対 熊
回想終了。
場面は初回の直後から。
「のわッ!」
史宏の意識が戻った時、まず見えたのは再度振るわれた熊の右手。
どアップで眼前に迫ってくるそれを、慌てて膝を折ってかわす。直後、熊の爪は身体を沈めた史宏の頭のすぐ上を通り過ぎる。後ろにもたれかかるようになっていた太い樹の幹に、深い爪痕が直線で刻まれた。
どうやら、史宏が意識を失っていたのはほんのわずかな時間だったらしい。その一瞬の間に、頭の中で夢のようにリプレイされた記憶は、ほとんど完全に甦っている。
だが今は、そんなことを考えている場合ではなかった。記憶を気にして同じ失敗を繰り返して、もう一度熊に殴られるのは御免だ。幸い、さっきはヘルメットのおかげで、軽い脳震盪を起こすだけで済んだようだが、何度も熊の強烈な攻撃を受けては、ゾルジョッカー特製の髑髏ヘルメットも無事で済むとは保障できない。
樹の根元にしゃがみこむような格好になっていた史宏は、熊がもう一度爪を振るってくる前に、その横を転がるようにして熊と樹に挟まれた状態から脱する。それを追いかけるように爪が振り下ろされた。が、こちらの動きの方が早い。熊の爪は、史宏が通り過ぎた後の地面を掘り返した。
熊の斜め後ろに転がり出た。身を起こすと同時に、腰の特殊警棒を1本引き抜く。はじめに持っていたナイフは、熊の最初の一撃をくらった時に取り落としてしまった。今も熊の足元近くに落ちているが、さすがにそれを拾うまでの余裕はない。
が、殺傷力には劣るものの、牽制にはむしろリーチの長い特殊警棒の方がいい。短時間だったとはいえ、ついさっき意識が一瞬飛ぶほどの衝撃を頭に受けている。実のところ、まだ史宏の頭はぐらぐら揺れている状態だった。おまけにさっき、間合いをとるためとはいえ、そんな状態で前転したりしたものだから、起き上がって熊に向き直った時には足がよろけるところだった。
「よし! 命が惜しくないなら、かかって来い!」
それでも、史宏は警棒を正面に構えて強気に声を上げた。相手は獣。弱みを見せたら、喜んで襲ってくるだろう。逆に戦意を見せることで、相手に警戒を促す。頭の揺れが治まるまでの時間を、いくらかでも稼ぎたい。最善は、このまま戦えば自分も痛い目を見ると判断して去ってくれることなのだが、それはさすがに虫がよすぎる考えだった。
「とっ」
こちらの威嚇に多少は躊躇う素振りを見せたものの、結局退くことなく鋭い爪の付いた熊パンチが振るわれた。史宏は構えた警棒でそれを迎え撃つ。
弾き返すほどの力はないが、警棒を使えば、受けていなすくらいはできる。あのヒーロー気取りを思い出した今となっては、熊のパワーもスピードも、やはり奴には劣る。他に気を取られなければ、防御もできずに無防備に一撃をくらうようなことはない。
奴に劣るといっても、イコール自分の方が上では当然、ない。
右手、左手、また右手。
二度、三度と続く熊パンチを受け流しつつも、そのたび力に押されて少しずつ史宏の身体は後ろに下がっている。
揺れる頭を抱えて無理に転がり出たおかげで、これ以上は下がれないということはない。とは言っても、熊の攻撃をいつまでも受け流すだけでは、埒が明かない。しのいでいる間に、そろそろ頭の揺れも治まってきた。
「ギャッ!」
左右の熊パンチの合間を縫って、鼻面を警棒の先端で打つ。初めての反撃。自分が攻撃されたことに驚いたのか、熊は悲鳴を上げると、手で鼻を押さえるようにして後ずさった。
そこに追い打つこともできたが、史宏はあえて逆に自分も下がって、熊との距離をとる。
史宏の側に、無理に熊を倒すべき理由はない。今の自分ならなんとか倒せるかもしれないが、それまでに攻撃をくらってこちらも負傷する可能性は低くない。熊が攻撃を受け流し続けるだけでは向こうがあきらめないのでこちらも反撃したが、それに怯んで下がるというならそれでいい。
そんな期待からの行動だったが、顔から下ろした両の前肢を地に着けた熊は、そのまま4本の肢で巨大な砲弾のごとく突進してきた。
さすがにこれは受け止められない。史宏は慌てて大きく横に跳んで、かろうじてそれをかわす。突進する熊は、そのまま獣道を外れて森に突っ込む。バキバキと音を立てて進路上の数本の樹がへし折られた。
折れ飛んだ枝を踏みながら振り返った熊の両眼は紅くギラついており、鋭い牙を剥き出して唸りを上げる。
「あぁ……、どうやら退く気はまるでない、な」
どう見ても怒りを露わにしている姿。史宏は、困ったようにヘルメットの上から頬の辺りを指で掻く。実際、さっきまでの熊パンチと違って、この突進はちょっと厄介だった。
推定体重2~300キロの巨体が、猛スピードで突っ込んでくる。これでは受けたところでそのまま吹っ飛ばされてしまうだけだ。
さっきと同じく横に跳んでかわそうとしたが、直後に前肢が大きく振るわれる。よけたつもりの史宏を追いかける軌道。
咄嗟に警棒を盾にかろうじて受け止める。突進の勢いが乗った一撃は、さっきまでより遥かに重い。後ろに2メートル近く弾き飛ばされた。獣道にブーツのかかとが擦れて作った、轍のような線ができる。
よけたつもりのところにもう一撃で吹き飛ばされる。マスクドナイトとの最後の攻防と同じ形。奴にやられていながら、学習できていない。今度は直撃でないだけ、少しはマシと考えるべきか。
「イ゛――ッ!」
ともかく、三度目の突進はさせない。こちらに向き直ろうとする熊に、史宏は今度は自分から向かって行く。
今やられたことをそのままお返し。警棒を大きく振りかぶって、加速の勢いを乗せて叩き込む。頭を狙うつもりだったが、熊もこちらを迎え撃とうとしたのか、振り下ろす右手にぶつかった。
「グオオオォォォ!」
偶然だったが、ちょうど爪の付け根の辺りに直撃。指の1、2本でも折れたのか、痛みに大きく吠えた。血を流す右手を滅茶苦茶に振り回す。だが、今度は容赦してやるつもりはない。
簡単には退かないというなら、戦意を完全に失うまで徹底的に痛めつけてやるしかない。傷ついた手を狙ってさらに警棒を振るう。
暴れているため狙いからずれる。人間でいう二の腕の辺り。毛皮に覆われているので、効いているのかわからない。
振り回す腕をさけて少し下がる。下がったままではまた突進が来るので、警棒を構え直して再び前へ。
もう一度、今度は振り回す腕の軌道を見て、それに合わせるように。
ほぼ狙ったとおりの一撃。右手がさらに傷ついて血が噴き出す。これでもう、右手はろくに使えないはず。
立ち位置を変えて、熊の右手側に回り込む。
今度こそ狙いは顔。わかりやすい急所だ。警棒を思い切り突き出す。
「グギャオオオオォ!」
大きな悲鳴。
鼻先を全力で突いたつもりだったが、またしてもずれた。警棒の先が突き刺さったのは、熊の左目。
何かが潰れるような感触が、手に伝わるような錯覚。警棒が刺さった場所から、熊の顔を大量の血が流れ落ちる。一部は警棒を伝って史宏の手元まで流れてきた。
驚き慌てて警棒を引き戻したが、左目があった場所にもう光はなく、暗い穴から血が溢れ続けていた。警棒の先には、血に塗れているだけでなく何かゲル状のものがこびりついている。
確定だろう。思いがけずに深い傷を与えてしまった。
「ギャゴゥオオオォォ!」
痛みで錯乱しているのか、もう完全に滅茶苦茶に暴れている。さすがにもう追い打つ気にはなれず、近くにいるのも危ないので距離をとる。
突進攻撃は来ない。もうそんなことなど考えられないようだ。
戦っている間によけたり押されたりしていたが、いつの間にかほとんど熊に出会った元の位置に戻っている。熊がこちらに向かって来ないうちに、視界から外さないよう注意しながら、近くに落ちていたナイフを回収。貴重な道具だ。なくすわけにもいかない。
まだ熊の方は盲滅法に暴れていて、残る右目にこちらが見えているのかどうか。
そう考えたのがフラグになったか。ナイフを拾うためにかがんだ途端、視界の端から熊が急に突っ込んできた。見えてはいても、史宏の態勢が悪い。よけきれない。
咄嗟に拾ったばかりのナイフを振るう。牽制のつもりだったが、熊は構わずぶつかってきた。
指を潰した右手に次いで、左にもナイフで毛皮を裂かれた赤い線が浮かぶ。その傷を代償に、突進の勢いのまま飛び込んだ巨体が、史宏の身体を地面に押し倒す。
「ちょ、くぉっ……」
なんとか押し返そうとするが、200キロを超える体重に潰されないよう支えるのが精々。上に圧しかかってきた熊は、左目から流れ込んだ血で一部赤く染まった牙をこちらの顔に近づける。顎が眼前で大きく開かれた。
「がぁッ!」
ほとんど反射的に首から上を逸らした結果、左の肩口に噛み付かれた。
ゾルジョッカーの戦闘員スーツは優秀。鋭い牙でも破られていないと信じたいが、咬合力だけでも肩を万力に挟みこまれるような痛み。このままだと左肩がどうなるかわからない。
左腕は熊の体重をなんとか支えようとしているうえに、肩に喰らいつかれて動かせない。右手に持ったナイフが頼り。熊に押さえられたのがナイフを持つのと逆の手だったのは幸いだが、急がなければ熊に身体ごと押し潰されるか、肩を噛み潰されるか。あるいは両方か。
「イ゛――ッ!」
気合と共に右手を伸ばして大きく回す。その勢いで、熊の首の後ろ辺りに刃先を突き込む。
顎の力が緩んで、肩の痛みがましになった。そのまま全力で刃を押し込んで、柄元まで完全に肉の中に埋める。傷口から溢れ出した血がぬめるが、ナイフを握る手は決して離さない。
噛みつきがなくなっても、身体の上に覆い被さってくる体重は消えない。左手だけでその重さを支えることは難しいが、背中はもう地面に着いてしまっているので、両脚が使えた。
軽く曲げた脚を熊との間に入れると、ドロップキックのように両脚を揃えて思い切り蹴る。足は手の3倍の力があるとかなんとか。
左手と合わせて全力で押し返すと、熊の巨体が史宏の上から浮き上がった。
同時に、熊が後ろに動くことで、突き刺したままのナイフが首の後ろから前に向かって大きく斬り裂く形に。動脈を破ったのか、傷口から大量の血が噴出する。
首の前まで掻き切って抜けた血塗れのナイフを握ったまま、史宏は再び押し倒されないよう慌てて起き上がった。そのまま数歩後ずさったところで、一旦押し戻されて後ろ肢で立つようになっていた熊の身体が、地面に再び倒れ込んだ。
首筋から噴き出す血は止まらず、地面に紅い水たまりが広がっていく。
熊は一度は身を起こそうとするが、失血で力が入らないのか、途中で崩れて顎を地面に打ちつけた。
「ガァ……ゴガァ……」
それでもまだもがき続ける。爪が地面を何度も掻くが、もはや上体を起こすこともできず、空しく地面に爪痕を重ねるばかり。だんだんその動きも鈍くなっていき、やがて動かなくなった。
「死んだ……?」
動きを止めてからもしばらくは、少し離れた場所で警戒を続けた史宏。ゆっくりと近づいて、血で汚れた警棒の先端で熊の頭を軽くつつく。何の反応もない。
どうやら、ただのしかばねのようだ。
「……死んでる。勝った、終わったぁ……!」
安堵の声を上げると、力が抜けたように史宏はその場にへたり込んだ。
武器は血塗れ。戦闘員のスーツも、主に最後の首筋を裂いた時に返り血の飛沫をところどころに浴びている。それでもヘルメットを含めて、スーツ自体には傷一つない。さすがはゾルジョッカー特製。おかげで、猛獣相手に戦って大きな傷もなく勝つことができた。
噛まれた肩にはまだ歯形のようなものが残っているかもしれないが、出血しているわけでもなく痣のようなものだ。戦闘員の回復力をもってすれば、それもじきに消えるだろう。
対 森のくまさん。
貝殻のアクセサリーのかわりに、殴ってのショック療法という形ながら記憶を届ける。さすがは森のくまさん。
ただし、最後は仲良く歌うわけにもいかずに殺し合いに。
といった、しょうもないネタを仕込もうとしたものの、うまく文中に入れられず。やむなく後書きにて。