最愛の形
「そういえば、お前はいつ結婚するんだ?」
彼女の料理屋。
兄姉揃っての宴の席。
兄さんは唐突にそんな事を聞いてきた。
「好きなんだろ?」
そう言って兄さんが指したのは、この料理屋の店主である一人の女性だ。
この場の誰よりも小さく、一見して子供のようにも見える彼女。
だが、確かな料理の腕を持ち、少し変わったこだわりを持つ人だ。
兄さんの言う通りだった。
俺は確かに、彼女の事が好きだ。
「そうですね……」
なら、兄さんがそう訊ねたのも当然と言えた。
好きな相手とは、結婚するのが自然な事だからだ。
俺と、彼女の話をしよう。
愛情は、さまざまな形を持っている。
髪を撫で、肩を抱き、キスを交わし、互いに抱き合う。
様々な形を持つそれの最良とはどんな形なのだろう。
俺にはそれに対して、明確な答えがあった。
両親や、兄夫婦を見ていれば自ずと俺はその答えを選び取っていた。
けれど、それは間違いなのかもしれないと今の俺は思い始めていた。
いや、違う……。
思い始めていたのではない。
間違いであって、欲しかったんだ。
でなければ、俺が彼女に示そうとする愛情が最良の物では無いと認めてしまう事になるから……。
まだ夜も明けない内に、俺は目を覚ました。
隣で眠る彼女が起きないよう、注意を払いながらベッドから起きる。
……落ち着かない。
そう思えば、手にフリルのブレスがない事に気付いた。
これがなければイライラと落ち着かなくなるので、いつもは肌身離さず持っているものだが。
彼女が時折、外して欲しいと願う事がある。
いつもより乱暴になのもたまには悪くないという話だ。
正直に言えば、あまり良い気分はしない。
イラついていても理性はある。
いや、半ばないようなものか。
それでも、愛情を以って接する相手を乱雑に扱う事が喜ばしいわけはない。
身支度を整えると、そのまままだ日の昇りきらない下町の通りへ出る。
夜と朝の狭間にある時間。
店を出て見上げれば、薄暗い空が広がっていた。
その広い空を遮る物は何もない。
きっと彼女も、看板を出す時にこの空を見上げるのだろう。
それはこんな薄暗い空ではなく、日の光に照らされた明るい空だろうが……。
そう思い、歩き出す。
王都の隠れ家へ向かう。
こうして夜を彼女の食堂で過ごし、朝の訪れを待たずにその場を後にする事は最近の日課となっていた。
「おはようございます。副頭領補佐」
隠れ家へ入ると、若い衆が挨拶してくる。
この長ったらしい肩書きは、副頭領……義姉さんが副頭領の役目を押し付けられた時に無理やり作って俺に押し付けたものだ。
「何もなかったか?」
「へい。連中の方にも、特に動きは無かったようで」
「そうか」
最近は王都での仕事も多くなり、その関係で目立つ行動が増えてきたわけだが……。
その結果、元からこの地に蔓延っていたならず者から目の仇にされるようになっていた。
それも個々人からそれぞれに敵視を受けているわけでなく、その視線は組織的にこちらへ向けられている。
ならず者とはいえ、秩序はある。
そいつらは、ならず者が集まって組織化した集団らしかった。
もしかしたら、そいつらを使っているのはならず者ではなく権力者なのかもしれないが。
あいつらが汚れ仕事を請け負わせるため意図的に組織化され、手駒とされている可能性は十分にある。
俺達のように。
俺達もまた、ただの山賊団ではなく王家の使い走りであるという側面を持っているのだから。
それでもしばらくは互いに手を出し合う事もなかったのだが、何がきっかけかうちの若い衆と連中の間で刃傷沙汰になってしまった。
それ以来、露骨にこちらを狙ってくるようになったわけだ。
とはいえ、それ程危険視しているわけではない。
うちの頭領と副官はバリバリの武闘派であり、今も喜々として連中を潰しにかかっている事だろう。
二人とも腕っ節が強く、正直返り討ちに合う事など微塵も心配していない。
それに、上の人間も少しばかり配慮してくれるようだ。
あのならず者集団は程なくして壊滅する事だろう。
俺が気を揉まなければならない事があるとすれば、できるだけ被害を抑える事だろうか。
前に依頼されていた一件が片付いて、ようやく落ち着けるようになった所だ。
あんな連中を相手に死人を出したくなどない。
「他には?」
「特にありません」
「わかった」
隠れ家での仕事を終えると、俺は彼女の店へ向かう。
これも毎日の事だ。
「おかえりなさい」
当然のように彼女は言い、俺を出迎える。
夕食時から大きく外れ、客足の途切れた時間だった。
彼女は俺を見て、表情を綻ばせる。
昼食はいつもこの店で取っているが、その時の彼女はこんな表情を俺に見せない。
彼女は店主として俺に応対し、俺もまた客として彼女の応対を受ける。
彼女は料理屋の店主として、公私混同をしない事にこだわりと誇りを持っていた。
自分自身への好意ではなく、ただ純粋に料理の味だけを気に入って店へ来て欲しいからだという。
そのために、好かれも嫌われもしないようどんなに親しい相手にも店主として振舞うそうだ。
まぁ、出される料理には多少の贔屓が見られるのだが……。
しかし今の彼女は、店主としての彼女ではなかった。
俺の恋人としての彼女だ。
「ただいま」
言葉を返し、いつもの席へ着く。
その間に、彼女は店の外へ出た。
閉店の札を玄関へかけに行ったのだろう。
戻ってきた彼女に食べたい物を言って、それを聞いた彼女の後姿を見送った。
店に染み付いたものとは違う、今作り始めた料理の香りが店内に広がり始めた。
しばしあって、二皿の料理を持った彼女が戻った。
テーブルに料理を置き、また厨房へ向かう。
すぐに二つのグラスとワインを持って帰ってきた。
彼女は、俺の向かいの席へ座る。
「さて、いただこうか」
「ああ」
二人して、その日にあった事を語らいつつ食事する。
この二人での食事は、俺にとってとても心地の良い時間だ。
いや……。
正確には、この店で過ごす時間全てが心地良い。
食事を終え、彼女が食器を片付ける。
その間、俺は読書をして彼女を待つ。
そんな時だ。
不意に、後ろから背もたれ越しに抱き締められた。
彼女の熱が、首筋に伝わる。
「私は、あなたと一緒になりたい……」
彼女の口が、囁いた。
唐突なその言葉に、体温が上がるのを感じた。
どちらの体温かはわからない。
彼女だったのか、俺だったのか、もしくは二人共……。
触れ合う部分に熱を感じた。
「それは……」
「夫婦になりたいって、事よ。……私はそれを、期待していいの?」
不安にさせていたのかもしれない。
彼女の声はかすかに震えていた。
期待しても当然だ。
けれど、俺がそんな話を一切しないから……。
だから、不安になったんだ。
どう、答えればいいだろう。
俺も、君とそうなりたい。
考えてすぐに浮かんだのはその言葉だった。
多分、考えるまでもなかったのだろう。
気持ちは、決まっていた……。
それなのに、どうしてかその気持ちを言葉にする事はできなかった。
俺はずっと考えていた。
どうしてあの時、俺は答えを出せなかったのだろう。
彼女の不安を消し去ってやれなかったのだろう?
それが不思議でならなかった。
もしかしたら俺自身も、何か不安を感じていたのかもしれない。
彼女と一緒になる事で、起こりえる何かに……。
宴会の席で、兄さんから「結婚しないのか」と問われたのはそんな頃だった。
一緒になる、か……。
兄さんは、それがいいものだといつも語っている。
そして俺自身、そうなのだろうと漠然と信じていた。
結婚するという事は、二人の愛し合った男女がずっと一緒にいる事を誓い合うという事だ。
無論それは国の定められた制度としての結婚という意味でなく、自分なりに解釈した本質である。
人間が国を作り、法律や制度を定める前から結婚というものはあったはずだ。
その根本を俺は、そう解釈している。
結婚は社会内に組み込まれた制度ではなく、もっとシンプルで感情的なものだと俺は捉えている。
両親はそのいい例だったかもしれない。
俺の生まれた隠れ家に、法律や制度なんてものがあるはずもない。
それでも一緒にいるのは、そこに『一緒にいたい』という感情があるからだ。
結婚の根本、本質とは、そういう感情から成り立つものなのだ。
好きだから一緒にいて、好きじゃなくなれば離れる。
そんなシンプルなものなのではないだろうか。
俺が理想としている結婚というのは、そういう感情と感情の繋がりなのかもしれない。
必要なのは気持ちだけ。
心だけ。
「だったら、さっさ結婚しちまえよ」
兄さんが言う。
俺は、彼女へ目を向ける。
彼女は、姉さんの前に取り分けた料理を置いていた。
「……もう少し、考えたいんです」
「ふぅん。好きなんだったら、何も迷う事なんて無ぇだろ」
「そうなんですけどね」
兄さんの言葉は、俺の理想に通ずる。
いや、むしろある種それを体現していると言っても過言ではない。
兄さんは、妻を二人娶った。
それは無論、一般的な事ではなく……。
それこそシンプルに感情的な行動の結果と言えた。
何故そんな事をしたのかと聞けば、それは幸せにしてやりたかったらだと兄さんは答えた。
兄さんは、どこまでもその行動原理に感情が付き纏う。
本当に、俺の理想に近い人間だ。
比べて俺は、彼女へ対する大きな好意を自覚しながら、その感情を行動に反映する事ができないでいる。
だから俺は今、理想に背いている状態なのだろう。
俺は少し、頭に頼りすぎる所がある。
俺も兄さんのように、もっと直感的な行動ができるようになりたい。
ただ……。
俺は、義姉さんを見る。
副頭領ではなく、もう一人の方だ。
まだ子供と言ってもいいような容姿の女性だ。
まぁ、俺の彼女も似たような容姿だが……。
……それは今関係ない。
二人を幸せにしたいから結婚したい、と兄さんは言っていた。
それは感情的な理由だ。
けれど……。
何故、二人が好きだからという理由ではないのだろう?
そんな疑問を抱きながら眺める彼女は、どこか寂しそうに見えた。
兄姉揃っての宴から、数日が過ぎた。
その日も、俺は夜を彼女と過ごした。
ただいつもより寝過ごしたらしい。
目を覚ますと、彼女が俺の顔を覗き込んでいた。
目が合う。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
挨拶を交わし、上体を起した。
窓を見ると、外は薄暗かった。
「疲れていたのかもしれないね。いつもなら、起きた時にはいないのに」
「かもしれないな」
「おかげで、あなたの寝顔を初めて眺める事ができた。それは嬉しい事ね」
彼女がベッドから下りて、着替え始める。
俺もそれに倣った。
「折角だから、朝食も食べていく?」
「……そうだな」
少し迷ったが、彼女の申し出を受ける事にした。
いつもは夜だけなので、朝も一緒に食事を取る事は少し奇妙な感覚だった。
ただ、俺はそれを心地良く思った。
夫婦になるという事は、こういう時間が増える事でもあるのだろうか。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい」
彼女に見送られて外へ出る。
これもおかしな気分だった。
いつもより、遅い時間だ。
太陽は昇りきっているだろう。
けれど、見上げた空は薄暗い。
厚い雲が空を覆っていた。雨が降るのかもしれない。
隠れ家へ向かおうとして、足を止める。
妙な躊躇いがあった。
いつもの朝と違うからだろうか?
妙に落ち着かなかった。
手首を確認すれば、フリルのブレスはある。
どうして、こんな気分になるのだろうか?
俺は振り返った。
店へ戻る事にした。
そして料理店の前に来ると、バタバタ騒がしい音がする。
急いで店に入り……。
そこには、ナイフを手に持った男がいた。
男は彼女へナイフを突きつけている。
「おい!」
怒鳴りつけると、男は振り返って俺を見た。
男は動揺しつつ彼女の後ろに回って首に腕をかけ、ナイフを顔へ突きつけた。
「来るんじゃねぇ! 近づいたら、串刺しにしてやる!」
「何だテメェはっ!」
怒鳴り返すと、男は少し怯む。
「う、動くな!」
ナイフを持った手は、常に彼女の顔の近くにあった。
男は見るからに狼狽しており、手に持ったナイフは今にも彼女を傷付けてしまいそうだった。
くそっ……。
心の中で悪態を吐く。
その時だった。
彼女が、男の足首裏を引っ掛けるように強く蹴りつけた。
そのまま後ろへ体を強く打ちつける。
男が、彼女もろともに床へ仰向けに倒れこむ。
「ぐあっ」
「いっ……」
彼女が小さく悲鳴を上げる。
倒れた拍子にナイフの刃が彼女の頬を切り裂いていた。
カッとなった。
俺の体は考えるよりも速く動き、男のナイフを左手で掴んでいた。
刃が食い込むのも構わず、握りこんで男からナイフを取り上げる。
「ぐっ、この!」
悲鳴を上げる男の顔に、拳を落とした。
鼻の骨が砕け、男の鼻から血が大量に出る。
「や、やめてくれ!」
懇願する男の顔に、もう一発拳を見舞った。
抵抗する気力を失った男の腕から、彼女を助け起こす。
「ありがとう」
礼を言う彼女の頬に触れる。
「え?」
彼女の頬からは血が流れていた。
血を拭うように、その傷口をそっと撫でる。
「血で汚れちゃうわ」
「たいした事じゃない」
治癒の魔法をかける。
「それほど即効性があるわけじゃないが、治りは早くなるはずだ」
「そう、ありがとう……。でも、あなたの左手だって」
「こっちもすぐに治るさ」
左手の傷は思ったよりも深い。
本当は治るまでに少し時間がかかるだろう。
「さて……」
男に向き直る。
倒れたままの男の襟首を掴みあげる。
「何でここにいる?」
「へへ、何でだろうな?」
「答えろ!」
一度、男の頭を床へ叩きつける。
「ぐ……。そりゃ、あんたが出てくるのを見たからさ……。あんたは俺達にとって憎い敵だからな」
「お前、連中の一味か」
最近、うちにちょっかいをかけてくるならず者集団の事だ。
俺達を目の仇にしている相手は、今の所あそこだけだ。
「そんなあんたが、女に見送られながら出てきたんだ。だからこの女が、お前の情婦だと思った」
なるほどな。
彼女を人質に取ろうと思ったか。
そうすれば、俺の弱みを握れると……。
……なら、俺のせいか。
「どうする? お前の大事な人間がばれちまったぜ? せいぜい、また襲われないように気をつけるこったな」
「いや、それは嘘だな。他の奴は知らんだろう」
「何?」
「でなければ、お前一人で入り込むわけはない。もっと大勢で来るはずだ。情報だけでなく、彼女の身柄を確保してから売り込んだ方が手柄は大きい。そう踏んだんだろう?」
「……くそ」
やはり、そうか。
今回の事は、手柄を焦ったこいつの単独行動だったんだろう。
そのおかげで助かったわけだが。
さて、こいつはどうする……?
「どうするの? その人」
彼女が問い掛けてくる。
「殺しはしねぇよ。話が漏れないようにはするけどな」
「そう……」
彼女の声色には安堵があった。
「もう、二度とこんな事は起こらねぇよ」
そう言って、俺は男を料理屋から連れ出した。
俺は、男の腕を捻り上げたまま路地の奥へと歩んで行く。
人通りの少ない方へ。
光が入らない暗い方へ……。
「俺を殺さないつもりだって? 甘いこったな」
連行される男が、馬鹿にするように笑う。
甘い、か……。
そうかもな。
「そうだな。俺もそう思う」
言って、俺は男を突き飛ばした。
路地の壁に寄りかかって倒れる男。
そんな男の首に、手をかけた。
「な、何を……」
「お前を生かしておけば、彼女の事がどこかへ知れるかもしれない。お前の口は軽そうだからな」
「が、かぁぁぁ……」
始めから、こうするつもりだった。
あの場でああ言ったのは、彼女の心をわずらわせたくなかったからだ。
自分の事で、人が一人死ぬ。
その事実を明かしたくなかった。
確かに、甘かったんだろうな。
俺は……。
どこかで思っていたのかもしれない。
自分達にこんな事は起こらない、と。
俺達が、そんな特別な存在であるわけはないのに……。
今までこの居心地の良さに浸り続けてしまった。
この状況は、その甘さの報いだ。
手の中で、男の抵抗が失せた。
力の宿らない、ただの肉の感触が指に伝わる。
人の命を奪う事に、何の感慨も抱かない。
それが日常となる生き方。
今までの彼女の生き方とは、正反対の生き方。
自らの行いを真っ当に誇る事のできない生き方だ。
そんな生き方を彼女にさせたくはない。
だが、俺が一緒にいては……。
そうか……。
この懸念が知らず、俺の心の中にはあったのだろう。
だから、俺はあの時に答えられなかったんだ。
俺は、空を仰いだ。
周囲を囲う建物の壁に、空の灰色がぽっかりと切り取られていた。
俺と彼女では、仰ぐ空が違う。
彼女の仰ぐ空はこんな薄暗い路地に囲われた物じゃない。
料理屋の店先から見上げる、広い空だ。
それから数日後。
俺は、彼女を呼び出した。
場所は、俺と彼女が始めて会った川だ。
俺はここで彼女に命を救われたのだ。
「最近、店に来てくれないかと思えば、手紙で呼び出しなんてね」
この期に及んで、迷いはあった。
その迷いが、数日の間を空けたのだろう。
「君と話がしたかったんだ」
「別に、こんな暗い場所じゃなくたっていいじゃない。私の店で話しても、いいじゃない」
「もう、俺があの店へ行く事はない」
「……どうして?」
思ったよりも彼女は驚いていなかった。
まるで、それを前もって知りえていたかのようだ。
問い返す言葉に、俺は一度彼女から顔をそらした。
川を見る。
黒い水の流れには、ちらちらと町の小さな灯りが反射していた。
自分の覚悟を決める意味も込めて、息を吸い、深く吐いた。
それから改めて言葉を口にする。
「これは、じっくりと考えて決めた結論だ。俺は、君と一緒には……夫婦にはなれない。俺は君から離れようと思う」
俺の言葉に彼女の表情は消えた。
次第に、その顔が表情を作る。そこには深い落胆が見えた。
「そう……。そうなんだ」
誰にともなく呟く彼女は、顔に笑みを作ろうとしていた。
けれどそれはうまくいかなかったらしい。
笑おうとしつつも笑えない、そんな歪な表情で俺を見る。
「理由を聞いてもいい? 私が、嫌いになっちゃったから?」
「いや、そうじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「俺は……お前を危険に巻き込みたくないんだ」
「そう。あの事があったから……だよね?」
「そうだな」
「私が……邪魔? 足手まといに思えた?」
確かに、合理的に考えればそうだろう。
彼女の存在は、俺の邪魔になる。
山賊団の仲間を危険に晒す事にもなる。
でも、俺の感情が一番に上げる理由はそれじゃない。
今の相手だけじゃない。
これから先も、今の仕事を続けていく以上俺の周りには多くの敵が待ち受ける事になるだろう。
そんな連中が、彼女を危険な目に合わせるかもしれない。
それは、どうしても許容できなかった。
「それは違う。ただ、純粋に怖いんだ。失ってしまうのが……。それは……それだけは耐えられない……。だから、これからはもうあの店に行かないし、君から距離を置こうと思うんだ」
「……そう。……じゃあ、私が店を捨てればどう?」
彼女へ向き直る。
そんな俺に彼女は言葉を続けた。
「あなたがそんな事を言うのは、私があの料理屋を手放さないと思ったからでしょう? お義兄さんの奥さん達みたいに、私もあなたについていけば……。私は、あなたと一緒にいてもいいのかしら?」
それは、とても魅力的な申し出だ。
けれど……。
「俺は、君にその決断をさせたくないんだ。君が必死に守ったあの店を自分の意思で捨てさせるような事はしたくない」
彼女が息を呑むのがわかった。
「それに、俺はあの場所を残したい。君の待つ、君と過ごせるあの場所を」
「もう、訪れる事ができないのに?」
「……そうだな。でも、残ってさえいれば、いつかまたあの場所へ帰る事ができるかもしれないから」
いつか……。
そう、俺に何のしがらみもなくなった時に……。
また、あの場所で彼女に「ただいま」と言ってもらいたい。
「わかったわ。……たまには、会えるんでしょう? あなたとは」
「あまり会わない方がいいんだけどな」
「嫌よ。少しぐらい危険でも、私は会いに行くわよ」
「……わかった」
答えるのと同時に、彼女がこちらに走り寄る。
俺の体に抱きついた。
そんな彼女の背中に、俺も手を回す。
「ありがとう。多分あなたは、私の事をとても考えくれたのね。私が、傷つかないように辛い目に合わせないように」
「ああ」
「ただ、一番辛い事だけは残してくれたみたいだけど」
皮肉を利かせた彼女の声は震えていた。
「すまないな」
「いいわ」
彼女は顔を上げ、俺の顔を見詰めた。
その瞳から、一滴の涙が頬を伝う。
一滴だった涙が、滾々と湧き出してくる。
次々と零れ出て、乾く暇もなく頬を濡らしていく。
そんな彼女の頭を抱く。
耳元で囁く。
「俺は、お前と一緒になる事はできない」
「……うん」
「だが、愛している」
「……うん」
「それはずっと変わらない」
「……」
「これから先、何があっても俺にはお前だけだ」
「……だったら、たまには会いに来て。あんまり間が空いてしまうようだったら私、浮気しちゃうんだから」
「……それも構わないさ。君が幸せになってくれるなら、俺はそれでいい」
「嘘に決まってるでしょ……!」
そう言った彼女の手が、一度強く俺の胸を叩いた。
そして、一際強く俺の体を抱き締めた。
俺の、彼女に対する愛情は強く心に居座っている。
その手を放したくない。
離れたくもない。
でも、だからこそ遠ざけなくちゃならない。
これは彼女を想っての事だ。
彼女が好きだから。
彼女を愛しているからこそ……。
だからこれが、俺にとって彼女に与えられる最良……。
最愛の形だった。
それから俺は、一度も彼女の店へ行っていない。
たまに彼女自身と会う事はあるが……。
それもあまり長くなり過ぎないようにしている。
接点は少ない方が良いから。
町で見かけても、声をかける事はない。
他人のフリをして、すれ違う。
そんな時に、時折彼女は何かを落とす事がある。
手荷物であったり、帽子であったり……。
俺はそれを拾い、その時だけは言葉を交わす。
まるで初対面のように他愛ない言葉を交わし、またすぐに離れる。
その時に彼女は、とても嬉しそうに笑うのだ。
その笑顔を見れば思い出す。
あの店で、俺を迎え入れてくれた彼女の事を……。
そして思うのだ。
きっといつか、また会いに行こう。
彼女の待つ、あの店へ……。
彼女の笑顔と向き合うために。