ゆめうつつ
短編『いいんだよ』の総合評価ポイントが10000を超えたので、その記念に書かせていただきました。
せっかくなので、原点としてアナちゃん視点の話を書く事にしました。
アナちゃんの話は『いいんだよ』で全部書き切った所があるので、書いてみると難しいですね。
元ネタ成分が多めです。
私の夢の話をしよう。
眠り見る夢の話だ。
夢というものは不思議なもので、現実では見た事も聞いた事もない物を人に見せる時がある。
それは道具であり、場所であり、人物である。
しかし全てが幻想的なわけでなく……。
そこにはこれが夢だという事を否応なく突きつけるような現実も混じっている。
喜悦であったり、不安であったり……。
様々な像を以て現れ、そして消えていく。
それらはきっと、私が押し込めた気持ちの中から浮かび上がってくるのだろう。
そこは広い建物の中だった。
建物の中には空間が広がり、間取りはなかった。
建物の全てが空洞で、人が住むためのものでない事は一目見て察する事ができた。
きっと倉庫か何かだ。
ただそこには何も、収められている様子がない。
あるのは建物の中心に佇ずむ、私。
何故こんな所にいるのか、とんと見当がつかない。
気付けば私はここにいたし、それを不思議な事だとは思えなかった。
私がここにいても何もおかしな事はない、と納得している自分がある。
そしてもう一人。
目の前には、一人の男がいる。
顔を黒いマスクで隠した、黒い服の男。
それが誰かはわからない。
「ガハハ」
そう思っているとすぐにそれが誰かわかった。
この笑い方はあの男だ。
私の手には、この男を殺すための武器がある。
見た事もない形の武器だが、私はそれの使い方をよく知っていた。
そしてもう一方の手には、一枚のコインがあった。
目の前のこの男は、私にとって憎い者だ。
私を拐かし、そして辱めた男だ。
下品で野蛮な……物好きな男……。
この男が憎い。
そして私は、その男を殺すための武器を持っている。
今の私には、この男を殺す力がある。
けれど、私はそれをするべきなのかわからなかった。
だから、コインを指で弾く。
何を成すべきなのか、これに委ねようと思った。
両方が表になったコイン。
表しかでなかったはずのそれに、今は表裏がある。
私の身体の左側が火傷で爛れてしまったように、このコインの片面は焼け焦げて真っ黒だ。
それが裏である。
いや、焼け焦げではなく傷だっただろうか?
まぁそれはどうでもいい。
弾かれたコインがクルクルと回り、私の掌に落ちてくる。
その軌跡を追う私の視線が、急激に動く。
コインが掌へ落ちる前に、男が私を押し倒したのだ。
「何を?」
「これがなけりゃ何も決められないってんなら、お前が決める事なんて何も無ぇぜ。ガハハ」
「卑怯な……ああっ……」
私は男の手に落ちた。
目を覚ます。
思わず起き上がった。
私は闇の中にいた。
それでも、瞼の闇に慣れていた私の目は闇の中も見通せた。
あの男の部屋、寝所の上だ。
側らを見るとあの男が眠っていた。
服は着ていない。
私もそうだ。
眉間を押さえる。
いやらしい事をした後に、いやらしい夢を見てしまったらしい。
これもこの男のせいだ。
すやすやと安心し切った様子で眠る男。
恨みを持つ相手と寝所を共にしているというのに、暢気な事だ。
今なら私でも容易くこの男を殺す事ができるだろう。
しかし……。
私は再び、床に就く。
男から少し距離を離し、背を向けて……。
夢の事を考える。
選択できないからコインで決める、か。
私には必要なものかもしれない。
私は選択できない人間だ。
私が、女など穴さえあればいいと嘯くこの男に辱められた時も、私は何も行動しなかった。
抵抗はなく、ただ顔の火傷を見ればこの男は諦めるだろうと高をくくって……。
その結果、この男の成すがままにされた。
あのような時であっても、私は抵抗しようとしなかった。
私には、選択ができないのだ。
前の私はそんな事もなかった。
けれど……。
選択し、行動した結果、私は身体の半身を炎に焼かれた。
何もかもを失った。
だから私はここにいる。
逃げる事もできず……。
こんな所にいても、決して幸せなど得られないだろうに……。
私は、何かを選び取る事が恐ろしくなってしまったのだろう。
だから、この男を憎しみのまま殺すと言う事を選べない。
一度眠りを経て冴えた頭が、緩やかにまどろみへ落ちていく。
私は縛られていた。
椅子に座らされて、身動きが取れない。
そして周囲には、鉄で出来た樽のような物が多く並んでいた。
……少しの違和感を覚える。
いつもと違う気がする。
頬の皮が引き攣る感覚。
それがない。
前を見ると、目の前の樽の上に鏡があった。
さっきもあっただろうか?
でも、あるのだから始めからあったのだろう。
鏡の中の私の顔におかしな所は無い。
何の傷もない私の顔だ。
……何故、傷があると思ったのだろうか?
油の匂いが鼻を衝く。
すると、どこからか声がした。
「起きたみたいだな。ガハハ」
あの男の声だ。
どこから声が聞こえるのかはわからない。
「ここはどこですか?」
「わからねぇが。どうやら、俺達は別々の場所にいるみたいだな」
なら、何故話ができる?
「油の臭いがします。これは、何でしょう?」
「そっちもか。こっちもだ。どうやら、時間が経ったらここは爆発するみたいだな」
何でそんな事がわかる?
「はぁ……。何でこんな事に……」
「ガハハ」
笑ってる場合ですか?
「まぁ、大丈夫だろう。大人しく待ってろよ。お前はだけは死なせねぇ。だからよ、絶対に助かるぜ。お前は」
何を根拠に言っているのだろう?
それに自分の命がかかっている時に、何て暢気な事なのか……。
こんな時に、私はどうするべきだろう?
何をしようにも、身動きが取れない。
逃げる事も、コインを弾く事もできない。
大人しくしていろと言うが、大人しくしている他にない。
どうしよう……。
何も選べないくせに、そんな事を思ってしまう。
すると、部屋の入り口が蹴り破られた。
現れたのは、三人の人物だった。
三人とも、マスクを被って黒い服を着ていた。
この子達は……。
「ガハハ」
「ニャフフ」
「……」
三人いるのに、どうして三人ともこっちに来たのです?
手分けしなさい。
三人が縄を解いてくれる。
「とーちゃん。かーちゃんは助けたよ」
「ガハハ。よくやったぜ」
「とーちゃんも頑張って逃げてね」
「やってみるぜ」
私は助け出され、建物の外に出た。
すると間一髪で建物が爆発した。
夜の空が赤く染まり……。
遠くの空もまた、ここと同じような赤に染まっていた。
きっと、あの男のいた場所も爆発したのだろう。
大丈夫だろうか?
あからさまに変な夢を見た。
あまりにも変な夢だったので思わず起きてしまった。
私は寝所にいた。
傍らにあの男の姿はない。
代わりにあるのは、三人の子供達が眠る姿だ。
私とあの男の間に生まれた子供達である。
その寝顔を見ていると心が落ち着く。
子供達と眠るようになってから、あの男と一緒に寝る事はない。
今、あの男は一人で眠っている事だろう。
「……」
あの夢の三人は、大人であったがこの子達だった気がする。
時間が経つにつれて、夢の細部はあやふやになっていく。
けれど、だからこそ印象的な部分だけが際立った。
私が夢の中で覚えた認識が強く残っている。
それを踏まえて、そう思うのだ。
いずれ、今は小さなこの子達も大人になる時が来るのだろう。
そうして私の手の中から離れていく事を思えば、待ち遠しいような、そんな日など来て欲しくないような……。
私は子供達の身体に掛け布団をかけ直し、眠りに就いた。
そこは白い部屋だった。
私はそこで簡素なベッドに身を横たえていた。
顔の半分には、傷の手当が成されている。
ぼんやりと天井を眺めていると、不意に少女の顔が私を覗き込んだ。
「お姉様」
声をかけたのは、私の妹だった。
遠い昔に袂を別ち、それ以来会っていない可愛い妹だ。
妹は看護服を着て、私の前に立っていた。
ああ、私は火傷を負ったんだ。
王子を庇って……。
それで療養していて、妹が見舞いに来てくれた。
でも、私は家で療養していたはずなのに……。
それに、あの時の妹はこんな笑顔を見せなかった。
ただ私の顔の有様に驚いて……。
あの時……?
「ああ、お姉様!」
妹は、私に近寄った。
ベッドに手を付いて、私の胸元に顔を埋める。
「いい匂い! お姉様の体臭《香り》が! 肺腑を満たしていく! お姉様の御胸が! 私の顔を幸せな圧で包む!」
私の妹はこんな変な子だっただろうか?
不意に、妹は顔を上げて私を見た。
「それで、結局お姉様はどうなさりたいのです?」
そして、唐突に問い掛ける。
「どうしたい?」
問いの意味が解からず、問い返す。
「お姉様は、本当にこのままそこにいていいのですか?」
「でも、私は何もできないから……」
火傷を負った私には、何もできる事がない。
王子に見放された私に、自由は無い。
このような醜い姿を外へ見せないように、お父様は私が部屋から出る事を禁じられた。
もう私には、どこへ行く事もできない。
修道院へ送られるその日まで、私はここにいる事しかできないのだ。
妹は小さく溜息を吐き、肩を竦めた。
「お姉様。私から、ただ一つ言えるとすれば……。自分の運命は人に委ねるものではありません。幸せを掴みたければ、自分で行動して掴み取らなければ……。あなたはここから出て行く事もできる。全ての事柄には、自分自身の選択が必要なのです」
選択……。
でも私は、もう何も選びたくない。
それでも選べと言うのなら……。
手の中に、冷たい何かの感触が宿る。
握られた掌を開くと、そこには一枚のコインがあった。
「それとも、このまま流されてしまう事がお姉様にとっての選択なのでしょうか? その先にある人生……。あの男のそばにいる事が、お望みですか?」
誰の事?
あの男……?
ガハハ。
笑う声が聞こえる。
そう……。
このまま何も選ばなければ、私は修道院へ向かう道であの男と出会う……。
目を覚ませば闇がある。
時折、奇妙な夢を見て目を覚ます。
その夢には決まって、私の親しい人が出てくる。
それは今の関係もあれば、遠い昔に紡いだ関係でもあった。
夢の中の奇妙な世界で、私は親しい者と出会う。
今回もそうだった。
でも、妹と会うのは久し振りだった。
もう交差する事のない絆。
だから、夢の中であっても会える事は嬉しい。
側らに目を向けると、彼がいた。
もう、子供達はいない。
一緒に眠る事がなくなってからは久しいけれど、今となっては家の中にすら子供達はいなかった。
みんな、この家から出て行ってしまった。
この家に住むのは、私とこの男だけだ。
だから今は一緒に寝ていて……。
だけど、本当に就寝を共にするだけだ。
昔のように身体を求められる事はない。
三人目の子供が生まれてからは、子供と一緒に眠るようになって……。
子供達が大きくなるまで、それが続いた。
私は何年も抱かれる事がなくて、それが今まで続いている。
この男も歳を取ったという事なのか……。
私が歳を取ったからなのか……。
火傷を負った時から、もう損なう物など何もないと思っていたのに。
それならば、この男が私を今もそばに置いているのはどうしてなのか……。
女として……穴としての価値もなく、母親としての価値もない。
今の私には、本当に何の価値もないというのに……。
何故私は、今もここにいるのだろう。
一度、聞いてみるべきかもしれない。
何故、この男が私を今も手元に置いているのか……。
価値の無い、私などを……。
私は再び、眠りに就こうと思った。
男のそばにより、彼の方を向いて横たわる。
変な事を考えてしまって……。
だからすぐには眠れないと思った。
でも、不思議とそんな事はなかった。
私はすぐ眠りへ落ちていく……。
そこは廃墟だった。
何かの建物だった場所。
けれど、半分が倒壊して壁が崩れ、鉄の柱が壁の中からむき出している。
上を見上げれば、闇夜が広がっている。
「お前のせいだぞ。私が死んだのは」
声をかけられた。
そちらを見ると、一人の男が立っていた。
その男が誰か、それに気付くと私は息を呑んだ。
王子……。
私の婚約者だった方……。
何年も経ったはずなのに、その姿は私の知る当時のままだった。
「そうだ。我が家が取り潰されたのも、お前のせいだ」
そう言ったのは、もう一人。
私のお父様が王子から少し離れた場所に、立っていた。
私は二人の言葉に動揺する。
王子が死んだのも、家が潰れたのも私のせい?
「お前がその顔を損なわなければ、我が家が没落する事もなかったのだ」
お父様が言う。
「でも、それは殿下を助けたいと思って……」
「だが、私は死んだぞ」
王子が答える。
「それもお前のせいだ。お前が私達を不幸にしたのだ」
違う!
私じゃない!
だって私には、遠く離れた二人に何もする事なんてできなかった。
「私は、そんな事をしていません」
「嘘を吐くな。気付いているんだろう? 私が誰のせいで死んだのか」
王子は言い、そして続ける。
「あの男は、何故私が暗殺された事を知っていた?」
あの男……。
そう、あの男は王子が暗殺された事を知っていた。
どうして辺境に住む山賊がそんな事を知っていたのか……。
「しかも何故、わざわざその事をお前に告げた? お前と私の関係など、知りえるはずもないのに」
「それは……」
「お前は気付いているはずだ。誰が私を殺したのか」
誰が王子を殺したか。
「お前も償え……。私達のように、不幸へと落ちていけ」
私へ迫る二人に、後退する。
廃墟の床は途中で途切れ、私はその淵に立つ。
その見下ろす先には、闇が広がっている。
落ちれば助からないだろう、深い闇の底……。
「さぁ、落ちろ!」
二人が、さらに迫ってくる。
その時、両手に感触が返ってきた。
小さなコインと武器の感触。
それぞれが両手の中にあった。
「さぁ、好きな方を選んでください」
声がして見下ろすと、妹がいた。
彼女は床の淵から、縄で逆さまに闇へと吊るされていた。
「お先に失礼しています。お姉様。まぁ、私に落ちるつもりなどありませんけれど」
「どうして?」
「お姉様、言ったでしょう? 全ては自分の選択です。人を罰する事も、自分を罰する事も全ては自分で決めなければならないのです。私なら、両方選びます。お姉様は、どうします?」
人を罰するか、自分を罰するか……。
そのための手段は、今私の目前にある。
相手を退けるための武器も、自分を罰するための断崖もここにはある。
選ばなくてはならない?
でも、私には何も選べない。
選ぶ事は恐ろしい。
選んだ先には、きっと良くない事がある。
人を罰する事も、自分を罰する事もできない。
それでも選べと言うのなら……。
私は、片方の手にあるコインを見た。
コインを弾く。
これで決めるしかない。
「言ったじゃねぇか」
不意に、近くから声が聞こえた。
その人物を確認する前に、力強い手がコインを掴んだ。
「お前が決める事なんて、何も無ぇってな。ガハハ」
私のそばには、あの男がいた。
「お前は何も決めたくないんだろ? だからこんなもんに頼らなくちゃならない。だったら、何も決めなくていい」
「でも……」
絶対に何かを選ばなければならない事はある。
人生は選択の連続で、だから避け続ける事なんてできない。
「お前が決められないなら、全部俺が決めてやる。どんな物を選ぶ事になったって、俺がお前を守ってやる。だからお前は、何も選ばなくていいんだよ。ガハハッ」
私は、何も選ばなくていい?
なんて、横暴な理屈……。
私の人生を奪っておいて、その上で私にある選択の自由まで奪ってしまうつもりだなんて。
でも、どうしてだろう。
とても安心する……。
きぃきぃという音が聞こえる。
安楽椅子の揺れる音だ。
瞼を開くと、明るい世界があった。
「お目覚めですか? お祖母様」
声がして見ると、私の膝には小さな女の子が座っていた。
この子は長女の娘で、私の孫にあたる子だった。
長女は王都で結婚して嫁いでいった。
けれど、こうして夫と孫を連れて時折遊びに来る事があった。
仕立ての良い服を着ていて、所作も上品な所を見ればこの子が上流階級の家の子だと察する事ができる。
長女の連れてきた夫もまた、人骨卑しからぬ人間である事がよくわかった。
その所作には、隠し切れない気品がある。
そんな身分の方が、山賊の根城まで出向いて大丈夫なのだろうかと案ずる事はあるが。
それでもこうして、孫の顔を見せに来てくれる事は素直に嬉しかった。
長女は良い夫に巡り合えたのだろう。
「ええ。眠ってしまってすみません。退屈だったでしょう?」
「いいえ。私は、こうしてお祖母様と一緒にいられるだけで楽しいのです」
そう言うと、孫は嬉しそうに笑った。
よくできた子だ。
この歳の子であれば、こうしてじっとしている事なんて退屈なはずなのに。
動き回って遊びたかったはずだ。
でも、今の私ではそれも難しい。
そんな私をこの子は気遣ってくれたのだろう。
頭を撫でる。
柔らかな髪の感触が手に帰ってくる。
「そろそろ帰るよー」
そう言って、長女が孫を呼びに来た。
「はーい」
孫が返事をする。
長女が私の前まで来た。
「じゃあね、かーちゃん。今日はもう帰るよー」
「ええ」
「また来るねー」
そう言うと、長女は孫を抱き上げた。
母親に抱かれた孫が、私の方に笑顔を向ける。
「また会いに来ますね、お祖母様。ニャフフ」
小さく手を振りながら、長女と孫は離れていった。
私は一人残される。
先ほどまであった孫の体温が消えると、寂しさがそっと心に差す。
一緒にいられるだけで……。
孫の言った言葉を反芻する。
そう……。
誰かといられる事は、幸せなのだ。
そばから誰かがいなくなるだけで、強く寂しさを覚えるのだ。
誰かがそばにいてくれるという喜びは、寂しさに比例して強い物なのだろう。
その喜びを幸せと言わずして、何を幸せと言うのか。
私の孤独な時間は長く続かない。
ぎし、と床板を踏む音がする。
私の隣に、彼が立っていた。
「ガハハ」
小さく笑う。
思えば、どんな時でも私のそばには誰かがいてくれる。
それはこの男であり、子供達であり、孫であり……。
どれだけ辛い事があっても、私が本当の意味で孤独だった事はないのかもしれない。
取り分け、長く私のそばにいてくれたのは彼である。
思えば私は、彼に守られていた。
彼は庇となって、世の煩わしい事から私を遠ざけてくれていた。
私が何かを選ぶまでも無く、それでも良い人生を送れたのはこの男が私の代わりに何かを選んでくれたからだ。
そこには多くの苦労があっただろう。
そんな苦労が私に向かないように、一人で一手にあらゆる苦労を引き受けてくれていたのだ。
私は幸せな人生を歩んでいたけれど、彼はどうなのだろう。
これまでの労に報いるだけの幸せを、私は彼に返す事ができているのだろうか?
「あいつら、帰っちまった。また寂しくなるな」
珍しく、彼の声は沈んでいた。
「ええ。そうですね」
私は、彼を見上げた。
彼もまた、それに気付いて私を見下ろす。
「でも、あなたは一緒にいてくれるのでしょう?」
唐突な言葉に、彼は驚いたかもしれない。
けれど、笑顔を返してくれた。
「勿論だぜ」
「ねぇ、あなた」
「ん?」
「私、幸せですよ」
脈絡の無い、唐突な言葉ではある。
けれど、私はその言葉を今どうしても伝えたかった。
男はその言葉に笑顔を返す。
「ガハハ。そいつはよかったぜ。だったら、もっとその笑顔を俺に見せてくれよ」
私も彼に、笑顔を見せていたらしい。
「たまに見るくらいの方が、見飽きないでしょう?」
「見飽きるくらいに見たいんだ」
私の笑顔が見たい、か。
それで少しでも、彼に報いる事ができるなら。
「ガハハ」
真似して笑ってみる。
「真顔で声だけ出しても、笑っている事にはならないんだぜ?」
「難しい事……」
愛想の無さは凝り固まった私の性分だ。
こればかりは、素養の一つだと思う。
だから、難しい。
「いいさ。だったら、自然に笑顔が出るように俺が笑わせてやる」
「そうですか」
「ほらよ」
彼は私の脇腹をくすぐった。
そういうのは違うと思う……。
「くく……ふふふ……」
「笑ったけど、思っていたのと違うな。不自然だ」
そうでしょう?
「笑顔を見たいのでしたら、私のそばにいてください」
「そんなので笑えるのか?」
「それだけでは笑えないでしょう。でも離れていては、私が笑っても見逃してしまいますよ」
「それもそうだな」
「それに……」
一度、言葉を切る。
彼へ向けて、手を差し出した。
彼はその手を握る。
昔ほど力強くは無い、ごつごつとした手。
何度も合わせ、少しずつ変わっていった感触。
そうして手触りが変わっていったように、私のこの手に対する気持ちも変わっていった。
昔は不愉快で恐ろしかったそれも、今はとても落ち着く感触になった。
その安堵を与えてくれる彼に、私は笑顔を贈りたい。
私にとってそれは難しい事ではあるけれど……。
「あなたがいないと、私は笑う事なんてできませんから」
言葉の続きを告げた。
それが、前提条件だ。
彼がいなければ、私は自然に笑う事もできない。
「ガハハ」
彼は何も答えず、短くそう笑った。
ここへ来た時、幸せなんてものは望めるものでは無いと思っていたけれど……。
思いがけない所に、それは転がっている物らしい。
いつの間にか寄ってきたのか、それとも気付かないだけで初めからそこにあったのか……。
少なくとも私は、今それに気付けただけで満足である。
ポイントの増減を見ていると、一喜一憂してしまうので普段は見ないようにしています。
今回も従姉に教えてもらってその事に気付きました。
多くの人に気に入ってもらえたと思うと、うれしいですね。
ありがとうございます。
折角なので、少しだけ無駄話をします。
元々、この話は『ざまぁ』にハマって書こうと思った話です。
『ざまぁ』とはなんぞや、と考えた末に『ざまぁ』とは『見放された者が、見放されたが故に幸せになる話ではないだろうか』という結論に達した事でこのような話になりました。
後に、これは『ざまぁ』ではないという感想をいただいたので、タグから『ざまぁ』は外しましたけど。
ちなみに、この話のプロットは……。
穴さえあればいい。
子供ができて「いいんだよ」
「お前は俺のそばに居ればいいんだよ」
ぐらいしかありませんでした。
骨組みというよりセリフ集のような感じです。
こんなにあやふやなプロットを書いたのはこれくらいです。
あんな濃い三兄弟が生まれる予定はありませんでした。
何故そうなったのかは覚えていません。
その時にあった思いの丈をぶちまけた結果かもしれませんね。
それから、これで終わりというわけではないのですが。
今回の話の最後が、全体的な物語の最後の時系列になると思います。
ここまで読んでくださった方に向けて、改めてお礼を。
ありがとうございました。