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根城での出来事 表

 根城であった出来事についての話をしよう。




 根城には、時折新しい人が増える。


 増える人間は大人もいれば、子供もいて……。

 その人々がどういう経緯で根城へと訪れるのか、それを私は詳しく知らないけれど。

 一人一人に事情があり、それぞれのきっかけがある事は間違いない。


 普段は一人、二人とまばらに増えていくけれど、その時は珍しく多くの人間が一気に根城の一員となった。

 当然私は、その人達の事情は知らず。


 ただ例外はあって、ある一人と深く関わる事になった。




 あれは夏が終わり、季節が秋へと移り変わる頃だった。


 根城には数十を超える新しい人々が増えた。

 そのほとんどは根城の山賊達と似た風貌の、明らかに善良とは言いがたい男達だった。

 そして、その男達に付き従う女達。

 子供は多分、いない。

 私の目が届いていないだけで、もしかしたらいるかもしれないが。


 私は次男を連れて、根城の広場へと井戸水を汲みに来ていた。

 次男は兄姉きょうだいが外へ遊びに行く中、一人私から離れたがらない子である。

 だから、私がどこかへ行く時は、次男をいつも連れ立っていた。


 子供を常に見ておかなければいけない事は手間かもしれないが。

 手元にいてくれる方が、私には安心できて嬉しかった。

 長男の時はこうはいかなかったからだ。

 自力で歩けるようになるとそこら中を歩き回り、気付いたら家にいないという事がままあった。

 何度それで心配し、探し回った事だろうか。


「おはようございます」


 一人の女性が声をかけてきた。

 その手には私と同じく、桶が抱えられている。


 隣家に住む女性だ。

 女性の肌は浅黒く、異国情緒溢れる美貌の持ち主である。


 うちの長男には仲良くしてくれている女の子の友達がいて、彼女はその母親だった。

 長男は今日もその女の子と朝早くから遊びに出かけている。


 詳しい事情は知らないが、彼女もどこからか連れられてきた女性の一人である。

 今は、あの男の部下の家に住んでいる。


 あの男と子供達の朝食を作り、仕事と遊びに出かける様を見送った後。

 暇を持て余す時間帯。

 子供同士の仲が良い事もあって、私はこの夫人と言葉を交わす事が多かった。

 母親としての歴は私よりも少し長いくらいで、歳が近い事もあって主に子育ての悩みを主な話題としている。


「おはようございます」

「おはよござます……」


 私が返礼すると、次男も同じように小さく返礼する。

 それを見た隣の夫人は、ニコリと笑って井戸の水を引き上げ始める。


「いつもありがとうございますね。お嬢さんには、うちの子の面倒を見てもらって」

「いえいえ。こちらこそ感謝しています。息子さんが何かと構ってくれるから、あの子もここにすぐ馴染めました」

「お嬢さんはしっかりした子ですから、そんな事もないと思いますけど」


 返すと、夫人は顔を左右に振った。

 苦笑し、言葉を発する。


「あまり、同年代の子供と遊ぶ機会というものが、あの子にはありませんでしたから。息子さんがいなければ、あの子も人とどう付き合うべきなのかわからなかったかもしれません」


 私はこの夫人の過去を知らない。

 勿論、娘さんの事も。

 けれど、いろいろと事情がありそうだった。


 ここに来る多くの人間は、ここで生まれる人間を除いてほとんどが何かの事情を抱えている。

 だからこそ、社会から外れたこの場所へと流れ着く。


 私もまた、例外では無い。


「ああ、そうだ。うちの子、ニンジンが嫌いで食べないんですけど。どうにか食べさせる方法はないでしょうか?」


 夫人はまた別の話題を振る。


 あの子はニンジンが嫌いなのか。


 好き嫌い。

 難しい話だ。


 うちの子の場合……。


 長男は嫌いな物がないので食べられれば何でも食べる傾向にある。

 長女は嫌いな物は何があっても食べない。無理に食べさせようとすると逃げる。

 次男は私が与える物なら嫌いな物であろうと何でも黙って口にするけれど、嫌いな物を食べた時は静かに泣いている事がある。

 泣きながら、飲み込めずに延々咀嚼し続けるのだ。

 あれを目にすると、「何事!?」とびっくりしてしまう。


 好き嫌いは無くすべきだろうが、次男の場合は見ていて申し訳なくなってしまう。

 無理にでも食べさせるべきなのか、それとも苦手な物は食べさせない方がいいのか……。


 難しい話だ。


 そうしてあれやこれや、子供の好き嫌いについて話をしていると……。


 また別の夫人が井戸へ歩み寄ってきた。

 木桶を抱えた髪の長い女性だ。


「あの方は、新しく入った方ですよね」

「ええ」


 長髪の夫人は生気のない顔にかすかな笑みを作ると、こちらに会釈する。

 病的なまでにほっそりとした彼女の身体には、力が感じられなかった。

 彼女は井戸の縄を手に、水を引き上げようとする。

 が、私の勝手な感想を肯定するように、彼女の腕は水桶を引き上げる力を有していないようで……。

 水の重みに耐えきれず、縄が手放され、桶が底へ落ちる水音が井戸から響いた。

 それでも体重をかけて、大変そうに井戸の水を汲み上げようとしていた。

 私は彼女に近づき、井戸の縄を取った。


「やりますよ」


 言うと、女性は一瞬呆けた顔をする。

 遅れて……。


「……はい。ありがとうございます」


 と答えた。


 水を木桶に汲むと、私はそれを渡す。

 彼女はそれを抱えて、来た道を戻っていった。


「最近、多くの人がここへ入ってきましたね」


 隣の夫人が口にする。


「そうですね」

「どこから来た方なのか……。訊いていませんか? うちの人は、あまり仕事の話はしないので」


 うちの人……。

 この人は何気なく言うが、私はあの男をそう呼ぶ事に抵抗がある。


「あの男もあまり、稼業の事は言いませんね」


 答え、私は長髪の夫人が歩き去った方を見やる


 根城に新しく住む者には、家が与えられる。

 彼女もその一人だ。

 彼女はどうやら男と二人で暮らしているらしい。


 しかし、それ以上の事は知らない。

 二人が夫婦なのか、そうじゃないのか、私にはわからない。

 詮索しようとも思わない。

 訊かれたくない事もあるだろう。

 ここへ来る者は、皆大小の差があれど事情を抱えているのだから。


 ただ気になるのは……。

 時々顔を合わす新顔の女達は、皆疲れた顔をしているように見えた。


 この根城に住む女達は、私と同じように山賊の物としてそばに置かれる者もいれば、山賊の一員として山賊稼業に参加する者もいる。

 しかし立場に差異はあっても、活力に満ちた者が多い。

 けれど新しく入った女達には、その活力を見出せない。


 彼女達の顔が形作るものは、何かを諦め切った表情のように思えた。

 あの髪の長い夫人もその例に漏れなかった。




 それからも、私は長髪の夫人と毎朝の井戸で顔を合わせた。

 彼女が井戸に来ると代わりに井戸の水を汲み、渡した。


 彼女とはあまり言葉を交わす事がない。

 彼女には、話をするだけの余力がないように思えた。


「ありがとう」


 だとしても彼女は礼を欠かさないし、力ない笑顔を向けてくれる。

 それが彼女にできる最大の謝辞なのだろうと思えた。


 交流らしい交流を経る事がなかったとしても、私は彼女の事が嫌いではなかった。

 正直に言えば、気になっていた。


 それは多分、初めて会った時の事があるからだ。


 長髪の夫人は、私と初めて顔を合わせた時何の驚きも見せなかった。

 そういう人間は稀だ。


 私の左半身には火傷があり、見る者のほとんどはそれに驚きを見せる。

 けれど、彼女は驚かなかった。


 それは何故なのか。

 ただ、疲れきっていて、驚くだけの元気がなかったからなのかもしれない。


 それでも興味を抱くには十分だった。


 ある日の事。

 井戸へ来た夫人の顔には、大きな青痣ができていた。


「どうしたんですか?」

「いえ、これはあの人に……」


 訊ねると、長髪の夫人は言いよどむ。


「あの人?」


 訊ね返すが、夫人はそれ以降口を閉ざした。

 訊かれたくない事なのだろうな、と思ったので私もそれ以上訊かなかった。


 井戸からの水汲みを手伝い、夫人の木桶に水を入れる。


「ありがとうございます。失礼します」


 夫人は短く礼を言うと、木桶を持って帰っていった。


 夫人は水を汲めばすぐに帰ってしまう。

 それはいつもの事だ。


 誰かと会話に興じる事は一切しない。

 ここで行なう事は水を汲むだけで、さながらそれが使命であるかのようにそれだけを目的に訪れている。

 目的として、それは間違いではないだろう。


 ただ、そんな様子の夫人を見ていると、彼女にはあらゆる事への余裕が無いように感じられた。

 自分の行動に自信が無く、いつも何かに焦り、追われ続けているような。

 怯えにも似た、そんな余裕の無さだ。


 彼女の余裕の無さ。

 それを強いているのは、あの顔の痣をつけた者なのではないだろうか?

 その相手こそが同棲している男なのではないだろうか?


 そんな事を勝手に考える事は差し出がましく、失礼な事かもしれない。

 しかし、私はそう思わずにいられなかった。




 夜。

 あの男が帰って来る。


 恐らく、酒場で飲んできたのだろう。

 男の顔は赤く、酒の臭いを身に纏っていた。


「ガハハ。水くれや」


 男は居間まで来ると、私に言った。

 私は水を器に汲んでテーブルに置く。


 男がそれをがぶがぶと飲み乾すのを見計らい、話を切り出した。


「あの」

「ガハハ。何だ?」


 私は、昼間の夫人について話した。


「どうにかできないでしょうか?」


 あまり、この男に頼る事はしたくないが。

 自分の好悪で厭うような事では無いだろう。

 今も傷ついているかもしれない人間がいて、その人間を助けられるかもしれない手段が自分にあるなら迷うべきではない。


 しかし……。


「まぁ、ひでぇ話だとは思うがな。俺から口を出すつもりはねぇぜ」


 男はそう答えた。


「何故?」

「俺は頭だが、それは山賊稼業での話だ。よそのうちの事にまで、口を出せるもんじゃねぇ」

「そうですか……」


 いい加減なようでいて、この男は公私混同をしないのだろう。

 差し出がましい事だ、と私も一度思ったのだ。


 だから、この男の言う事も間違いではなかった。


 これ以上、無理に言うわけにもいかない。

 私は諦める事にした。


 だからといって、素直に納得できる事では無いけれど。




 彼女の痣は日が経つ毎に薄れ始めていた。

 しかし、顔ではない別の部分に痣が増えている事があった。


 その様を見ると自分の無力さに歯がゆさを覚える。

 力になりたいと思っても、その力が私にはなかった。


 そんなある日の事。

 井戸の前にて。

 次男を連れて、隣家の夫人と一緒にいた時だ。


 水の入った桶を持ち上げようとして、長髪の夫人はその場で倒れこんだ。


 水が地面を打ち、桶の転がる大きな音。

 それを聞いた私は、彼女が倒れた事に気付く。

 倒れ伏した彼女に、私は駆け寄った。


「大丈夫ですか?」


 肩を揺すり、声をかける。

 何度かそれを繰り返すが、反応が返ってくる事はなかった。


「家に運びます。手伝ってください」


 隣の夫人に言うと、彼女は頷いた。

 両肩をそれぞれ支えて、家へと運んだ。

 その身体は、思っていた以上に軽かった。


 彼女の身体を寝床に横たえる。

 手当て……しようとするが、そもそも彼女がどうして倒れたのかもわからない。


 しばし考え、原因を探るために服を脱がせる事にした。


 彼女の身体に手をやり、そして私は彼女の身体があまりにも細い事に気付いた。

 私の手の指が、回ってしまう程にその腕は細い。


 栄養が足りていないのかもしれない。


 彼女はどういう生活を送っているのだろう?


 そう思いながら彼女の服を脱がせた。

 その有様を見て、私の手は止まった。


「酷い……」


 隣の夫人が思わず声を漏らす。

 そう漏らさずにいられないほど、彼女の身体には多くの惨い傷痕があった。


 見えない場所の傷は、見える場所以上に酷い。


 彼女の体には殴られた痕が多く、かすかな切り傷も所々にあった。

 それも手当てをしないまま放っておかれたのか、化膿している所さえある。


 彼女は私が思っていた以上に、酷い境遇の中で生活していたのだ。


 躊躇っている場合じゃなかったのかもしれない。

 力の無さを嘆いているべきじゃなかった。

 そんな後悔を覚える。


「お湯を、沸かしてもらえますか?」

「は、はい」


 頼むと、隣の夫人は返事をする。

 炊事場に向かい、湯の用意をしてくれた。

 その間に、私は傷の具合を確かめた。


 湯が沸くと水で温度を調節し、それに浸した布で傷の手当をした。


 手当てが終わり、服を着せると私は彼女をそのまま寝床に寝かせておく事にした。

 あとは自分が面倒を見るから、と隣の夫人には帰ってもらい、私は彼女の様子を見る事にした。

 彼女が目を覚ましたのは、昼頃の事である。

 私は次男を膝に座らせて、彼女のそばに座っていた。

 長男と長女は朝から外に遊びに行っていて、家の中にいない。


「あ……?」


 側らで看ていると、彼女の目が開いた。


「目が覚めましたか?」


 さ迷っていた彼女の視線が、声をかけられて私へ向く。


「ここは?」

「家です……。私の」


 ここを私の家と言ってしまっていいのか。

 少しだけ躊躇いつつ、私は答えた。


 この家はあの男の家で、私はあくまでもあの男の所有物だ。

 そう言ってしまっていいのか、疑問に思った。


 不意に、彼女の表情が恐怖に歪む。

 急に起き上がる。


「……ああ、今はいつ頃ですか?」

「もう、お昼過ぎです」


 答えると、彼女は「ああぁ……」と声を上げ、顔を両手で覆った。


「きっと、あの人は怒っている……。また、殴られる……。殺されるかもしれない」


 彼女は嘆き、呟くように言葉を漏らした。


 その様子からは、彼女がどれだけ「あの人」を恐れているのかがうかがい知れた。


「大丈夫ですよ。ここにいれば、あなたは安全です」


 少しでも安心してもらおうと、私は声をかける。

 すると、彼女は私を見た。

 その目尻には、涙が滲んでいる。

 彼女は私に縋りつき、胸元へ頭を預けるように俯いた。


「だめ……。きっと、あの人は私を連れ戻しに来る……。逃げる事なんてできない」

「大丈夫です。あなたが嫌だと言うなら、あなたを引き渡すような事はしません」

「無理よ、そんなの……」

「大丈夫です。だから、今は横になっていてください。安心して」


 私の言葉に従って再び横になる彼女だったが、結局最後まで彼女から恐れを拭う事はできなかった。

 彼女は怯えていた。

 身体が悲鳴を上げていて、休みたいという気持ちはあるが心は休まらない。

 そのように見えた。


 それでもそばで安心できるよう言葉をかけ続けると、少しずつ彼女から緊張が解れていった。

 芯に残る不安は晴れないようだったが、最初の頃に比べるとマシにはなってきている。


 そんな時だった。


 家のドアを強く叩く音がした。

 その大きな音に、長髪の夫人はビクリと身を震わせた。

 彼女の肩へそっと触れ、言葉をかける。


「大丈夫です。寝ていてください」


 私はそう言うと、隣に座っていた次男の頭にそっと触れた。


「あなたもここでじっとしているのですよ?」


 言うと、次男は黙ったままコクリと頷いた。


 玄関へ向かい、ドアを開ける。

 すると、そこには一人の男が立っていた。


 頭頂以外の髪を刈り上げた男だった。

 一見して細身のように見えるが、身体つきは筋肉質でがっしりとしていた。


 男は、私の顔を見るとあからさまに顔を顰めた。

 火傷を不快に思ったのだろう。


「おい。あいつがいるだろう? 出せ」


 が、すぐに表情へ怒りを宿し、私を脅すように怒鳴りつける。

 見るからに粗暴な男だった。

 怒りに任せて、殴りつけてきそうなそんな雰囲気がある。


 いや、実際にそうなのだろう。

 この男が「あの人」であるのなら、夫人の傷痕を見るに感情のままに拳を振るう人間だとわかる。


 そんな男と対する事は恐ろしかった。

 不意に思うのは、あの男の事だ。

 こんな時、あの男がそばにいない事は心細く思ってしまう。


 でも、だからと言ってここで退く様な事はしたくなかった。

 私は彼女に約束したのだ。

 引き渡すような事はしない、と。


 だから、私は真っ向から粗暴な男を睨み返した。


「帰ってください」


 言い放つと、男は不機嫌そうに顔を歪ませる。


「あいつは俺の女だ。どけ!」


 男の無骨な手が、私の身体を強く押す。

 私はバランスを崩して、尻餅をついた。


 そんな私の横を駆けていく小さな物があった。

 それが何か、目で追う。

 次男だった。


 次男は、男に向かっていき、その足を小さな拳で何度も叩いた。


「何だぁ? このクソガキ!」


 そう言って、男は次男を蹴飛ばした。


 あっ……。


 次男は蹴飛ばされて、私の前まで転がる。

 すぐに立ち上がり、また男に向かって行こうとした。

 そんな次男を私は抱き上げる。


 男から次男を庇うように、背を向ける。


「もう出て行ってください! ここは私達の家です! 勝手に入らないで!」


 私は叫ぶ。

 けれど男は構わずに、玄関から中へ踏み込もうとした。


 拳が振り上げられ、その拳が私へ向けられるだろう事を想像し、目を固く閉じる。


「おい、やめろ」


 そんな声がして、私は目を開けた。

 見ると、誰かが男の腕を掴んで拳を止めていた。


 その人物は、あの男の部下。

 隣家に住む夫人を引き取った人だ。


「なんだよ! お前には関係ねぇ事だろうが!」


 粗暴な男は、怒鳴る。


「感謝しな。この人に何かあったら、お前はかしらにぶち殺される事になるだろうからな」

「はんっ、あの間抜けの何を恐れる事があるってんだ」


 粗暴な男は、掴まれた腕を振り払う。


「いいから失せろ」

「うるせぇ!」


 忠告する隣家の男に対して、粗暴な男は拳を振るった。

 拳は、隣家の男の鼻っ柱を強かに叩いた。


 その鼻から、血が流れ出る。

 しかし、隣家の男は一切怯む様子を見せなかった。

 その泰然とした様子に怯んだのか、粗暴な男は表情を強張らせる。

 見ようによっては、怯えているようにも見える表情だ。


「失せろっつってんだろ」

「ちっ」


 隣家の男の一喝に舌打ちを返し、粗暴な男はその場から逃げるように離れていった。


「大丈夫ですかい?」


 隣家の男は、私の安否を気遣った。

 彼の鼻からは、鼻血が出ていた。


「あなたこそ。大丈夫なんですか?」

「これくらい、なんともありやせん」


 そう言って、流れ出た鼻血を拭う。


「助けてくださって、ありがとうございます」

「当然の事ですぜ。それに、うちの奴が助けてくれって言うもんで」


 そう言って、隣家の男は視線を外す。

 その先には、彼の家があった。

 家の入り口には、隣家の夫人がいた。


 そう、彼女が……。

 あとでお礼を言おう。


 ……よかった。

 とりあえず、危険は去った。

 私は思わず溜息を吐いた。

 同時に、身体の緊張が解れる。


 でも、またあの男は来るかもしれない。

 それは恐ろしい。

 今回は助けてもらえたが、いつもこう何とかなるとは思えない。


 私だけならまだいいが、その時に子供達が傷付けられたらどうしよう。

 そう思うと、次男を抱き締める手に力が入る。


「かーちゃ?」


 次男が不思議そうな顔で私を見た。


 この子達が傷つく事には耐えられない。


 もう一度、あの男に相談しよう。

 どうあっても説得して、何とかしてもらおう。

 そう思った。




 その夜。

 あの男は、夜遅くに帰ってきた。

 子供達が眠り、夫人も寝床で眠っている。

 私は一人、居間であの男を待った。


 帰ってきた男は、酒の匂いを漂わせていた。

 しかし、遅くまで飲んできたわりに酔っているようではなかった。


「ガハハ。何だ。待ってたのか?」

「はい。お話があります」


 私は、昼間にあった事を話した。


「駄目だと言われるかもしれませんが、どうかお願いします」


 今回はどうあっても聞き届けてもらう。

 そのためなら、どんな事でもしよう。


 そう覚悟しつつ、私は頭を下げた。


「なんだ、その事か。なら、何の心配もねぇぜ」


 しかし男はあっさりと答えた。


「……どういう事です?」


 私は顔を上げて訊き返す。


「もう、そいつはこの根城にいないからな」


 え?


「どうして?」

「お前が気にする事じゃ無ぇ」

「はぁ」


 きっと、これ以上事情を聞いてもこの男は答えないだろう。

 この男が話をはぐらかす時は、言いたくない事がある時だ。

 そして言いたくないと思えば、この男は何度聞いても絶対に答えない。


 でも、まぁいい。

 あの粗暴な男はもういない。

 心配事はもうないのだ。

 それだけわかれば、それでいい。


 私は安堵から、小さく息を吐いた。




 あの粗暴な男は本当に根城から姿を消し、例の夫人は根城で一人暮らすようになった。

 今も彼女とは、井戸で顔を合わせる。


 前と同じように。


「おはようございます」

「おはようございます」


 挨拶を交し合う。


 前と同じ。

 けれど、変わった所もある。


 あの男がいなくなって細かった夫人の身体には肉が付き始め、きっと体中の傷痕も癒えて程なく消えるだろう。

 表情にも活力が戻りつつあった。


 水を汲み上げる手にも力がこもり、私が手を貸さなくとも自力で水を引き上げた。


「私は、ここからずっと遠くの村で暮らしていました」


 ある日彼女は、私に身の上話をしてくれた。


「けれどあの男にさらわれて、それからずっと私はあの男の慰み者となっていました。その日々は辛く、地獄のようで……。だから私はあなたに、感謝してもし尽くせない。だから、ありがとう。私を助けてくださって」


 同じくさらわれ、無法者に囲われた者であるはずなのに……。

 どうしてこうも、私と彼女の境遇は違うのだろう。


 彼女の話を聞き、私はそう思った。


 あの男は私の気持ちに関係なく、私を慰み者とした。

 けれど、一度として私を殴るような事はなかった。

 心を犯すという点ではそこに差などないが……。


 それでも私は大切にされているのかもしれない、と少し思えた。


「ガハハ。帰ったぜ」


 夕方になり、そう言って男が帰ってくる。

 たまに酒場へ寄ってから帰ってくる事もあるが、今日はまっすぐ帰ってきたのだろう。


「父ちゃん、おかえり!」

「とーちゃん、おかえりー」


 居間のテーブルに着いていた長男と長女が、あの男を出迎えに行く。


 私は夕食の準備をしていた。

 次男はそんな私のスカートの裾を握りしめたまま、その場から離れない。


「おかえりなさい」

「おう」


 男がテーブルに着き、私は訊ねる。


「食事は?」

「食べるぜ」


 次男を席に着かせ、料理をそれぞれの席の前へ運ぶ。

 今日のメインは牛肉と野菜の炒め物である。


 男の分だけ、少しだけ量を増やしておいた。


 私はこの男に優しく扱われているのだろう。

 なら、私も少しは優しくしてあげるべきなのかもしれない。

 そう思ったからだ。


「あれ? 父ちゃんの料理だけいつもよりちょっと多くねぇか?」


 長男が声を上げる。

 あなた、普段の父親の料理の量を把握しているの?


「お、そうか?」

「ずるいぜ!」

「ずるいー!」


 長男の尻馬に長女が乗った。


「しかたねぇなぁ」


 そう言って、男は子供達に自分の料理を分け与えた。

 それによって、男の料理はいつもより量が少なくなった。


「野菜だけ返すぜ」

「返すぜー」


 男の料理が(野菜だけ)増えた。


 優しくするのも難しい……。

 隣家に住む男。

 特徴を書かなかったのでわかりにくいですが、よくイノシシみたいな顔の男と言われる人です。

 ガハハと殴り合えるくらいに強いです。


 表と裏のある話ですが、裏編に戸惑っているのでもうしばらくお待ちください。

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