晴れすぎた空の下で⑥「妖精の歌を体感してね」
五月に入ったとはいえ、日が傾くと気温も合わせて下がり、吹く風も冷やかになる。特に、海を埋め立てた人工島はまともに潮風が吹き抜け、雑草だらけの広っぱに、風が強く巻いた。
シスは巨大な塊の上に腰かけ、緩やかに流れる風に髪を遊ばせる。残照が大橋に反射し、少女の目を射ぬく。目を細め、ブーツのかかとで塊を蹴った。重い金属音がする。少女が腰かけているのは大型トレーラーだ。
ついと顔を上げると、空の端には気の早い星がひとつ、瞬いているのが見えた。
「……早く来て、正義の味方さん」
世界の敵はここよ、と謳うように言葉を連ねる。
船乗りを誘うセイレーンのように。
風と声を聞くのは、広場の虫だけではなかった。
アルトゥンは伏せて眠り、夢を見ている。
少女には、何もなかった。
否、かつてはあった。しかし、放り出してしまった。
名前の示すままに、きらきらと輝いていた笑顔も、細いがみずみずしく健康な身体も、記憶も、家族も。
望まれ、育まれ、この世で人間が欲しいと思うすべてを手にしていた少女だった。
だが、すべては一変する。
愛されることしか知らないような笑顔は叩き壊され、踏みにじられた。奪われ、屈辱と汚濁にまみれ、はいつくばって沈黙することしか許されなくなった。
暗く狭い場所に押しこまれ、わめいても叫んでも、誰も助けてはくれない。
注がれるのは無機的な視線。突き刺すのは、冷たい医療器具。
小さな精神では、自分の身に起きた現実の残酷さに耐えられなかった。
だから彼女は、我慢することをやめて、すべてを放棄したのだ。
そうして生まれたのは、透明な無関心さ。自分も他者もひとしく突き放し、まるで額縁の内側から世界を眺めているような傍観者の眼差し。
番号で呼ばれ、痛い注射や、苦い薬を飲まされても、瞳に意思はない。
あまりの無反応さを不可思議に思った研究員が、彼女を床に突き落としてみたが、鼻を折っても微動だにせず、自身の血の中に顔をうずめていた。
研究所内では、被験者は備品扱い。下手をすれば、消耗品の文房具以下に使い捨てられてしまう。
特に、いつまでたっても、自分を人だと思って抵抗を続ける者は、早々に使い潰されていなくなった。
彼女の人形のような無関心さは、逆に研究員達の関心と興味を引いた。矛盾しているが、彼らは少女を器物と見ながらも、貴重な実験体としてそれなりの敬意を払って扱うようになったのだ。
だがそんな、使い勝手のよかった彼女にも、使用期限がやってきた。
「制御ができない」「限界値を越えた」「我々も危険だ」
廃棄の承認を受け、ストレッチャーで処置室に運ばれて行く最中、彼女は持ち出された。
海里は黄色の軽自動車から降りた。
背後ではレックスが擬態を解き、ロボット形態へ戻っていく。
ゆっくりと歩を進めながら、海里は慎重に周囲をうかがう。何もない場所、それが第一印象だった。
赤い大橋を渡った先に続く人工島、さらにその突端の広場で彼らは対峙する。
いつかの再現のような光景だった。
少女と、大型トレーラーと、人質。
前回と同じ手段で海里を呼び出したシスは、トレーラーの上で足を振って笑う。赤い陽光に、少女の横顔がオレンジに染まっている。
「やっぱり来てくれた。人質作戦って、本当に有効よね」
きゃらきゃらと声を上げるシスの足元には、倒れて動かないアルトゥンがいる。海里の視線に気づいたシスが、秘密を隠しているようなくすぐったい笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。前と同じで、怪我なんてさせてないから」
軽く足を振って、シスはトレーラーから飛び降りる。海里とレックスの警戒など意に介さずにアルトゥンの側に歩み寄ると、少女の腕をつかんで放り投げた。
華奢な腕からは想像もできない膂力で空に飛んだ身体はきれいな放物線を描く。
「アルトゥン!」
叫んで駆け出し、海里は前のめりになって少女を抱きとめる。頭を支えて呼びかけるが、返事はなかった。
くたりと力の抜けた身体。重い頭が傾いて額があらわになる。
「……なんだ……?」
海里はいぶかしむ。少女の額に、ぽっかりと空洞があった。金属の眼がえぐり取られ、内部がのぞけるようになっている。
黒くくぼんだ眼窩に、海里が吸いこまれるように視線を落とす。
と、アルトゥンが細く眼を開く。ぼんやりとした視線は、それでも目の前にいるのが海里だと認識できたのか、弱々しく口元と指が助けを求めるように動く。
「アルトゥン……」
もう大丈夫だ、そう言いかけて、海里は違和感を覚える。
「あ……」
奇妙な感覚が、よせてはかえす。視界が急速に狭まり、視覚や触覚などが切り離されていく。いつの間にか、膝をついていた。
少女を見ているはずなのに、周囲が霧に包まれたようにぼやけていく。広場も、レックスも、トレーラーも、何も見えない。何も聞こえない。
音もなく、漂白されていく視界と、不安定な浮遊感。
眼を見開いたまま、石のようにうずくまってしまった海里に、白く空虚なものが入ってこようとする。
すでに、何も見えず、何も感じなかった。少女の、胸が痛むほどの軽さが腕にあることだけはわかる。だが、ぬくもりを伝えてくる部位より外は、ひどくあいまいだ。
顔を上げても、天地の区別さえつかない。
呆けた海里に、真っ白だが熱のない闇が襲ってくる。
霧よりも深く重く、濃い濁流が海里にのしかかった。
「う、ぁ……」
抵抗を試みようとしたが、何も浮かんでこない。だが、白い闇の向こうに何かが沈んでいる事は認識できた。
(そこに……いるのは……)
と、冷たい指でなぞるように、誰かの意識が、海里の頭の中に流れこんでくる。
遠くで、小さい子の泣き声を聞きながら、海里はゆっくりと白濁に身をまかせはじめた。
「制御装置、壊しておいたの」
シスは穏やかだが、容赦のない笑顔を浮かべる。
「妖精の歌を体感してね」
彼女は、何もしなかった。ただ、制御装置という器物でかろうじて押しこんであったものが解放されただけ。
精神の奥底から解き放たれた不安が、悲しみが、そのままこの世界に具現化し、すべてを引き裂く鋭さを伴い、彼女を抱く海里を襲ったのだ。
(うあぁあああああああああアアァァァァぁぁぁぁ<)
絶叫は、彼か彼女か。
すべてを塗りつぶす白い闇の中、少女がこれまで飲みこんで来た、今まで、ずっとずっと叫びたかった言葉があふれ出す。
───ろ、して……
───殺して、殺して、殺して、して……
お願い、誰か……誰でもいい、何だってかまわない。
この苦痛から解放して。出口のない連鎖から、早く連れ出して!
薬は嫌い、注射は痛い、ケーブルに繋がれて手足は縛られて、息が苦しい。ここから出して。まぶしい光、でも、太陽なんてもうずっと、拝んでいない。
痛い、痛い……頭が痛い、穴が空いている。そこから声が聞こえて眠れない、羽虫のざわめきがうるさい、うるさい、黙って。
壁越しに必死に話しかけてくれていた誰かは、いつからか声が途絶えた。
どこへ行ったの、何があったの、何かが起こると……どうなってしまうのだろう……
その先を考えてはいけない。永遠に現在を繰り返すように思考をループしなければ、襲いかかる現実に心が壊れてしまうから。
(心が動かなくなればいい……)
だから少女は、何もかもを壊してしまった。今まで生きてきた時間すべてをかけて作り上げた、美しいモザイクガラスのきらめきを叩き割り、排除し、破片を踏み砕き、ガラス片が足の裏に突き刺さる痛みも、血の熱さも感じないように遠ざけた。
名前も、とてもきれいな響きだったが、消した。
誰も呼ばないのなら、意味がない。
彼女の部族は、花の名や、鉱石などを女児の名前によく用いている。彼女の名前はありふれていたが、決して陳腐なものではない。祖先から受け継がれてきた古い言葉なのだから。
(わたしは、だれ……)
過去も、名前も、彼女を構成する成分はすべて消え去り、少女は外郭だけになっていた。
骨組みだけの、人形だった。
(………………あ……)
空っぽの彼女の前に現れた黒髪の青年を見た時、少女の心にわずかな波紋が生まれた。
干からびた器の中に注がれた、一滴。
すぐに乾いてしまう一滴が、二つ三つと増え、器を湿らせるまで大した時間は必要なかった。
(……あぁ…………)
彼女を抱きかかえる腕は温かくはなかったが、その力強さを知っている気がした。
そう、以前にも、今のように息がつまるほど抱きしめられたことがある。
(苦しいよ────!)
何と叫んだのか、その時どんな顔をしていたのか。
思い出せなかったが、そんなものは瑣末事だとばかりに、彼女を抱きしめる腕は力を増すばかり。
(い、たい……くるし……い?)
ふはぁ、と息を吐いて顔を上げると、青年が眉間にしわを寄せ、必死に彼女を抱きしめているのがわかった。
骨が軋むほど強く、身体に回った腕は錠前よりも強固に彼女をつかんで離さない。
知っている、この強さを。
「あ……あぁ……」
彼女は自身の頬を濡らす水分に気がついた。ぽつりぽつりと落ちる滴が、彼女の乾いた器を満たして行く。
「う……うぅ……あぁぁぁ……」
ようやく、彼女は頬を濡らす水が自分自身の涙だと理解する。あふれ出るそれに覆われてかすんだ視界の向こうにいる青年は、かつて側にいた大切な人と同じ強さで自分を抱きしめてくれている。
「兄さん兄さん……」
アルトゥンは、ようやく現在を見た。
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これは4巻収録分。
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