人の価値 盗む価値
ニャフフと第三王子の話です。
私と、そして彼女の話をしよう。
初めて彼女に出会ったのは、雪の降る寒い日の事だった。
一言で表すなら、私は価値のない人間だ。
私はこの国において、第三王子という立場の人間に生まれた。
父は民に慕われる偉大な王であり、母は貴族から恐れられる無慈悲な妃である。
そんな二人は共に優秀で、才知に溢れた人物だった。
だが、たとえ父が偉大でも、母が恐れられる人物であっても、だからと言ってその血を分けたこの身がそのように在れるはずはない。
兄が優秀であっても、弟妹が才知に溢れていようとも、私が同じく在れるとは限らないのだ。
二人の兄は共に文武に優れ、私にとって遠く及ばない人間であった。
それでも私はそんな兄に追いつこうと必死で勉学に励み、魔法を習熟し、剣の腕も磨いた。
しかしどれだけ努力しようとも一向に成果は上がらず、この手がその背中へ触れる事すらなかった。
そんな私が逃げ込んだのは、芸術の道だった。
楽器、絵画、詩作、あらゆる芸術を収めた。
その世界において、私は兄と競い合う事も比べられる事もなく、私は楽しさすら覚えて夢中で研鑽を積んだ。
だが、それも長く続かなかった。
私に続いて後から芸術を嗜み始めた弟妹達が、あっさりと私を抜き去って行ったのだ。
弟の詩に感銘を覚え、妹の演奏に悔しさと感動の混じる涙を流した。
絵画においてもまた、いずれ抜かれるのではないか? そう思えば、もうどんなモチーフも思い浮かびはしなかった。
そして気付けば……。
私の得られる価値という物は、一切残されていなかった。
「兄上、僕の詩はいかがだったでしょう?」
冬の夜道。
降る雪が後ろへと流れる光景を馬車の窓から眺めていると、向かいの席に座る弟がおずおずと問うてきた。
私は弟へ目を向ける。
不安と期待の入り混じる表情で、弟が私の言葉を待ちわびていた。
今、このような雪の夜道を行く事になったのは、母上の養父である公爵から晩餐の申し出があったからだ。
晩餐会には多くの貴族が集まっており、弟妹が呼ばれたのは二人の詩と演奏をその席で披露してもらいたかったからだ。
本来、私が呼ばれる席ではないのだが、二人はまだ幼いために保護者が必要だったのだ。
二人の保護者はいつも私に任じられる。
価値のない者には、この役回りが適任だというわけだ。
「良い詩だった。言葉選びも良いが、それを読む声の情感も素晴しかった」
弟の問いに、素直な感想を述べる。
弟は嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。
「兄上! 私は? 私の竪琴はどうでしたか?」
次に弟の隣に座っていた妹が、弟を押し退けるようにして問うてくる。
こら、密かに弟の足を踏むんじゃない。
涙目になっているじゃないか。
「指の運び、音の強弱が的確で、とても繊細な演奏だった。かといって儚さはなく、むしろ生き生きとした感情が音色に乗っていた。こちらも素晴しかった」
妹もとても嬉しそうに笑う。
続けて、お決まりの文句を口にする。
「じゃあ、どっちが良かったですか?」
この妹は、歳が近いせいか弟と自分を比べたがる。
こう問われた時、私の答えは決まっていた。
「詩と演奏は違う。比べられる物じゃない」
「えーー……」
妹は不満そうだが、こう答えるしかない。
弟を褒めれば妹が腹いせに弟へ八つ当たりをする。
妹を褒めれば弟が落ち込んで泣き出す。
どちらにしろ弟が泣く。
妹の方が年下なのだが妹の方が気は強く、力関係は弟より上らしい。
と、主に弟が哀れなので、こういう時はこの言葉で逃れる事にしていた。
「兄上はもう、詩を作らないのですか? 僕は、久し振りに兄上の詠む詩が聞きたいです」
妹を宥めていると、弟が訊ねた。
「あ、それだったら私も兄上の演奏を聞きたいです!」
妹もそれに追従する。
二人に言われ、私は意識せず窓の外へ目をやっていた。
この幼い弟妹に悪気は無い。
純粋に願いを口にしているだけだ。
耳が痛いと思うのは、私の心の在り方が原因だ。
「思い浮かばないからな」
私という人間は、価値がないくせにプライドだけは高いらしい。
弟妹に負けた事があまりにも悔しくて、それ以来、詩にも楽器にも触れていない。
しようと思っても、悔しさが込み上げてきて、どうにも手につかなくなった。
ふとその時、馬蹄の音が止まった。
気付けば、いつの間にか馬車の揺れもない。
停まったのか?
外を見るとまだ城へ着いたわけじゃない。
むしろ、街中ですらなかった。
闇の下りる夜道が未だに窓へ映る。
「どうした?」
御者へ声をかける。
返事は無い。
その代わり、馬車の扉が外から開かれた。
扉を開いたのは見知らぬ男だ。
夜に紛れるような黒い服を着た長身の男だった。
「何者だ?」
「誰でも良いでしょう。命を頂きに参上しただけですゆえ」
息を呑む。
暗殺者だ……。
男は剣を取り出し、車内に向けた。
突然の事に弟妹達は怯え、震えていた。
言葉を失ったその表情は恐怖に引き攣っている。
「相手を間違えていないか?」
「皆様、王家の方でございましょう?」
「だとしても、王位継承も低い者ばかりだ。殺す価値はないと思うぞ」
「確かに何にもならぬでしょう。しかし、痛みは与えられましょう。お妃様へ、子を殺される痛みを」
どうだろうか?
私は男の言葉を懐疑的な気持ちで捉えた。
あの母上が、子供を殺されたぐらいで痛みを覚えるとは思えない。
「これは我が主の私怨。あなた様方には、そのはけ口となっていただく」
男はいよいよ、剣を持つ手に力を入れる。
私は立ち上がり、怯える弟妹達を背に庇った。
どうせ私に価値などない。
身を差し出すなんて安い物。
ここで少しでも食い止められれば、二人を逃す事ができるかもしれない。
そうなれば、私の命にも少しは価値が出るだろうか?
私は痛みを覚悟し、剣を待ちわびる。
恐れが心を占め、瞳が強く瞑られた。
しかし、いつまで経っても痛みは訪れなかった。
「ニョホホ」
代わりに、奇妙な笑い声が耳に入る。
目を開ける。
そこには、変わらず男が立っていた。
しかし、私の見る前で男は崩れるように倒れた。男の首の後ろには、小さな傷があった。
その背後に、一人の女性が立っていた。
防寒具に身を包んだ女性は、その手に一本の長い針を持っている。
「お命、いただきましたー」
女性は倒れる男へ向けて、間延びした声をかける。
そして、次に私へ目を向けた。
互いに目が合う。
女性は少しだけ目を見開き、表情を固めた。
だがすぐにその表情が解れ、笑顔になる。
私はそんな彼女の笑顔に一瞬見惚れた。
その表情が少し母に似ていたからという理由ではない。
確かにその一瞬、私は彼女に魅了された。
たとえそれが、今しがた人を殺したばかりの相手であっても……。
「ニャフフ。また会おうね」
女性はそれだけ言い残すと夜の中へ駆けていった。
その姿を追って馬車の外へ出る。しかし、そこには雪の白と夜の黒しかなかった。
それが、私と彼女の出会いだった。
その後、夜道に転がる事切れた御者を見つけた。あの暗殺者に殺されたのだろう。
御者の遺体を御者台に座らせ、私はその隣に座って馬を走らせた。
長年、勤めてくれていた御者だ。こんな寒く寂しい場所へ置いていく事はできなかった。
そうして、私達は城へ帰り着いた。
廊下を歩いていると、兄二人にばったりと出会った。
苦い物が心に広がる。
「暗殺者に襲われたそうだな」
次兄に、開口早々そんな事を言われた。
次兄は大柄で、筋肉質な男だ。
地声も大きく威圧的な人物で、私は苦手だ。
「はい」
「豆二人に聞いたぞ。お前が身を挺して庇ってくれたのだとな」
「そうせねばならぬと思ったので」
「情けない事だ。何故戦おうとしなかった? あまつさえ、女に助けられたそうだな。それだから軟弱者だと言われるのだ!」
急な一喝に、私の耳がおかしくなった。
耳鳴りがする。
「はい、申し訳ありません」
確かに兄の言う事にも一理ある。
私に暗殺者を退ける力があれば、弟妹を逃すなどという選択も取らなかっただろうから。
「本当にお前には価値がないな」
長兄が、私へと静かに告げる。
見ると、怜悧な視線が私を射抜いていた。
確かに、私には価値がない。
私には何もないのだから。
王族としての地位も低く、王家へと貢献する術もない。
政治を取り仕切るだけの才知も学もなく、一軍を率いるだけの武力も統率力もない。
芸術的な才能もなく、ただ血の繋がりだけで王族を名乗っているに過ぎない。
兄が私をそう評する事ももっともだ。
兄は一つ溜息を吐くと、言葉を紡ぎだした。
「首謀者の素性はわからぬようだ。お前の証言から母上に恨みを懐く貴族辺りなのだとは思うが、そもそもの下手人は貴族に飼われた者だ。探った所でどこの誰かもわからぬだろう」
「そうですか」
長兄は小さく鼻を鳴らす。
「行くぞ」
「おう」
上の兄が歩き出すと、下の兄も追従した。
私はその足音が聞こえなくなってもまだ、しばし動き出せなかった。
あの女性は何者だったのだろう?
ベッドの中、窓から空の月を眺めていると、そんな言葉が心に浮かんだ。
最近、私は彼女の事を思い出す。
ベッドに身を横たえ、眠りに入るまでの時間、私は考え事をする。
いつもは自分の価値について、鬱々とした事を考えている。
自分という人間が無意味に思え、たまらなく嫌な気分になる。
その嫌悪感が睡魔を追い払い、眠れない。という事態に陥るのだ。
だが、最近はそうでもない。
考える事はあの女性の事だ。
彼女が何者だったのか、その事を考え続けている。
「ニャフフ」
そんな時だった。あの女性の笑い声が聞こえた。
私に笑顔を向けた女性。
幻聴を聞くほどに、私の心は彼女に魅了されてしまったのだろうか?
と思いつつ月から視線を下ろすと、窓の縁にあの女性が座っていた。
「ちわー、会いに来たよー」
笑顔で声をかけてくる女性に、私は一瞬固まった。
「何者だ?」
とりあえず訊ねてみた。
「前にも会ったじゃーん。また会おうって言ったじゃーん」
女性は不満そうに言う。
「お前は暗殺者か?」
「違うよー。私はただの盗人だから。ただ、あんまり好きじゃないけど、人に頼まれて命を盗む事もあるってだけでー」
「どうやってここに? 何をしに来た?」
「子供の頃にとーちゃんから教わったんだ、城の抜け道。そこを通って来た。来た理由は、さっきも言った通り、会いに来ただけだよー。うん、遊びにきたって所?」
小首を傾げて彼女は訊ねる。
知らぬ。それはこっちが聞きたい。
訊ねられても困る。
「まー、今日は帰るよ。どの部屋にいるのかわかったし。じゃあ、またねー。ニャフフ」
そう言うと、彼女は窓の方へ向かった。そのまま、外へ飛び下りる。
「あっ」
突然の事に驚き、窓へ駆け寄る。下を見た。
綱を伝ってスルスルと下りていく彼女の姿があった。安堵する。
綱は、この部屋の窓枠にかかる鉤爪から伸びていた。
侵入の時に引っ掛けたもののようだ。
たいした女性だ。しかし――
「本当に何しに来たのだ?」
私の母は貴族社会において、絶大な権力を持っている。
前第一王位継承者の婚約者という立場であったが、成婚する前に王位継承者が暗殺されたために第二王位継承者であった父と結婚した。
当初、婚約者の死からあまりにも早く父と婚約した身の軽さを攻撃材料にされ、一時敵が多かったらしい。
大部分は、父の妃として自分の娘を差し出す算段を考えていた貴族達の妬みである。
が、結婚式を挙げる時には、その敵もほとんど残っていなかったらしい。
残ったわずかな敵も、取るに足らない小物ばかり。
「それはあやつが悪魔だからだ」
一度父にその話の真偽を問うた時、父は冗談めかした様子もなくそう答えた。
だが、私には父のそんな言葉がなんとなく納得できてしまった。
母は恐ろしい。
漠然とではあるが、私は子供の頃からそう思っていた。
感情豊かな人ではあるが、接していると妙な不安を覚えるのだ。
その妙な不安が実際の像を結ぶようになったのは、父から第一王位継承者暗殺の話を聞いた時だ。
父は言った。
暗殺の首謀者は、母なのだ、と。
「それは本当なのですか? もし、それが本当だと言うのなら、母上は……」
「心に秘めておく事だ」
「言えるわけがありません。それを漏らせば母上は国家反逆罪に問われてしまいます」
そう答える私に、父は首を左右に振った。
「違う。そんな事を案じているわけではない。私が案じているのは、それを公表した相手だ。あやつは自分の邪魔となる相手ならば、決して容赦せず徹底的に排除する。たとえ、それが実の子供であろうと、な」
身が震えた。恐れから来るものだ。
母ならばやるだろう。
妙な納得を覚える。
「冗談と受け取らないのは、子の中でお前だけであろうな」
「……どういう意味でしょう?」
「お前が一番、母親に似ておるかもしれんという話だ」
ますますわからない。
それ以上は、父も笑うばかりで答えてくれなかった。
「……父上は何故、そのような方を妃とされたのですか?」
「必要だったからだ。王には畏敬が必要だ。だが私にはどうやら、人から畏れられる才能がないらしい。だからこそ、その分をあやつが担っておる。互いに無い物を補い合っておるのだ」
その話を聞いて以来、私は母を苦手としている。
幸い、母は私に興味がないらしく、特に接触がないのは救いだ。
だが時折、廊下などですれ違う時もある。
その時に私は再確認するのだ。
母の恐ろしさと私の価値の無さを。
笑みを浮かべる母の目はとても冷めていて、自分が母にとって取るに足らない人間だと思い知らされる。
まさにその日、私は母と廊下でまみえた。
言葉のない一瞬の邂逅だ。
それだけで気分が重苦しくなった。
重苦しい気分のまま、部屋に戻る。
「ニャフフ、おかー」
私を出迎えた彼女は、私のベッドに寝そべり、お菓子をバリバリと食べていた。
食べかすを落とさないでほしい。
メイドに行儀が悪いと叱られるのは私なのだ。
しかし、彼女が部屋にいて、少し気が楽になった。
「またか。最近、よく来るな」
部屋に戻れば彼女がいる。
それはここ最近、珍しくない事になっていた。
彼女は「遊びに来たー」と窓から部屋に侵入してくるのである。
今や窓の外にかけられた綱は、鉤爪ではなく強固な留め具でしっかり固定されている。
見回りの衛兵が何故気付かぬのか不思議でならない。
外からは垂れ下がる綱が丸見えだろう。
「何か元気ないねー。大丈夫?」
「なんでもない。気にせず菓子を貪っていればいい」
今は、その淑女にあるまじき豪快な食べ方ですら見ていて癒される。
「そなたはどうして私を助けてくれた?」
彼女が部屋に来ている時、私はふと思い出して訊ねた。
彼女は私のベッドで、読書をしていた。
平民でも字を読める者は少ないと聞いていたので、山賊の娘が字を読めるのは意外だった。
「いつの事?」
「そなたと初めて会った時だ。暗殺者より、助けてくれただろう」
「ああ。あの時かー……。あれは助けたんじゃなくて、たまたまあの人の命を盗むように頼まれただけだよー」
「誰に頼まれた?」
「言ったらダメなんだ。これは裏社会の掟だからねー。ニャフフ」
話を漏らせば消される事もあるという事か。
聞いても口外しないつもりだが、明かした方からすれば安心できないだろう。
無理に聞くべきではない。
「ならば、何故そなたは私に会いに来る?」
「友達でしょ?」
それは知らなかった。
今初めて知った。
「信じられないな」
「なんで?」
「私は、私が人に好かれる人間でない事を知っている。会う事で生じる価値が無い事も知っている。そんな私に会おうとする人間がいるなど、信じられない」
本心からの気持ちだ。
私にはそんな価値などない。
「価値かぁ……。確かに大事だよね。やっぱり、価値のあるものを盗む方がわくわくするし。返してあげた時の相手の反応とかも大きいしね」
どういう基準だ。
「殿下の価値はよくわからないけど、会いに来る理由はあるよ。悔しかったからって理由が」
「何が悔しいというのだ?」
「負けると悔しいじゃーん?」
「誰に負けた?」
訊ねると、彼女は私を指差した。
「覚えが無い」
「ちょっと恥ずかしいからまだ詳しくは言わないけどさー。私って、盗みが大好きなんだ。ちょっとは誇りとかも持ってる。だからさー、先に盗まれると悔しいんだー」
その口ぶりだと、私が何かを盗んだようだな。
何を盗んだというのか。
人聞きの悪い。
「だから盗み返してやろうかなーって」
「命を?」
「命を盗むのは好きじゃないって言ったしー」
報復で殺される事はなさそうだ。
……わかりきっていた事だな。
そのつもりがあるのなら、当に殺されていただろうから。
その日は、遊びに来た彼女に城の中を案内する事になった。
いつも通りの服装ではまずいので、彼女は今、私が調達したメイド服を着てメイドのフリをしていた。
だが、服装を変えても中身は本職のメイドというわけではない。
それに、城勤めのメイドは貴族の令嬢ばかりだ。
さりげない所作からして気品が漂うものである。
普通の庶民がなろうと思ってすぐになりきれるものではない。
が、意外な事に彼女は完全なメイドになりきっていた。
所作には裏打ちされた気品が見える。
その姿は、貴族の令嬢として通用するだろう。
「お城の中をじっくり見るのは初めてですね」
おまけに口調まで変えている。
「ニャフ……、あの置物高そーですね」
たまにボロが出る。
が、概ね誰が見ても城のメイドに見えるだろう。
「私以外に誰もいないなら、普通に話していてもよいと思うが」
「そー? じゃあ、そうするねー」
彼女を連れて、私は城にいくつかあるサロンへ足を踏み入れた。
「あ、兄上だ!」
「本当だ、兄上!」
部屋には弟妹達がいた。
そういえば、あれ以来顔を合わせていなかったな。
少しばかりまずいだろうか?
あの時は、私の背中で隠され、彼女の姿を見たのは私だけだが……。
大丈夫だろうか……。
思って彼女を見ると、すまし顔でメイドになりきっていた。
「二人してどうしたのだ? 茶の用意もせずにこんな場所で」
二人は側仕えも連れずに、サロンで佇んでいた。
「絵を見ておりました」
弟が答える。
私達が部屋へ入った時、二人はサロンのテーブル席へ着くでもなく、壁を眺めていた。
壁にかかる絵を見ていたのだろう。
「これは兄上のお描きになった絵なのでしょう?」
「……そうだな」
「私達、この絵を見に来たのですよ!」
妹が元気に告げる。
「そうか」
私は絵を見上げた。
自室の窓から見える、城下町の景色だ。
これを描いている時は本当に楽しかった。
絵筆を走らせる毎に、風景が形と色彩を得ていく。
それを自らの手で成しているという気持ちは、言い表せない心地良さがある。
描き上げてからも、これを眺めてその気持ちを思い出していた。
だが、今となってはそんな気持ちもない。
ただただ苦さが広がるだけだ。
絵から目を背けた。
「ニャフフ、いい絵だねー」
ふと、彼女が呟いた。
完全にいつもの口調だ。
その声に、妹が反応した。
「あなた、その声……。どこかで聞いた事があるわ」
音楽の才能に優れる妹は、耳が良い。一度聞いた物ならば、聞き分けられる。
あの時の声を覚えていたのだろう。
「この城のメイドでございますので、どこかしらでお聞きになっていらっしゃるかと」
「そう、かしら?」
「左様でございますとも、ニャフフ」
ボロが出てるぞ。
「そのような事より、殿下方はお兄様の事が好きですか?」
まだ怪しむ妹に、彼女は言葉を続けた。
誤魔化すためだろうが、何を聞いている?
「大好きです」
「大好き!」
弟妹達は迷わずそう答える。
「どうしてです?」
「優しいからです」
「遊んでくれるから!」
その答えに彼女は笑顔を二人に向ける。次いで、私を見た。
どういう意図か?
それから彼女は、しばらく絵を眺めていた。
彼女が絵に満足すると、また別の場所へ移動する。
その途中、彼女は口を開く。
「人に必要とされるって事は価値があるって事だよねー」
「弟妹達の話か? あれは私でなくても良い事だ。たまたま接する機会が多く、懐かれているだけに過ぎない」
「それだけじゃなくて、あの絵もだよー。見に来る人がいるから、飾られているんじゃない?」
「王族の描いた物だ。無下にはできまい。許可無く外せんよ」
「ニャフフ」
「……なぁ、私の絵には盗む価値があるか?」
「思わず手が出ちゃいそうだったよー」
「そうか……」
久し振りに、筆を取ってみようか。
そう思えた。
別の日、私達は中庭に出ていた。
「お花でいっぱいだねー」
植え込みに生える手入れされた花々を見て、彼女は声を上げる。
間延びした声は普段通りで、そこに感嘆があるのか私には判別できない。
ただ、花を指で突いたり、匂いを嗅いだり、と楽しそうには見えた。
そうした無邪気な姿が、見ていて飽きない。
「あ、あっちに温室があるー」
「待て、あそこには行かない方がいい。母上の温室だ」
あそこには何が植えてあるかわからない。
母の内包する濁った部分を顕現したかのような魔窟だ。
母ですら入る時には口に布を巻いて入るのだ。
近寄らない方が絶対にいい。
「そなたに贈りたい物がある」
自室にて、私は彼女にそう切り出した。
「なーにー?」
私は布に包まれた長方形の薄い板状の物を彼女に渡した。
その中身は、胸に抱きかかえられる程度の小さな絵だ。
彼女は包みを開けて、その絵を見た。
「これって、私?」
「ああ」
絵は、小さな花束を抱える彼女の肖像だ。
こうして本人と見比べて見ると、少しばかり美化してしまった気がしないでもない。
だが、だからこそ私は自覚した。
その様に、私が彼女に懐くイメージは美しい物なのだろう。
きっとそれは、恋情が形作る物なのだ。
「受け取って、くれるだろうか?」
「え、受け取れない」
まさか、断られるとは思わなかった。
「気に入らなかったか?」
「ん? すっごい欲しいよ。でも、受け取らない」
「何故?」
「別にいいでしょー? 今日はもう帰るね」
そう言うと、彼女は帰っていった。
いつもよりかなり早い時間だ。
持て余す時間は、妙に重苦しく感じた。
その翌日、朝起きると例の絵が消えていた。
置いてあった場所には「確かに宝は頂戴した。ニャフフ」というメモが残されていた。
そして、その日にしれっと彼女は部屋に現れた。
「どういうつもりだ?」
「貰うより、盗み取った方が嬉しいからー。あれ、自分の物にしていいんだよね?」
「初めから贈ると言ったはずだ。……面倒な性分だな、そなた」
「ニャフフ」
どういう経緯であれ、彼女の手に渡ったならそれで良い……のか?
「ねーねー、王子さぁ、私の事好き? 愛してる?」
ある日、彼女が訪ねてきて早々にそんな事を問うてきた。
あまりに唐突だったので、私は一瞬呆然とした。
「何故、そんな事を聞く?」
「聞かないとわからないから」
「何故知りたがったのかという意味なのだが」
「まー、もう教えてもいいかな。えーとねー、そろそろ盗み返せたかなって思ったんだよ」
それは、前に言っていた私に「盗まれた物」という事だろうか。
だとするなら……。
「まさか、そなたの盗まれた物と言うのは――」
「一目惚れでしたー」
なるほどな。
そういう事だったか。
だったら、お互い様だと思うのだがな。
きっと私もまた、あの時すでに心を盗まれていたのだから。
「ならば、確かに私はそなたに盗み返されたのだろう。その証明を受け取ってくれるだろうか?」
「夜にでも盗りに来るよ」
「物ではないよ」
私は彼女の体を抱き寄せた。
私の顔よりも少し下に彼女の顔がある。
彼女は抱き締められながら、私の顔を見上げていた。
唇を彼女の唇へ寄せる。
そっと、彼女は目を閉じた。
愛情という物は「価値」であるらしい。
少なくとも、私は彼女にそういった「価値」を見出していた。
彼女も同じように思ってくれているのなら、私自身にも「価値」はあるのかもしれない。
後日、私は父へ彼女を紹介し、結婚の許可を貰いに行った。
勿論、そのままでは身分的に結婚できないので、そのための細工もお願いするつもりだった。
しかし父は許可をくれず、母に判断を仰ぐよう言った。
そうして、私は母の許可を貰いに行く事となった。
不安は多分にあった。
出自の解からない娘を妻にしたいと言って、母がどんな対応を取るか皆目検討もつかなかった。
父の場合は許可を得られないとしてもそれだけだが、母の場合は何をしてくるかわからない。
最悪、彼女共々謀殺されるかもしれないとすら覚悟した。
会話する時間を作ってほしいと申し入れをし、予定の空く日まで緊張に胃を痛める日々を送った。
そして、一大決心の元に母へ彼女を紹介したのだが……。
何故か母に大笑いされた。
それも今まで見た事がないような、心の底からの大笑いだった。
そんな母を見たのは初めてだった。
何がそんなに楽しかったのかわからないが、母はあっさりと彼女との結婚を許してくれた。
それどころか――
「結婚するなら、それなりの地位も必要ですね。私の旧家にあたる公爵家の親戚筋という事でよければ、すぐに準備できますよ。さぁて、久し振りに私も娘として孝行いたしましょうかね。手始めに、ヒールの新調でもしましょうか」
と、彼女と私が結婚しても問題ないよう、取り計らってもくれるらしい。
こうして私は、彼女を妻に迎える事となった。
「私には君の隣にいる価値があるだろうか?」
私は彼女に訊ねる。
思えば、私はこうして誰かに自分の価値を問うた事がなかった。
自分の価値を気にしていながら、誰かからその答えを得ようと思わなかったのだ。
きっとそれは、返ってくる答えが怖かったからだろう。
彼女に初めてその問いを投げるのは、信頼しているからだ。
彼女ならきっと、私を傷つける事はいわないと、そう思ったからだ。
彼女が答える。
「正直に言えばー、価値とかどうでもいーんだ。私としてはー、一緒に居られるだけでいーんだよ」
そうか。
人の価値なんて、悩むような事では無いのかもしれないな。
どうでもいい話ですが、アナちゃんと第三王子の目には、多分ハイライトがありません。
迷った挙句、紆余曲折あってこうなりました。
山も谷も薄く、淡々とした話を打破しようとし、ニャフフが次兄と戦うような話もあったのですが、何か違う気がしたので消しました。
結局淡々とした話になりましたね。