが見られるのなら、子供の頃散々遊んだ玩具が現実になると、高揚した気分も持っていた。
「これほどの武器を持った存在が、日本の、この千鳥ヶ丘市に潜伏しているという情報がある」
探せ、と告げる声は命令ではなく、ただ音を出しているにすぎない。何の強制力もないはずだが、天条の肩に重くのしかかる。
同時に、気になる事があった。
目の前の男は、最初からこの謎の存在を確信しているようなそぶりだった。天条の反応が常識とすれば、監査官の反応はかなり非常識だ。
「あなたは、彼が何者なのか知っているのでは?」
半ば当て推量だったが、返事はすぐにあった。
「知っている」だが、答えるつもりはない、とその態度が雄弁に語っていた。
「あれがアップルゲイト財団の監査官ですか」
下の階に避難していた城崎は、話している間に買いこんで来たらしい食料を広げながら天条と会話している。
軍隊という存在そのものに慣れない日本をうろつく為に、ブルーグレイの軍服は脱いで上はシャツだけになっている。これで今は椅子の背にかけてあるコートを羽織れば、誰も男が軍人だなどとは思わないだろう。上司と相対する格好ではないが、天条は気にしない。それに、城崎には年齢相応の軽装の方が似合っていると、彼は考えていた。
「私も直接対面するのは初めてだよ。なぁに、確かにバックの組織は巨大な財団法人だが、彼を個人として考えれば、そう身構えるものでもないだろう」
「……どうでしょうか」缶コーヒーを手渡す城崎は、歯切れの悪い物言いをする。
「自分は一軍人です。巨大組織の考え方は測りかねます。しかしどうにも……上手く表現できないのですが、彼には何か不安を感じます」
「気に入らないかね」
「任務に私情をはさむつもりはありません」
「人間は感情の生き物だ。得手不得手はあって当然だよ。それに私は君が、そんな些細な事で与えられた任務に支障をきたすとは思っていない」
「思慮不足な発言なのは、十分に理解しています」
「大丈夫だ。実は、私も彼は苦手だ」
面会した時間は短いものだったが、わずかなやり取りでも理解できるものはある。
あの男は、信頼はできても信用はできないだろう。
それが天条の監査官に対する印象だった。
「お互い、油断しないようにやって行こう」
そうですね、と言ってから、城崎は話題を変えて来た。
「当面の方針はどうします?」
世界防衛機構軍日本支部設立という最終目的はあったが、そこに監査官の存在がはさまった以上、何か変更はないのかと彼は尋ねてくる。
その勘のよさを天条は頼もしく思いつつ、少し意地悪がしたくなってわざとあいまいに答える。
「人探しになったよ」
探し人は、東洋系で二十歳ほどの青年。日本の千鳥ヶ丘市付近に潜伏し、謎の兵器を抱えている。
簡潔に説明はしたが、天条はそこで息を吐く。黒髪の青年など掃いて捨てるほどいる。特にこの日本では、過半数の人間がそうだろう。
現に彼の隣に立つ男も黒髪で、写真から推測する体格も似通っている。
互いに言い出さなかったが、この捜索が難しいものになるだろうとは考えていた。
それとは別に、城崎はふと、気がつく。
(似ている、ね。ルミネちゃんもそんな事を言って騒いでいたな)
千鳥ヶ丘市で会った青年。迷子になっていたルミネに振り回されていた彼を、少女は散々、城崎に似ていると騒いでいた。
しかし城崎自身、件の青年の顔をはっきりと覚えていなかった。人の顔を覚えていない事は失策だったが、その時はルミネに気を取られていてそれどころではなかったのだ。
(まさかな)
肩の力を抜き、その想像を打ち消す。
真実はそのまさかなのだが。城崎はもちろん天条に伝える事なく昼食の用意を続け、監査官が置いて行った資料に手を付ける事はしなかった、
ディス・コード・サウスは助手席のドアを開け、中に入る。
「ディス、ご苦労様」運転席には金髪の女性が座っていた。細いフレームの眼鏡の奥で、悪戯っぽく瞳がきらめく。イノベント内ではエルフと呼ばれている女だ。
「あぁ苦労した。プレゼンなら、君の方が得意だろうに」
「聴衆が多ければ張り切るけど、オジサン一人じゃあね」
盛り上がらないわ、と言いながらエンジンをかける。滑らかに走り出したクルマはすぐに広い国道に出る。
「まるでユニオン側が悪の組織ね」前から視線を外さず、エルフは唐突にしゃべりだす。
「それでいい」
互いに、天条に話した内容は熟知していたので、特に改まっての説明は必要なかった。
エルフは唇に笑みを乗せる。
「本当に悪いのは、イノベントなのに」騙されてかわいそう、と口にはするが、表情は真逆で喜色に満ちている。
ディスは喜々としている彼女の様子に、一拍置くと、妙に疲れた様子で口を開く。
「人間の思い込みによって、我々は善にも悪にもなれるだろう。しかし、流動的であいまいな情報だけでその勘違いが決定されないよう、こちらに都合よく先入観を与える必要がある。そう、人間は、現れる謎の存在に対し、まず自分の持っている知識で対応しようとする。そこにほんの少しだけ、こうなのかもしれないという情報を与えておけば、勝手に人は自分の知っている方向に流れてしまう。情報の矛先さえ間違えなければ、自然とユニオンは悪の組織として認識され、我々イノベントが正義の味方になれる」
「正義の味方じゃなくて、隠れた本当のラスボスの間違いでしょう? 私達は人の裏側に潜む存在に徹した方が、何かと都合がいいわ」
「そうだな。もちろん出てくるつもりはなかったが……」
「ちょうど都合よく動かせる駒がいなかったの。ごめんなさいね」
まったく悪びれた様子もなく、エルフは笑った。
その様に呆れたわけではないが、ディスは視線を動かす。視界の端に、更地の区画が見えた。焼け落ちた家屋を撤去したばかりなのだろう。何もない空間は、ことさら広く見えた。
「防衛軍の支部を置くのは、日本に何か起こるかもしれないという状況を発生しやすくする為の布石だ。軍がある事によって、得体の知れない存在が日本に現れるのも当然という状況を作り出す。そうなれば、イノベント側も動きやすくなる」
「あら、もしかしてこの機会に、裏方から脱出するの?」
「ユニオンの連中の真意を探るには、まずは地上に出てきた者達を押さえなければならない。しかし、すでに一度、ゴーストが暴走している。これ以上、何か起こった場合は揉み消す事が難しい。だが逆に、二度三度と何かが起これば、もうそれは、隠す必要のない必然になる。そこで、防衛軍が出る理由にもなる」
「原因と結果が逆になるのね。我々が暴れるから軍を置くのではなく、暴れる状況を作りたいから軍を置く」
面白いわね、エルフはハンドルを握る手に力を込める。
「ユニオン側に気づかれるのは予想していた。だが、まだしばらくは本質にたどり着けはしないだろう」
「そうね。防衛軍があやしいと睨んだのはさすがだけど、大きな間違いよ。私達は防衛軍に潜んでいるのではなく、防衛軍そのものが、イノベントが作り出した組織にすぎないのに。大体、世界平和の為に戦争をする組織なんて、馬鹿げているわ」
エルフはそこで、ミラー越しにもう見えないビルを振り返る。
「ユニオンの調査だけど、人間にやらせて大丈夫なの?」
「成果は期待していない。ユニオンに人間がオリジネイターの存在に気がついたかもしれないと思わせ、行動に制限をかけるのが目的だ」
「その為にわざわざ世界中に支部を作るなんて計画を提案したの?」
呆れた、とエルフは肩をすくめてみせる。対してディスは、気だるげにシートに身体を預けた。
「問題ない。人間は大量にいる」
日本へ戻り、マイキとも再会した翌日、今度は姉のユキヒが一人で広場までやって来た。
迎えたのはトレトマンだけ。海里とレックスは、例によって邪魔だと追い出したのだ。
ユキヒは車両形態のトレトマンを見るなり目を丸くする。
「ずいぶん汚れてますよ」
「うむ、そうだな。砂埃の激しい土地に行ったものでね」
トレトマンの白い外装は細かい砂にまみれ、表面がざらついている。タイヤには土が塊になってこびりついていた。
「うちまで来て下さいよ。そうすれば、近所の洗車場で洗いますから」
「お嬢さんが洗ってくれるのかね。それはうれしいのだが、しかしどうして?」
意図が読めず、トレトマンは居心地の悪さを覚える。そこには多少、以前の誘拐事件に関しての負い目があった。
ユキヒはさらに、トレトマンに困惑を投げかけてくる。
「ありがとうございます」
突然の謝辞の意味がわからず、トレトマンは黙考する。そんなオリジネイターの戸惑いに、ユキヒは笑ってみせた。
「マイキを助けてくれた事ですよ」
晴れやかな笑顔に、トレトマンは突き刺さるものを覚える。悪意のあるなしは別にして、その言葉には、えぐるような痛みがあった。
「あれは……むしろ逆だろう。我々の事情にマイキ君を巻き込んでしまった」
「でも、助けてくれました」
ありがとうございます、とユキヒは繰り返す。
ユキヒはゆったりと近づき、黄色の砂に汚れた車体表面を軽く撫でた。
「本音を言えば、マイキが誘拐された時……。あなた達を恨みました」
淡々とした、だがどこか突き放すような物言いだ。わざとその場の言動で感情を荒げたりしないようにしているのだろう。
「どうしてこんな事に、どうしてなのって。誰を、何を責めていいのかわからなくて……怖くなった。また帰って来ないのかもしれない、お母さんみたいになるのかもしれないって……ひどい考えばかりが浮かんだわ」
「君達の母親は、亡くなったとマイキ君から聞いたよ」
「そうです。亡くなりました……交通事故で」
事故、その単語にトレトマンは言葉をつまらせる。姉弟の母親の死因は予測はしていたが、想像の中でも一番容赦のないものだった。
老衰や病気なら、まだ家族は死を迎える準備ができる。しかし事故は自然災害と同様、唐突に起こってしまう。
予兆もなく襲いかかるそれは、ただでさえ生死という重い事態をさらに翻弄する。
穏やかに、しかし泣き出す寸前のような相貌を上げ、ユキヒは言った。
「突然家族がいなくなる。そんな事はもう、たくさんなんです」
トレトマンはその言葉に、様々な事柄を一気に納得する。
彼女は母親を失っていた。
だから、弟を失うかもしれない状況に取り乱した。
当たり前だ。当たり前すぎる反応だ。
むしろこちらに対して、憎悪の感情を向けられてもおかしくはないというのに、語るユキヒの口調はどこまでも優しい。
ユキヒは笑う。そこには、自分が逃げ出そうとしている様々な物にもう一度向き合おうとする強さがあった。
「でも、もういいんです。私はあなた達と、八つ当たりで恨み節を吐いている自分を許したいんです」
許したい、そう告げる表情は透き通るほど開けっ広げで、トレトマンはその様を素直に美しいと感じた。
それに、と続けるユキヒは悪戯っぽく舌を出す。
「もしここでマイキを抱えて逃げ出したら、私は秘密も失ってしまうって思ったの」
「秘密?」
「そう、あなた達オリジネイターっていう存在と知り合えた、秘密。それにもしかすると、お母さんの秘密もわかるかもって思ったの」
ユキヒはくるくると回りながら空を仰ぐ。今日も空気は冷たいが、空はどこまでも突き抜けていけそうなほど高く澄んでいる。
「お母さんには、秘密の友達がいたの」
空に向かって放った言葉。
トレトマンは真偽がつかめなかったが、裏を読むよりも目の前の存在との会話を楽しみたかった。
面白半分、興味半分で先を促す。
「気になるね。お嬢さんの周囲には、変形してしゃべる家電でもいたのかね?」
「私も会った事はないんですが。その友達は、強くて楽しくて、おまけに父との出会いのきっかけにもなったそうですよ」
「ほう、それはまた、頼もしい友達だったのだね」
「あの時も、そんな素敵な友達にお母さんは久しぶりに会うんだって、張り切っていましたよ」
よそ行きのワンピースを着ていた母は、心底からうれしそうだった。子供っぽい仕草で、父さんには内緒よ、浮気じゃあないからねと笑って手を振り、小走りで出かけて行った。
当時、ユキヒはまだ中学生。マイキはまだ三歳にもなっていなかった。
その夜、母は帰って来なかった。
代わりに、父とユキヒとマイキが、夜の病院へ行く事になる。
もう息をしていない身体が、母のものかどうか確かめる為に。
ユキヒとマイキはずっと廊下に残っていた。父が霊安室に入る事を許さなかったからだ。
照明の落ちた廊下、待合室の冷たいソファー。窓の向こうに見える真っ暗な空。冷え切った空気。
抱きしめた弟の温もり。
そのすべてを、覚えている。
逆に病院でどんな説明があったのか、どうやって家に帰ったのか。そのあたりの記憶はぽっかりと抜け落ちていた。
「お母さんは、車ごと崖下に落ちたそうなの。クルマはお母さんのものじゃなかったけど、同乗者はいなかった。それどころか、クルマの持ち主もわからなかったみたい。きっと、そのクルマの持ち主がお母さんの秘密の友達だったのよ」
過去を語る人間特有の、どこかこことは違う物を見つめる目で、ユキヒは締めくくった。
トレトマンはかける言葉に迷う。
「お嬢さんは、そんな経緯があっても、我々を友人だと思ってくれるのかね?」
直接、彼女達家族にトレトマン達が何かをしたわけではない。だがオリジネイターの存在は、少なからず彼女の過去を無遠慮にこじ開けてしまった事だろう。
しかし、語り終わった彼女は温和な顔を上げる。
「あら、もう知り合い以上だって思っていますよ」
満面の笑顔を見せる彼女は、普段よりもずいぶんと奔放で素直だった。もしかすると、普段は姉としてマイキの前ではそれなりに気を張っているのかもしれない。
トレトマンは身体の力を抜く。気がつかないうちに緊張していたらしい。ほう、と弛緩させる。
「ありがとう、お嬢さん。我々を受け入れてくれて。我々に帰る場所を与えてくれて」
するりと言葉は流れ出た。
対する返答も、軽快なものだ。
「気にせずうちに来て下さいよ。海里さん、片腕が使えないといろいろと不便でしょう」
その片腕を使えない海里だったが、マイキと一緒に買い物に出ていた。正確には、大量の買い物を姉から頼まれたマイキが広場から出て歩いていた海里を見つけ、助けを求めたのだ。
向かう先は「スーパーヤオハチ」。マイキの家から徒歩で十五分ほど。生鮮食料品が安価で豊富とあって、店内は常ににぎわっている。
そこを海里は片腕でカートを押し、マイキが小さな身体であちこち走り回っては、商品を放りこむ。カート内はすぐに特売のキャベツや牛乳、パンや菓子類で埋まる。
会計や袋に食料品を詰める手際もマイキは圧倒的に手慣れていて、海里は持ってきたカートを返す事もできずに作荷台で棒立ちになっていた。
「シン兄、僕が荷物持つよ」
「重いから俺が持つ」
「だって兄ちゃん怪我してる」
そんなやり取りの後、重量物は海里が、卵などの割れやすい物はマイキが持つ事で落ち着いた。
店から出ると、携帯電話にメールが入ったようで、マイキは首をかしげる。
「ユキ姉、おっちゃん達のところにいるから来てくれって」
なんだろうと互いに頭をひねる。
海里達は一度帰宅して荷物を置くと、広場に向かう。マイキはポケットに、ガイアスター・ウエハースチョコ(カード入り)を突っ込むのを忘れなかった。
広場に足を踏み入れた海里とマイキは、全力の笑顔で迎えられる。
「お帰り。マイキ、海里さん」
晴天を背景に両手を広げて彼らを迎える彼女は、とても眩しかった。
【秘密の友達 終】
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ここまでが2巻収録分となります。