奥様は悪魔
短いです。
私の妻の話をしよう。
簡潔に表するならば、私の妻は悪魔である。
ある日、謁見の間にて。
「王よ。わたくしは偉大なる王家の者になら頭を下げましょう。しかし、王家に歯向かった大罪人の家の者へ下げる頭は持ち合わせておりません」
自信に満ちた笑顔でそう言い放ったのは、ある伯爵家の当主だった。
小太りの男で、主観的な表現をすれば小憎らしい顔の男だ。
年が明け、王城へ訪れた貴族達が順番に私と妻に挨拶を述べる中、その男は私にだけ頭を下げた。
何故妻に挨拶をしないのか、それを問うと男は得意げにそう言ってのけたのだ。
本来ならば不敬罪。
だが、その時の妻の立場はあまりにも弱かった。
力ある貴族の多くが妻への反感を懐き、この男を処断した場合にその反発を抑える力が私にはなかった。
それを見越して、男はこうも強気の態度を取ったのだ。
妻を軽んじられ、その憤りを表に出す事のできない私はなんと情けない事だろう。
そう思い、私は隣を見た。王妃の座だ。
そこには妻が座っていた。
「それは申し訳ありません。そのような者に頭を下げるなど、大層ご不快な事と思います。きっと、それを思うのはあなただけではないでしょう。ですのでこれから先、頭を下げたく無い者は挨拶をなさらなくても構いません」
妻は本当に申し訳無さそうな表情と声音で言った。
「良いのか?」
そんな事を言えば、現状では本当に頭を下げない貴族ばかりがこの後も続くだろう。
とはいえ、良くないと言われた所で私には何もできないのだが。
「構いません。これは私の不徳の致す所……。私のような未熟な小娘が、王妃という位を頂く事が許せないという心もあるのでしょう。ならば私は、頭を下げても惜しくは無いと思えるような王妃になろうと思います。そのように努力しようと思います」
妻はニコリと笑った。
伯爵は表情を消し、小さく一礼してその場を後にした。
平静を取り繕っていたが、その内面は動じない妻に対して大層腹を立てていた事だろう。
しかし、それは違うだろう。
伯爵が去っても消えない笑み。
そこに心がこもって居ない事が、私にはすぐに理解できた。
「なぁ、そなた、知っているか?」
王族専用のサロンにて、私は妻に声をかけた。
「何の事です?」
妻はテーブルに着き、紅茶を飲んでいた。
手には本を開き持ち、目を文字へ落としたまま返事をする。
「そなたを巡る変な派閥ができておるらしいぞ」
「派閥ですか?」
本から顔を上げ、不思議そうな顔で訊ね返された。
「私もよくわからん。匿名でどうにかしてくれと陳情があった。大臣の娘を筆頭とした一派と侯爵家の娘を筆頭とした一派が対立しているようだ」
「ああ。わかりました。麗人派とお姉様派ですね」
なんの派閥なのかよくわからぬ。
「私は人によって、その人が好ましいと思える性格に自分の性格を変えて接しています」
「そうだな。あまりにも別人のように人が変わるので感心する」
「そして、人によってコロコロと性格を変えている事実が、バレてしまったわけなのですよ」
「それは大事なのではないか? その性格が偽りだとわかれば、騙されたと怒るのではないか?」
「実際、そういう人も何人かいたんですけどね。今ある派閥っていうのは、それでも良いと思った人の集まりなんですよ」
「はぁ……?」
「要は、どんな私が良いかっていう倒錯的な考えを懐く気持ち悪い連中の集まりですよ」
元凶は貴様であろう。
そんな悪し様に評してやるな。
「実態は理解できた。そなたが宮中での味方を得るための事でもあるだろうから止めよとは言わぬ。だが、どうにか制御できぬものか? 対立が過激になり、社交界が荒れているらしい」
「んー、では、少数派閥の人に辛く当たって消滅させてみましょうか」
つまり、あえて嫌われるという事か。
よいのかそれで?
「もっとやんわりとした案はないのか? 敵が増えるかもしれんぞ」
「麗人派とお姉様派さえ残れば、だいたいの派閥の人は蹴散らせるから大丈夫です」
その最大派閥が今問題なのだがな。
「じゃあ、そのように手を打っておきましょう」
後日、嗜虐派という新興勢力が勃発し、三つ目の大勢力となった。
対立は三つ巴へと発展し、社交界が混乱を極めたのは言うまでも無い。
妻が妊娠した。
正直、不思議な気持ちだ。
自分がこんな感情を持つとは思えなかった。
自分の子供ができるという事が、こんなに嬉しいとは思えなかった。
そして、私の子を宿してくれた妻を私は今とても愛おしく……見えないのだよな……。
今の妻を一言で表すなら、魔王という言葉が相応しいだろう。
わずかに膨らんだ腹はいいとして、その表情からは普段貼り付けている愛想の一切が消失してしまっている。
目つきは剣呑であり、眉根は常に寄せられている。
お気に入りの椅子に腰掛け、肘置きに体重を預けて頬杖を付きつつどこかへと視線をやる姿たるや、物語に見る、玉座にある魔王の如き風格がある。
つわりで好きな物が美味く感じず、気分も落ち着かない。
そういった妊娠の症状が余程辛いのか、腹が目立ち始めてからはずっとこの調子だ。
気性も攻撃的になり、会う者全てにきつく当たる。
おかげで嗜虐派へ転向する者が増え、三つ巴の戦いがついに終局を見る勢いである。
そういう理由から妻は魔王……いや、悪魔王へと出世してしまったわけだ。
「辛いか?」
「当たり前でしょう」
返す言葉には苛立ちがふんだんに塗されている。
「もうこんな辛いのはごめんですよ! 次はあなたが産んでください!」
流石に無茶である。
それからしばらくして、つわりが落ち着いて妻はただの悪魔に戻った。
その頃になると「ボーイッシュなお姉様同盟」なる派閥同士の同盟が生まれ、最大勢力の嗜虐派への対抗を始めた。
社交界はさらなく戦乱へと向かい始めたのである。
子供は年が明ける前に生まれた。
それから少しの休養を経て、新年の挨拶が行われる事となる。
「この度は、新年を迎えてなお国王夫妻の健勝であられる事を祝い、その祝辞を献上願いたく参上した次第にございます」
去年、挑発的な態度で妻を軽んじた伯爵が、今年は私達の前へ来るなり床へ這い蹲って頭を下げた。
彼の姿は一年前の面影を残していなかった。
やせ細り、油気が一切抜かれたような姿だ。
黒々としていた髪には、白い物がちらほらと見えていた。
顔には疲弊が色濃く見え、目は荒んでいた。
一年でやつしてもいい風貌とは言えなかった。
そしてこの祝辞だ。
その祝辞を妻はにっこりと笑って受け取り、言葉をかける。
「ありがたく頂戴いたします。ああ、そういえば、あなたの領は野盗が多く出て治安が悪くなっているそうですね」
「は、しかし今は王妃様の力添えもあり、治安も回復傾向にあります」
「ご家族も被害にあって、怪我をされたとか」
「は、未だ病床にありますが、すぐに回復する事でしょう。王妃様からは見舞いの品をいただきまして、ありがとうございました」
「ああ、それと、あなたの息子さんは可愛いですね。今度は私の子供とも一緒に遊びましょう、と伝えてあげてください」
「……は、息子も喜ぶ事でしょう」
「最後に、私は王妃として十分に役目を果たせていますかね?」
最後の問いの際、妻は目を鋭く細めた。
伯爵の顔は床に伏したままでわからない。
ただ、床についた手が強く握りしめられていた。拳はブルブルと震えている。
「……はい。誠に、素晴しき王妃様であると、わたくしは心より思っております。永の忠誠をここに誓わせて頂きます」
伯爵の声は震えていた。
屈辱に耐えるかのように……。
「ありがとうございます。その言葉はとても励みになります。若輩ではありますが、これからも皆様の期待に応えられるよう、一層の努力をさせていただきます」
そう言って妻が見渡した謁見の間には、多くの貴族が並んでいる。
その内の何人かは、去年妻へ頭を下げなかった貴族達だ。
彼らは皆一様に、伯爵と同じく疲弊し、荒んだ目をしていた。
それから後、貴族達は皆、妻への祝辞を述べた。
おそらく、去年頭を下げなくて良いと言ったのは、自分の敵を見極める意味もあったのだろう。
そうして敵を選別し、それぞれに彼女なりの方法で攻勢を仕掛けたのだろう。
その方法は、私では思いつかぬような悪魔じみたものに違いない。
こうして、妻は貴族達を掌握した。
あとは、妹派という新派閥が台頭してきた社交界をどうするか、である……。