ハル、来たる①「私は……アヴリル」
ハル、来たる
子供が泣いている。
この場所で眠りについてから、久方ぶりに感じた激しい感情の発露に、「それ」の意識は暖かい海を漂うようなまどろみを抜け、覚醒の海面へと向かう。
まだ完全に目覚めたわけではなかったが、眼を閉じたまま腕を伸ばすようにして、感覚器官が周囲の状況を探り始める。
自身の上、正確には、「それ」を覆いつくしている土砂の丘に、何者かがいるのがわかった。
簡単なスキャンで、体積などから最初の印象通り、人間の子供だと確信する。
幼い人間種族の言語はまだよくわからないが、どうやら怪我をしているらしい。
無理もないだろう、とあきらめ半分に納得する。もし、「それ」に人間らしい器官があれば、頭上の光景に溜息でも吐いたことだろう。
子供は足元に突如、口を開けた地下空洞へ落下し、ここまで転がり落ちて来たのだ。擦り傷に加えて打ち身もひどい。下手をすれば骨折しているかもしれない。
どうしたものか、とまだ若干鈍い思考を巡らせる。
感覚器官の触手を伸ばし、さらに頭上、空洞の上まで調べ、大まかな状況を把握する。眠っているうちに、大勢の人間が「それ」の上に集まっていた。もちろん、岩盤の下に埋まっている存在には気づかずに。
彼らの短いやり取りから、「それ」は彼らが扱う言語方式を大まかに習得した。そして新たに得た知識を元に、人間達の会話を推測する。地上を動き回る者達は、女児を探しているようだ。
調査と称しやってきた人間達の中に、件の少女は混ざっていた。愛らしく動き回る様が隊員達を和ませていたが、その輝かしい好奇心が災いした。まだ誰も踏み入っていない場所に立ち入った途端、少女が立っていた地面にナイフで切り分けたような亀裂が生じたのだ。長い年月の間に地下水の通り道となっていた内部は空洞化していた。削れてもろくなっていた岩盤は、その時には薄い板ほどの強度になっていたのだ。
真っ暗な穴へと落ちて行く少女に、気づいた誰もが手を伸ばす。だが、哀れな少女の小さな手を、誰もつかむことはできなかった。彼女は空洞に吸いこまれるようにして土砂と一緒に落下して行った。
少女にとって幸いだったのは、亀裂の深さはせいぜい十メートルほどで、崩れた土砂がクッションになって彼女の脆弱な身体を守った。
不幸だったのは、落下先が大きく傾斜したトンネルだった為、穴の中に落ちた少女の身体はそのまま急な坂道を転がって、さらに奥へと滑り落ちて行ったのだ。
土砂に半ば埋もれながらもようやく身体が止まった時、少女の周囲は指先すら見えないほど濃い闇が満ちていた。
口中に入った砂を吐き出し、申し訳程度に服についた泥をはらう。だが、そうしたところですでに全身が砂と同じ色に染まり、愛らしい姿は台無しになっていたが。
少女は闇の中に伸ばした手が何も触れないことに恐怖を覚え、その場にうずくまってしまう。見えない少女は当然、気づくことはないが、彼女が座りこんでいるのはホールのように広い場所だった。広大な空間に放り出され、すがるものも指し示す看板もない現実に、少女の小さな胸がひどく圧迫され、呼吸が乱れる。
どうにかして何かないかと足元を探っていた指先が、冷たいものに触れる。
部分的に露出した「それ」の身体だった。
まるで父親の自動車のような硬くて滑らかな質感に、少女は首をかしげる。
指先で叩くと、かつんと冷たい音が響いた。
音の反響に、少女は自分のいる場所がかなり広い空間だと知る。ぞくり、と背筋に寒気が走り、反射的に両腕で身体を温めるように抱きしめた。
もし彼女が暗闇でも物が見えたなら、別の意味で恐怖したことだろう。
ほんの三メートル先に、土砂から半分だけ露出した「それ」の巨大な顔があったからだ。
少女の座っているところは岩でも砂でもない、無機質な金属塊。年月の間に土砂に埋もれ、周囲の環境と同化しようとしていたが、どうやっても決して混じり合うことのない異質な存在だった。
そうしているうちに、滑り落ちた恐怖で麻痺していた痛みが少女に襲いかかる。膝と肘に触れた指が、沸騰した薬缶に触れたようにひっこめられる。ぬるりとした温かさが指にまとわりついた。
血だ。
「あ、あぁ……」
見回すが、誰もいない。何も見えないことがさらに恐怖をあおる。
血の気が失せつつある唇は、ふるふると震えている。大きな衝撃を受けて麻痺していた思考が戻り、それでも一度はこらえようと、少女は口を強く引き結ぶ。
だが、我慢は一瞬で終わった。少女はうつむいていた顔を上げると、押し殺していた感情を解放しようと口を開く。
───怪我をしているのか
突然の声に、少女は口を半開きにしたまま呆然とする。我に返って首をかしげ、考え、声の主を見つけようと周りを見たが、闇は一定の濃さを保ったまま。
「……だぁれ?」
男女の区別がつかない声だった。若いのか年寄りなのかもわからない。ただ、声としか認識できない音。
声は足元の「それ」が発したものだが、少女にわかるはずもない。姿の見えない存在に、少女の中に再び恐怖がぶり返してくる。
「誰? どこにいるの? ねぇ、返事してよ……」
堪えていたものが限界だった。目の端に涙がにじみ、後ひと押しで決壊寸前だった。
「……ねぇ、いないの……? っぇ、おかぁさぁん……」
次の瞬間、最後の堤防が決壊した。
少女は天井に向かって悲鳴のような声を上げ、大きな瞳からいくつも滴をあふれさせる。
放っておいたらそのまま溶けて流れてい行きそうなほど激しく少女は泣き出した。
「それ」の中に、彼女を慰めたい、助けたいという思いが生まれるが、声だけではどうにもならないこともすでに気がついていた。
「……おかぁさん、おかぁさぁん……」
母親を求める声は、聞いている「それ」を激しく打ちのめした。少女の、自身を裂くような叫びの前には「それ」のうわべだけの呼びかけなど空しく通り過ぎるだけ。
もっと直接的な手段で、速やかに少女を助けなければならない。「それ」は方法を模索する。
声しか届かないのが恐怖なら、姿を見せよう。
だが、自分自身が動くわけにはいかない。もし不用意に立ち上がったりすれば土砂の山が崩壊し、少女を生き埋めにしてしまう。もっと小さな、そう、少女が求める母親のような形態が良いだろう。
ざっと自身をスキャンし、使える部品を見繕う。多少、内部構造を削ったところで支障はないと判断を下す。そうして自己修復機能を全開にして、「それ」は新たな端末の構築にかかる。
記録していた人間の情報を呼び出す。少女にこれ以上の畏怖を与えない為に若い女性が適切だろう。「それ」は目の前を通り過ぎて行った人間の中から適当な容姿の女性を数人呼び出して合成し、元々の特徴を消して平均化すると、まったく別人の容姿を設定した。
内部部品を使って端末体を作る傍ら、洞窟全体を調べ、少女が脱出できるルートを検索する。端末体は小柄な分、出力も限られるのであまり力のいらない脱出方法を探す。少女が落下してきた穴は、崩れた土砂でふさがれているので使い物にならない。同じ場所から出るには大型重機が必要になるだろう。
探索の網に、少し時間はかかるが比較的安全なルートが引っかかる。
そこで、自己修復機能が新しい端末ができたことを告げる。
テストする間も惜しみ「それ」は端末に自身の人格と知識の一部をコピーし、起動させた。
時間にして、十分もかかっていない。
それでも地の底で震える少女には、永遠にもひとしい時間だったろう。
短時間だが全身の力を振り絞って泣き叫んだ少女の声は、すでにひどくしわがれていた。口から出る言葉も、はっきりとした単語を聞きとることはできない。
急がなければならないと端末体を切り離す。
意識がそこでわずかに途切れ、次いで、「それ」は新しい目線での行動を開始する。端末体は繋がっていたケーブルをかなぐり捨て、卵の殻のように周囲を覆っていた金属板を積っていた土砂と一緒に蹴り飛ばした。
急に爆発するようにして吹き飛んだ土砂と金属片に、少女は腫れあがった目を丸くして硬直する。
ひくりと喉につまったような悲鳴に、端末体は作ったばかりの顔をわずかに歪ませる。
必要な作業だったとはいえ、おびえさせてしまったことが心苦しかった。
土砂をはらって立ち上がると、軽い身体と低い目線に最初はふらつく。歩き出し、首の周りにまとわりつく感触を、桜貝のような爪がついた手で振り払った。しなやかな銀の糸。切りそろえる時間がなかったので、腰の下あたりまで流れ落ちている。髪の毛のつもりで付けたが、飾りではない。光ファイバー状になっているので、今は非常用ライト代わりに淡く光っている。
突如生まれた光が、一人の女性の姿を照らし出した。
さらりとした、光る銀色の髪。卵型の顔。乳白色の肌に、淡い色のふっくらとした唇。澄みきった空のような青い瞳。
美貌に浮かぶ柔らかな微笑みには近寄りがたいというのではなく、すぐ側にあって何ら不思議ではない穏やかさと儚さを兼ね備えている。
もっとも、急造品なのは否めない。体表面は、時間と材料の都合で顔と手しか人工皮膚が貼られていない。銀色の布で覆われた、女性的な曲線の下は無骨で冷たい金属がむき出しなのだ。粗雑な仕様だが、人前で踊るわけではないのだから十分だろう。
踏み出すと、人間にしては重量のある足音に少女の顔が曇る。「それ」は彼女を安心させたくて、表情ファイルからより強い笑顔を選択する。初めて使う表情筋は、予想よりも滑らかに制御できた。
「あなたを助けに来ました」
柔らかく、どこかはかなげな印象を与える女性の声を、「それ」は発する。
少女から三歩ほど離れたところで膝をつき、小首をかしげて見せた。
「……だぁれ?」
急に現れた存在に対し、少女は取り乱してもおかしくはなかったが、恐怖が恐怖を上書きしたのか、麻痺してしまったのか、「それ」の微笑みを前に、少女は初めて平静さを取り戻した眼差しで見上げてくる。
ぱちぱち瞬くと、ひとつ二つと新しい滴が落ちたが、とりあえずはそれで終いだった。恐怖よりも、この不思議な女性に対しての好奇心が勝ったらしい。
「おねぇちゃん、どこから来たの? ねぇ、ここは?」
相手を質問攻めにする寸前、少女はそこで親に教えられていたことを思い出した。立ち上がると、裾をはらって姿勢を正す。
人に名前を尋ねる時は、自分から名乗る。それが礼儀なのだ。
「あたしはカレン。カレン・アップルゲイト。……あなたは?」
ぎこちない問いかけに、「それ」は今生み出したばかりの人格に新しい名前を与えることにした。
しかし、そうすぐさま適当な名前など思いつかない。世界に女性名は無数にある。「それ」の元々の名前をそのまま告げてもよかったが、少々の遊び心が働いた。
それは半秒の後にこう告げる。
「私は……四月」
外界の時は春。単純な、その場のひらめきで告げた名前は、百年後も変わらず呼び続けられる羽目になった。
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こちらは5巻収録分です。
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