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格子越しの夜明け

作者: 歌埜 朔日

 ちゃんちきと大広間から華やかな声が聞こえてくる。今宵の客は大店東屋の旦那だ。いつもはそわそわする囃子も、今日のゆえには気鬱だった。藤乃姐さんが死んだのだ。ゆえは藤乃の禿だった。

 すわ足抜けだと大騒ぎになり、男衆の大捜索の末、姐さんは見つかった。大川で。その左手は、男と縄で繋がれていた。男の顔は水に膨らんでいたが、それでも微かに見覚えがあった。いつも一切で姐さんを買いに来る、小さな献残屋の若旦那だ。だがその男には、姐さんを請け出すだけの甲斐性はなかった。

 足抜けの前日のことを、やけに覚えている。

「あんたは早くこんなところを抜け出しな」

 しかし色黒で餓鬼のようなゆえに、そんな日が訪れるとは思えない。それでもゆえは聞いた。

「なんでです?」

 その答えを口にするときの姐さんは一等きれいだったからだ。

「好いた男と見る朝焼けは、それはそれはきれいなものだからさ」

 あんなに美しかった藤乃姐さんも、全身が水にふやけて醜くなっていた。それでも微かに笑みを浮かべて見えたゆえは安堵した。

「姐さんの見た朝焼けはきれいだった?」

 その答えは、もう永遠に知ることはできないし、ゆえにはまだ理解ができない。誰と見ようが朝焼けは苦しい一日の始まりの合図だ。

「知りてえなあ」

 思わず郷里の言葉が出た。

 ゆえが知っているのは、郷里の貧しさと花街の煌びやかさ。どろどろとした醜悪な世。だが、この世は広いという。その中に姐さんの言っていたものが見つかるかもしれない。

「この世ってやつを、見てみたいなあ」

「面白いやつだな」

 ゆえに声を掛けたのは、着流しに脇差一本。目と鼻筋がすっと涼しく通った色男だ。

「おまえだろう、藤乃の禿だったというのは。この世が見たいのか」

 ゆえは男が何を言いたいのか分からない。だけれど、素直に答えた。

「あい」

 ふうむと男は唸り、じろじろとゆえの顔を見つめる。

「おまえは美しくなりそうだ」

「藤乃姐さんもそう言った。だけど、おらは色も黒いし、痩せっぽちだし、姐さんみたいに華もない」

「それはまだ子どもだからな。俺が外の世界を見せてやる。その代わりに、おまえの未来をもらう。どうだ?」

 ゆえは少し考えて、簡単だと頷いた。未来なんてものはもともとないに等しい。

「よし、おまえを買おう」

 男の大きな手がゆえの手を掴む。

「おまえの年季を払ってやる。まだ禿なら、宴も祝儀もいらんだろう。安いもんだ」

 色男はおかみさんにその場で十両もの金を払った。文句ひとつ言うことなく、そのまま行李一つのゆえの荷物を持ち、ゆえに着いてくるように言う。

 ゆえの行李を持っているというのに色男の足は速く、ゆえは一生懸命はぐれないように、色男の跳ねあがる裾を目で追いかけた。

「お、おらは五両で売られた。兄さんはふっかけられたんだ」

 ゆえは我慢できずに、色男に声を掛けた。そこで色男はようやくゆえの息が切れていることに気付き、足を止めた。

「名乗りが遅れたな。俺は透護だ」

「透護さま」

「さまは余計だ。これからはおまえの兄となる。おまえの名は」

「……ゆえ」

 透護は少し考えて、首を振った。

「相応しくない名だな。新しい名を親父殿にもらうことにするか」

「親父殿は、透護さ……兄さまの父親かい」

「今日からおまえの父親でもある。これからのおまえは、大店東屋の養女だ」

「東屋!?」

 ゆえは目を白黒とさせた。

 東屋といえば、日本橋の袂というほどの場所に、広い間口の店を構える小間物屋だ。肌が透明になるという白粉に、情熱の炎のような紅。そして珊瑚や真珠、鼈甲をたっぷりと使った髪飾り。禿が到底買えるようなものではなく、いつもその名が憧れだった。そんな大店の養女になるということなど、俄かには信じられるはずもない。

「な、なんでおらがそんな……大店の養女なんて、そんな身の丈に合わねえ」

 透護はゆえの頭をぽんと優しく撫でる。

「おまえは美しくなる。浮世絵師がこぞって描きたいというほどに。俺を信じろ」

 真っ直ぐな瞳は、本当にそれを信じている。いや、未来が見えているのではないかというほどだった。ゆえは答えることができずに、唇を固く引き締めた。

 はぐれると困るという透護は、ゆえの手を引いて東屋へ気軽に入っていく。

「ぼん、ようやくお帰りで。今夜もご逗留なされるのかと思いましたよ」

 番頭と思われる年嵩のいかつい男が、しかめつらで透護をからかう。鬼瓦のような顔がおっかないゆえは透護の後ろに半分隠れた。

「つれないな、源太。俺だって親父殿のお遣いを済ませてきたところさ」

 源太と呼ばれた男は、目を眇めてゆえを見る。そして声を潜めた。

「……まだ幼い子じゃありませんか」

「これでももう十四だと。ここで腹いっぱいに食ってよく寝りゃあ、年なりに育つさ。ゆえ、こいつは番頭の源太だ。ちょっとおっかない見かけだが、いい男だ」

「おっかないは余計ですよ」

 源太は腰をかがめて、透護に隠れているゆえに視線を合わせて、如才ない笑みを浮かべる。おっかない顔は変わっていないものの、印象が柔らかく変わった。

「初めまして、お嬢さん。これからよろしくお願いしますね。ただいま旦那さまにお伝えしてきましょう」

 東屋の旦那は、ゆえのいた置屋――主に藤乃の常連だった。だからゆえもちらりとその姿を見たことはある。優しそうな笑い皺に冷めた目が対照的だったことを覚えている。

「さて、ゆえ、親父殿のお呼びだ」

 ぼんと背中を叩かれ、我に返る。どこか神妙な透護の声に、ゆえはごくりと息を呑んだ。

 源太が襖を開けると、旦那は上座で煙草を燻らせていた。

「で、透護。その娘かい」

 いきなり突いて出たのは、ゆえの値踏みだ。

「はい。ゆえと申しますが、親父さんに新たな名をつけてもらおうと思っております」

「ふうむ」

 旦那は盆に灰を落とすと、ゆえをじろりと見つめる。それだけで、四方八方から見られているような錯覚に陥る。

『本当にあんたはぼんくらだね』

 親も、置屋のおかみさんも、ゆえのことをそう言った。とりたてて器量よしでもなく、特技もない。この話は破談に終わるだろう。ゆえは膝の上で硬く握った手を見下ろしていた。だが、再び煙草の煙が燻りはじめ、旦那の満足そうなため息が聞こえた。

「おまえにしちゃあ、いいのに目を付けたな」

「そうでしょう。そうでしょう」

「すぐ図に乗るのは悪い癖だ。今日からは凛と名乗りなさい」

 ゆえはなんだか分からないまま姿勢を正し、なんだか分からないまま大きな声ではいと答えた。旦那は満足そうに頷く。

「おまえはきょうから東屋の娘だ。遠い親戚の娘を引き取ったことにしよう。東屋の娘として恥ずべきことはしてはいけない。その名の通り、凛とお過ごし。そして……」

 ご隠居は笑みを湛えたまま、煙を吹く。

「とりあえずは江戸一番の親孝行になっておくれ」

 ゆえ――凛はがばりと大きくひれ伏した。それはまるで親子ではなく、主と従者のようだった。

 その日から、生活は一変した。

 満足いくまで白いご飯が食べられ、夜はふかふかの蒲団で眠ることができる。寺子屋へ足を運ぶまでもなく、師があちらからやってくる。論語に和歌、舞にお琴に茶や華、香の道まで。

 知識を得る充足感の反面、気を張った生活に疲れを感じると、ふと透護がやれ神社詣でだの、歌舞伎だのと凛を外へ連れ出した。それが凛を思ってのことだと気付いたときには、すでに凛は透護を兄だとは思えなくなっていた。東屋へ来てから二年が過ぎていた。

 その頃には言葉遣いも仕草も、すっかりと大店の娘になっている。ときたま置屋の雑然さが懐かしくなるが、ここでは何も不自由がない。芝居が見たいと言えば乳母日傘で送り出され、浮世絵がほしいといえば、売り切れ御免の版画も手に入る。夢の中にいるようだ。

 凛は源氏物語を開きながら呟いた。

「私は何もせずこのままでいいのでしょうか」

 姿勢良く書見台に向かう凛の背中越しに、透護が寝転がって黄草紙を読んでいると分かっていての問いだ。最近透護は外へ遊びに出かけることが減った。その代わり、こうして凛の部屋でぐうたらしていることが多い。

「おまえ、鏡は見ているか?」

「毎日髪を解かして、おしろいを塗りますもの」

「毎日の慣れというのは恐ろしいものだな」

 くっくっという透護の笑い声が続く。凛は少し苛立って、頁をめくった。

「なんだというのです?」

「おまえはきれいになった。俺の見立てどおり、日本橋、いや江戸一の娘だ」

 凛は振り向いて座りなおす。膝で透護ににじり寄り、寝転がる透護の顔を見下ろす。

「兄様は、本当にそうお思いですか?」

 透護は凛の遅れ髪をそっとかき上げ、優しい声音でささやく。

「ああ、俺が嫁にほしいぐらいだ」

 凛は顔に火が付いたと思った。それどころか、首筋辺りまで燻っている。

「凛は――」

「残念だな」

「凛は兄様が望むなら――」

「藤堂の次男坊との縁組みが決まった。由緒ある武家だ。半年後には白無垢を着ている」

 今度はざっと、急な雨でも降ったかのように、血の気が下に落ちていくのがわかる。

「凛はそんなお話聞いておりません。第一お会いしたこともないのに」

「一度会っている。先日、親父殿の客に茶を持って行ったろう」

 そのようなことは日常茶飯事だが、確かに武家の親子に茶を出したことがあった。

「あれが見合いだ。おなごのほうからは断る術はない」

「そんな。だって、凛は兄様を――」

 その口は、透護の手によって優しく塞がれた。

「武家の次男など、婿の話でもないと厄介者だからな。藤堂は店を、東屋は力を手に入れる。もう決まったことだ」

 いつも凛としているようにとしつけられたが、その名で呼ばれるようになってから初めて肩を落とし、背を丸めて俯いた。ようやく自分が買われた意味がわかったのだ。

「凛はそのために、ここへ連れてこられたのですね」

「最初は藤乃をと思っていたが、藤乃は自分の想いを貫いたからな……」

 二人の間に沈黙が流れた。いつもは空気のように傍にいるのに、いつの間にか薄いさぼん玉でも張っているかのようだった。指で突いたら、弾けてしまう。

「凛がそのために買われたのなら、凛には異存はありません」

「……そうか」

「ですが、凛の心までは、誰も買えるものではありません」

 藤乃姐さんは好きな男と見る朝焼けはきれいなものだと教えてくれた。ようやくその意味がわかるようになったのに。

「兄様、最後に教えてください。兄様は凛を愛しておいでですか?」

「もちろん、何より愛しい妹だよ」

 透護は愛おしげに凛の頬に手を当てる。その仕草が妹へのものではなければいいのにと、凛は切に願う。

「わかりました」

 凛は再び居住まいをただし、透護に深々と頭を下げた。

「兄様にはこれまでお世話になりました。お礼申し上げます」

 頭を上げたとき、透護の姿はすでになかった。凛の頬には一筋の涙が伝っている。だがそれをぐいと拭い、鏡の前に座りなおした。

 確かに肌の色は白くなった。頬がふっくらとし、髪をきちんと結い上げ、美しくなった娘の顔がそこにある。見慣れたはずの顔がまるで他人のようで、鏡の中の顔を撫でる。

「姐さん、わっちには叶わない夢のようだよ」

 その瞳は真っ直ぐと自分を見据え、覚悟を決めた腹だった。

 最後の問いに、透護は嘘をついた。透護は嘘をつくとき、必ずいつもよりも少し声が高くなる。それはじっと透護ばかりを見てきた凛だからわかることだ。だから、その想いだけ抱えて生きていける。凛はそう思い、再び涙を流した。

 それから二日後、新しく仕立てられた振袖を着た凛を見て、透護は目を細めた。

「やっぱり江戸一の華だねえ」

 その言葉だけで凛の心は静かに凪ぐ。先を歩く透護の背をじっと見つめて、東屋へ来たときのことを思い出す。あのときははぐれないようにと透護と手をつないで歩いたが、もうそんなことはできない。だから一生この背を覚えていようと思った。

 芝居小屋の前で落ち合った藤堂家の次男坊は、柔和な顔をしていた。凛より十は上だろうか。二本差しにふらりと足取りを乱しているのが頼りない。だが、これからは夫としてこの人に仕えることになるのだ。

「はじめまして、お凛どの。拙者、藤堂啓次郎と申す」

「凛と申します。どうぞよろしくご指導申し上げます」

 二人が堅苦しく挨拶を交わしていると、透護はおいおいと口を挟んだ。

「きょうは団十郎が曽我五郎をやるってえんだから、楽しまなきゃ損だ。さあ入った入った」

 そして一人さっさと芝居小屋の中へと入っていく。急いで追いかけると、芝居小屋は熱気に包まれていた。幕が引けたときには、凛も興奮に昂ぶっていた。

「団十郎のあのにらみ、本当に心の底からぞくりと致しました。それに――きゃっ」

 思わず立ち止まって拳を握りしめていると、後ろからどんと肩を押された。それを啓次郎が抱き留める。

 凛が詫びを入れようとすると、相手はごろつきだということが見て取れた。それでも凛は居住まいをただし、頭を下げる。

「申し訳ございません」

「いてえ、いてえ。今ので肩が外れたなあ。どうしてくれるってえんだ」

 凛がどうしたものかと兄を見上げると、透護は珍しく真剣な顔で睨みを聞かせている。

 凛は恐ろしさから透護の袂をぎゅっと掴む。昔置屋にもときどきこういう気の荒いものが混じっていた。大抵は男衆が追い払うのだが、妓たちに振られた男にとって、憂さ晴らしの相手は禿たちに向けられることすらあった。その恐怖がよみがえる。

「大の男二人で、お姫様の守り役ってところか。そっちの兄さんは二本差しじゃあねえか。こいつぁ本当にお姫様かもしれねえぜ」

 凛の一張羅から、羽振りのよさに目を付けたのだろう。男たちはいきりたって匕首を取り出す。その途端、啓次郎は女のように甲高い声で短い悲鳴を上げ、腰を抜かしたようにへたり込んだ。

「おいおい、腰の重さに耐えきれなくなったかい。それとも懐にも重いものを持ってらっしゃるのかい」

 男たちがずんずんと詰め寄るのに、透護がにやりと笑って進み出て、何かを握らせる。

「兄さん方、ほしいのは血よりもこちらのほうでしょう」

「いやに話がはやいな」

「私は商売人でございます。損得で動くのが性分。それとも四谷道場の折り紙付きの腕、お見せしたほうがよろしいでしょうか」

 男たちはそれを聞いて腰がひけたようだ。

「お、おう。今回はそれで手を打ってやろうじゃあないか」

「さすが、わかってらっしゃる」

 透護は去ろうとする男たちにぼそりと何かを囁いた。男たちは血相を変えて去っていく。

「お、お凛どの、大丈夫でござったか」

 さっきまで腰を抜かしていた啓次郎は、いつの間にか凛の手を握りしめている。凛はその変わり身の早さに軽蔑を露わ、手を振り払おうとした。しかし、その凛の手をさっと透護が取り上げる。

「藤堂どの、此度の見合い、お断りさせていただく」

「そんなことが許されるとでも!?」

「こんな失態が知られたらどうなさいます。あんたみてえな奴に凛を娶る資格はねえ!」

 言い捨てると凛の手を引いたまま、町外れのほうへと足早に向かう。

「すまねえ、凛。おまえを巻き込んだ。何も知らなかった無垢なおまえを。あのときは、間違ったと思うときが来るなんて思わなかった。苦界の女が武家に入ることは幸せに間違いないと――」

「兄様!」

 後悔ばかりを口に、ずんずんと突き進む透護を、凛は全身の力で引き止める。

「あのまま苦界へいれば、いつかは幾人もの男たちと虚しさを交わし、穢れた心に一生縛られていたことでしょう。でも兄様がそこから助けてくれた。あのときから今までずっと、凛は……凛は兄様を好いております」

「凛……俺とともに下阪する気はあるか。親父殿がこのまま俺たちを許すはずもない」

「凛は兄様と一緒ならどこへでも。凛の居場所は、兄様のお傍です」

 凛のひたむきな視線に、透護はふっと目を逸らした。そのことに、凛は不安が過ぎる。だが透護は凛の手を強く握り直し、再びずんずんと歩き出す。辿り着いたのは船宿だった。

 凛は二人きりなのが落ち着かずそわそわと何度も座りなおすが、透護は誰かに手紙をしたため、すぐに来た返事をむと、凛の正面に座りなおす。

「夜を待って、大阪行きの船に紛れ込む。苦労をさせるかもしれないが……」

 そこで一旦言葉を止め、凛の目をじっと見つめる。凛は透護の黒曜石のような瞳に囚われる。ほしい言葉がもらえるかという期待から、手に汗が滲む。

「本当に俺でいいのか?」

 凛の望む言葉ではなかった。きっと透護は凛への責任感から、共に逃げようと言ってくれているのだ。

「……兄様がいいのです」

 その瞬間、目の前が暗くなる。透護に抱きしめられているのだと気付いたときに、顔がかっと赤くなる。

「俺は何をしても中途半端だ。親父殿のように冷淡にもなれず、だからといって真面目にもできねえ。何にも真剣になれず、中途半端に生きている男だった。だけど、凛、おまえが俺を男にした。どんどんきれいになっていくおまえを見て、他の男のものだと嫉妬に狂いそうだった……初めて諦めたくないと思っている。好いた女のためになら、俺はきっと何者にもなれる」

 ――好いた女。

 ようやく透護の心に触れられた。あのとき突くのが怖かったさぼんが割れた。

 凛もぎゅっと透護に抱きつき、涙を流しながらただ頷き続けた。


 その夜、船宿から大川を下り着いたのは、豪胆なことに東屋の廻船の船着き場だった。

「源太が手を回してくれてな。夜を待って船に乗れと。合図が――」

 そのとき、不自然にぐるりと大きく円を描く提灯があった。

 透護は「あれだ」と嬉しそうに凛に振り向き、二人は足早に船に近付く。この船に乗れば、二人の新しい生活が始まるのだ。河岸までわずか。

 その幸福感に思わず笑みがこぼれた凛に、何か暖かいものが降った。雨ではない。金臭い、女の凛には馴染みのある匂い――血だ。

「兄様……!?」

 後ろへ倒れ込んできた透護の身体を抱き留めきれず、凛も一緒に倒れ込む。どうやら深く袈裟に斬られたようだ。

「いや、いやっ! 兄様っ! 兄様、しっかりして!!」

 恐慌のまま叫ぶが、透護からは暖かい命がどんどんと零れ出ていく。

「透護、凛。おまえたちには失望した。なんのために今まで育ててやったと思ったんだ」

 仮初めの父親の厳格な声がする。

「父様! 私は戻ります。藤堂様へ嫁ぎます。だから兄様を――」

 そのとき、透護抱きかかえる凛の手に、ぬるっとしたものが触る。透護の手だった。

「り、ん……だめ、だ……ふたりで……」

 手から力がふっと消える。

「……兄様……?」

 凛は力の抜けた透護の手を取り、自分の頬に当てる。自分の思いは遂げられないと思ったあの日、透護は初めて凛の頬に触れた。あのときの手は温かかった。

『好いた男と見る朝焼けは、本当に美しいものだよ』

 藤乃姐さんの言葉がよみがえる。あれは凛への遺言ではなかったか。

「そうね、兄さん。二人でいきましょう」

 凛はずっずっと透護の身体を引きずりながら、河岸へ近付く。

「凛? 何をして……」

 冷酷と名高い東屋の旦那も、さすがに焦りの色を見せた。その顔を見て、凛はようやく世というものを見た気がした。

「凛は兄様と二人でいきます」

 そして透護の身体を抱きしめたまま、大川へと身を投げる。

 ぶくぶくと自分の口から息が泡となって消えていく。凛はぎゅっと透護の身を離すまいと抱きしめた。

 ようやく姐さんの気持ちがわかった。何がなんでも二人一緒になりたい気持ち。きっと透護と見る朝焼けは何よりも美しい。苦界から救われたのは、まさに今だったのだ。


 翌朝を待って二人の捜索はされたが、川の底に沈んだか、流されたか。二人の姿が見つかることはなかった。

 しばらく経って、東屋は怪異に見舞われることとなる。夜中に浮かぶ火の玉、朝には水辺から何かが上がってきたかのような水の跡が、次第に旦那の部屋へと近付いていく……。

 二人は心中したのではないかと噂が立ち、二人の恨みが怪異を起こしているのだというのが当然のように囁かれる。噂は人を遠ざけ、店は傾き始めた頃、東屋へ一人の女が訪なった。月の明るい晩だった。

 運よくすんなりと旦那へ通されることになった女は庭先へ通された。旦那は障子を開けると、思わず動きを止めた。

 月に照らされた姿は、舞い降りた天女ではないかというほどの美しさだ。しかし、その輝きを引き立てているのは、白い頭巾。怖じ気づいたことを感づかれたかと思われぬように、虚勢を張って女を嘲笑する。

「比丘尼がこんな夜中になんのようだ。それとも夜鷹の真似事か」

 比丘尼は気を害したふうもなく、にいと笑って見せる。

「東屋へかかる怨念を、ご祈祷致したく」

「ふん、要求はなんだ。金か」

 比丘尼は素直に頷く。旦那は迷いながらも問うた。

「いくらだ」

 あと三日もあれば、水の跡は旦那の部屋の前に辿り着くだろう。なにより、蔵の一つを空けなくてはいけないかというほど、店は窮めている。後がなかった。

「金一千」

 旦那は笑う。

「そんな馬鹿な話を受ける者があるか」

「怪異が収まりましたらでよろしゅうございます」

 旦那は損得を勘定して、渋々を装って頷く。

「それでは早速、お嬢様のいらした部屋へ案内していただきとうございます」

 そして一晩中祈祷をする間誰も近付いてはいけないと言い残し、部屋の中へと籠った。

「本当に大丈夫なんだろうな」

 旦那は責任を押し付けるように、源太に問う。源太は難しい顔をしたまま頷く。

「私が部屋を見張っておきますよ」

「むう……頼んだぞ」

 そしてその晩から怪異は止み、比丘尼は昼頃に旦那へ挨拶に現れた。

「やはり亡くなった若旦那とお嬢様が帰る場所を失っておりました。僭越ながら、行くべき場所へと導かせていただきました」

 怪異が止んだ以上、旦那はいやいや千両箱を比丘尼へ出す。そして、源太がその箱を比丘尼の寺まで運ぶというのを、汚らわしいものを見るように見送ったのであった。そこで旦那は、今までの出来事を全て忘れることにした。

 比丘尼と源太は、寺ではなく船宿へとやってきていた。すでに女は比丘尼の格好を脱ぎ捨て、町娘の格好となっている。

「だんな、入りますよ」

 たおやかな比丘尼姿のときとは違い、女の声は闊達だ。

 爽やかな風がさっと通り抜け、中にいた二人が振り向いた。開け放した窓の外を二人で覗いていたようだ。川面の煌めきでも見ていたのだろうか。

「おう、首尾はどうだった」

 透護が笑顔で出迎えた。凛もその隣で微笑んでいる。

「上々ですよ。全てお嬢様の考案した通りに運びましたよ」

 源太が肩に担いだ千両箱をどさりと置いた。そしてそのまま膝をつき、頭を下げる。

「私が手紙を読まれたばかりに、透護さまにこんな傷まで負わせてしまいました。申し訳ありません」

「何を言う、源太。川から俺たちを救ってくれたのも、この作戦が成功したのもおまえのおかげだ。こんな傷の一つや二つ……ってえ」

「兄さま、まだそんなに動いちゃいけません」

 凛が慌てて、傷を押さえる透護を支える。大丈夫だと笑う透護を少し睨んで、凛は源太と女に頭を下げた。

「お由もありがとう。こんなに危ない橋を渡らせてしまって」

「なんだい。同じ置屋で育った仲じゃないか。あちきだって源太さんの前金で身請けしてもらったんだ。お互い様だよ。それで、これからどうするんだい?」

 透護はしっかりとした口調で返す。

「この金で小さな店を出そうと思う。そして凛と所帯を持つ」

 凛は恥ずかしそうに頬を染めた。源太は嬉しそうに微笑む。

「それはそれは、おめでとうございます。私たちのことは忘れて、どうか新しい生活を」

 透護と凛は手をついて、頭を下げた。

「長い間、本当に世話になった。今回のことも。心から礼を言う」

「これからもどうかご健勝で」

 頭を下げられた二人は、なんと返したものか、気恥ずかしそうに無言のまま部屋を去った。

 いつまでも頭を上げない凛を察して、透護が軽口を叩く。

「なんだ。俺がいるっていうのに、あの二人のほうが恋しいっていうのか」

 凛は目の端の涙をぬぐいながら、口元に笑みを浮かべる。

「兄様ったら」

「どこへ行こうか。やっぱり商売なら大阪かな。いや、伊勢もいいな」

「凛は兄様となら、どこへでも」

「……また兄様と言ったな。名で呼ぶことと決めただろう」

「あ……」

 もごもごと何かを呟く凛を、透護は優しく抱きすくめる。

「凛、おまえに世界を見せてやると言った。だけど、二人で見よう。俺も知らなかった世界を、二人で見に行こう」

「はい、透護さん」

 凛の心にふと過ぎる。二人で見る朝焼けよりもきれいなものがあるかもしれない。これからは、それを二人で探し続けるのだ。

 このときの風にのって届いたちりりんという風鈴の音が、生涯凛の心に残った。


(了)


読んでいただきありがとうございます。


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