壊れた約束
私と、そしてお姉様の話をしよう。
それは幼い頃の事。
遠く、そして優しい、夢の中でしか味わえないような記憶だ。
屋敷の中を歩く私の足取りは軽い。
まるで、踏みしめるたび、フカフカした絨毯が私の足を跳ね上げているようだった。
でも、本当の所は私の気持ちが浮かれているからだろう。
朝食前のこの時間、屋敷の廊下を歩くこの時間が、私は一日の中で一番好きだった。
これから好きな人に会う。
その期待に満ちた時間というのは、心を浮つかせるものなのだ。
部屋の前に辿り着き、私は一度と深呼吸する。姿勢を正し、ノックする。
「お姉様、入っていいですか」
「いいですよ」
淡々と、それでいて優しげな声が返ってくる。
私は逸る気持ちがドアを乱雑に跳ね開けないよう、気をつけながら部屋へ入った。
部屋の主、お姉様は手に持った本へ栞を挟む所だった。
藤の椅子に座ったお姉様は、机の上に本を置き、私に目を向ける。
「おはよう」
「おはようございます、お姉様!」
お姉様は表情を作らず、感情を乗せない声で挨拶する。
それは誰に対しても、どんな感情を懐いている時でも変わらない。
そんなお姉様は、人から無愛想で冷然とした人間だと思われがちだ。
けれど、私は知っている。
私は人のあらゆる仕草からその人の心を読む事に長けていて、だから私は知っている。
お姉様が本当は、とても優しく暖かな心を持つ人間である事を……。
私はそんなお姉様が大好きで、朝食前にお姉様を訊ねるこの時間が何よりも好きだった。
朝食までの間、私はお姉様と過ごす。
特に会話があるわけではない。
日々の内にあった事を話すならば、眠る前に話している。
何の出来事もない朝の時間は、静かの中で二人過ごすだけだ。
私はお姉様のそばにいるだけで幸せだけれど、お姉様は手持ち無沙汰の私を前にすれば、気を使って何かしらの話をしようとしてくださる。
そういう気遣いをさせないために、私はもっぱら本を持参して部屋へ訪れる事にしていた。
静けさの中、時折お姉様を盗み見ながらページを捲る時間。
それはすぐに過ぎていき、メイドが部屋へ朝食の準備が整った事を伝えに来る。
二人だけの時間が終わった事に少しの残念さを覚えながら、私達は食堂へ向かう。
食堂では、すでにお父様とお母様がテーブルへ着いていた。
お父様は上座で、お母様は側面の席に座っている。
お姉様はお母様の隣に座り、私はもちろんお姉様の隣に座るのだ。
ただ、この時ばかりはお姉様を独占する事ができない。
お姉様は両親の事をとても愛している。
もちろん、私の事も等しく愛しているが、それでもお姉様の愛情が私だけでなく分散されてしまう事が私には不満でならなかった。
それというのも、両親がお姉様の愛情に報いていない事を知っているからだ。
一家揃って朝食を取る食堂は、仲の良い家族の団欒にしか見えない。
しかしその中で、家族全員に親愛の情を贈るのはお姉様だけだろう。
ただしそれらは殆どが一方通行で、お父様もお母様もお姉様へ愛情を向けていない。
向けているのは、出来損ないであるお姉様への侮蔑だけだ。
それをひた隠し、表面上は笑顔を向けていた。
その笑顔には打算がある。
お姉様との仲を取り繕い、御しやすくするという打算だ。
いざという時に言う事を聞かせるために、情のあるフリをしているだけなのだ。
特に今は大事な時期で、そういった小細工に余念がないのだろう。
涙ぐましいまでの努力だ事で……。
「私と王子様との婚約が決まったそうです」
お姉様が、嬉しそうに報告したのは少し前の事だ。
淡々とした口調ではあるが、お姉様がとても喜んでいる事が私にはわかった。
正直、私はちっとも嬉しくも喜ばしくもなかったけれど、お姉様の気分を害したくなかったので、心底から喜ぶフリをした。
「本当ですか! おめでとうございます、お姉様!」
「ありがとう」
頭をなでなでしてもらえた。
やった!
心にもない事を全力で喜んだかいがあった。
お姉様のソフトタッチは私の心労以上の価値がある。
おねだりしていないのにしてくれた所もポイントが高い!
でも、喜んでばかりもいられない。
私はお姉様が王子の婚約者になる事が不安だった。
何故なら、この婚約には裏があるからだ。
あの凡愚で有名な王子様には、今暗殺計画が持ち上がっている。
そして、それを主催しているのはうちの家なのである。
お姉様が婚約者としてあてがわれたのは、当家が暗殺の首謀者である事を疑われないための措置だった。
だがしかし、それではお姉様が暗殺計画に巻き込まれる可能性がある。
それでもお父様がお姉様を差し出したのは、お姉様の安否にこれっぽっちの興味も示していないからだった。
お姉様が危険にさらされても、お父様にはどうでもよい事だったのだ。
朝食が終わると、私はお姉様と一緒に庭へ出た。
お姉様は花が好きで、朝食の後はいつも庭の花壇へ足を運ぶ。
「綺麗ですね」
花壇の前でしゃがみ込み、お姉様は呟く。
表情には出ないけれど多分うっとりとした気分なのだろう。
私にはわかる。
正直、私には花の良さなんてわからない。
だから、花を前にしてもさっぱり楽しくはなかった。
「そうですね。見ているだけで、心が洗われるようです」
けれど私のこの言葉に嘘は無い。
だって私が見ているのは、お姉様なのですもの!
花を愛でるお姉様の顔、とっても綺麗ーっ!
これならずっと見ていても飽きない。
「そういえば、いつも思っていたのですが。あちらの温室にはどうして入ってはいけないのでしょうね?」
そう言ってお姉様が示したのは、庭の片隅にある温室だ。
「さぁ、どうしてでしょうね」
どうしてなのか私は知っていたが、すっ呆けて答える。
あの温室で栽培されているのは、あらゆる毒物の原料となる様々な毒草だ。
匂いをかぐだけで危険な物もあるので、お父様は立ち入り禁止にしているのだ。
しばらく会話が途切れ、お姉様が口を開く。
「ねぇ、少し入ってみませんか?」
うぇっ!
普段なら、お父様の言いつけを破る事なんてないのに!
どうして今回に限って?
「お父様に怒られますよ?」
「そうなのですけれど。外から見るだけでも、綺麗な花がたくさんあるので……。近くで見てみたくて……」
だったら外から見るだけで満足しましょうよ、お姉様。
「いえ、やっぱりやめた方がいいですよ」
「……そうですね。言いつけは守らないといけませんね」
とても悲しそうな様子でいらっしゃる。
見ているだけでこちらも心が痛んでくる。
本当の理由を話してもいいのだけれど……。
純真なお姉様は、家のそんな後ろ暗い部分を知れば悲しむだろうから、私としてはできれば言いたくないのだ。
あまりにも衝撃が大き過ぎて、寝込んでしまうかもしれない。
けれど、お姉様のがっかりした姿も見ていたくない。
「わかりました。じゃあ、一度だけ入ってみましょうか。でも一度だけですからね?」
「ええ。一度だけです」
「あんまり花が綺麗でも、手に触れちゃダメですよ?」
「?」
「ほら、お父様って少し几帳面な所がありますから、花の生え方とかも憶えていそうじゃありません? 触って角度が変わっていたら、気付くかもしれないじゃないですか」
「そうですね。お父様はそういう所がおありになりますね」
「ええ、ですから触っちゃダメですよ」
「わかりました」
よし……!
なんとか納得してもらえた。
そうして、私達は温室へ向かった。
温室の扉を開けると同時に、私は魔術を発動させる。
風を操る物だ。
温室に充満する毒気がお姉様の方へ行かないよう、風を操って外へ送り出していく。
そして、私とお姉様の周囲に毒気を遮る風の壁を纏わせておく。
ずっと使い続けるのはとても疲れるが、致し方ない。
そうして踏み入ると、お姉様の喜びが一気に花開くのが分かった。
手近な花の前にしゃがみ込む。
「綺麗な花ですね」
「お姉様、触っちゃダメですよ?」
「ええ、わかっています」
ああ、匂いも嗅いじゃダメです。
私は風を操ってお姉様に感づかれないよう、花の香りを遮った。
「こんなに綺麗なのに、匂いはしないのですね」
香りを感じたら最後ですから。
それから、お姉様が迂闊を触らないよう気をつけながら温室の中を見て回った。
ああ、お姉様、それは棘が刺さると覚めない眠りに落ちる奴です!
触っちゃダメ!
約束したでしょう!
おうっ! それは体の自由を奪って、そのままゆっくりと死に至る花!
だから触っちゃダメですって!
この温室を出る頃、私は魔術の使いすぎと心労でへとへとに疲れて切ってしまっていた。
「綺麗でしたね。とても気分がいいですね」
けれど、上機嫌にそう言うお姉様を見ていると、疲れたかいがあったと実感した。
後悔は無い。
温室から出ると、今度は図書室へ向かう事にした。
その途中、廊下を歩いていると、前方から一人の男が歩いてくる。
「あの方は……」
お姉様は男を見て呟いた。
これといった特徴のない中年男性だ。
男は私達とすれ違い様に、愛想の良い笑顔を向けて小さく会釈する。
「お姉様、先ほどの方をご存知なのですか?」
「ええ、時折見かけますね。お父様の書斎から出てくる所を見たので、きっとお父様のお客様なのでしょう」
「そうなんですか」
さっきの男は、お父様お抱えの暗殺者。
長年、お父様の邪魔になる人間を殺して来た凄腕だ。
魔術も使えるらしい。
今日、屋敷にいるという事は仕事の話をしに来たのだろうか?
この時期という事は、王子の暗殺は彼に任されるという事なのかもしれない。
そんな後ろ暗い人間をお姉様の目に触れさせたくないな……。
今度お父様をそそのかして、屋敷への立ち入りをさせないようにしようかな。
もしくは、消えてもらうか……。
王子暗殺の暗殺後「アシが付かないように」とでももっともらしく言えばなんとかできるかもしれないな。
図書室に着くと、お姉様はおもむろに本を手に取った。
備え置かれたテーブル席に着き、その本を開く。
私もお姉様に倣って手近な本を手に取り、お姉様の隣の席へ座る。
それからしばらく、私とお姉様は黙々と本を読んだ。
「ん?」
不意に、お姉様が声を出す。
「どうしました?」
「本に紙が挟んでありました」
お姉様は、そう言って文字と記号と数字の書かれた奇妙な紙を持って見せた。
「書き損じだと思うのですが、図書室の本を読んでいるとたまにこういった紙が挟んであるのです」
「そうなのですか。でも、もしかしたら大事なメモかもしれませんよ」
「ええ。ですから、念のためにいつも同じページに挟んでいます。でも、本当にこれは何なのでしょうね?」
「本当ですね」
言いながら、私はお姉様が呼んでいる本のタイトルを見た。
他領を舞台にした旅行記のようだった。
お姉様が見つけた紙は、裏帳簿のような物だ。
公にできない取引を記録したリストである。
それを暗号化してメモに書き記している。
恐らく、このメモの取引先は本の舞台になっている他領との物だろう。
お父様は図書室の蔵書を利用して、取引先との帳簿を保管しているのだろう。
取引先に関連した本を目印にして、メモを挟んでいるのだ。
溜息が出そうになる。
お父様は切れ者ではあるが、こういった部分がいい加減だ。
暗号に力を入れているから、隠し場所がお粗末になっているのかもしれない。
私からすると、とても甘く感じる。
もっと凝った隠し方をすればいいのに。
でも、おかげで面白い読み物が見つかった。
「お姉様、他にはどの本にメモが挟まっていたか、憶えています?」
そのまま図書室で長い間過ごし、気付けば窓から射す日の光は黄色に染まっていた。
赤く染まるのも時間の問題だろう。
「今日はここまでにしましょうか」
本を照らす西日に気付き、お姉様は言った。本を閉じる。
「そうですね」
私は本の上に置いていたメモごと本を閉じた。
お姉様を盗み見る合間に少しずつ解読していたので、私は家の領の内情とそれと繋がる貴族についてかなり詳しくなっていた。
お姉様と図書室へきた時は、これらを読み進めていくのも悪くない。
図書室を出ると、次はお姉様のお部屋へお邪魔させてもらった。
そこでお姉様と二人っきりの時間を過ごすのだ。
ただ少し腹立たしかったのは、お姉様のする話の割合が最近は第一王子の物に片寄っている事だ。
これは面白くない。
今日も、お姉様は王子の話を嬉しそうに話していた。
嬉しそうなお姉様を見るのは楽しいが、その内容が王子なのでちょっと複雑である。
「でも、寂しくなってしまいますね。あなたとあまり会えなくなってしまいますから……」
お姉様は言う。
寂しそうな様子だ。それが私との別れを惜しんでの事だというのは少し嬉しかった。
結婚すれば、お姉様はお城で住む事になる。
そうなれば、親族とはいえおいそれと会う事が叶わなくなるだろう。
「もし、お嫁に行っても私は、お姉様のそばにいますよ。メイドにでもなって」
しかし、貴族の令嬢ならば王城でメイドとして働ける。
一緒にいようと思えば、手はいくつかあった。
「それは、いけません」
あら?
どういうわけか、お姉様はそれを拒絶した。
「私は王族の妻になります。王族の人間とは、いつも危険が付き纏っているのです」
「それは、そうですけれど」
「私は、あなたにそんな危険な場所へ来てほしくありません」
もしかして、お姉様は御自分のおかれる状況を察しているのだろうか?
「第一王子は王に最も近い身分。その身はいつも、他の兄弟達に命を狙われているのです。周囲には陰謀が渦巻き、王子は常に危険の只中にあるのです。そして私もまた、その危険の渦中へと巻き込まれていく事でしょう。だから、危険なのです」
お姉様は力説する。
内情を理解しているかと思ったけれど……。
全然、そんな事なかった。
今の王はあまりにも慈悲深く、お歳を召したからできた事もあって、子供達を皆愛している。
だから、兄弟同士で殺し合うような事が無いよう、王子達への監視を徹底しているそうだ。
特に最初の子供である第一王子を溺愛しているという理由もあるだろう。
だから、この国で王子という立場は、第一王子の暗殺が最も難しい立場なのだ。
妹を前にして的外れな事を力説するお姉様が可愛い。
でも、必死に私を守ろうとしてくれる所が嬉しく、頼もしかった。
けれど……。
「それでもいいです。私、お姉様と一緒にいたい」
「ですが……」
「私は、お姉様と離れ離れになる事が何よりも辛いのです。だから、お願いします」
私は深く頭を下げる。
私の前で、お姉様が逡巡しているのがわかった。
やがて、お姉様は口を開く。
「……わかりました。正直に言えば私も、一人でお城へ入るのは心細かった。あなたが来てくれるのならば心強く思います」
私は顔を上げる。
「ありがとうございます!」
笑顔で礼を言う。
「危険が降りかかろうとも、私が守ってあげます」
「はい。お願いします」
とはいえ、むしろ危なっかしいのはお姉様だ。
お姉様はあまりにも貴族としては能力が低い。
あまりにも人として真っ当すぎる。
そんなお姉様が、あの汚らしい貴族社会の中で私を守る事なんてできるはずがない。
むしろ、お姉様は自分の身すら守れないのではないだろうか。
さっきの話だって王子達からの暗殺はないだろうが、実際に危険なのは本当だ。
あらゆる者から狙われ、お姉様はそれに巻き込まれるかもしれない。
私がお姉様と一緒にいたいと思うのは、そんなお姉様を私が守ってあげたいとも思うからだ。
そばにいて、お姉様を貴族社会の悪意から守りたいのだ。
「約束ですよ、お姉様。私のそばにいてください」
「ええ。約束です」
私も誓う。
必ずお姉様を守ってみせる。
どんな事からも、必ず……。
私はそこで目を覚ました。
目元を拭うと、涙が手に付いた。
「姉妹揃って、大嘘吐きですねぇ」
私のそばにお姉様はいない。
そして、私はお姉様を守れなかった。
あの約束はすでに潰えている。
あの暗殺事件の日、どちらの約束も破られてしまった。
「お姉様……」
思わず呟く……。
その呟きへ応えるように、部屋のドアがノックされる。
私はもう一度目元を拭い、声をかけた。
「何用ですか?」
「王妃様、殿下のお妃様がお目通りを願いたいとの事です」
「通しなさい」
私が言うと、一人の女性が部屋へ入って来た。
女性は姉とよく似た顔をしていた。
その腹は大きく膨れている。
彼女は妊婦だ。
お腹の大きさからして、もうすぐ生まれる事だろう。
「どうしました?」
「もうすぐ生まれるかもしれないのですけど、何分初めてなので……」
普段から、飄々とした性格の子ではありますが……。
不安なのでしょうね。
「こちらへ来なさい」
私はそばに置いてある椅子を示した。
「はい」
彼女がその椅子へ座る。
「大丈夫ですよ。安心してください。危険な事があっても、私が守ってあげますからね」
私は約束を守れなかった。
それはもう、取り返しのつかない事実だ。
でも、もう約束は破らない。
今の私はそれだけの力がある。
その力の限り、私はこれから守りたいものを守っていくのだ。
「不安が紛れるように、少し話をしましょうか」
「どんな話ですか?」
「私の姉の話です。とても優しいお姉様の……」
「是非、聞きたいです」
彼女は目を輝かせた。
そんな彼女に、私は語って聞かせる。
昔々にあった、私とお姉様の話を。