晴れすぎた空の下で③「あんた……人間じゃあねぇな」
海里の精神の不調はそのまま身体に反映され、彼は放り出せば暴れ出しそうになる腕を押さえながら、ふらついた足取りで走る。
何もかもがおかしかった。
どこで道を間違えたのか、最初に戻ろうにも彼はすでに帰り道を見失っていた。
今の海里は、ただ逃げる為だけに走っている有様だ。
「……アル、トゥン……」
先ほどのトレトマンの話で、少女の持つ能力に違和感の原因があると理解したはずなのに、こうしてあの目で見つめられると、疑惑は再び氷結した。
考えようとすると、思考がまるで綿に絡め取られたように鈍い眠気が襲い、それ以上何も考えられなくなる。
ただひとつ残されたのは、守らなければならないという思いだけ。漠然とした、しかし抗いがたい強制力で自身に打ちこまれた楔に囚われてしまうのだ。
彼女の意思に従う事が絶対の真理で、身を任せるのはとても楽だという誘惑に揺れる。自己を押さえこまれる激しい嫌悪感と、眠気に似た緩やかな誘いが波のように交互に押し寄せ、海里の意思は砕かれて行く。
「ちが、違うんだ……」
少女を守りたいと思ったのは、本心からだと海里は強く叫ぶ。自由意思を奪われ、自ら望んだと思いこまされての行動ではないのだと。
「……俺は、アルトゥンを……」
まるで暗い穴に向かって、目隠しで進んでいるような不安感に、視界が狭まる。反射的に手を伸ばしたが、つかむものも、支えてくれる存在もなかった。
前のめりになって倒れそうになった、そのとき、
「───捕まえたぁっ!」
海里が走り去った後、沖原家の庭は紛糾した。
マイキとレックスは海里を追いかけようとわめき、ユキヒは困った顔で、事態がまったく飲みこめないと首をかしげる。アルトゥンは、ぽつりと立っていた。
トレトマンの一喝でひとまずは落ち着いたが、そこからがまたひと波乱だった。
ユキヒにも、少女が抱えている問題を説明したのだ。
話が終わると、ぽかん、と口と目を丸くしてユキヒはトレトマンを見上げた。
「え……そんな、こんな小さな子が人間を操るだなんて……うそ、ですよね……」
理解が及ばないのだろう、陸に上がった魚のように口をパクパクさせる。うそでしょう、みんなして私をからかっているのでしょう、と必死な目で訴えかけてきたが、誰も何も言わなかった。
「あ……」
ふらりと後ずさりながら、ユキヒは機械知性体と、弟と、少女を順番に見つめる。
「すでに、お嬢さんや私達もその影響を受けているのだよ」
信じられない、とユキヒは頭を振る。傍らの少女は状況がつかめないのか、きょとんとして子犬のような瞳で黒いクルマを見上げている。
「……先日から、地上では我々以外に、ユニオンによる調査が始まっているのだが」
初耳のレックスが、え、と声を上げる。
「世界各地で、異質な能力を持った少女達が引き起こしたとされる争乱によって、いくつもの街が壊滅したとの報告があった」
「うそですよね……」
力なくこぼすその様は、わずかな間に憔悴しきっていた。
「ユキ姉!」
びくりとユキヒは身をすくませる。振り返った先の弟は、泣き出す寸前の顔をして肩を震わせている。
「気がついてよ、ユキ姉、ずっとおかしいよ!」
「おかしい……? 私が……?」
そうだよ、しっかりしてよ、と叫ぶ弟に向ける目は、ひどく無表情だった。
「そんな、こと、ないわ……」
引きつった笑みを浮かべながら、ユキヒは未練がましく少女に向かって手をさまよわせる。
「だめだよっ!」
マイキは全身でユキヒにぶつかって行く。彼女の身体は大きく傾き、二人とも倒れそうになったが、とっさにユキヒは弟を抱きしめて踏ん張る。
「っ、マイキ……きゃっ!」
しかし二人分の体重を支えきれず、後ろ倒れてしまう。
「あ、いたた……」打ちつけた臀部をさする。
「大丈夫かい、ユキヒ、マイキ」
手が出せなかったレックスは声を張り上げた。
「あー……」
倒れたユキヒに、アルトゥンが近づこうとする。だが、彼女と少女の間にマイキが割って入った。
「もう、やめてっ!」
少女の手を、マイキは叩く。
姉の上から起き上がり、マイキは怒鳴る。アルトゥンは初めて見せる少年の剣幕に圧倒され、足を止めた。
「こっちに来るなぁっ!」
必死な叫びに、アルトゥンの肩が跳ねる。
少女が現れた時、マイキの中には怒りや嫉妬があったが、それは幼さに起因する部分が多かった。そこに、明確な憎しみなど、欠片も持っていなかったのだ。
だが今、少女に向ける眼は、彼女を忌わしいものとして拒絶していた。
「僕の家族を取らないでっ!」
表情にも声音にも、はっきりとアルトゥンへの怒りがある。そしてそれを隠そうともせずにぶつけてくる。
肩を震わせ、目尻に涙をためながら、それでも視線だけは外さずに強くにらみつける。
「うぅ……」
マイキの気迫に圧されて硬直したアルトゥンだったが、言葉は理解できなくとも、雷鳴じみた感情に触れて身体が大きく震える。
「あ───」
異様なほどに無機質だった表情が崩れ始める。悲愴な歪みを見せ始めた少女は、顔を手で覆うと踵を返し、沖原家の敷地から走り出した。
逃げたのか、海里を追ったのか。
その場の誰も、何も考えず、否、何も考えられずにいた。
「捕まえた……って、うぉぉぉぉ?」
長く尾を引く悲鳴に海里は二秒遅れて気がつき、足を止めて振り返る。そこで初めて、誰かが自分の腕につかまり、そのまま引きずって走ってしまったことに気がつく。
べしゃりと情けなく伏せているのは、見知らぬ男だった。男は荒い息を吐きながら、海里を見上げてくる。
「……俺を引きずって行くとは……見かけよりも力持ちなんだな……」
やるな、と親指を立ててくる。しかし海里には何と答えたものかわからない。
「久檀少佐!」
戸惑っている間に、もう一人、若い男が焦った様子でこちらに走ってくる。呼ばれた男は、少佐じゃねぇ、三等陸佐だ、と起き上がりながら言い返す。
年かさの方が、得意げに海里を指差しながら笑う。
「ほれ、カズマ。予定より時間はかかったが、見つけたぜ」
胸をそらして笑う様に、海里は首をかしげて困惑するしかない。黙って立ちつくしている間に、男は不躾な眼差しで海里を上から下まで眺める。と、何かを納得したのか大仰にうなずく。
「よし。若そうだが、こんだけでかけりゃ二十歳で通るだろ。おい、カイリ君、おじさんと飲みに行こうぜ!」
海里は男の態度をいぶかしんでいたが、名前を呼ばれた途端、一気に警戒レベルが跳ね上がる。
男は沈黙した海里の肩を無遠慮に叩いてくるが、彼の中は焦燥で荒れ狂っていた。
(誰だ……知らない人間が、俺を探している? いや、それよりも……)
逃げた直後とは打って変わり、思考はめまぐるしく動き出す。
ばらばらに砕けたピースを地道に拾い上げ、整理して組み上げる。一度弾けた思考は、やや時間をかけて再起動を果たすことに成功した。
(……逃げて、どうする)
戻らなければならない。強くそう思う。
今、隣で海里を十年来の既知のように慣れ慣れしく話しかけてくる男は気になったが、それよりも、確かめなければならない事がある。
アルトゥンの背後にある存在だ。
わずかな間に海里は、少女に意識操作を受けていた事態を、瑣末事と投げ捨てていた。
例え操られた末の行動でもかまわない。もう一度、初めからやり直せたとしても、海里は何度だって雨の中に捨てられていた少女を抱き上げるだろう。問題は、アルトゥンにそんな悪魔的な能力を付加した者の存在だ。
海里はトレトマンほど情報から物事を推測する能力に長けてはいない。それでも、少女の力が生来のものではなく、意図的に与えられたか、もしくは増強されたと考えていた。
額の金属の眼が、他者の介在を強く物語っている。
「おい、どこに行くんだよ」
いきなり踵を返した海里の肩を、男の大きな手がつかむ。
「……離せ」
「すまねぇな。あんたが抱えてる用事がどれだけ重要でも、こっちの用件を先に通させてもらう」
無視して海里は男の手を軽くはらう。
が、男はその手を強く握ってきた。そのまま腕を引かれ、伸びてきたもう一方の手に襟をつかまれる。
海里は反射的に男を押し返そうとしたが、次の瞬間、背を向けた男が胸に滑りこみ……視界が反転した。
「───っ?」
全身に走った衝撃に、視界が白くなる。瞬きの間に回復したが、次に見えた光景に、海里は首をかしげた。
なぜ、目の前に空があるのだろう。
背中にはアスファルトを感じる。一瞬前まで立っていたはずだというのに。
「……っと、何かうまくいかねぇなぁ。つか、やたら重いぞこの兄ちゃん」
男が上からのぞきこんでくる。ようやくそこで、海里は男に投げ飛ばされた事実を悟った。
「あんた……人間じゃあねぇな」
突然の一言に、海里は慄然とする。即座に反転して逃げ出したかったが、男の視線に圧されたように動けない。
「何かの達人とか、そんなレベルの話じゃあねぇ。生き物、でもねぇな。だってよ、呼吸、してねーし」
今ので腰を痛めた、と男はわざとらしく腰に手をやって前屈みになる。だがその目は油断なく海里の動きを追い、にやけた顔で、絶対に逃がさないと宣言する。
「てめえ、何者だ?」
男の猛禽類じみた視線に、海里は畏縮する。単純な腕力では人間など恐れるに足りない機械知性体だが、男の異様な迫力に不気味なものを感じ、倒れた格好のまま後ずさる。
「逃げんなよ。あんたの飲み代くらい、俺が払ってやるから一緒に行こうぜ。それとも、若いやつはやっぱり肉か? けどよ、おじさんは最近、肉を腹いっぱい食うと翌日にもたれちまうんだよ」
年とるってやだね、と笑いながら距離をつめ、同じだけ海里が後退する。じりじりと様子をうかがいながら身を起こすが、男は笑ってさらにつめ寄る。
ようやく立ち上がった海里は、三歩下がったところで大きく身をひるがえし駆け出した。すぐ背中に笑声がぶつかってくる。
「お、追いかけっこか?」
「久檀陸佐、どうするつもりですか!」
「どうもこうもねぇ、こっから待久走だ」
ついてこい、と二人が走り出す足音に、海里は速度を上げる。
「やべ、あいつ意外と足が速えぞ」
追ってくる声に、海里は振り返らない。相手は人間で、こちらは機械知性体だ、いずれふりきれるだろう。だが悠長に運動会をやっている余裕はないと判断し、大きく助走をつけて跳ねると近くのブロック塀に飛び乗る。勢いのままに跳躍し、民家の屋根に移動した。
成人男子の倍以上の体重に、重い衝突音が響く。
「おーすげえな、あいつ飛びやがった。パルクールってやつか?」
そんなレベルは超えているだろう、ともう一人の突っこみが聞こえる。無視して駆け出すと、屋根を蹴る激しい足音に男達の会話はかき消された。
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